やる気は存在するのか
少し前に、「『やる気は存在しない』というのはマジでその通りだと思う」と添え、
以下の引用を切り抜いたツイートが12万いいねを稼いでいました。
よく「やる気ってどうしたら出るんですかね」なんて、よく分からない質問をしてくる人がいます。
多くの人は、やる気というのは行動を起こす原因だと勘違いしています。
実は、やる気は行動の原因ではなく「結果」です。だからやり始めない限り、やる気はでません。
やる気が出たから走るというのはダメで、まずその日走り始めることが大切なんです。
そうすると走りながら「じゃあ、もっと走ろうかな」と思ったりする。これがモチベーションなんです。これは学校の成績をおいても同じです。
モチベーションを待っている人は、できない人。できる人ほどシステムに従います。時間が来たから始めるとか。
「やる気」という単語は、できない人によって創作された言い逃れのための方便です(笑)。池谷裕二(東京大学教授)「脳を活性化し、パフォーマンスを上げるランニングとは」 - NewsPicks
「やる気が出たから行動できる」「やる気が出ないから行動できない」
という意味のやる気というのは実は言い訳でしかないという、最近意識高い系の間でよく聞く話です。
しかし自分はやる気という概念は存在すると考える立場なので少し批判を展開してみたいと思います。
こういう文脈(特に引用の後半)で「やる気」が批判される場合というのは、
その人が十分に評価(期待)されていて客観的に「できるだろう」と思われているとか、
あるいは周囲が骨を折ってお膳立てして「きっとできるだろう」という状態まで持ってきたのに、
それでもなお本人がやらないので周囲が腹を立てているような場面をよく想像します。
そういう場面での「やる気」という概念は
「できるのにやらない」という状況に対して周囲が攻撃するための藁人形としての存在でしかありません。
この場合、本人からしてみれば文字通りに「やる気がない」のであり、
しかし率直にそれを口にしてしまうと角が立つので、本人でさえもこの状況をやる気のせいにすることによって、
その場をとりあえず穏便に済ませようとしているわけです。
「行けたら行く」「善処します」みたいな、日本語によくある建前と本音がねじれている便利な言葉。
「できる人ほどシステムに従う」というのはまあ表面的にはその通りで、
自己実現にしろ仕事にしろ勉強にしろ、まずはシステムを作るところから始めるべきだとは思います。
無根拠なやる気は到底寿命まで続くものではなく、早ければ30代辺りでもう枯渇してしまいます。
そういう事態に備えてやる気に依存せずとも継続できるような仕組みを持っておくことは重要でしょう。
それは長期的な意味合いだけでなく、体調不良など短期的にポテンシャルを発揮できない場合にも役立ちます。
しかし、それだけではそこに十分な主体性が含まれているかどうかは保証されていません。
システムの奴隷になり実はもうやりたくないと薄々感じている心を殺しながら
半ばロボットのように継続するケースもあり得るのではないかと思います。
要するに、ここで言う「やる気」は使命感などのある種の社会的責任をバックグラウンドに
能動的・自律的に行動できる能力を指し、そういう意味でのやる気は存在すると自分は思います。
それは他人のお膳立てというよりはその人自身のそもそもの能力や過去の成功体験・失敗体験、
あるいは社会的成功によって生まれた責任の有無などによって左右されると思います。
それらによって醸成されたアイデンティティーが、それをやるべきか否かという主体的なやる気を決めている。
ゲームでのみ成功体験を得続け、勉強のことになれば叱られるなど嫌な思いをし続けた学生が
勉強の「やる気」が出ないのは当然のことだし、それはその時点で他人がどうお膳立てしても無意味でしょう。
(「報酬」によって半ば無理やり行動させることはできますが)
ちなみに本人が一見してそれをさも優先度第1位の物事として「やり遂げたい」と宣言しているのに
同時にそれを「やる気がない」と思い悩んでいるようなケースはもっと低次元で、
ちょっとした思いつきを「やるべき」リストに入れてしまっているケースや、
「やり遂げたい」と思っていることが願望レベルでしかなく、
一刻も早く自分の能力の低さを受け入れなくてはならない段階であることが往々にしてあります。
なぜそんなことをするのかというと、「何もしない」という怠惰から抜け出さない言い訳にできるからであり、
これは昔の自分によく当てはまっています。
小学校高学年くらいまでなら将来の夢にメジャーリーガーやパティシエと書いても許されると思いますが、
それを成人してから言うのはいかにも馬鹿馬鹿しいと誰もが思うことでしょう。
これをリアルで他人に言ってしまうとおそらく喧嘩になってしまうのでなかなかセンシティブな問題だとは思います。
かく言う自分も、自己実現に関わる大型のタスクでいまだ着手できていないものはいくつもあり……。
まあ、言葉にはできてもなかなか実践の難しい部類なのではないかと思います。