熱中できるものがある人には良い時代
自分個人としては、いまの世の中は個人がやりたいことをできるという点では、
非常に恵まれている時代だと思っています。
起業や独立も前時代と比べるとかなりハードルが下がったし、
クラウドファンディングのように個人の活動を支援する仕組みも結構確立してきました。
ことIT技術に関しては、オープンソースの恩恵によって車輪の再発明をする手間がごっそり減り、
自分のやりたいことだけに集中できるようになりました。
ノーコード開発アプリやChatGPT、IDEなど開発支援技術の進歩も目覚ましく、
以前ほど技術力を問われなくなったと感じます。
自分ができない部分はクラウドソーシングなどを活用することにより難なく実現できます。
これにより無名の個人が大企業の商品を追い越して話題になるケースもみられるようになりました。
例としては2017年に一世を風靡した『どうぶつタワーバトル』や、
Yahoo!乗換案内より4年先行してリアルタイム路線図を作った『Mini Tokyo 3D』などがあります。
活動の細分化と深化はいっそう進み、あらゆる活動が広く認められるようになりました。
どんな活動にも賛同してくれる人がいて、たいてい明確にコミュニティが存在しています。
そのこと自体はとても良いことだと個人的には思っています。
要は、個人の「好きなこと」は倫理に反しなければ結構なんでもできてなんでも認められる時代。
個人的には、昨今はネット黎明期以前と比べると価値観の転換が起こっていると思っています。
現代で重視されるのは、自分が本当に好きなものを見つけられたかどうか。
それは場合によっては従来の社会で重要とされていた諸々のステータスよりも重要になります。
それはたとえば学歴や知識量、経済力や所属する企業の有名度、あるいは恵まれた容姿など。
それらは、個人の活動においてなんの役にも立たないことさえあります。
もちろん社会人としては役に立ちますが、学歴が重視されなくなってきているのも事実です。
むろん社会人として全力を尽くすという人生もアリだと思います。それはそれですごいことです。
でも、いまや「個人の趣味」がネットを通じて大衆に認められる可能性があり、
それによって生活している人も結構増えてきました。表舞台ではYouTuberが目立ちますが、
実は多種多様な同人活動が成り立つ時代でもあります。
だからこそ、思春期までに好きなものを見つけることはいままで以上に大事になっていると思うし、
なんならそれは就活なんかよりもよっぽど大事だと思うわけです。
しかし、この手の個人活動は社会人と違って企業の制約に縛られない自由度の広さがある一方で、
同じことをする同士のコミュニティに所属するようになると、
どこかで「本当の本当にそれが好きなのか」を問われる段階にぶち当たります。
ただの願望や自己満足や構ってちゃんの一環としてそれを好きなことと自称しているだけでは、
本当にそれが好きな人の熱意にどこかでついていけなくなり脱落していくことになります。
それでもコミュニティから脱落するのが嫌で抵抗を試みたとき、
結構着手するのにエネルギーを要したり面倒くさいと思ってしまったりして、
いつしか自分は実はそれがそれほど好きではないということに気付かされるわけです。
本当にそれが好きな人は、気合を入れないとそれができないなどということは決してありません。
息を吸うようにその活動を継続していて、活動が止まることはありません。
一方、単なる「にわか」レベルではある程度のところで飽きてしまい、
そこから先は活動を継続するのにさらに多くのエネルギーを要するようになります。
これでは本当に好きでやっている人たちと何もかも乖離して当然です。
特定の活動をしたいと思ったら、それが好きでさえあればいい。
でも、実はその唯一の条件である
「それが嘘偽りなく好きであること」を満たすのはなかなか難しいという印象があります。
これは趣味のみならず仕事にも言えるし、なんなら恋愛にだって言えるかもしれません。
なんらかの「ガチ勢」であることは、
現代を豊かに過ごすためのカギになるのではないかと思っています。
逆に言えば、あらゆる分野にガチ勢が跋扈するこの世の中では、
「にわか」は淘汰される存在であることは否定できない事実だと思います。
承認欲求不満なのでなんでもいいから閉じたコミュニティに所属したい、チヤホヤされたいなど、
にわかであることを隠して特定のクラスタを自称する動機はいろいろあると思いますが、
自分の心に嘘をついて何々が好きだと言い張っていると悲惨なことになるということですね。
にわかそのものが悲惨だと言いたいわけではなく、
にわかであることを偽って特定クラスタに首を突っ込むと悲惨になるという意味です。
浅く広い趣味の持ち方は、それはそれで生活を充実させる方法が別にあると思いますが、
個人的な人生経験から言ってなんらかのガチ勢である方が人生が満たされるような気はします。
学生時代にこれといった趣味も「推し」もついに発掘できなかった人が、
社会人になってからの人生を持て余して生きる意味に悩んでいる人を何人か見たことがあります。
ネットコミュニティは良くも悪くも先鋭化が進んで、
そういう人を受け入れるコミュニティが減ったと思います。
5ちゃんねるの雑談系がいちおうその受け皿の代表例になるのでしょうか……。
そういう人を見ていると、思春期の家庭環境ほど人生において重要なものはなく、
もう半分くらいはそこで死ぬまでの生き方が運命づけられるのではないかと思うほどです。
自分も思春期に親の意向を全力無視してコンシューマーゲームとweb制作に打ち込んだことが、
社会人以降の生活基盤になっているという実感があります。
もしも親の望む通りにそれらの趣味を捨ててガリ勉くんになっていたら、
それなりの学歴を手にする代わりにいまごろ空虚な人生に相当悩んでいたかもしれません。
それは都合の良い仮定でしかありませんが、
いずれにしろ、自分が学生時代にゲームにのめり込んだことは間違っていなかったと思っています。
それを否定するということは自分そのものの否定にしかなりませんからね。