正義と距離感について
まだトラブルに発展しているわけではないのですが、重要なことを思い出したので自戒を込めて。
というのは、人間関係トラブルというのは往々にして、
自分の正義に反する他人に対して、それを指摘する勇気を持てなかった場合に溜まる鬱憤が火種になる、
ということです。もちろん一概には言えませんが、そういう側面があることは経験上否定できません。
ここでいう正義とは、社会通念上正しいとされていること……であることが多いですが厳密にはそうではなく、
あくまでも主体がそれを正しいと信じていることであり、微妙にニュアンスが異なります。
それは客観的な道徳というよりも、正義を行使しようとしている側の都合によることが少なくありません。
また多くの場合、主体にとって「正義に反する」とされる行動を行っている客体は、
それを特に悪気なく行っていることが多い印象があります。
単に客観的に(法律等で)悪とされること、要するに犯罪を犯しているのであれば話は早いのですが、
「個人の正義に反する無自覚な行動」というのはコンプラ的にも微妙なライン上のケースであることが多く、
一概に悪と言い切れないような難しさがあります。
そして微妙な問題だからこそ指摘しにくく、それについて言及しがたいもどかしいような空気になり、
そのモヤモヤ感が少なからず主体から客体に対するひそやかな信用の低下の一因となり、
そしてそれは累積していくのではないか、と思うわけです。
だからと言ってなんでもかんでもズケズケと指摘すれば、それはそれで自尊心を傷つけ主体の信用を損いかねない。
なので自尊心を傷つけない絶妙な優しさで指摘する高度な言葉選び、あるいは一歩踏み込む勇気が必要なのですが、
それができない場合は「我慢する」という選択を取らざるを得ない。
得てして、コミュ力が低ければ低いほどこの手の鬱憤は溜まりやすいのではないでしょうか。
誰もが誰かの正義に反している可能性があると思います。
自分もかなり最近まで結構なコミュ障で、失礼なことを周りに言ってきたような自覚はあります。
それは多くの人にとって正義に反することで、きっと自分の知らないところで信用を毀損し続けてきたのでしょう。
おそらく当ブログでは一生涯擦り続けることになるであろう例のイトコとの絶縁の件も、
そういう積み重ねが爆発した結果と見ることもできます。
このことは深く反省し、より「マトモな」社会性を身につけるために不断の努力をしなければならないし、
それ自体はかなり納得して具体的に改善してきたように思っています。
ただそれ以上に問題なのが、自分が果たして「指摘されやすい人柄」であるかどうかということ。
結局のところ、そこが人間関係をこじらせる根本原因のような気がするんですよね。
自分のコミュ障気質のように、確かに他人の正義=絶対ではないとはいえ、
指摘されたら(されなくても)直すべきような欠点というのは無数にあります。
そういう欠点は指摘されることが改善の近道であることは確かです。
しかし人として未熟だったり、心が弱かったりすると自分の欠点を指摘されることに対してどうしても抵抗感がある。
そういうオーラを発している人も世の中には少なくありません。
基本的に指摘するということは勇気が要ることであり、しかも見返りは少ないため割に合わない行動です。
指摘されようものなら必ず自己正当化や反論をしてくる人には誰も指摘しようとしません。
そのため、心が弱い人ほど欠点を誰からも放置されどんどん悪化していくという悪循環に陥りやすいのだと思います。
もっと悪質な場合、心の弱さを逆手に周囲をコントロールすることもあり得ます。
高齢無職やDVなど狭いコミュニティではそういう加害者がかなりいるイメージ。
「弱い部分を指摘する=悪」でありそれはタブーだという風潮さえ作れれば
倫理や人の優しさを盾に永遠に欠点と向き合わずに済み、欠点があるゆえに無責任な自由を謳歌できるわけです。
そんな人がいる環境で鬱憤を溜め続けたらどうなってしまうのでしょうか。
こういう人との距離感の取り方みたいな問題は本当に個々のケースで答えが違ってくると思うので
非常に難しい問題ですが、少なくとも言えるのはただただ溜め込むだけでは良くないということです。
今後も末長く付き合う相手にそれを指摘できそうなら、多少割に合わなくても指摘してしまった方が良い。
短期的には人間関係が悪化しても、長期的にはより信頼できる間柄になるかもしれませんしね。
また、どこまで踏み込んで良いのかどうかは探ってみないと分からない部分も多々あります。
うまい指摘の仕方もどんどん追求していくべきなんだろうなと。
人間関係の構築は途方もないほど奥深いですが、
社会に参加する以上はこれも一生向き合うゲームなんだろうと観念しています。