Chrononglyph

情報発信の問題

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#8148

個人サイトの過剰防衛

若干過剰防衛かつ自意識過剰かなと思うのですが、
このブログをゆくゆくは「トップページ以外非公開」にしようかなと考えています。
きっかけは2つあり、まず先日の承認不安に関する考察で「匿名でもそれをやりたいならやってもいい」
という一種の試験をパスした活動は今後も継続しうるのではないかという記事を書いたこと(#08135 / 2026年03月25日)。
そこに書いた「長年の承認不安はWeb 2.0という構造上の問題なのでは?」という気づきが、
「脱Web 2.0」を推進すべきなのではないかという思想へと発展しつつあります。


脱Web2.0とはつまり、ネットにいる有象無象のユーザーに対して一切期待しないというスタンスを意味します
(ここでいうWeb 2.0とはユーザー参加型プラットフォームを言いますが、ほぼ「SNS」を指しています)。
Twitterのフォロワー、YouTubeのチャンネル登録者はもはや承認不安を増幅させる存在でしかない。
彼らはどうあがいても認めようとしないだけでなく、少しでもラインを越えれば自分を否定する可能性さえある。
このリスク認識が妄想じみたものであることは承知していますが、
とにかくSNSの仕組みはそういう不安から逃れるための安全装置を致命的に欠いているわけです。
真っ当に努力して客観的に価値のあるモノを生み出せる人はこうは考えないのかもしれません。
これは言うなればネット社会の(クリエイターとしての)敗北者の論理なのでしょう。
ただ、ネット社会を見限るにしても自分は自分のアウトプットに価値があると感じているし、
他人に見られないからといってそれを止める必要は無い。
また、有象無象ではなく信頼できる人に見てもらう余地を完全にシャットアウトするのも非合理に思える。
そこで有望に感じているのが、活動の軸足を個人サイト、つまりここに移すというものです。


とはいえ個人サイトも結局はネットに晒していることには変わりはないわけで、
「有象無象に見られたくない」ということなら個人サイトはまだ万全ではありません。
たとえば個人サイトのコンテンツをスクショしてSNSに貼られるということは全然ありえるわけです。


その発想にいたったのがもうひとつのきっかけで、
先日エゴサしていたらこのブログがいまや存続危機に陥っている匿名掲示板、5ちゃんねるに晒されていました。
本人の預かり知らぬところでその発言に対して評論や誹謗中傷等を繰り広げるいわゆる「ヲチスレ」で、
「たかだかゲームでここまで熱く語れるのは恐怖」と晒されていましたが、
当該レスは誰にも反応されることなく流されていました。せめて誰か反応してよ。
晒されたのは2024年11月で、当時ハマっていたゲームは『ポケモンカードポケット』ですが、
もしかしたら文脈的には少し前に掲載した『原神』の記事を晒そうという意図があったのかもしれません。
2024年秋当時は移転したばかりでURLも変わっており、
SEO対策もしていなかったので検索で見つけるのはかなり難しかったはず。
さらにいえば2023年05月〜2024年08月は非公開運営だったのでネット上からはアクセス不可能です。
もしかしたら晒しあげた本人はそれよりも前から自分のことを知っている誰かかも……と邪推したりもしています。


まぁ、この件は特に内容を叩かれたわけでもないのでどうでもいいんですが、
要するに個人サイトに軸足を移したとしても結局はこういう悪意的な晒しリスクは無くならないわけです。
とはいえかなりのレアケースだと思うし、逆にポジティブな反応を書かれたこともあるので(#07729 / 2025年02月13日)、
今回の件だけで決めるのはいくらなんでも早計かなとは思いますが。
単に検索流入を避けたいならトップページ以外のクロールを排除するなど、
個人サイトを全面撤退する前にできることはいろいろあり、まぁいまのところ完全撤退は可能性のひとつでしかなさそう。


脱Web 2.0もかなり極端な考えだと思うので、今後はさまざまな折衷案を模索することになると思います。
個人サイト自体はクローズド運営にしつつ、クリティカルなコンテンツはWeb 2.0に出張するのが無難そうではある。
とにかく、このところ自分の中でネット活動の持続可能性がかなり揺らいでいるのは確かで、
これを基盤レベルから安定させるか、どうしても無理なら代替活動を見つけるか、
いずれにしても中年期の本格始動に向けて変革を求められている段階であるというのは確かです。


#8125

語りえぬもの

これは自分のようにネットに依存している人が折りに触れて確認すべきことだと思うのですが、
基本的に人は互いに、当事者でない属性については理解し得ないということを認識したうえで、
「理解」という活動には限界があること、しかし社会ではそれでもなお他者を「理解しようとすること」が大事であること、
また自分はそれについて完全には分からないという態度を甘んじて受け入れることはかなり大事だと思っています。
「当事者でない属性」は究極的には他者そのものを含むので、
したがってこの主張には「人は他人を理解できない」という主張が含まれています。
ただし自分 vs. 他人という構図はあまりにもスケールが大きいのでここではあくまでも「属性」について考えます。


ここで属性とはその人を他の人と区別する特徴、
またはその人の社会的ステータスやアイデンティティになりうる特徴を言います。
たとえば性別、身長、国籍、最終学歴、出身、政治信条、思想、年収、障害・病気の有無、好きなもの・文化などなど……。
ネット社会のような匿名社会では一番最後の要素が思いのほか強い属性としてみなされる気がしますが、
基本的には先天的なものほど強い属性と言っていいと思います。
そして、我々は基本的に自分に当てはまらない属性に関する議論においては外野の人間であり、
その「内側(当事者事情)」についてはたいていの場合、さっぱり知らないことが多いです。
当事者と関わった経験が少しあるのでそれについて知っているような気になることはありますが、
それはあくまでも外野から観測した現象、しかも当事者全体からするとごくごく一部にすぎず、
外野から得た知識だけで当事者特有の心情、背景や経緯、価値観を織り込むのはかなり困難なことです。
たとえば男でも女子には生理があることを知っていて何となくツラいものであると知っていますが、
「ツラいんでしょ」と言われた女子は「何も分かってないくせに!」とでも言いたくなることでしょう(たぶん)。
この隔たりは子宮の仕組みを知ったところでどうにもならず、
生理という属性特有の事情を踏まえた個々の相互理解が必要になってきます。


