愛について
20年前の今日、当時気になっていた子と縁側で並んで座る夢を見たのをきっかけに、
「自分はやっぱりあの子のことが好きだったんだ」と自分が初めて恋愛感情を抱いていることを確信し、
とはいえいまさら相手にはもう会えないので初めから終わっている片想いとして
夢を見た6月12日を恋愛を象徴する記念日として当時はさまざまな活動の起点にしていました。
20年後のいま、恋愛を取り巻くあらゆる状況が変わったこの時代に、
学生時代に一度たりとも恋愛成就できず現時点で好きな人もいない負け組の自分も
いまさらでも一度くらいはパートナーを得るために行動すべきかどうかについて悩んでいるわけですが、
基本的には生涯独身を受け入れる方が合理的で現実的なのではないかというのが現時点での考えです。
20年の節目に、今日はその辺についていろいろ整理しておきたいと思います。
まず、正直ベースの気持ちとして恋愛・結婚は可能ならしたいという願望があるのは否定しがたいです。
たとえば自分は旧Twitterでは「結婚」などのキラキラワードをNG設定しているため、
タイムラインを読むかぎり結婚報告などが流れてこないようになっているのですが、
最近どういうわけかそのフィルターをすり抜けて結婚というワードが流れてきてしまいました。
不意を突かれた形でとはいえそこで少なからず嫉妬感情を自覚したという事実があり、
やはり自分は嫉妬するくらいには結婚願望、
あるいは独身であることへの劣等感があるんだと改めて自覚しました。
ただ、それは厳密には社会的ステータスが誰かよりも劣っていたくないという欲求であり、
純粋に恋愛・結婚したいという欲求ではありません。
こうなると恋愛に付随するリスクやデメリット、たとえば時間的・金銭的自由がある程度目減りすることや、
友人以上の深い関係を維持するための配慮をし続けなければならないことなどを、
単にステータスを盛るためだけに受け入れ乗り越えられるかと言われるとかなり疑わしいです。
付き合って間もないころならともかく、
結婚して同居して子育てとなると不自由になるどころかストレスに晒される局面も多くあるでしょう。
特に乳幼児期の子育てのような高いハードルを、社会的ステータス欲しさに挑むのは馬鹿げている。
そういう目的の違いは交際トラブルにすら発展しかねません。
自分もかなり自由を重んじるタイプ(ありていに言えば協調性が無い性格)なので、
無策で相手を見繕っても余計にQOLが下がるだけだと思っています。
負け組人生を恋愛で逆転ホームランしたいというのはよく聞く話ですが、
そういう人がどうにか相手をゲットしたとして幸せになったという話は聞いたことがありません。
これは相手にも大きく依存するため、自由に関する考え方の一致は必須条件と言えます。
この辺の考えを下手に妥協して相手本位に付き合い方を決めてしまうと危ない気がする。
しかし個人的にはそれよりもどうやって他者と深い関係を築き上げるかという価値観、
言うなれば「愛」に関する考えの方がより深刻なのではないかと思っています。
これは、恋愛のみならず往年の課題である承認欲求の問題にも深く関わっています。
自分は誰かに認めてほしい(特別でありたい)という欲求が比較的強く、
またそれゆえに誰かに否定されると必要以上にダメージを受ける脆さがあるという自覚があります。
だからこそブログ黎明期の頃から、ネットで承認を得るべくさまざまな活動をしてきました。
なぜそんなことをしたのかというと、現実では承認欲求を満たすことができなかったからです。
しかしネット社会はある意味で現実よりも冷酷な実力主義社会で、
たとえコンテンツが認められてもコンテンツを作った人の人格までも認められるにはかなり高い壁があります。
いつしかネットで承認欲求を得ようとするのは不毛だと確信するに至りました。
また、社会人になって最初の数年は仕事がネット活動の代替として機能すると思っていました。
会社という小さな箱の中でなら、頑張れば相応に認めてくれると思っていたからです。
しかし、転職とコロナ禍を経て働き方が変わったことでその考え方もいまや通用しなくなっています。
この考え方と自分の恋愛観に共通しているのは、「自分は頑張らないと誰にも認められない」という固定観念です。
そしてその根底には「自分という人間が無条件に愛されることは無い」という信念があり、
裏を返せば「自分は他人を無条件に愛することもできない」ということでもあります。
たとえば……チャットで誰かにメッセージを送った後、
99%あり得ないような状況でも「もしかしたら否定されるんじゃないか」とビクビクしている。
それなりに気が置けない仲間に対してすら、なんらかの頼み事をするときなどそう思うことがあります。
また作ったものを表舞台に出すとき、
どんなに丁寧に作ったものも他者に否定されるのではないかという恐れを抱いている。
つまり他者との信頼関係について考えるとき、その根拠を損得勘定以外に求めることができない。
このことから、自分はかなりの人間不信に陥っていると分析することができます。
だからこそ無条件に誰かを深く信頼するということは起こり得ないと思っているのではないかと。
このような考え方があるかぎり、少なくとも結婚以上のステージに進むのは危険でしょう。
そのため、「好き」と「愛」はまったく異なった概念であると認識しています。
前者は一方的な感情もあり得ますが、後者は片方の気持ちの大きさだけでは成り立たない。
相手をどんなに好きだったとしても、その人と深い関係を結べるかどうかは別の話。
たとえこの世で一番好きなあの人が突如目の前に現れて付き合うことになったとしても、
その人を本当に愛せるかと言われると確固たる自信はありません。
「好き」は単なる感情でいくらでも行使できますが、「愛」というのはある程度責任が伴うイメージです。
「愛」は「好き」の単なる上位互換ではありません。
めちゃくちゃ好きでこの世で一番好きならそれが自動的に「愛」になるというわけでもない。
「愛」を成立させるためには双方の欠点を含めた相互理解が不可欠であり、
その存在そのものが相手にとっての一助になるような信頼関係がないと成り立たないと思います。
少なくとも相手に否定されるのではないかと内心ビクビクしているような関係に「愛」はありません。
現状は、対象不在で恋愛を語ることは不毛であるという考え方を動かすことはできなさそうです。
つまりマッチングアプリを否定する立場は変えられないという意味です。
その根本的な原因が幼少期から続く自分自身の人間不信にあるのだとしたら、
人間不信に陥っている性格を是正することでもう少し希望のある考え方ができるのかもしれませんが、
あまりにも長い道のりであると言わざるを得ません。
好きな人ありきで恋愛について考えられるならこの考え方は180度変わっていたと思うので、
学生時代に1度もそれを経験できなかったのはどんなに後悔しても後悔しきれません。
チャンスは幾度となくあったのに、なぜ1度たりとも挑戦しなかったのか……。
まあ、当時の自分の人間性、不誠実さ、その他諸々を考慮するとこれが妥当だったのかもしれないと思うものの。