Chrononglyph

行動力の問題

前へ1 / 5次へ
#8176

機会損失の歴史

これは30代が語ることとしてはわりとベタな話題なのかもしれませんが、
最近改めて「機会は待ってくれない」ということを痛感しています。
たとえば、いま自分はようやく重い腰を上げてイベントアプリの準備に取り掛かりました。
最新の技術スタックをふんだんに使っているプロジェクトでしかも完成の目処も立っており、
苦しみながら作っていた6年前の同等イベントと比べるとその規模は完全に雲泥の差であることは間違いありません。


しかし、仮に2026年夏秋のいずれかのベストタイミングで開催できたとしても
想定参加者は少なくとも15人は割るだろうと思われ、10人行けば御の字と考えざるを得ないという状況です。
対して6年前はここまで大掛かりでなかったにも関わらず、25人もの参加者が盛り上げてくれました。
重い腰がどうしても上がらなかったのは、界隈の衰退に対する「割りに合わなさ」に抗えないと思ったのもあり、
今更になって着手できたのはそれに対する諦めの気持ちも多分にあります。


こういうことは歳を重ねると多方面で感じるようになります。
そのもっともありがちな例はコミュニケーション能力でしょう。
自分はここ3〜5年、ほぼ毎年のように実感できるレベルでコミュニケーション能力が改善していると思っています。
もしかしたらそれは自意識過剰なのかもしれませんが、
コミュニケーションが左右するような査定評価や会社での立ち回りやすさなどから言っても間違いないのかなと。
逆に言えば、5年以上前の自分はあまりにもひどかった。
この違いは社交スキルの有無というよりもメンタル的なところに原因がありそうですが、
5年以上前の自分はいかにも自己中心的で協調性も無く、まあひどいものだったと思います。
周囲を気遣えるだけの心理的余裕が無かったのでしょう。


しかし、周囲の人に恵まれていたのは間違いなくここ5年以内よりも5年以上前、つまり上京前です。
もちろん上京後にできた縁も大事なのは絶対そうなのですが、
「濃い」人間関係を構築できていたのは圧倒的に上京前の方が多いんですよね。
他人を気遣えないから、何も考えずに他人の懐に入ってたまたま受け入れられていただけなのかもしれませんが。


いずれにしろ、いまのコミュニケーション能力で昔の会社や学校にいたら、と思わずにはいられません。
絶対にその方が良く立ち回れただろうし、それによって得られるものは多大だったでしょう。
その「果実」は、現実この先頑張ったところで果たして手に入れられるのか、甚だ疑問です。
しかしまぁ、こんなのはよくありがちな自己都合ありきの妄想に過ぎないわけです。
結局のところ、経緯がどうであれ磨き上げてきたスキルを使えるのはこれから先にしかなく、
また不足していた過去があるからこその この現状なのでしょう。
手札が揃うまで待っていたらものすごい時間が経っていて、気がつけば盤面は当時とは似ても似付かぬものになっている。
自分はそういう未練がましいものをいまだ多く携えていますが、だからといって手放すこともできません。


思うに、昨今の自己満足への盲信というか、他者承認への不信に絡む考え方の諸々は、
実はこういう機会損失の歴史がそう思わせている節もありそうです。
だとすればその哲学は、自分のように機会を逸し続けてきた間の悪い人への慰み言葉にしかならないのでしょう。


#8122

コンテンツ摂取の完璧主義

基本的に「完璧主義」はそのカッコいい語感に反して明確に性格上の欠点であると認識しています。
もちろん状況によっては妥協しない潔癖さが求められる場合もあるのは間違いないし、
完璧主義=悪と機械的に片付けるのもそれはそれで愚かだとは思います。
ただ、その負の側面であるところの「完璧でないなら着手できない」というのは機会損失を生む要因以外の何者でもなく、
またクリエイティブな活動においては第一歩を踏み出すのに大きな心理障壁になりえます。
対人関係では、他者や自分への不当な期待を生み出し、その人の等身大の長所やスキル感を軽視しかねません。
そもそも完璧主義は「失敗への恐れ」が肥大化しているということが本質であり、
それを野放しにすると人生が「閉じて」しまうというリスクがあります。
つまり、新しいことは着手できず興味関心に対して素直に行動できず、ただ時間を浪費するだけの日々になるということ。
完璧主義を手放すということはつまり、「つくりかけ」の状態を受け入れるということです。
こうしたアンチ白黒思考的な考え方を、近年ではネガティブ・ケイパビリティと言うそうです。


