Chrononglyph

読書録

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#7857

アイデンティティーを支えるもの

熊代亨 『何者かになりたい』 (2021年、イーストプレス)を読みました。
この本は「何者かになりたい」「何者にもなれない」という悩みを「何者問題」と呼び、
それに対する著者の考えを展開する本です(本質的な意味での「何者問題の処方箋」ではありません)。
ネットレビューでは「結局何が言いたいのか分からない」等とやや低評価で、
個人的にも熊代先生の本は3冊目ですが(前回→#05529 / 2019年02月09日)、
確かに前回よりは内容がぼんやりしていたような印象を受けます。
しかし、それでも大切な箇所が皆無ではないのでメモ程度に感想を書き残すとします。


本書の「何者問題(=何者かになりたい)」は「アイデンティティを獲得していない問題」と同義であり、
全体としてアイデンティティの獲得は容易ではないという意見が展開されています。
たとえば東大合格という大きなアチーブメントを達成して東大に入ったとしても何者問題はすぐ解決するわけではない。
なぜなら合格して東大に行けば同じアチーブメントを持つ人が無数にいるからです。
同じようにSNSのフォロワー数や現実の肩書きなどは、それ自体がアイデンティティを保証してくれるわけではなく、
それどころか肩書きに依存すると自分が何者かを見失いやすい危険性があると著者は言います。
ひとつの肩書きに依存するのではなく、
寄木細工のように小さな肩書きを集めて「これこそが自分だ」と言えるのが理想だと。


また、何者問題を解決するとしたらそれは自分にとって「代替不可能な何か」だと著者は主張します。
たとえば恋愛・結婚などのパートナーシップに何者問題の解決を求める場合。
マッチングアプリで出会った段階やパパ活のような関係においては、
「この人がダメなら乗り換えればいい」という考えが念頭にある以上、何者問題の解決になり得ません。
しかし一方、責任感のある親にとってのパートナーや子どもは「代替不可能」であり、
そういう存在はアイデンティティの確立に寄与します。
これは肉親や伴侶だけではなく、十分に信頼関係を築いた相手や文化などについても同様のことが言えるでしょう。
それが失われたらもう代わりは存在しないと言えるものが、我々の「何者問題」を解決しうるわけです。


しかし補論で著者が言うとおり、そういう存在はあまりにも当たり前すぎて我々は軽視しがちです。
すでに何者かになっているのにそれに満足せず、さらに別の「何者か」になろうとするとき、
私たちは代替不可能なそれを安易に切り捨ててしまいがちです(「負のアイデンティティ」)。
日本にはもともとお中元や年賀状といった習慣によって「当たり前」になった縁を折に触れて思い返して感謝していました。
それらが廃れたいまは、SNSの「いいね」なども代替になりうるのではないかと著者は言います。


以上がざっくり本書の中身です。
著者は仕事もプライベートも充実した所帯持ちということもあり、
精神科医としての視点はありつつも、必ずしも本書のテーマを渇望し悩んできた経緯を持っていない「勝ち組」です。
そのため、本当にアイデンティティを獲得できずに切迫しているような人の気持ちを代弁しているとは言いがたく、
それゆえにどこか言葉が軽く、それが本書の低評価につながっているようにも見受けられます。
こういうテーマは恵まれない出自で人生に苦労し、
本当に「何者かになりたい」と渇望してきた人でないと説得力を生みにくいのではないかと改めて思いました。


#7794

個人主義が行き着く壁

養老孟司『人生の壁』(新潮新書、2024年)を読みました。
養老さんは『バカの壁』(#05847 / 2019年12月22日)で有名な解剖学者兼エッセイストですが、
自分にとっては実は去年他界した祖父と同い年の有名人でもあります。
養老さんも去年肺がんにかかり、もうさすがに長くないと観念しているそうです。
そして『遺言』に続き刊行された、人生をざっくばらんに振り返ったエッセイがこちらの著作。
全体の要約は作りませんが、気になった点を2点ピックアップしてみます。



