Chrononglyph

自分哲学

#8152

欲望は服を着る

これはまだ掘り下げ不足な持論ですが、主に劣等感や自己不信、無力感などをケアする文脈において、
「いまの自分は、おおむね自分が望んだ通りになった結果だ」という考え方があります。
これまでのブログではあまり言語化してきませんでしたが、自分の信念に通底している考え方のような気もします。


たとえば自分はいまに至ってもなお独身であり、いろいろ弁解はしていますがそれに対する劣等感は拭いきれていません。
おそらくパートナーが欲しいという欲求があるのは間違いないのですが、現実はそうなっていない。
その理想と現実の差異に嫌になることが長い目で見てまったく無いかと言われれば嘘になります。
しかし、思い返せばこんな自分にもパートナーを得るチャンスというのは幾度となくあったはずなんですよね。
2011年のあの日をはじめとして、その前後も自分の働きかけ次第で進展するチャンスは何度もあった。
そしてあのとき確かに、自分にそのボールが回ってきてどうするか選べる自由を与えられたはずなんです。
しかし自分はいずれのケースもパートナーになるかもしれない人に接近しない選択肢を自分の意思で選んできました。
その結果としての現在があり、つまりこれは自分が望んだ状況だということです。


パートナーとまでいかなくても、承認不安に陥って話し相手が欲しいと思うことはよくあります。
それも深刻な悩みで、だからこそ先日は第5のコミュニティに属したいという話を書きました(#08147 / 2026年04月06日)。
しかし一方で手放してきたコミュニティも数多くあり、
人間関係を増やすことそのものが必ずしも自分の生活を豊かにするとはかぎらないということは薄々分かっています。
つまり、孤独感を感じる現状も、自分の性格を踏まえた上で望んで作り上げたものなのではないかと。
単に人が恋しいだけならとうの昔からコミュニティ探しに動いているだろうし、
コミュ力や趣味などそれを阻む問題があるならせめて実家暮らしを継続すれば家族との距離なら近づけられる。
しかし現実はそこまで真剣にコミュニティ探しはしてこなかったし、
実家に至っては自分から距離を置いているようなところがあります。
他人と話す機会も、その気になればDiscordなどコミュニケーションアプリの利用時間を増やせば
いくらでも増やすことはできますが、あえて絞って一人時間を確保しているようなところがあります。
にも関わらず、一方では寂しいからと第5のコミュニティを探そうとしている。


これはそもそもクリティカルに波長の合う相手でないと承認不安は取り除かれない(?)という問題もあり、
コミュニティの数を増やすことは本質的な解決にならないということに注意が必要なケースではありますが、
結局のところ自分個人の価値観と社会の価値観のズレからくる歪みなのではないかとも思っています。
コネは多い方が偉い、独身よりも既婚の方が偉い、年収は高い方が偉い、SNSのフォロワーは多い方が偉いなどなど、
社会は個人のステータスに基づきランキング化し、「より上を目指さなければならない」と煽動しているように見えます。
そしてそれに乗らない人は「負け組」で「怠慢」なのだという後ろめたさが多かれ少なかれあります。
実際のところその方が「社会は」合理的なのでしょう。
しかし、それはあまりにも個別の事情を無視した支配的な価値観であると言わざるを得ません。
仕事に人生を賭けたい人もいればワークライフバランスを重視する人もいるし、
自分のように一人時間を比較的重視する人もいれば常に誰かといないと落ち着かない人もいる。
そこに本来優劣は無いはずなのですが、人間どうしても他人と比べたがる生き物なのでいかんともしがたい。
多様性だなんだと言われて久しい世の中ですが、競争原理を否定できないのは人の性のような気がします。


問題は、自分が何かを望んでいるとしたら、それを本当に望んでいるのは誰なのかということです。
本心は一人でいる方が気楽なのに人前では彼氏/彼女が欲しいと言って憚らないような人の場合、
それを望んでいるのは本人ではなく実は社会で、本人はその価値観を着ているに過ぎないのではないかと。
そして自分に選択権を与えられた場面では意識的にしろ無意識的にしろ「裸の自分」の価値観が望む方を選び続けてきた。
その結果の総体こそが「いまの自分」なのではないかと思うわけです。


7年前にも似たようなことを書いていて、
当時の主張を要約すると「人生は選択の連続で構成されており、
その選択はそのときどきにおいて可能なかぎり最善を選んできたはずである。ゆえに人生は自分の思い通りになっている」
というようなことを書いています(#05600 / 2019年04月21日)。
また過去の自分はいまの自分を構成するという考え方は古くは17年前にも書いていて(#02000 / 2009年09月01日)、
当時この考え方は日記を書く自分の信念のような位置付けでした。
自分史を文章にして受容し、解釈し、自省した結果としていまの自分がいるということです。
もしかしたらこの辺が自分哲学の核のひとつになるのかもしれません……が、
まだ十分に自己批判してきた考え方ではないので、それは今後の掘り下げ方次第かなと思います。


#7930

上り坂の話

ブログの周年記念日はずっと、「上り坂を登っている」というイメージがあった。
そのイメージの内訳にはきっと、これからはもっと発展的なことをすることになるのだろうという期待感、
あるいはそれによって要求されるレベルがより高くなるだろうという不安も含まれていただろう。
周年特集や年末特集で前年とは違うことを求められているのは確かだったし、
そもそもブログの題材たる人生そのものが、一定期間ごとに次のステップへ進んでいったのは紛れもない事実だった。
確かに「人生は」上り坂をずっと登っているという感覚はあった。2023年までは。


しかし「ブログは」本当に登っていたのだろうか。
正直ベースで振り返ると、発展していたと言えるのはどんなに譲歩しても周年企画が生きていた2021年までであり、
それ以降は平々凡々と1日を積み上げ続けていたにすぎない。
ギリギリ生きていた周年企画でさえも、
規模の下方修正が続いていたことを考えると形になっていたと言えるのは黎明期だけだったと言える。