自分は、自分自身の完璧主義についてはここ7年くらいで矯正するようになったと思っています。
自分自身の理想像を不当に高めすぎない、妄想に耽溺しないということですね。
もちろん妄想が全部ダメだというわけではないですが、それによって現実を見ないのは絶対によくない。
要は自分の価値を不当に高めすぎないことを意識するようになったという感じ。


それはいいのですが、最近これとは別の文脈で問題になっているのは、
コンテンツに対して「完璧」を求めてしまうという傾向が強くなってきているということです。
このコンテンツは楽しむに値するのか、自分の「こだわり」を満たしうる将来性があるのかどうか、
というようなことを過剰に考えてしまうということですね。
しかもそれはコストや時間との相対ではなく、自分の中にある「肥大化した自尊心」との相対である気がします。
そのカテゴリ(=文化)が自分の自尊心の深くに根付いているほど、軽率にコンテンツを選びたくない。
またゲームの場合、やり込んだ場合に自尊心を満たす余地があるかどうかも重要です。
それが実際に到達可能かどうかは問われず、ただそういう可能性があるかどうかということが問題になります。
あとは「選択できる可能性から『推し』を見出せるか」というのも重要ですね。
このコンテンツのある部分が自分の価値観・好みに直結している場合、それを軸とした活動が可能かどうか……。
さらに言えばそれらの活動の結果、それが他者に認められるかどうかも重要だと思っていたこともありますが、
これはさすがに不合理だと最近気づきつつあります。
ただ、他人に認められるかどうかはさておき「証」となるものは欲しい。


何が好きで何が嫌いかといった価値観やその閾値が変わったわけではないと思っています。
ただ、着手するまでのハードルはものすごく上がってしまった。
特に、着手する前にそれに関するなんらかの欠点が明らかになってしまうと着手はかなり厳しいという現状があります。
たとえばレビューで作品に対する否定的な意見が上がっているのを見てしまうなどですね。
これは年初のPICO-8で改めて実感した理想化と脱価値化と同じことが言えるかもしれません(#08062 / 2026年01月11日)。
いっそのこと、それを何も知らないまま買ってしまった方がもう少し文化にタッチできる気はする。


こういう姿勢はそもそも「作品を楽しみたい」という純粋な動機が非常に軽視されていて、
「作品を摂取することで自分という人間の価値を底上げしたい」というような不純な動機が多分に含まれています。
だからこそ、摂取する前に不純物を見つけてしまうとそれはもう摂取できない。
ただ、これも文化カテゴリによってだいぶ事情は異なっているように思います。
SNSに流れてくるのも「コンテンツ」ですがこれはもはや自分が選んでいないのでこうした意識は皆無だし、
能動的に選ぶコンテンツも音楽アルバムは比較的この傾向が薄いです。
あと最近復活した読書も、新書・専門書など教養に直結するジャンルはあまりこういうことは考えません。
ただ小説・ライトノベル・エッセイなどの文芸となると180度変わってきます。
そしてやはりゲームはこの傾向が非常に強いのですが、
たとえ同一タイトルでもスマホで買うのとゲーム機で買うのとではかなり異なる気がします。
前者の方が明らかにハードルは低く、後者の方が高いです。