たとえばアフガニスタンの復興に人生を捧げた中村哲さん は、
もともとは虫が好きで蝶を求めてアフガニスタンに行ったことで、現地と縁ができました。
その後、医者として同国に赴任し、調べていくうちに、
問題は個々の患者ではなく、インフラなど現地の環境にあると気づく。
そして見捨てられた農地をよみがらせるためには、水を引かなければと考えて、実行に移すわけです。
結果として、中村さんがやったことは立派な偉業です。
しかし彼自身は、偉業を成し遂げようとしていたわけではない(…)はずです。
本人が日々、やらなければならないこと、目の前にあることを片付けていくうちに、
到達したのがそこだったということです。
(中略)
仕事の本質は、目の前の穴を埋めることです。(…)ここを理解していない人がとても多いのです。
仕事というのはあらかじめ存在しているものだというのは勘ちがいです。
そういう勘ちがいをする人はともすれば、上司や会社に「私の仕事を定義してください」
などと求めることになる。
まず存在しているのは「穴」の方です。需要と言ってもいいでしょう。
自分のやりたいことが先にあるのではなく、求められることが先にある。(pp.34-35)




ドイツの若い哲学者でトーマス・メッツィンガーという人がいます。
彼は著書の中で、自己とはトンネルである、と述べています(『エゴ・トンネル 心の科学と「わたし」という謎』)。
(…)要は、自分なんて空っぽだというのです。面白いのは、この考えが老子と共通している点です。
現代人、とくに若い人は、おそらくトンネルの中身があると、よく考えないで信じ込んでしまっているのではないか、
と思います。その中身のほうを「自分」と呼んで、実体があると思い込んでいる。(…)
確固とした「個性」があり、それこそが自分の本質だと考えている。でも、実はそうではなくてあるのは壁だけ、
確実にあるのは身体のほうです。
(中略)
(京都アニメーション放火事件の)被告は一心に自分の存在を主張していたように見えます。
自分はここにちゃんと存在していて、やろうと思えばこんなに大きなことができるのだ、と。
自分の重みを必死にアピールしているのです。前提には、自分には何らかの重みがあるはずだ、
あるべきだという考えがあるのでしょう。(…)
他人と接点を持つのは煩わしいことですが、そのおかげで自然と自分の重みを感じることができるのです。
お祭りの時に「お前が抜けると、神輿を担ぐときに他の人が重くて仕方ないだろう」と言われる。
つまり他人と付き合えば、自分の存在には自然と重みを与えられる。
しかし他人との関係が希薄になればなるほど、自分で勝手に重みを作りたがってしまう。(pp.63-67)



この本が一貫して重視しているのは、1947年の民法改正によって「家制度」が廃止されたことが、
平和憲法よりも日本人の生き様に強い影響(主には悪影響)を与えたのではないか、という意見です。
つまり家という最小の共同体が否定される社会になり、
過剰な個人主義になったことで日本という国の歯車がどこか狂ってきているのではないか、と。
そして養老さんは最終的に「家は持った方が良い」と締めています。
家の中でも分かり合えないことはあるが、他者の無理解はいまに始まったことではない。
そもそも人と人は分かり合えないわけで、
それでも共同体さえあればその中で自分の役割(重み)を確かに持つことができる。
完全に個人として生きると、そういったものも持つことができない。
家制度が廃止されたこの世の中において、
社会が(家の代わりに)何かを与えてくれるものと期待することがそもそも大きな勘違いだということです。
それは中村哲さんの話もそうだし、放火事件の話もそう。


戦中世代の養老さんは、幼少期に終戦を迎え、昨日まで正しいことを言っていると思っていた先生が
今日から突然教科書に墨を塗れと言い出すなど、価値観の大転換を目の当たりにしてきました。
それゆえに、夢(将来の見通し)がなければならないというような風潮が理解できないと言います。
南海トラフ大地震や世界情勢の悪化で価値観の大転換が起きれば、そんな夢想は泡と消えます。
そういうことがいつ起こるか分からない世の中になってきている。
政治や世論は、そういった「いつ起こるか分からない危機」にもう少し目を向けてもいいのではないかと。


こういった戦中世代の話はとても貴重で、いまの価値観を全体的に俯瞰する良い機会になります。
思えば、祖父とそういう話が全然できなかったのは孫として大きな損失だったと言えるのかもしれません。


