ブログは完了形で書くべき?
少し前のTwitterに「『〇〇する』とつぶやくのではなく、『〇〇した』とつぶやく方が生活の進捗は良くなる」
という趣旨の投稿がプチバズっていました。
実はこれ、ブログに置き換えると自分にとっても近々の課題に通じるところがあります。
これは長年の運営歴で自覚していることですが、
このブログも意欲的な低迷期には「〇〇する(したい)」という形で物事を書き残すことが多いです。
これは、これからしたいことなどの各種欲求やまだ行動していない計画以前の妄想などが当てはまります。
しかも、こういうことはたいてい実現しない。机上の空論だけで終わってしまいがちです。
まあ長い長い目で見れば数年後に唐突に思い出して着手することはありますが。
一方、「〇〇した」というのはすでに起きた出来事を書き残すことを目的としています。
基本的に日記というものは本来こっちを書き残すもので、
「〇〇した」形式の割合を増やすことが望ましいというのは言うまでもありません。
ただ、現実問題としてコンプラや自尊心、執筆ルールの都合で書ける話題というのは意外と限られていて、
毎日毎日それに該当するような出来事が起きているわけでもありません。
特に社会人以降は守秘義務などの都合で仕事のことは基本的に書けないので、
さすがに当日内に起きた出来事のみを書く、という縛りは現実的ではないと思っています。
純粋な日記を続けている人は尊敬します。
「〇〇する」形式は、基本的に他者から見た需要を見出すのはかなり厳しいところがあります。
確かに、この形式ではなくなるべく「〇〇した」形式で書けるように意識するのは大事だし、
有言実行を促すという意味では日々を充実させられるというのはその通りだと思います。
「〇〇する」形式は結局何もしなくても書けてしまうので、
むしろ行動しない理由づけのためにダラダラと書き、より行動しない状態を持続させる要因にすらなり得ます。
しかし、だからと言ってこの妄想の類は別の意味できわめて有用なため、
一概に書いてはいけないと結論づけるのも早計だと思っています。
その理由は単純で、書いている本人にとっては妄想形式で文章を書くことは頭の整理になるんですね。
いわゆる思考の客観視ができるという点でメンタルケアの観点から明らかに有用なんです。
まあ、それをインターネットに公開する必要が無いというのはぐうの音も出ない正論なのですが……。
この辺は公開運営復帰の際に悩んだポイントでもあります。
ただ、少なくともこのブログに関しては直近2年の投稿に関しては、
妄想系の記事も「〇〇したい」という欲求を書くに留まっているので許容範囲には収まっていると思います。
というわけで「〇〇する」形式のエントリーにもごく個人的には意味があるという言い訳はありますが、
まあでも冒頭の通り「〇〇した」と書き残すことを意識すれば必然的に行動力への後押しになるため、
そういう視点でブログを捉えてみるのは有意義かもしれないと改めて思いました。