ただ、一方で「1日を積み上げること」については曲がりなりにも成熟してきたように思う。
平均文字数でピークを迎えた学生時代末期から崩れ落ちるように運営が不安定になった社会人黎明期。
ブラック企業勤務時代はもはやブログどころではなくなり、少なからずそこで自尊心に修復不可能な穴が空いた。
社会生活に余裕ができてもなかなかその穴を埋められずに何年も過ぎていき、
ついに趣味系プロジェクトの逼迫によりさらにブログの優先順位が下がり、非公開運営へと落ちることになる。
そこから這い上がったのは20周年という節目があったからであり、
このブログはある意味20年目で一度死に、21年目になって生き返ったと言えるのかもしれない。
とすれば、今日は新生ブログの1歳の誕生日ということになる。


節目の日や企画を念頭に置いて過去から未来を考えたとき、上り坂に見えるそれは実際は階段のようなものである。
1年間平坦な道が続き、ある日突然目の前に絶壁が立ち塞がる。
そこを乗り越えられるか否かで、次の1年の「高さ」が決まるという塩梅になる。
このブログもかつてはそういう性質のものだと認識していた時代があったが、
アニバーサリー企画の形骸化とともにそれは階段ではなくなった。


僕に取ってブログは、ただただひたすら勾配の低い坂を歩き続けるようなものなのだ。
それは希望があるからでも、次はより発展させなければならないという使命感があるからでもない。
ただただ1日を積み上げているから坂のように見えるだけで、
実際に未来の高さについて案じているような余裕はあまり無い。
絶壁を登るような努力をしない以上、坂を登っているということに対する達成感もあまり無い。
けれども、はるか後方を振り返れば21年前に踏みしめた道は、確かにかなり低かったのだとしみじみと思うのである。


#7812

結節点としての随筆

このブログで、記事番号が100の倍数のとき(ただし1000の倍数でない場合)に書いている「キリ番記事」。
これは黎明期にポエムやゲームの話などでお茶を濁していた場合を除き、
抽象的な人生の課題などについて、その時々でもっとも興味のあるテーマで随筆を書いています。
学生時代の終わり〜社会人黎明期辺りは例外的に認識論みたいな分野に興味を持ったことがありますが、
基本的にはより実践的な「生き方」についての問題について考えてきたことが多いように思います。


近年は特に、直近の通常記事でも書いている抽象的なことをより包括的に取り扱うことが多いという点で、
直近で自分が考えていることの集大成みたいな側面があります。
そしてキリ番記事で直近のテーマについてある程度出し切った上で、
次の100の倍数に到達するまでにそれをさらに批判的に考え、よりブラッシュアップさせた考えに昇華する。
ブログが複数のテーマによって未来に向かう何本もの「線」だとしたら、
100本に1本のキリ番記事は直近について考えていることをまとめた「結節点」のようなものです。
そしてここ近年は、キリ番記事を中心にひとつの思想が徐々に発展してきました。


2022年の不眠症問題で人生の壁にぶち当たった自分は、
「自分が最低限やるべきだと信じていること(信念)に対して丁寧に対応すれば、
嫉妬に悩んだり、他人を攻撃したりする必要は無くなるのではないか」と考えました(#06931 / 2022年12月08日)。
そして、物事がうまくいかないのはその信念が理想に置き換わっていて不当にハードルが高いためであり、
理想が本当に自分にとって主体的な理想なのか点検する必要があると考えました(#07100 / 2023年05月26日)。
しかしできない理想を徹底排除して「無能を受け入れる」ことを徹底しようとすると、無味乾燥な人生になってしまう。
そこで誇大妄想から逃れることは重要でありつつも、夢は夢で持っても良いのだと納得しました(#07600 / 2024年10月07日)。


ここで、上記リンク先の記事(#7100)で、次のような投げかけがあります。



理想のひとつひとつに対して猜疑の目を向け、
あるいは自分がそれを達成できるのかどうかを慎重に吟味していったとき、
それでもなお残るものはいったい何なのだろうか。



いまの自分がこれに答えるとしたら「道徳」と答えます。
ここで道徳とは、個人の能力とは本質的に関係なく実践できる「人として守るべきルール」を言います。
能力が低かったら遵守できないルールはこの意味での道徳の要件を満たせません。
この「厳格な道徳」とも言うべきルールを明文化できたら、それは人生の指針たりうるのではないかと思うわけです。
最近カントに興味があるのはこの辺の文脈からですね。


最新のキリ番では、22年間の「承認のための活動」が成果を出せず平行線であるという大きな反省から、
利己的活動は不毛であり、利他に徹することでそこから抜け出せるのではないかと考えました(#07800 / 2025年04月25日)。
しかしこの意味での「利己」「利他」は現時点では心構えの違いでしかありません。
表面上は利他に徹したとしても、承認を欲しているからやるのであれば利己的な承認活動と変わらないわけです。
自分が考えていることはこうした視座の違いであっけなく破綻することがあり、
行動方針の基盤みたいなものが欲しいというのは常々思っていました。
「厳格な道徳」はそういう意味での基盤にもなりうるのではないかという期待がいまのところあります。


「道徳」というのはきわめて普遍的なテーマで、個人的な哲学のひとつの終着点のようにも思います。
もしブログが末長く続くなら十数年後の中年期、あるいは遥か先の老年期にも折りに触れて考えそうなテーマです。
そういうときのために2020年代時点の結論は出したいところですね。なかなか難しそうではありますが。
果たしてこれが、100本に1本のキリ番記事よりもさらに大きなレンジの結節点となるかどうか。