こうしてみると、過去にしっかり選んでから買った実績があるかどうか、
逆にあまり吟味せずに貪欲に次々に買ってきた実績があるかどうかといったことが関係している気がします。
音楽アルバムやスマホゲームはよくよく吟味してから買ったものも多数ある一方で、
次々に買ってきた歴史も短くありません。
一方、コンシューマーゲームは伝統的に本当に好きなタイトルに絞って買ってきた歴史があり、
いまさらそれを否定できないという事情があるのは確か。
まぁ、だからといって買ったタイトルを全部積まずにやってきたのかと言われるとそこはお察しですが。
実用書と小説でこの辺の価値観が違うのも、過去の実績が関わってそうです。
小説は実績が無いからこそ「最初の一歩」に相応しいものを選びたいというプレッシャーがある。
実用書は曲がりなりにも大人になってからそれなりに読んできたのでそういうプレッシャーが無いわけですね。


いずれにしろ、この壁はぶち壊さないと無味乾燥の日々からの脱出は難しそうです。
少なくともコンテンツの消費に関しては、もう味がしない昔からのコンテンツを永遠に再放送することになってしまう。
これは年齢が上がるほど脱出するのが難しくなる予感がしているので、
ここ1〜2年くらいが正念場だと思って意識を変えていきたいところ。


#7935

行動力枯渇対策法

どうしても作業が捗らない、「行動力枯渇状態」から脱出するための試作を2つ考えたのでメモします。


まずひとつはいわゆる仮想デスクトップを活用すること。
作業が捗らない要因は、作業以外のコンテンツとの距離があまりにも近すぎるというのもあると思います。
自分はweb制作用のブラウザも娯楽用のブラウザも同じGoogle Chromeを使っているので、
要は作業しているタブの隣にYouTubeがあったりするんですよね。これでは気が散って当然だろうと。


そこで、仮想デスクトップを2つ追加して「一般」「web制作用」「ブログ用」の3つにしました。
また、これ以外にもParallelsのWindows 11が全画面表示で待機しているので、
実質4つのデスクトップを並列で管理していることになります。
ブラウザは2つ併用して、一般デスクトップは従来通りGoogle Chrome。
web制作用デスクトップは暫定的にFirefoxを使うことにしました。
まぁ、web制作という作業の性質を考えるとそっちによりメジャーなブラウザを使うべきだと思うのですが、
Firefoxに普段使い用の環境を構築するのがなかなか面倒ということでとりあえずこれで様子見します。
あまりにもレンダリングの違いで支障が出てきたら、FirefoxではなくChromiumの何かを使うことになるかと。


これで、ブログを書いているときやweb系の作業をしているときは娯楽系のタブがやや遠いので、
意図的な小休止以外では不本意にYouTubeを見に行くようなことは減るのではないかと目論んでいます。
やや扱いに困っているのはChatGPTですね。
これは娯楽的な使い方もできる一方、がっつりコーディングの役に立つこともあり、
しかも課金していてプロファイルを分けることもできないので1つのアプリとして扱うしかありません。
今回はコーディングできることを重視してweb制作用デスクトップに置きましたが、
プロファイルやアカウントを分けて扱うのが理想的のような気はします。


もうひとつは、「明日の準備」をちゃんとすること。
要するに朝起きた時点で今日何に着手すべきかが明白で、それにすぐ着手できるのが理想だということです。
「明日は最初に〇〇をしよう」と考えるだけではまだ不十分で、
その〇〇が長くても10分で完結し、しかも着手するまでのハードルを最大限取り除いておくことが望ましい。
着手までのハードルに関しては、前の施策と合わせて「web制作用デスクトップを表示した状態で寝る」
みたいなことが有効になるわけですね。
あとは、どこまでタスクを細分化できるか。


この2つの施策を先週末に実際やってみたのですが、自分でも驚くほど作業が捗りました。
10分以内にできる軽量タスクが終わってからも芋づる式にタスクが出てきて、気がつけば3時間没頭。
最近の自分にしてはかなり集中して作業できた方だと思います。
やる気というのはここまでお膳立てしないと出ないものなのだと改めて実感しました。


