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#7838

本心の正体

昨今の自分の「興味が散漫でやりたいことが次々に変わる」という現象は、
もとを辿れば結局承認不安に行き着くと思っています。
つまり、昨今の自分が「興味を持つ」「有望に感じる」「機運が高まる」と言っているのは、
換言すれば「自分ができるかもしれないことを他人が認めてくれるかもしれない」
という可能性を感じているに過ぎません。
要するに、自分自身のスキルの問題と、社会(主にはネット社会)の需要の問題を同時に解決できそうなとき、
それは有望=やる価値があると感じるというわけですね。
デジタルイラストの件はまさにそう。
ネットコミュニティでの長い議論の末にロースキル絵師のロードマップが明らかになり、
「これなら自分でもできるかもしれない」という光明が見えたからこそ着手したわけです。
実は、そこに自分の意欲そのものは介入していない。
もちろん、ある程度はやりたいと思わなければ着手はできません。
しかし実際には自分のキャリアや自己実現の都合上「やるべきだからやる」という意識は拭えない。
そこに本当に自発的で純粋な意欲、すなわち「本心」があるのかと言われると甚だ疑問です。
だからこそ、あらゆる物事が最後まで遂行できない、有言不実行に陥っているのではないかと。
能動的な気持ちを置き去りにしているから、行動に迷いが生じているのではないかというのが近年の考えです。


では、「本心」を大事にして能動的に行動することを意識すれば行動力は改善するのか。
ここは重要なポイントなのですが、実はそうとも限らないのではないかというのが最近の考えです。
近年の迷走は本心を逆撫でしないように「やりたいことをやる」方針にした結果、
物事の表面的なところまでやって満足しまうようになってしまったのではないかと疑い始めています。


つまり、本心を尊重しようとしたがゆえに、行動は増進しないどころか逆に減ってしまったという実感がある。
このことから、実は「本心」はそこまで尊重しなくていいのではないか、という気づきが当然出てきます。
それを尊重したところで自分を甘やかすだけ、ひいてはやることが減って社会から乖離するだけなのではないかと。
この失敗体験に基づくと、ここで言う本心とは怠惰に過ぎないのではないかというのが現時点の考えになります。
いわゆる「やればできる」とよく言われる性質の人間が共通して持っているであろう、
ものすごく低確率だがもしも覚醒すればバリバリやる気になるはずのマインドです。
しかしそれは確率論的に覚醒することはほぼ無いので怠惰そのものと言ってしまっても大方間違いではありません。


比較的精力的に活動していたと思われる、自分の2代目本家ブログの時代を思い返しても感じます。
当時はやりたいという気持ちに従順だったというよりは、ずっと何かに追われていたような感覚があります。
自分が定めた締め切りだとか、「自分なら当然これくらいはやるべき」といった実体の無い責任感だとか、
そういったものをでっち上げてひたすら自分に鞭を打っていたような気がします。
しかし、だからこそそれなりの成果を生み出すこともできたし、前に進み続けることもできていた。
その結果、いまの自分と比べればまだ「自分らしさ」をどうにかこうにか維持できていたと感じます。
いまは、日々進展しているようで全然進展していません。
興味関心を示す物事がクルクルと変わるのでハイペースで何かが進展しているように思われるけれども、
またしばらくすると結局同じところに戻ってくるんですね。
そこに「自分なりの活動」を見出すのは難しく、どこかで巨大な虚しさがどっと押し寄せてくる危険性があります。
2代目本家ブログ時代の自分と現在の自分を総合して考えると、
本当の本心というのは義務(must)を決める足がかりとしての「こだわり」「自分らしさ」そのものを指すのであって、
それを実現するために必要な努力を直接後押しする「原動力」ではないという結論になります。
ここは近年の自分が勘違いして認識していたところかもしれません。


確かに、年齢が重なるにつれて「これを続けるとどうなるか」という先々のことがなんとなく見えてしまって、
どうせ期待以上にはならないだろうという失望感から「こだわり」を持ちにくいというのはどうしてもあります。
ここでいうこだわりは「未だ成れていない自分」への羨望も多分に含まれていると思われるからです。
歳を取っても「こだわり」を明確に持つのはかなり難しい予感がしていますが、
だからといって本心が動くのを待っていたら永遠に自堕落な日々を過ごしてしまう。
ある意味、ピクチャレ大会移転プロジェクト後はずっとこんな迷走を繰り返しているように思いますが、
いい加減この負のスパイラルからも明確に脱却したいところです。


ひとつ具体的な施策を考えるとしたら「締め切りを設ける」ということですかね。
着手すると決めたらとりあえずゴールポストを置いてしまい、そこに向かって足掻いてみる。
いままではそれさえもしなかったからこそ物事と本当の意味でちゃんと向き合えず、
だからこそあらゆることへの意欲低迷を感じていたのではないかと。
締め切りを置いて無理矢理にでも向き合ってみて、初めて見えてくる景色もあるでしょう。
こう考えると、自分は結局追われながら活動する方が性に合っているのではないかとつくづく思います。



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