振り返った思い出 2024
今年は、丸一年という時間を懸けて自分自身のニュートラルポジションを再確認した一年だったように思う。
その内実は今年の前後半それぞれで得た2つの教訓により端的に表せる。
すなわち、自己実現と向き合うには4つの自由を手にしていることが必須条件であり、
それに逆らって自己実現に邁進することはできない(#07454 / 2024年05月14日)。
また自分自身は基本的には無能であるという地点から目標を見つめ直すことは重要だが、
そうした合理性とは関係ないところにある「烏滸がましい夢」を手放さないことは、
それはそれで生きていく上で希望を感じるために重要なのだと考えた(#07600 / 2024年10月06日)。
人は衣食住が当たり前にあり、ある程度恵まれていると自覚できる環境でないと「好きなこと」はできない。
金銭的不安があれば、他者承認を目的とした趣味活動は当然に衰退する。
「好きなこと」をやっていくには、まずはその活動に逆らわない環境を作り上げなければならない。
そしてまた、人は「できないことはできない」のだと知る必要がある。
自分という存在は理想からは考えられないほどに無力である。しかし、現実に行動するのはその無力な自分なのだ。
理想から逆算する方針では、「自分」はいつか破綻する。それを埋め合わせるのが努力だが、それにも限界はある。
しかし一方で、人は「できて当たり前のこと」に魅力を感じない生き物でもある。
努力の余地を残しておくことは、その人がその人らしく生きる可能性を提供するだろう。
これらを実践できて初めて、僕は「ニュートラルポジション」に立つことができる。
好きなものがなんなのか、そのために何ができるのか……。
それを考えるためには、まずニュートラルポジションに立たなければならない。
適度な食事をし、睡眠をし、また運動をすること。金銭的、社会的不安を取り除き自由に振る舞えること。
当たり前のようだが、実は安定的にニュートラルポジションに立ち続けることはかなり難しいと思う。
しかもそれ自体にインセンティブがあるわけでもなく、結局は「好きなこと」を遂行せねば満たされることはない。
「好きなこと」が停滞すると自己実現の道への歩みが止まる。すると、生きる意味を見出すことが難しくなる。
自分はもうこれに飽きてしまったのだろうか、これはもう文化的に枯れているのだろうか……。
そうやって僕はいつも、好きなものと自分との関係に原因を求めていた節がある。
しかし、もしもニュートラルポジションに立っていないのならそれ以前の問題なのである。
2022年に睡眠障害の発露によって生活が半ば破綻した僕は、
最近になってようやく、
自分がそもそも「好きなものを好きでいられる」という当たり前の地点にさえ立っていないことに気がついた。
そうして水面下で少しずつ、少しずつ自分のニュートラルポジションを立て直そうとしてきた。
今年はそれを初めて明確に言語化できた一年という意味で非常に大きな意義がある。
それを実感するのは、いままで守りきれなかった自分ルールをある程度遵守できるようになったことだ。
たとえば、僕は毎月10日は音楽ライブラリのバックアップを取るようにしている。
完全自動化は難しいものの、時間にして10秒程度で終わるのでまったく負荷はかからない。
しかし2022年当時はこんな小さなタスクでさえも守り切ることができない期間があった。
もちろん、日課としてのブログも例外ではない。
今年一年で、ようやく自分のアイデンティティーを「取り戻せるかもしれない」場所まで来た気がする。
去年、一昨年は本当にそれどころではなかった。
これらは2025年の布石と言ってもよく、だからこそ2025年は久々に期待が持てる一年だと感じている。
2025年は飛躍の年になるだろうか。いや、飛躍の年にしなければならない。