特に「明日の準備」は近年の自分がポッカリ抜け落ちていた視点だと思います。
今日になってから今日やることを考え始めるのではなく、明日は最低これくらいはやろう、という目星をつけておく。
両者は心構えの違いでしかありませんが、実際にかなり生活に差が出るのではないかと思います。
昨日の時点で「最低限ここまでは」と決めたことに、今日が始まってから下方修正するのは格好悪いですからね。
そもそも週間計画も年間計画も、こういう基本的な心構えありきだったのではないかと改めて思いました。
そういう視点も無く週間計画ノートを書いたところであんまり意味が無かったのではないかと。
これはもしかしたら活動をする上で大きな気づきなのかもしれません。


#7925

マイナスファクターの後押し

先週は「ブログ強化週間」を銘打って、ブログ以外のほとんどのタスクを放棄して、
暇さえあればブログを書くということに注力しました。
狙いとしては最小限の日課(=ブログ1本)以外の成果が出ていないと虚無感がひどいので、
ブログを書けるときはたくさん書き、ブログ以外に注力したいときは半ばブログを忘れても日課が破綻しないよう、
「7日で8本」書くことを目指すというものです(#07916 / 2025年08月18日)。
実際には、コミケ前後で先々週書けなかった分の挽回も含めると6日で13本書いています。
体感で出社日以外は1日2本書けそうなので、ブログ集中週間は7日で12本というのがひとつの目安になりそうです。


正直言うと有意義な記事を書けているという感じはまったくしませんが、
「ブログ以外生産的なことを何もしない」と割り切って一週間を消費するとこれだけ記事を量産できるんだなと。
近年こういうざっくばらんな書き方はしてこなかった(つもりな)のでちょっと新鮮です。
このペースでストック記事を量産できれば
他作業に集中したい場合にブログのことをまったく考慮しなくても良くなるため、少なからず作業能率は上がりそう。
そして何より、ストックがあることで「ブログのことを何も考えなくて良い」という期間を設けられれば、
それ自体が次にブログを書く際のモチベーションを上げるバネになると思います。
明確に好循環を期待できるという点では、ブログ量産は昨今の自分ができる範囲ではかなり有意義な部類に入りそう。


変化に乏しい生活は確実にメンタルを蝕んでいきます。
その打開のためにはその状況に応じた発想と勇気(決断力)が両方必要になってくるわけですが、
変化に乏しい生活が続けば続くほど「生活を変化させない理由」が強固になっていって破るのが困難になり、
より飛躍的な発想とより大きな勇気が必要になっていきます。
その場合、生活を脅かすような有害なもの、本人にとってマイナスファクターとなりうるものが、
実は状況を打開するのに役に立ったりするわけです。
たとえば自分が上京を決意できたのは実家内でプライバシーを確保できない、地元の就職では車が必須、
自分が出ていかないと兄弟が自立しない等の実家特有の深刻な問題があったというのが要因としては大きいです。
実際には「東京に憧れていたから」という名目で上京しているわけですが、
もし本当にポジティブな理由だけだったら決断できなかったと思います。
プラスの理由に向かうよりも、マイナスの理由から逃げる方がエネルギーが大きいということですね。
こういうヒトの修正を生活に応用できたらしめたものですが、まぁなかなか難しいのでしょう。


ブログの1日1本という制約も、行き詰まりを生みやすい習慣です。
1日のうち1時間弱を必ず拘束し、運営日数が長くなるほど「生活を変化させない理由」は強固になっていく。
……というより自分の場合はもうとっくの昔に引き返せないところまで積み上がってしまいました。
さまざまな紆余曲折があったわけですが、4代目移転時の「7日で7本書く」というルール変更がひとつの答えです。
今回はその本数をさらに調整して生活に柔軟性を持たせるための打開を試したという感じです。
これが良い方向に転がってくれればいいのですが。


ブログを書き続ける生活に終わりが見えないのは、
実はそこにマイナスファクターが無いからというだけなのかもしれません。
こう考えると、マイナスファクターって決断を後押しするために意外と便利だし、
そういうものが無い物事を変革するのは大変なんだなと改めて思います。
さて、楽すぎて職場を変える勇気を持てないいまの仕事を変えられるのはいつになることやら……。


