結婚相手の条件を再考する
2016年当時の恋愛観において、「結婚相手の条件」はブログで次のように表現しました。
お互いの心の深いところを抉り合い、それを認め合えるような関係
いまとなってはこれも欠陥だらけの価値観に思えてきたので、
今日はこれを再定義しアップデートできないかどうかを書きながら考えたいと思います。
ちなみにこれは「理想の異性像」とは全然異なる価値観です。
2015年以前はかなり混同していたように思いますが、従姉の結婚をきっかけに分離しました。
理想の異性像はあくまで主観の話で、こういった客観的な条件や基準が存在しません。
まず、上記の一文は何を言おうとしているのか、
当時の自分の心境を思い出しながら分解してみることにしましょう。
「心の深いところ」とはいわゆる人間性や人格、あるいは性格と言ってしまってもよいもので、
平たく言えば良いところも悪いところも含まれたその人らしさを意味しています。
そして相手の「良いところ」を認められるのは言うなれば当たり前のことであって、
わざわざこういう言い回しをしているのは
むしろ「悪いところ」を理解できるか、理解してもらえるかが重要であるという主張が含まれます。
2011年に8分だけ理想の異性と最後の話す機会に恵まれたとき、
脳内のバックグラウンドでは自分でも信じがたいほど短時間でさまざまなことを考えました。
恋愛に発展できるように働きかけてみるべきか、諦めるべきかという主張が正面激突したわけです。
そしてそれは後者に分配が上がるわけですが、諦めるに至った理由も実にたくさんある中で
「理想の相手だからこそ、その欠点を受け入れられる自信がない」というものがありました。
本来それは欠点を知ってから決断するのが適当で、あの段階での判断は非合理だったとは思います。
実際そのことで後々死ぬほど後悔したこともありました。
連絡先を聞く勇気くらいは持つべきだったんじゃなかろうかと。
一方で欠点をまだ知らない段階で身を引いたからこそ理想の異性像を永久保存できたという点では、
片想いの幕引きとしては正しい判断をしたとも思っています。
これは「恋愛は鏡である」という前提も反映しています。
つまり、相手から見た自分も相応に魅力的でなければ恋愛は成り立たないということです。
当時は自分の人生でもっとも堕落していた4年間と言っても過言ではありません。
もし社会人になってから出会っていたらまず間違いなくアタックしていたでしょう。
それくらい当時の自分自身が欠点だらけだったので、
理想的な相手だからこそ欠点だらけの自分を受け入れてもらえる自信がありませんでした。
というより、受け入れられると考えるのはあまりにも自分勝手です。
人としての価値が大きく異なっているのに恋愛が成り立つのは漫画の世界だけで、
現実社会では好みの異性を理想とする恋愛思想に大きな矛盾があるという事実を否定できません。
どんなに本人の希望が尊重される個人主義の世の中だとしても、
「引きこもりだけどアイドルと恋愛がしたい」というのは不遜だと思います。
言い換えれば、欠点の量的・質的な問題はそれが相手の持っているものと釣り合っていれば、
それはそれでカップルとして適当だと言うこともできます。
ただし、それはお互いに欠点を受け入れられる心構えが必須になり、ここに高いハードルがあります。
「抉り合う」という表現をあえて選んでいるのは、
相手の欠点を受け入れることにそれなりの勇気が要ることを示唆しています。
そこまでできてようやく相互理解が成立する余地があり、それこそが結婚の条件に不可欠なのではないかと。
他者を理解することは難しく、恋愛の相手であれば理想との引き算もあってなおさら難しいでしょう。
ゆえに、それはまず間違いなくかなりの時間がかかります。
好きになったというのはきっかけであり、告白はチュートリアルの終わりにすぎません。
むしろそこから関係性を成熟させられるかどうかが肝要であるわけです。
これは、時間をまったくかけない恋愛を思想的に否定しているという意味でもあります。
2016年の自分は周囲の恋愛する人に対し少なからず嫉妬の感情があり、
嫉妬を正当化するために周囲の恋愛する人を批判するための材料を必死に探していた節があります。
それが、
- 恋愛には相互理解が必須
- 相互理解には長い時間が必須
- 短時間で結果を求める人は間違っている
というような三段論法に至り、そこから導いた理想の恋愛像が冒頭の一文に込められているのだと思います。
当時、高校時代のクラスメイトが当時まったく話もしなかった同じクラスメイトの女子と
偶然会ったことだけをきっかけに付き合ったという出来事があり、
それに対して恋愛に対して軽率すぎると非常に嫌悪感を抱いたものでした。
その後、1年も経たずに別れたと聞いて「ざまあみろ!!!!」と心でガッツポーズしていました。
まあでも、いまにして思えば恋愛っていうのはそういうものなのかもしれない。
付き合ってからその先、相互理解を積み上げる段階でどうしてもうまくいかないというのはよくある。
それは実際に付き合ってみないと分からないわけです。
馴れ初めを最重要視して、付き合うことができればゴールみたいに考えているのは
典型的非モテの恋愛弱者的な考え方に過ぎないということなのでしょう。
下手な鉄砲を撃つのが良いとは言いませんが、この考え方だとある程度の場数は当然必要です。
自分も2011年の出来事は奇跡だと思っていますが、人生こんなことそうそうあるわけないし、
ごくまれな奇跡からたまたま相互理解の成熟まで行くのを前提とするのは非現実的です。
初恋の人と結婚できる確率は約1%と聞いたことがありますが、
まあまあリアリティのある数字なのではないでしょうか。
高校時代に歯牙にもかけていなかった女子と大人になってからたまたま会っただけで付き合ったのは、
いかにもがっつき過ぎで印象が悪いのは確かです。最近の言葉で言うとヤリモクというやつでしょうか。
しかし、そういう姿勢を全否定してしまったら恋愛成就の可能性が限りなくゼロに近くなるのも事実。
初恋の人と結婚できる確率が99%なのに世の中が成り立っているということは、
世の中の既婚のほとんどは初恋の人でない相手をパートナーに選んでいるという現実があります。
こう考えると出会いのきっかけに関してはあまり潔癖を求めるべきではないのかもしれません。
だからこそお見合いや結婚相談所というサービスが成り立つのでしょう。
むしろ恋愛関係において重要なのはそこから先、お互いを受け入れられるかどうかであるわけで。
マッチングアプリのような習慣が受け入れられている以上、
付き合う相手が好きでならなければならない、というのは幻想でしかありません。
極端な話、恋愛=好きな人とする、というのがそもそも理想論でしかないわけです。
もちろん嫌いな人とは付き合えないし、
好きな人ほど受け入れる余地が最初からあるということなのでそれに越したことはないわけですが。
こうして考えると、2016年時点のスローガンはあながち間違っているわけでもないのかも。
馴れ初めよりも相互理解、特に相手の欠点を受け入れ自分の欠点を受け入れてもらえるかどうかが肝要、
という考え方は恋愛結婚の本質からはそんなにズレていない気がします。
ただそれを根拠に短絡的な馴れ初めを否定できるわけではないので、
そこだけは間違っていたと思いますが。
ただ、そうなると2011年に片想いを諦めた決断は間違っていたことになってしまいます。
相互理解のステージに進まなかったのは分不相応だからという言い訳をずっとしてきましたが、
「相手のことを理解したいほど好きじゃなかったのか?」と言われるとぐうの音も出ない。
その意味で2011年の体験はそもそも片想いというより宗教体験的な何かだったのかもしれません。
自分のものにしたいとか、相手を理解したいとかそういう気持ちよりも、
その存在があまりにも神々しくてただ近づいただけで満たされていたという感じ。