#7725

ナルシシズムを自覚する

小塩真司 『「性格が悪い」とはどういうことか ー ダークサイドの心理学』 という本を読んでいます。
最後まで行かなさそうな予感がするので感想を書いてしまいます。


この本に何が書かれているのかについては、タイトルがすべてです。
1990年代以降、心理学会で活発に語られるようになった「ポジティブ心理学」の対極として、
ネガティブな心理学、すなわち悪い性格に関する研究も進められてきました。
本書は「ナルシシズム」「サイコパシー」「マキャベリアニズム」「サディズム」
という4つのダークな性格に焦点を当て、それら性格を有する人がどのような傾向にあるかを淡々と解説します。
「ダークな性格は悪なので克服するために何ができるか」といった話は一切出てこない一方で、
ネット荒らしや出会い系アプリにおける不健全な利用とダークな性格の有意な相関性が示されるなど、
それらが多かれ少なかれ「反社会性」や「非社会性」を有していることが説明されています。
ここで、本書を参考に各ダークな性格についてごく簡単な説明を加えるとこんな感じになります。


  • ナルシシズム:自分自身は特別であると信じ、賞賛や承認に飢え、それが得られないと機能不全に陥る傾向。
  • サディズム:他者に肉体的・精神的苦痛を与えることを厭わず、それを見ると快楽を感じる傾向。
  • マキャベリアリズム:自己の利益のためならば他人を無慈悲に利用しても構わないと考える傾向。
  • サイコパシー:感情反応が冷淡で自己コントロールができず、衝動的な傾向。

断っておきたいのは、これらは「当てはまる」「当てはまらない」の2択ではないということです。
どんな人もある程度は当てはまっているものの、個々人によって程度の違いがあるというだけです。
ただし、日常生活に支障が出るほど極端になると精神病としてみなされるというわけですね。


さて、当ブログの読者ならピンと来たかもしれませんが、自分はナルシシズムの傾向が強いと思っています。
いわゆる「自己愛」が一般的な人と比べてかなり強く、特別でありたいという欲求に抗えません。
だからこそ長年、承認欲求に関する悩みと戦い続けているし、
2022〜2024年にマイブームとなった「無能であることを受け入れるべき」という思想も、
根本にはそもそも自分はナルシズム傾向が強いからという性格的な問題があります。
では、この性格はどこから来ているのでしょうか。
やや他責的な主張になってしまいますが、
自分は思春期前期における社会的な風潮も決して無視できないと思っています。
それを象徴する楽曲として、2002年に一世を風靡した楽曲にSMAPの『世界に一つだけの花』があります。



No.1 にならなくてもいい もともと特別な Only One



あまりにも有名な歌詞なので引用するまでもないのですが、
これに象徴されるように、当時は「みんな違ってみんな良いんだ」というような風潮が強くありました。
単一的な競争原理を否定し、個を大切にする。それ自体は大事なことだと思うし、
実際に昨今の教育現場では体育祭では順位を決めず、期末テストでも順位を出さないようになっているそうです。
まぁそれは競争原理を否定するというよりはただ単に「隠しているだけ」なのですが。
ともあれネットの発達によってニッチな活動が注目される可能性はここ20年でかなり大きくなってきたように感じられ、
表面上は「世界で一つだけの花」がより活躍できるような社会にはなってきていると思います。
一方でいわゆる努力のできない人にとっては地獄のような環境だし、
自分もそういう意味での生きづらさをまったく感じないと言ってしまうと嘘になりますが……。


しかし、このメッセージにはナルシシズム的傾向を正当化する強いチカラも宿っていると思います。
自分も、個性が大事なのだと言われ続けて育った結果、
「自分は特別である」という自覚は正しいものだとずっと思い込んでいました。
結果的にこの歪んだ自己愛性を自覚するまでにものすごい年月がかかってしまいました。
その間に生み出した不完全燃焼の黒歴史は数知れず、嫉妬に溺れたことで失ったものはあまりにも膨大です。
20年間でかなり良い方向へ向かったとはいえ、実社会において競争原理はいまだ根強くあり、
実際には凡人以下なのに「自分は特別だ」と思い込むことは行動力の面からかなり負のファクターとなりえます。


ナルシシズムは誇大妄想に耽溺しやすい傾向があり、妄想と現実の間にはものすごい隔たりがあります。
妄想に入り浸っている間は何も行動しようがないので、当然それは誰も認めてくれない。
なんとか頑張って成果を生んだとしても、それも妄想上の出来栄えとは比べ物にならないほど拙いのが当然です。
この辺はナルシシズムに特有の「行動の壁」があるような気がしてならない。


本書にはダークな性格を持つ人の困難に対する処世術が載っているものかと期待していましたが、
そこまでは書かれていませんでした。
とはいえ、自分がナルシシズム傾向の強い人間だと改めて自覚する契機になったのは良かったと思います。


