振り返った思い出 2025
今年は世界と自分との距離が少し遠かったかのような、もの寂しさを感じることが増えたと思う。
現実の行動はどこか他人行儀で、自分の「本心」が伴わない。
主体的に本心がそれをやりたいからやる、というよりも、それが合理的だからやる。
合理的でさえあれば「本心」に従う必要はない。
そして、どんなに策を弄しても30代から始めて着手する物事よりも、
思春期から続くレール上の活動の方が有望のように思えるし、それを否定することはできない。
それは自分自身の歴史そのものだからだ。
合理的であることを否定できないのは年代的な呪いなのか、それとも個人の呪いなのか。
これについては、いまのところ「どちらも」だと思っている。
やはり人は思春期に好きになったことを軸にして生きていきたい生き物なのだろうと思う。
敷かれたレールは本来思春期の自分が好きで仕方なかったはずの未来であり、
合理的かどうかを抜きにして、レール上を突き進む人生が本来的にも理想であるはずである。
しかしいまの僕はレールを歩むことが本懐であると心から言えない「ゆがみ」があり、
それは年代的な課題というよりは自分個人の課題であるように思う。
その課題とは、要するに自分に嘘をつき続けてきたことなのだと思う。
たとえば他人と話すとき、他人に話したくない欠点や不誠実な歴史など、
自尊心に差し障りのあるような短所は隠したいと思う。そしてそれを達成するためには嘘をつくことがある。
これは他人が介在しない場面でも起こりうる。
そのとき、どうやって隠すのかというと自分の歴史を改竄するのである。
覆い隠したい事実は「無かったことにし」、自尊心がギリギリ許せる形に改竄する。
世界との距離感を感じられるようになったこの実感のなさは、
そうして自己欺瞞を積み重ねてきた結果なのではないかと思う。
「隠したい何か」は、向き合ってもそう簡単には解決できないような社会的責務であることが多い。
そしてそれは、劣等感の主因になっている。
いまだ独身であることも、さまざまな角度からそれを正当化しているもののこの範疇であると思うし、
僕はそれ以外にもブログに書けないような劣等感の原因をいくつも持っている。
もしかしたら、それらと本気で向き合って始めて霧は晴れるのかもしれない。
2026年を迎えるために、ここ数年の伏線を具現化するための準備をたくさんしてきた。
順当にいけば、2026年を楽しく過ごすための種はたくさん花開くことだろう。
しかし一方で、いま改めてイバラの道の先にある「事実」を全身で受け入れ、
棘だらけになってでも自己欺瞞を払拭すべき段階にきているとも思う。
人生はなるべく楽しく過ごすに越したことはない。そのために必要なことはただひとつ、
正直者であることだけだったのかもしれない。