Chrononglyph

振り返った思い出

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#8051

振り返った思い出 2025

今年は世界と自分との距離が少し遠かったかのような、もの寂しさを感じることが増えたと思う。
現実の行動はどこか他人行儀で、自分の「本心」が伴わない。
主体的に本心がそれをやりたいからやる、というよりも、それが合理的だからやる。
合理的でさえあれば「本心」に従う必要はない。
そして、どんなに策を弄しても30代から始めて着手する物事よりも、
思春期から続くレール上の活動の方が有望のように思えるし、それを否定することはできない。
それは自分自身の歴史そのものだからだ。


合理的であることを否定できないのは年代的な呪いなのか、それとも個人の呪いなのか。
これについては、いまのところ「どちらも」だと思っている。
やはり人は思春期に好きになったことを軸にして生きていきたい生き物なのだろうと思う。
敷かれたレールは本来思春期の自分が好きで仕方なかったはずの未来であり、
合理的かどうかを抜きにして、レール上を突き進む人生が本来的にも理想であるはずである。
しかしいまの僕はレールを歩むことが本懐であると心から言えない「ゆがみ」があり、
それは年代的な課題というよりは自分個人の課題であるように思う。


その課題とは、要するに自分に嘘をつき続けてきたことなのだと思う。
たとえば他人と話すとき、他人に話したくない欠点や不誠実な歴史など、
自尊心に差し障りのあるような短所は隠したいと思う。そしてそれを達成するためには嘘をつくことがある。
これは他人が介在しない場面でも起こりうる。
そのとき、どうやって隠すのかというと自分の歴史を改竄するのである。
覆い隠したい事実は「無かったことにし」、自尊心がギリギリ許せる形に改竄する。
世界との距離感を感じられるようになったこの実感のなさは、
そうして自己欺瞞を積み重ねてきた結果なのではないかと思う。


「隠したい何か」は、向き合ってもそう簡単には解決できないような社会的責務であることが多い。
そしてそれは、劣等感の主因になっている。
いまだ独身であることも、さまざまな角度からそれを正当化しているもののこの範疇であると思うし、
僕はそれ以外にもブログに書けないような劣等感の原因をいくつも持っている。
もしかしたら、それらと本気で向き合って始めて霧は晴れるのかもしれない。


2026年を迎えるために、ここ数年の伏線を具現化するための準備をたくさんしてきた。
順当にいけば、2026年を楽しく過ごすための種はたくさん花開くことだろう。
しかし一方で、いま改めてイバラの道の先にある「事実」を全身で受け入れ、
棘だらけになってでも自己欺瞞を払拭すべき段階にきているとも思う。
人生はなるべく楽しく過ごすに越したことはない。そのために必要なことはただひとつ、
正直者であることだけだったのかもしれない。


#7685

振り返った思い出 2024

今年は、丸一年という時間を懸けて自分自身のニュートラルポジションを再確認した一年だったように思う。
その内実は今年の前後半それぞれで得た2つの教訓により端的に表せる。
すなわち、自己実現と向き合うには4つの自由を手にしていることが必須条件であり、
それに逆らって自己実現に邁進することはできない(#07454 / 2024年05月14日)。
また自分自身は基本的には無能であるという地点から目標を見つめ直すことは重要だが、
そうした合理性とは関係ないところにある「烏滸がましい夢」を手放さないことは、
それはそれで生きていく上で希望を感じるために重要である(#07600 / 2024年10月07日)。


人は衣食住が当たり前にあり、ある程度恵まれていると自覚できる環境でないと「好きなこと」はできない。
金銭的不安などにより生活が脅かされていれば、他者承認を目的とした趣味活動は当然に衰退する。
「好きなこと」をやっていくには、まずはその活動に逆らわない環境を作り上げなければならない。
そしてまた、人は「できないことはできない」のだと知る必要がある。
自分という存在は理想からは考えられないほどに無力である。しかし、現実に行動するのはその無力な自分なのだ。
理想から逆算する方針では、「自分」はいつか破綻する。それを埋め合わせるのが努力だが、それにも限界はある。
しかし一方で、人は「できて当たり前のこと」に魅力を感じない生き物でもある。
努力の余地を残しておくことは、その人がその人らしく生きる可能性を提供するだろう。


これらを実践できて初めて、僕は「ニュートラルポジション」に立つことができる。
好きなものがなんなのか、そのために何ができるのか……。
それを考えるためには、まずニュートラルポジションに立たなければならない。
適度な食事をし、睡眠をし、また運動をすること。金銭的、社会的不安を取り除き自由に振る舞えること。
当たり前のようだが、実は安定的にニュートラルポジションに立ち続けることはかなり難しいと思う。
しかもそれ自体にインセンティブがあるわけでもなく、結局は「好きなこと」を遂行せねば満たされることはない。


「好きなこと」が停滞すると自己実現の道への歩みが止まる。すると、生きる意味を見出すことが難しくなる。
自分はもうこれに飽きてしまったのだろうか、これはもう文化的に枯れているのだろうか……。
そうやって僕はいつも、好きなものと自分との関係に原因を求めていた節がある。
しかし、もしもニュートラルポジションに立っていないのならそれ以前の問題なのである。


2022年に睡眠障害の発露によって生活が半ば破綻した僕は、
最近になってようやく、
自分がそもそも「好きなものを好きでいられる」という当たり前の地点にさえ立っていないことに気がついた。
そうして水面下で少しずつ、少しずつ自分のニュートラルポジションを立て直そうとしてきた。
今年はそれを初めて明確に言語化できた一年という意味で非常に大きな意義がある。
それを実感するのは、いままで守りきれなかった自分ルールをある程度遵守できるようになったことだ。


