宿命
「1日1本ブログを書く」という制約を自分に課して19年が経った。
それによって積み重なってきたものの価値は大きく、だからこそ制約に意味は無かったとは言えない。
しかしそれを前向きに捉えられるのは1日1本何かを書けるだけの精神的・時間的余裕があればこそであり、
もともと三日坊主気質だったことに加え、しばしば精神的に日記を書くどころではなくなる自分を
騙し騙し19年続けていくということは並大抵のことではなかった。
長く続けてきた習慣を続けていくことが苦痛になってくると、
それはまるで人生単位で与えられた罰ゲームのように感じられてくるものだ。
「なぜ、自分ばかりがこんなことをやっているんだろう……」という虚しさを奥に押し込みながら、
それでもなお、ここまでに至った道のりの遠さを考えれば何の脈絡も無く辞めるという決断は下せない。
何か辞めるに値する決定打となる出来事があればいいのに、とずっと考えていた。
何でもない日に辞める勇気はとても持ち合わせていなかった。
……始まりの日である2004年09月01日はなんでもない日だったはずなのに。
2023年は、これまで何かを押し殺しながら書き続けてきた習慣がついに限界を迎えた年だったと思う。
web制作プロジェクトが煮詰まってきたことによりいままでになくブログどころではなくなり、
数ヶ月の放置期間を経て2023年05月29日、ついに本家ブログを閉鎖するに至った。
放置されたまま過去記事が公開されていることを恥ずかしく感じたからだ。
その恥ずかしさが、いままで何も勝てなかった「辞める決断を下せない自尊心」をついに上回った。
そうして、僕が高校時代から書き続けてきた本家ブログは終わりを告げた……かに思えた。
その後、偶然出会ったObsidianという高機能メモアプリとの出会いをきっかけにして、
ブログはオフラインで継続的に書き続けるという風習が復活した。
この出会いが無かったらこのブログは本当に終わっていただろう。
辞めたくて仕方なかったはずなのに、ようやく辞める決定打となるきっかけと巡り合ったはずなのに、
それでも結局ブログを辞めるということは叶わなかったのである。
僕の活動のほとんどは他者承認を原動力としていて、それはゲームで遊ぶことさえ当てはまる。
だからブログも、オフライン運営に移行したとして誰も見ていないところでは続かないと思っていた。
ところが蓋を開けてみれば、むしろオフライン時代に突入してからの方が筆の乗りは良い。
ブログに限っては他者承認などとっくに必要無かったのだと初めて思い知らされた。
これはもう、僕の宿命なのだと観念した。
このブログが2周年を迎えたとき、受験生の僕を心配してブログは休止したらどうか、
と担任に勧められたことがある(#00845 / 2006年09月01日)。
当時の僕は、2年間でブログによって自作詩や文章力を評価されそれが新たな「生き甲斐」になった以上、
それを道半ばで捨てる道理は無いと考えて受験期もブログを継続することにした。
当時の僕が言う「生き甲斐」とはつまるところ他者承認ありきの活動であった。
いまの価値観では、他者承認が無かったら続かない活動を生き甲斐と断言するにはやや苦しいところがある。
しかし本家ブログはそれから17年の時を経て他者承認を必要としない「本当の生き甲斐」に昇格していた。
受験期の僕にここまでの先見の明があったとはとても思えないが、
当初からここまでの道のりを考えると、一人が一つのことを長く続けることの大きさを改めて思う。