#7923

省エネルギー主義

敬老の日連休(09月13〜15日)にGW以来の実家帰省を画策しているのですが、
ここで予定していた目的2つのうち1つが先行して潰されてしまいました。
というのも、例の「マンション契約更新の回避のために数ヶ月だけ実家に戻る」という作戦(#07856 / 2025年06月19日)。
毎月かなりの金額の生活費が浮くので引越し2回することになっても金銭的に余裕ができるのは確かだし、
そういう意味ではやらない手はないと思っていました。
が、今日たまたま仕事で参画しているプロジェクトのテレワーク規程を読んでいたら、
「遠方からのフルテレワークは禁止」と明記されていたんですよね。
完全にこの辺は許されるだろうという前提で考えていたので不意打ちでした。


秋帰省で予定していたことは、テレワークできるかどうかを見定めることでした。
有給をつなげて4連休にして実家に引きこもり、快適生活を維持できるならまあアリだろうと。
逆にたった4日間でダレてくるようだったら月単位の滞在は難しいので諦めるつもりでした。
が、そもそもそれ以前の問題だったというわけです。


マンション契約更新問題については、今回も甘んじて更新料を支払う方向で落ち着きそうです。
「2025年は引っ越しだけはマスト!」って去年あれだけ思っていたのに、情けない……。
いちおうもう少ししたら業者にも相談しようと思っているのですが、
SUUMOで探しても基本的にいまより良い物件が無いんですよね。
いまより良くなるから引越しをするわけで、妥協してまでマンション更新料を避けるものでもありません。
更新料は悪習だと思うし払いたくない気持ちは山々ですが、とにかく重い腰が動きません。


自分はここ2〜3年で、とにかくこういうことは現状維持を優先するようになったと思います。
それは現状維持の方が良いからという合理的判断を下した結果というよりも、
新しい何かを納得いくまで探すエネルギーを支払うだけの気力がもう無くなってしまった。
引っ越したいと思うようになって今回で2回目、つまり6年も先延そうとしているマンション更新の件しかり、
本来は最長4年で機種変するはずのメインスマホしかり、
11年経ってなお使い続けているデスクトップPCしかり。
まぁ、これは気力というより金銭感覚が変わったことで大きな買い物をすることに対する抵抗感が強くなった、
ということなのかもしれませんが。
なんとなく、この保守的な傾向は年齢が上がればさらに強まっていくんじゃないかと予想しています。
次のスマホは5〜6年では済まないかも。


余談ですが秋帰省もうひとつの目的は04月から設定を練っている小説の本文を執筆開始することです。
実家帰省1日目は自分の中でもっとも着手ハードルが低くなりクリエイティビティを発揮しやすいタイミングで、
普段は心理的ハードルの高さから着手しにくいこともこの日だけは特別なんですよね。
なのでその環境変化によるボーナスタイムを存分に利用させてもらおうという計画です。
これ単独でもそれなりに意義はあると思うので実家には行くつもり。


#7921

熱意への不信

自分の中で近年どんどん深刻な悩みになりつつある、ネット活動の迷走。
これは既存コミュニティの衰退が主な原因と見ていますが、その復興もいまだ結果を出せていません。
一方でどうしても「新しい何か」に賭けたいという欲求が強くあり、
それを探すということをここ数年ずっと続けていますがこちらもなかなか成果が出ていません。


これはいくつかの要因が絡み合っていると思いますが、
現状打破に必要な絶対条件として年間以上のマイブームとなるようなハマれる何かに出会うこと、
多少なり何かに対して「専門的な深掘り」ができることは欠かせないと思っています。
つまり、なにはともあれ単なる一過性のマイブームで終わらないような何かに出会う必要がある。
最近は『ドンキーコング バナンザ』『Balatro』などのゲームタイトルや、
ChatGPT画像生成なんかにそれなりにハマっているわけですが、
(画像生成はともかくゲームタイトルは)どうしても一過性のブームに過ぎないという現実があります。
既存活動=ピクミンを除くと2番目にハマったと思っている『メテオス』ですら半年限りの活動でした。
名目上は19年活動しているピクミンが本当に例外中の例外だということですね。