現代は情報社会であり日々膨大な量の情報(意見、議論、事実など)が飛び交っていて、
この中には一見正しそうでも実はある属性を外野から観測しただけの「偏見」にすぎない情報が相当含まれています。
そしてその偏見が当事者にとって正しいかどうかは外野の人間だけでは検証できないため、
当事者が少ないコミュニティにおいて、偏見は誰も否定しようがなく独り歩きすることも少なくありません。
さらにネットコミュニティは似た者同士が集まる仕組みになっているので、
この「偏り」は多数派に都合がよければこそなかなか矯正することができません。
こうして偏見はもっともらしい「真実」として世に憚ることになるわけです。
ネット社会ではこういう構造がどうしようもなく異なる属性同士の分断を助長しているような気がします。


つまり、自分が当事者でないかぎり、ネットの属性に関する価値主張を鵜呑みにするのは相当危険だということになります。
しかもそれは、ちょっと当事者と話しただけではなかなか「矯正」できないのではないかと考えています。
我々はどこまで理解しようと頑張っても当事者そのものにはなれないのですから。
しかしだからといって異なる属性の理解を諦めるべきというのも乱暴な話です。
結局のところ、人は他人を理解するには限界がある(完全には理解できない)という前提を飲み込みつつ、
それでもなお理解しようとする立場を崩さないという姿勢を貫くしかありません。
もちろんこれは、「当事者の言うことは盲信すべき」などと言っているわけではないことは重要です。
そもそもネットの嘘情報は当事者を騙って発信されることが多いのでその点でも要警戒ですが、
「本当の当事者」に耳を傾ける際にも完全な理解は不可能だと観念することが大事だということですね。
そして、当事者でない属性については語らない勇気を持つことも重要です。
これはこのブログのように情報発信量がそれなりに多い場合やSNSなどでは必須の心構えではないでしょうか。


博覧強記という言葉が古くなって久しい現代でも、知識が多い人=偉いという風潮はそれなりにあります。
そしてこの情報過多社会で「情報強者」であるためにはものすごい量の情報を捌かなければならない。
すると、どうしても少ない情報に基づいてさもその属性や分野を知っているかのように振る舞いたくなる。
情報の精度が求められていないような現場ではなおさらそういう傾向があります。
しかし、そうして想像力で補填された情報は当事者から見ると間違いだらけであることも少なくないわけです。
これはネット社会の構造も悪いですが、根本的には人の性なんじゃないかなと。
自分もちょっとした雑談の場では虚栄心や虚勢で「補填」して語ってしまっていることは振り返るとかなりあります。
とはいえ、そこに厳密な正確性を求めるとアウトプット自体が難しくなるのも確かで、
この辺はわかっていてもなかなか難しいところなのかもしれません。


#7145

ブログ執筆は独りよがりか?

いわゆる議論の場に立たされると、
自分がいかに世間知らずであったかを思い知らされることがよくあります。
自分なりに正しいと思っていたことが他人との間では通用しないということがよくあるからです。
その意味で、議論をしない人間がいかに狭い価値観で生きているか、
ということを最近実感させられる場面が多くなってきたと感じるし、自分もその範疇だと思います。


自分は昔ブログでさまざまなことを書いてきたので、さまざまなことを語れると思っていました。
それはまあある意味事実でしょう。
ブログ執筆という形でアウトプットの訓練を散々やってきたことが幸いして、
何かのテーマに沿って喋れと咄嗟に言われても以前よりかなりクチが回るようになったと思います。
ただ、それが他人を納得させられるかどうかはまた別の話。
なぜなら、自分がブログに書いてきたことはあくまで「自分が思ったこと」であって、
その意見が社会の承認を得たわけではないからです。
それは自分に都合の良い情報だけで組み立てられた主張に過ぎません。


情報をアウトプットするには必ずそれ相応にインプットする必要があります。
自分はブログ運営を通じてアウトプット過多でも少ないインプットから話を盛る癖がつきましたが、
その「少ないインプット」は自分自身の経験則やインターネットで得た情報であることが多いです。
それは日記系ブログとしてアウトプットする情報源としては問題無いかもしれませんが、
他人を前にして主張する際、それを真実かのように主張すると問題になることが多いです。
自分の経験則は論外として、
インターネットで得た情報も往々にして自分に都合の良い情報に過ぎず、
科学論文や論拠がしっかりした書籍と比べると客観的な正しさが保証されていません。
そもそも自分に都合の悪い情報を能動的に検索する人なんてほぼいないですしね。
そういう情報源を元に全然違う考え方の人とリアルで議論すると噛み合わないことが多いです。


何が言いたいのかというと、日頃のインプット総量に占めるネット情報の割合が増えると、
無自覚に独りよがりな考えに染まりやすいのではないかと改めて思ったという話です。
自分の場合はそこに加えて独りよがりな考えをブログという形でアウトプットして、
過去記事を読むという形でそれを再インプットするというサイクルが確立しているので、
より一方的な意見になっている感は否めません。
ブログに書いたから正しい、なんていうのは妄想も妄想だったというわけです。


他人の意見を取り込む機会が少なすぎる生活が続いていると思ったら
もっと危機感を持っていいのかもしれないと思う今日この頃です。


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