承認欲求についての再考
長年自分を悩ませ続ける「承認欲求」という欲求。
それは自分が未熟であればあるほど、黒歴史の根本原因であり続けてきました。
だからこそ、長らく承認欲求は悪い欲求であると思っていたものです。
しかし最終的には、承認欲求を否定して生きることはできずどこかで向き合う必要がある、
という結論に至っています。
いまは、承認欲求に対して客観的に制御することにもずいぶん慣れてきたので
これ自体が黒歴史の原因になることは無くなっているように思います。
その上で改めて承認欲求について考えてみると、
昔の自分が承認欲求と言っていた欲求には細かく分けるといくつかに分類できそうです。
例えば「誰かに認められたい」という欲求があったとして、
どんな自分を誰かに認められたいのか、あるいはどういう人に認められたいのか。
特にその前者は「理想的な自分」なのか「ありのままの自分」なのかでずいぶん違います。
また、単に「誰かに認められたい」と言っても、
それはいわゆる世間や特定のコミュニティで特別な地位を築きたいということなのか、
単に世間やコミュニティの仲間入りをすれば満足なのかで全然事情が変わってきます。
このうち前者寄りの欲求があり、才能や努力がそれに及ばない人は奇異な行動をしがちだと思います。
また、ここでの対象が「世間」ならば、それは単なる承認欲求というよりは、
実社会で自分ならではの役割を持ちたいという社会的欲求と言うこともできると思います。
そうなるとそれは仕事をする理由にもなり得ると言う意味では健全な欲求です。むしろ無いと困る。
要するに承認欲求ありきの行動と一口で言っても、それは極めて自分本位であることもあれば、
社会貢献と見なすこともできるのではないかと。
その後者は「認められたい」というよりは「誰かの為になりたい」と言う方が適切でしょうか。
他者の都合を無視して自分が認められることしか考えていなかったら、
そりゃあ煙たがれるわけですよ。奇異な言動であればなおさらです。
あるいは認められることを最優先してモラルや暗黙の了解を無視したり。
でもそれは承認欲求というよりもっと根源的な、その人の人格に問題があるような気がしますが。
いわゆる不良やいじめっ子になるのはこの辺が原因なんじゃないかなと。
なのでまあ、結論としては昔の自分は承認欲求不満が強かったと考えていたけれども、
むしろその欲求に他人を慮る気持ちが付随していなかったことが問題だったのではないかと。
長い年月を経てスキルが欲求に追いついてきた傾向にあったり、
コミュニケーションの経験値が溜まって人格的な問題が(おそらく)改善してきているからこそ
こうして俯瞰的に承認欲求のことを考えられるようになったんじゃないかなあ、と。
また黒歴史を生み出しそうになったとき、この考察を思い出せるようにしておきたいものです。