それを踏まえて改めて振り返ってみると、自分は結局「年間以上のマイブーム」なんて掘り起こせたことがなく、
専門的な深掘りというよりも一過性のブームに便乗する形でネット活動をしていたに過ぎないと思うわけです。
そしてそれがたまたま「ブログ記事」以上の規模の熱量になるとミニサイトや特設サイトを作っていたと。
こういう活動の経緯を考慮すると、いまさら専門的な深掘りができるかと言われると怪しいんですよね。
それはもう自分の性格的にアンマッチであるという可能性がある。
しかしある程度その文化に対する熱量が無いと、新しいコミュニティに入っていく名目を得られない。
熱量は絶対必須ではないのでしょうが、自分は熱量が無いのにコミュニティに入るほど恥知らずにはなれません。
ただ、現実問題としてそういうことを言っているかぎり永遠にネットコミュニティに入れそうにないという……。


まぁ、そもそもなんらかのコミュニティに入っていないといけない、
という義務感自体が個人サイト時代に生まれた固定観念に過ぎないのかもしれません。
いまは巨大プラットフォームで日々生まれるコンテンツをみんなで楽しむ時代だと言われればそうだと思います。
SNSにおいては、コンテンツを楽しみつつこちらから発信するのも自由にできるわけで。
時代に即した解決方法をひとつ提案するならば、SNSの発信量をもっと増やそうという話に帰結します。
タイミングが悪いことにこちらもサブアカへ移行してしまったためインプレッションを得にくい状態ですが、
それでも何もやらないよりは地道にやっていった方がいいのかなと。


正直ベースで言うと今後も一定の熱量込みで続けていく見通しがある程度立っているのはブログと、
あと仮想通貨のみなので今後自分個人としての活動はこの2つに集約していくことになるかと思います。
いまでこそ仮想通貨は小説執筆を優先するために控えていますが、
インセンティブが具体的であることを考えると活動テーマとしては盤石だと思っています。
あとは下手にリスクを負うと大損しかねない塩漬け戦略さえ卒業できれば……といったところ。
やはり、少し前にも書きましたが2026年以降はこれが中心になっていくんじゃないかなと予感しています。
もちろんだからと言ってゲームは辞めないし、むしろSwitch 2でこちらも面白くなってきているところですが、
ゲームという媒体で社会的欲求を満たそうとするのは本当にもう限界なのだということは、
今後も口を酸っぱくして言い続けて納得するしかないのかなと思っています。


#7840

動機づけのねじれ

「需要もスキルもあるのに腰が上がらないのは『本心』をないがしろにしているから」
と言う文脈における「本心」とは怠惰に過ぎない、という一昨日の考察(#07838 / 2025年06月01日)。
この発見は本心を尊重することが重要だ(#06200 / 2020年12月09日)と考えてきた自分にとって残酷な結論ですが、
これによってまた行動指針が更新されてしまったので整理しておきます。


まず、「需要とスキルがあるからやる」のは社会的意義のある活動であって、簡単にいえばそれは仕事です。
仕事にやる気は必要ないという言説の通り(#07631 / 2024年11月07日)、
社会的意義のある活動においても、それは「やればインセンティブがもらえる」「やらなければ罰を受ける」
という単純な賞罰によって行動が促進されているに過ぎません。
そこに能動的な行動力、自分なりのこだわり等々はそもそも入り込む余地は無いということです。
「需要もスキルもあるのに腰が上がらない」のは、単純にインセンティブ不足なのでしょう。
それを自分の価値観や自尊心のせいにしても解決できないのは明らかです。
そんなことよりも、どうやってインセンティブを最大化するかを考えた方が有意義です。


これは、何気に近年の年間計画の考え方をひっくり返すかもしれない気づきです。
いままでは需要、スキル、そして自分の価値観が交差すれば自ずとやる気は満ち溢れるものだと思っていた。
しかし「本心」の正体は可能なかぎり怠けたい気持ちでしかなく、
それを尊重したところで時間の無駄だったわけです。
そんなことよりも、需要とスキルとインセンティブを天秤にかけて粛々とやる方が理にかなっている。
少なくとも社会的意義のある活動(承認欲求を目的とする活動)はそうであるような気がする。
そういう視点で既存の活動を捉えると、そのほとんどは基本的にボランティアなので継続できなくて当然と言えます。