#7168

正義を振りかざす「極端な人」の正体

今日の出来事読書録

『正義を振りかざす「極端な人」の正体』(山口真一、光文社新書、2020年)
という本をざっと読みました。もう読書録をがっつり書く気力はないのですが、
ネットの情報収集の危うさについて考えされる事実があったのでメモ程度で感想を書きます。


この本は、いわゆるネット上で起きる炎上事件の加害者について統計的な手法で分析した本です。
ここでの炎上事件とは、いわゆる有名人や企業の不祥事に対して
批判的なコメントが殺到することを言います。
特に本書では2020年に多数の誹謗中傷を受けて自殺した
女子プロレスラー木村花さんの事件をピックアップして、その内実を明らかにしようとしています。


そこではいくつか炎上事件に対するイメージとは異なる事実も明らかになっています。
まず第一に誹謗中傷をしている人は全体のうちごくごく僅かであるということ。
そういう人たちがサブアカを使い分けることで普通の人の数倍のコメントを送りつけることにより、
あたかも傍目には多数の人に誹謗中傷されているように見えます。
第二に、そういった「極端な人」は誹謗中傷を「正しいこと」と認識している、
つまり不祥事を起こした被害者こそが悪であって
自分はあくまでも正しいことをしているという考え方を強く持っていることが多いということ。
そもそも木村花さんの事件は、当初『テラスハウス』という番組内で
共同生活していた男性が誤って木村さんの大切なコスチュームを洗濯してダメにしてしまった際、
木村さんが番組内でその男性に対して強い罵声を浴びせたことがきっかけになっています。
そのことを当初から木村さんのアンチが非難していたわけですが、
その後も放映された『テラスハウス』で木村さんの態度が改まることはなかったので
どんどんTwitter上の木村さんのアカウントに対するアンチの誹謗中傷がヒートアップした結果、
それに苦しんだ木村さんが自殺してしまったと。
すごいのは、自殺後もアンチの活動は止まらなかったことです。
そしてそれは遺族の懸命な活動によって開示請求が行われるにいたり、
その結果、世間の注目度からすると驚くほどに少数派であることがわかっています。


木村花さんの件については、
そもそも男性に罵声を浴びせたことすら「番組の指示」であることがわかっていて、
木村さんの意思で強い罵声を浴びせたわけではないということが自殺後の調査で明らかになりました。
そういう事実が後から出てきたところで人が死んでしまってはもう遅いわけです。
この件は国際社会からもかなり非難され、誹謗中傷に対する罰則を強くする法改正もされました。
しかしこの事件から3年経ったいま、
いわゆる炎上事件は減っていないどころかさらに増えているように見えます。


本書によれば、「極端な人」は普通の人、とりわけ社会で成功している人に多いそうです。
直感的にはニート・引きこもり等の社会的弱者が
強者を引きずりおろすために誹謗中傷しているというイメージですが
(実際にそういう人がネットで問題を起こしているケースもあるというのは事実)、
実は50代以上で十分な地位と年収のあるような人こそが誹謗中傷を繰り広げているそうです。
またそれ以外の社会的属性にも分け隔てなく誹謗中傷による加害経験を持つ人はいて、
一般人だから無縁、といったことは無いと言えます。誰もが加害者になりうるのでしょう。


「極端な人」は共通して社会に対する不満を感じており、それに基づいた情報発信をするようです。
そしてネットではサイレントマジョリティの情報発信量に対して、
そういったノイジーマイノリティの情報発信量の方が圧倒的に多い。
ゆえにSNSにおける思想はかなり偏っていると考えられます。
多数派はいちいち自分の意見を表明しません。
これで何が問題になるのかというと、
日常生活に対するネット利用率が高いと無意識にノイジーマイノリティの思想に染まってしまい、
しかもそれに気づくのがなかなか難しいということです。
これは自分もかなり心当たりがあります。この本を読んだことで初めてその可能性に気づきました。


最近全然本を読む余裕がありませんでしたが、
久々に読んだ本にしては本書は当たりだったと思います。
ネットばかり見て他から情報をインプットしないような生活にならないよう気をつけたいところ。
まして自分が「極端な人」になるなんて論外ですが、
何も意識しなければ自分も加害者になる危険性はわりと高いのではないかと改めて思いました。


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