活動意欲停滞と自己欺瞞
自分のネガティブな気持ちの動きを客観視していてふと気付いたのですが、
「BをやるためにAが停滞しているとAのコミュニティから責められているような自己欺瞞に陥る」
というような心理があるような気がします。
これは、Bを自己満足でやっているなどの事情でBをやっても認めてくれる人がおらず、
一方でAは活動をある程度他人にも認知されているような状況で起こりうるのではないでしょうか。
つまり、自分がやりたいことと他人が認めることが一致しない状況です。
しかし、そもそもこれは本当にネガティブに考えるようなことなのかどうか。
Aをやらないことで責められるような責任を抱えているのであれば、
それはBをやることがその責任から逃げていることにもなるため、望ましくない状況と言えます。
ただ、往々にしてこれらはいずれも趣味の範囲でやっている活動に過ぎません。
よって、どちらをやっていないからといって責められるような筋合いは無いと言えます。
本音としてはBで成果を上げるよりもAで認められたいけれども、
Aの方が意欲的に停滞していてそれが難しいようなときに、
その情けなさへの苛立ちが責められているような感覚として実感するのかもしれません。
浅く広く首を突っ込むのでどれも中途半端に陥るというのは長年の悩みですが、
それ自体は悪ではないし、誰しも少なからず複数の分野に手を出しているものではないでしょうか。
たったひとつのことを年単位で継続できるのは本当にまれな才能だと思います。
なので、ある活動を一時的に休止したところで恥じる必要は無い。
Bの方が興味をそそられるなら、いっそのことAは忘れてそちらにのめり込むべきです。
しかし、どうも自分はそういう割り切りもできない悪癖があるようです。
結局認められさえすればどっちでも良い、と言うような助平心を否定することができないというか。
そしてやはり、そう思うくらい他者承認というのは大事なのだと改めて思います。
でも他者承認ありきでは一生他人に振り回されるのではないか……という懸念もあり、
一概に他者承認が無ければ活動はできないと考えてしまうのも問題があると思っていて、
これは非常に難しいところです。
やる気は本当にコントロールできないものなのか、というのも気になるところ。
結局、いまの自分はやりたくなったことをやっているだけで、
何をやりたくなるかは自分で決められません。
だからやるべきと思っていることもやる気の枯渇によって停滞してしまう。
それがそもそも良くないのだと思います。
しかし、これは果たして心構えを変えただけでどうにかなる問題なのかどうか。
この辺は改めて書籍を漁るなどして深めるべきテーマなのかもしれません。