いままでの自分は、そうした社会的活動の原動力を内発的動機づけに求めていた節があります。
つまり、自分がやりたいからやっているのであって、インセンティブは求めていないというスタンスだったんですね。
しかしこの考え方は根本的なところからメスを入れなければならないような気がしています。
社会的活動はあくまでもインセンティブを念頭に活動を継続するか否かを決めるべきであって、
自分が個人的に持つ興味関心はそこに無理やり絡めるべきではないと。
これは逆も然りで、個人的な興味関心を無理やり社会的活動に結びつけるべきではないという考えになります。


もちろん、趣味コミュニティ内の活動のように単純に切り分けられないケースも多々あり、
ことはそう単純でないことは分かっています。
が、基本的には社会的活動ではインセンティブを求めていき、
内発的動機づけでどうにかするのは補完的な手段にとどめるべきなのではないかと改めて思います。
とはいえ、インセンティブと言ってもあらゆる活動でお金を得るのはかなり困難で、
それはコミュニティがニッチであればあるほど望めません。
趣味の社会的活動で承認欲求を求めるのはその代償行為であると言えるのかも。
承認欲求を満たせるかどうかは本質的には成果のクオリティよりも「尖っているかどうか」なので(#07800 / 2025年04月25日)、
そもそも金銭も得られないならそこで必要以上に頑張ること自体が不毛と言えます。
それでもなおコミュニティへの貢献としてやりたいと思えるかどうかですね。
この辺は内輪でちゃんとコミュニケーションできているかどうかも大いに影響を受けそうなところではある。
信頼できる相手さえいれば、その人のために何かをしたいというモチベーションは生まれうるでしょう。
逆に言えば、そういう人がいないニッチなコミュニティで無償の努力を続けるのは相当厳しい気がする。
ピクチャレ大会の行き詰まりはおそらくそういうところに起因すると思っています。
「自分が活動すれば誰かが認めてくれるだろう」とコミュニティを信頼することができていない。


年間計画は「3」がキリの良い感覚なので3つ挙げるのを基本方針としてきましたが、
厳密には「所属しているコミュニティの数+1」とするのが妥当なのかもしれません。
ここで、「+1」は内発的動機づけのみで行うプライベートな活動を意味しています。
年初時点の計画に当てはめると、web制作は明確に社会的活動でそれ以外はすべてプライベート活動ということになります。
プライベート活動はいくつも並行してできないと思われるので、
そのうち重要度が高い創作を優先しているという現状の方針はそんなに的外れとは思っていません。
一方、web制作はもっと社会的活動であるという自覚を持って望みたいところです。


#7838

本心の正体

昨今の自分の「興味が散漫でやりたいことが次々に変わる」という現象は、
もとを辿れば結局承認不安に行き着くと思っています。
つまり、昨今の自分が「興味を持つ」「有望に感じる」「機運が高まる」と言っているのは、
換言すれば「自分ができるかもしれないことを他人が認めてくれるかもしれない」
という可能性を感じているに過ぎません。
要するに、自分自身のスキルの問題と、社会(主にはネット社会)の需要の問題を同時に解決できそうなとき、
それは有望=やる価値があると感じるというわけですね。
デジタルイラストの件はまさにそう。
ネットコミュニティでの長い議論の末にロースキル絵師のロードマップが明らかになり、
「これなら自分でもできるかもしれない」という光明が見えたからこそ着手したわけです。
実は、そこに自分の意欲そのものは介入していない。
もちろん、ある程度はやりたいと思わなければ着手はできません。
しかし実際には自分のキャリアや自己実現の都合上「やるべきだからやる」という意識は拭えない。
そこに本当に自発的で純粋な意欲、すなわち「本心」があるのかと言われると甚だ疑問です。
だからこそ、あらゆる物事が最後まで遂行できない、有言不実行に陥っているのではないかと。
能動的な気持ちを置き去りにしているから、行動に迷いが生じているのではないかというのが近年の考えです。


