やる気以前の何か
昔の自分は主に期待通りの行動ができないときに、その原因を「やる気」に求めてきました。
そして近年は「そもそも期待している行動は妥当なのか?」という視点が新たに加わり、
これまでの自分が迷走していた原因は、
(承認欲求不満などによって)ステータスを盛りたいという虚勢の気持ちが先行することで
やる必要の無いこと、そもそもやりたくないことを「やるべきこと」に勘定したり、
やるべきことが何かは刻一刻と変わっていくのに最初に設定したタスクにこだわることで
実際にやるときの事情や意欲を無視してしまっているから、というような結論に至りました。
ただ、タスクの妥当性をチェックした上でこれは「やるべきこと かつ やりたいこと」で間違いないだろう、
と判断できそうなものも、実際にはなかなか着手できないことがあります。
これでも先延ばし癖は相当改善しているのですが、やはりこの辺は気分によって大きく左右されます。
これはもうコントロールできないものと観念し、
最近は気分によってできることを分類してそれぞれのフェーズで進める、
というやり方が徐々に浸透してきています。
ある作業をやる気にならないときはいったん忘れて別の作業をする、というような感じですね。
気分に対して従順になるというか。抵抗するともっとモチベが下がるので。
しかし、これは行き先を決められない自動運転の乗り物に乗るようなものです。
気分に従うということは結局短期的願望に基づいているところがあり、
部分的にめっちゃ重いタスクをどこかで乗り換えなければ達成できないような大きなプロジェクトは、
この乗り物に乗っているかぎりはどうにもなりません。これがどうにも悩ましい。
こんな悩みを長年続けていて最近ふと思ったのは、
そもそも何かを着手できないときに不足していると感じる何かは本当に「やる気」なのか?
という疑問です。
やる気というのはエンジンのようなものだと言われています。
それは着手してから徐々にかかってくるものだと。物事を完遂したいという欲求というわけですね。
着手できるかどうかというのは、厳密にはエンジンのパフォーマンスとは関係ない。
いや、まったく無いわけでもないかもしれませんが……。
ある物事に着手できるかどうかというのは、それに対する動機(きっかけ)があるかどうかだと思います。
自分のことで言えば、それは主にある物事を想起したときがきっかけになっていると思います。
そして同時にそれを「やりたいこと」に位置付ける。
このときはおそらく着手できると思うんですね。ただ、必ずしも着手できる環境とは限らない。
仕事中に想起したところで、私物のパソコンを取り出して作業を開始するわけにもいかない。
だからこの「着手できる状態」を一時保管する手段としてタスクリストがあるわけです。
しかし、タスクリストに入れた瞬間からそれに対する意欲はすごい勢いで鮮度を失っていく。
お昼に想起したものを帰宅してからやろうとしても「なんか違う」と思ってしまうことも往々にあります。
ここ最近はタスクの妥当性を疑ってきた自分ですが、
そもそもタスクはあくまで「一時保管」であり可能なかぎり早く消費すべきナマモノである、
という本質的なことを見失っていたように思います。
その意味では、1ヶ月以上放置していたタスクを今更のように消化しようとするということは、
消費期限切れの腐った食べ物を無理やり飲み込もうとしているようなものです。
そういうものを量産してしまっている時点でタスクというものの本質を見誤っていると言わざるを得ない。
近年、ものすごくやる気が低下していると感じているのはこの辺にあるんじゃないか、と。
タスクを保留し続けてしまうとどうしてもそれを「やる気が低下している」と認識しがちだし、
実際自分も長らくそう思っていました。
しかしその実、そもそも溜まっているタスクそのものから根本的な洗い直しが必要なのかも。
年齢が重なることでできることが減っているという事実を受け入れ、
自己実現のために用意するハードルもグッと下方修正する段階に来ているのではないかと感じます。
少なくとも、現状維持のまま気力でどうこうするのが良い手だとは思えない……。