たとえば、僕は毎月10日は音楽ライブラリのバックアップを取るようにしている。
完全自動化は難しいものの、時間にして10秒程度で終わるのでまったく負荷はかからない。
しかし2022年当時はこんな小さなタスクでさえも守り切ることができない期間があった。
もちろん、日課としてのブログも例外ではない。
今年一年で、ようやく自分のアイデンティティーを「取り戻せるかもしれない」場所まで来た気がする。
去年、一昨年は本当にそれどころではなかった。


これらは2025年の布石と言ってもよく、だからこそ2025年は久々に期待が持てる一年だと感じている。
2025年は飛躍の年になるだろうか。いや、飛躍の年にしなければならない。


#7319

振り返った思い出 2023

今年の後半で睡眠障害を克服した辺りで、僕は精神的にもひとつ殻を破ったと思う。
それを明確に言語化するにはまだ数年かかりそうだが、なんとなく掴みかけてはいる。
それは主に2つあり、そのうちひとつを一言で言えば
行動の拠りどころが「現実の自分」か「理想の自分」かという違いだと思う。
前者によって行われることは現実の自分がやりたい、やるべきだと思っていることである。
いっぽう、後者は必ずしもそうではない。
それ自体による興味や意欲よりも、それをすることで自分が認められるかどうかの方が重要なのだ。
だから、結果的に後者の場合はそれ自体は意欲的に取り組めない場合も多い。
本末転倒というか、側から見れば意味がわからない行動もあったと思う。
それだけ昔の自分は承認欲求の悪い側面に囚われていたと思うし、
それを客観視していくばくか合理的な判断ができるようになったということが、
「殻を破った」と実感するに至る要因であると考えている。


2017年05月03日、突然ひとりで福島県の裏磐梯(猪苗代の辺り)へ出かけ、
森林浴……というよりただ散歩だけして帰ってきたことがある。
もちろん森林浴をしたかったわけではないし、裏磐梯に興味があったわけでもない。
当時は実家生活だったため外出の不自由が多く、
「どこでもいいからどこかへ行きたい」という欲求がかなり募っていたこともあるが、
当時SNSに写真をアップすることに余念が無かったことを考えると、
裏磐梯への散策をきっかけに現地人やSNSのフォロワーに構ってもらえる方をむしろ期待していたと思う。
それならせめて街コンにでも行った方が有意義だったようにも思うが、
そういう行為は「理想の自分」ならしないと当時は思ったのだろう。
このようなことは昔から多かれ少なかれあった。
ゲームを際限なく積んでしまうのもこういった悪癖によるものが多いと思っている。
買うゲームを選ぶとき、そのゲームを楽しめるかどうかではなく、
それを所有することがステータスになるかどうかで判断していたことは否めない。


殻を破ったと実感している理由はもうひとつある。
それは、自分の直感や正義をいままで以上に客観視できるようになったということだ。
僕は去年まで、自分が正しいと判断したことは基本的に正しいと思っていた節がある。
なぜなら、正しいと思うには自分が支持する道徳や法律や常識等、それなりに根拠となる要素があるからだ。


2022年初頭、当時在籍していた会社では週報という名の日記を書かされる風習があり、
それに使う社内サイトがあまりにも使いにくいともっぱらの評判だった。
そこで開発者ツールでソースを確認し、あまりにお粗末な週報システムの内部について批判したところ、
それのメンテナンス担当者である新入社員教育担当から直々に文句の電話がかかってきた。
僕は間違っていないと思っていたので、精一杯反論した。
このシステムは明らかに使いにくく、すぐにでも改善できるのだからするべきだろうと。
教育担当も口論が下手で、「だったらお前が作れ」「俺はそれに時間を割ける時間が無い」
等の論点ずらしに終始したので僕はこいつには議論に勝ったと思った。
ところがのちに社長から電話が来て、週報システムはいまはもう居ない創設時のメンバーが作ったもので、
バックエンドのコードが複雑怪奇で誰も読み解けないような状況になってしまっているそうだ。
しかも引き継ぎ資料も存在しないのでメンテできる余地がなかなか無いのだという。
だから現在の教育担当だけが一概に悪いわけではないと知って欲しいと言われた。


このクレーマーのような行為はもちろん身の程知らずで「言わなくていいことを言った」結果なのだが、
それ以上に直感的に自分の正義に反する何かにもさまざまな経緯があるものだと痛感した。
自分の直感的正義だけを基準に善悪を測れば、世の中には無数の「悪」がはびこっているように見える。
すると、悪がはびこっている社会そのものが瑣末なものに見えてくる。
しかし、それは経緯や歴史を知らないからこそ そう見えるだけなのかもしれない。
道徳や法律や常識に反しているからそれは間違っている、と言うだけなら小学生でもできる。
実際にはごく表面的にはそう見えるだけで、内実は異なっていることも多い。


口喧嘩をするときにこちらの正義だけを主張するのは、正しいように見えて実際はかなり愚かだ。
他人に対して反論したいならまずその他人を理解しなければならず、
そのプロセスを放棄して相手に勝とうというのは正義のゴリ押しでしかない。
それはむしろ「悪」なのではなかろうか。


理想と現実、正義と経緯。
上京後の社会に揉まれているうちに、この辺の関係性をある程度胸に落とし込めたという点で、
2023年は明確に成長できたとは思っている。
僕は何歳になっても初歩的な過ちを犯すバカだと思う。
でも、同時に相応に反省することができるバカでもあると信じている。


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