続・やり甲斐の話
今年もっとも印象的だった言葉に東大入学式の祝辞がある(#07061 / 2023年04月17日)。
かいつまんで内容を紹介すると、人は本当に好きなことをしていないと、
幸せの尺度が「他人にどう評価されているか」になってしまい、
それでは評価されなかったときに続けることが困難になってしまう、という教訓である。
これは他者承認という欲求と取っ組み合いを続けてきた僕にとって胸に刺さる言葉だった。
確かに他者承認に依存した活動は危うい。
評価の主体が常に他人である以上、自分がどれだけ頑張っても他人は評価してくれないことがあり、
そういう環境に居合わせると活動そのものの存在意義が揺らぐからだ。
これは、過去の自分が精神的に参っていたときに心当たりのある原因によく当てはまっているし、
だからこそ他者承認依存は脱却したいと常々思っていた。
そのためには「本当に好きなこと」が必要になるが、それを見つけるのに必要な労力は並大抵ではない。
祝辞を読んだ馬渕さんはたまたまそれを東大在学中に見つけられて人生を切り拓いたので、
新入生にもぜひ同じように「本当に好きなこと」を見つけてほしいと鼓舞する。
しかし、学生時代にそれを見つけられなかったいい大人には厳しい現実が待ち受けている。
社会人生活をしている以上のびのびとそれを見つける環境が整っているとは言い難く、
無事にそれを見つけて転職を決めたとしても、社会が受け入れてくれるとも限らない。
多くの面で若者よりも不利であることは疑う余地もないだろう。
承認欲求を否定することは勝ち組にとっては正論なのかもしれない。
しかし、どちらかというとこの世の中は
それを否定できず一生涯背負って生きている人が多数を占めているように思う。
しかもその否定できない欲求さえも満たせずに生きている人が多いように見える。
少なくとも僕はそうだ。
僕は、web制作こそが自分にとって「本当に好きなこと」だと思っていた。
だからこそ それを生業にするために転職を決意した。
なぜなら、それは2003年から長きにわたって継続しているという事実があったからだ。
20年も飽きずに続けているのであれば、今後はそうそう辞めたくなるとは思わないだろうと。
少なくとも偶然与えられた仕事に人生を費やすよりはweb制作に関わる方が本意だと思っていた。
しかしそれは果たして「本当に」好きなことなのだろうか。自信を持ってはいと答えられるだろうか。
誰にも認められなくても、自ずから続けるだけの原動力を持っているだろうか。
当初、webサイトを作る本当の動機は承認欲求を満たすことだったと思う。
自分が作ったシマに多くの人が訪れて、自分が作ったコンテンツを認めてもらうのが夢だった。
しかし実際にはかなり初期の段階で承認欲求を満たすという目的は諦め、
「自己満足」をweb制作の名目として掲げるようになった。
単純な話、他人を満足させられるようなコンテンツを作れなかったからだ。
巨大なプラットフォームをベースに活動するのが当たり前になったweb2.0の世界で、
個人がwebサイトという土俵で承認欲求を満たすのはきわめて難しかった。
では、仮にそれはやむを得なかったとして、せめて自己満足することはできたのだろうか。
自己満足を名目として年末企画や周年企画として特定日を締め切りとし、
残り時間と意欲の無さの狭間で苦しみながら生み出したサイトはいくつもある。
それを生み出すのに相当苦しんでいたという記憶は深く刻まれている。
しかし、残念なことにそれを生み出した結果満足したかというとまったくそんなことはないし、
当時の技術力からしても真っ当なクオリティのものを生み出せたとは思えない。
何もかもが中途半端で、なんのために苦しんでいたんだろうとつくづく思う。
少なくとも向上心があることは「本当に好き」と言えるための条件であると思う。
その意味では昔の僕はweb制作が本当に好きだったとは言い難い。
だからと言ってそれがこれまでのキャリアをかなぐり捨てる理由にはならない。
承認欲求は満たせないし自己満足すらできないポンコツでも、
少なくともざっと見渡して生業になりうる他の活動より有望であることは確かだからだ。
誰にも見られていなくても継続的に活動できる、ということが
客観的な意味においての「本当に好きなこと」の条件だとして、それを持っている人はごくわずかだ。
就職活動ではすべての人に自分のやりたいことが何かを言語化することを求められるが、
それはその人の中で相対的な意味で「一番好きなこと」になるのではないか。