結節点としての随筆
このブログで、記事番号が100の倍数のとき(ただし1000の倍数でない場合)に書いている「キリ番記事」。
これは黎明期にポエムやゲームの話などでお茶を濁していた場合を除き、
抽象的な人生の課題などについて、その時々でもっとも興味のあるテーマで随筆を書いています。
学生時代の終わり〜社会人黎明期辺りは例外的に認識論みたいな分野に興味を持ったことがありますが、
基本的にはより実践的な「生き方」についての問題について考えてきたことが多いように思います。
近年は特に、直近の通常記事でも書いている抽象的なことをより包括的に取り扱うことが多いという点で、
直近で自分が考えていることの集大成みたいな側面があります。
そしてキリ番記事で直近のテーマについてある程度出し切った上で、
次の100の倍数に到達するまでにそれをさらに批判的に考え、よりブラッシュアップさせた考えに昇華する。
ブログが複数のテーマによって未来に向かう何本もの「線」だとしたら、
100本に1本のキリ番記事は直近について考えていることをまとめた「結節点」のようなものです。
そしてここ近年は、キリ番記事を中心にひとつの思想が徐々に発展してきました。
2022年の不眠症問題で人生の壁にぶち当たった自分は、
「自分が最低限やるべきだと信じていること(信念)に対して丁寧に対応すれば、
嫉妬に悩んだり、他人を攻撃したりする必要は無くなるのではないか」と考えました(#06931 / 2022年12月08日)。
そして、物事がうまくいかないのはその信念が理想に置き換わっていて不当にハードルが高いためであり、
理想が本当に自分にとって主体的な理想なのか点検する必要があると考えました(#07100 / 2023年05月26日)。
しかしできない理想を徹底排除して「無能を受け入れる」ことを徹底しようとすると、無味乾燥な人生になってしまう。
そこで誇大妄想から逃れることは重要でありつつも、夢は夢で持っても良いのだと納得しました(#07600 / 2024年10月07日)。
ここで、上記リンク先の記事(#7100)で、次のような投げかけがあります。
理想のひとつひとつに対して猜疑の目を向け、
あるいは自分がそれを達成できるのかどうかを慎重に吟味していったとき、
それでもなお残るものはいったい何なのだろうか。
いまの自分がこれに答えるとしたら「道徳」と答えます。
ここで道徳とは、個人の能力とは本質的に関係なく実践できる「人として守るべきルール」を言います。
能力が低かったら遵守できないルールはこの意味での道徳の要件を満たせません。
この「厳格な道徳」とも言うべきルールを明文化できたら、それは人生の指針たりうるのではないかと思うわけです。
最近カントに興味があるのはこの辺の文脈からですね。
最新のキリ番では、22年間の「承認のための活動」が成果を出せず平行線であるという大きな反省から、
利己的活動は不毛であり、利他に徹することでそこから抜け出せるのではないかと考えました(#07800 / 2025年04月25日)。
しかしこの意味での「利己」「利他」は現時点では心構えの違いでしかありません。
表面上は利他に徹したとしても、承認を欲しているからやるのであれば利己的な承認活動と変わらないわけです。
自分が考えていることはこうした視座の違いであっけなく破綻することがあり、
行動方針の基盤みたいなものが欲しいというのは常々思っていました。
「厳格な道徳」はそういう意味での基盤にもなりうるのではないかという期待がいまのところあります。
「道徳」というのはきわめて普遍的なテーマで、個人的な哲学のひとつの終着点のようにも思います。
もしブログが末長く続くなら十数年後の中年期、あるいは遥か先の老年期にも折りに触れて考えそうなテーマです。
そういうときのために2020年代時点の結論は出したいところですね。なかなか難しそうではありますが。
果たしてこれが、100本に1本のキリ番記事よりもさらに大きなレンジの結節点となるかどうか。