では、「本心」を大事にして能動的に行動することを意識すれば行動力は改善するのか。
ここは重要なポイントなのですが、実はそうとも限らないのではないかというのが最近の考えです。
近年の迷走は本心を逆撫でしないように「やりたいことをやる」方針にした結果、
物事の表面的なところまでやって満足しまうようになってしまったのではないかと疑い始めています。


つまり、本心を尊重しようとしたがゆえに、行動は増進しないどころか逆に減ってしまったという実感がある。
このことから、実は「本心」はそこまで尊重しなくていいのではないか、という気づきが当然出てきます。
それを尊重したところで自分を甘やかすだけ、ひいてはやることが減って社会から乖離するだけなのではないかと。
この失敗体験に基づくと、ここで言う本心とは怠惰に過ぎないのではないかというのが現時点の考えになります。
いわゆる「やればできる」とよく言われる性質の人間が共通して持っているであろう、
ものすごく低確率だがもしも覚醒すればバリバリやる気になるはずのマインドです。
しかしそれは確率論的に覚醒することはほぼ無いので怠惰そのものと言ってしまっても大方間違いではありません。


比較的精力的に活動していたと思われる、自分の2代目本家ブログの時代を思い返しても感じます。
当時はやりたいという気持ちに従順だったというよりは、ずっと何かに追われていたような感覚があります。
自分が定めた締め切りだとか、「自分なら当然これくらいはやるべき」といった実体の無い責任感だとか、
そういったものをでっち上げてひたすら自分に鞭を打っていたような気がします。
しかし、だからこそそれなりの成果を生み出すこともできたし、前に進み続けることもできていた。
その結果、いまの自分と比べればまだ「自分らしさ」をどうにかこうにか維持できていたと感じます。
いまは、日々進展しているようで全然進展していません。
興味関心を示す物事がクルクルと変わるのでハイペースで何かが進展しているように思われるけれども、
またしばらくすると結局同じところに戻ってくるんですね。
そこに「自分なりの活動」を見出すのは難しく、どこかで巨大な虚しさがどっと押し寄せてくる危険性があります。
2代目本家ブログ時代の自分と現在の自分を総合して考えると、
本当の本心というのは義務(must)を決める足がかりとしての「こだわり」「自分らしさ」そのものを指すのであって、
それを実現するために必要な努力を直接後押しする「原動力」ではないという結論になります。
ここは近年の自分が勘違いして認識していたところかもしれません。


確かに、年齢が重なるにつれて「これを続けるとどうなるか」という先々のことがなんとなく見えてしまって、
どうせ期待以上にはならないだろうという失望感から「こだわり」を持ちにくいというのはどうしてもあります。
ここでいうこだわりは「未だ成れていない自分」への羨望も多分に含まれていると思われるからです。
歳を取っても「こだわり」を明確に持つのはかなり難しい予感がしていますが、
だからといって本心が動くのを待っていたら永遠に自堕落な日々を過ごしてしまう。
ある意味、ピクチャレ大会移転プロジェクト後はずっとこんな迷走を繰り返しているように思いますが、
いい加減この負のスパイラルからも明確に脱却したいところです。


ひとつ具体的な施策を考えるとしたら「締め切りを設ける」ということですかね。
着手すると決めたらとりあえずゴールポストを置いてしまい、そこに向かって足掻いてみる。
いままではそれさえもしなかったからこそ物事と本当の意味でちゃんと向き合えず、
だからこそあらゆることへの意欲低迷を感じていたのではないかと。
締め切りを置いて無理矢理にでも向き合ってみて、初めて見えてくる景色もあるでしょう。
こう考えると、自分は結局追われながら活動する方が性に合っているのではないかとつくづく思います。


#7826

掘り下げるための勇気

昨今の自分は、さまざまなことは着手するだけなら簡単だが「掘り下げること」が難しいという固定観念を持っています。
そして掘り下げないかぎりは各分野のコミュニティに入っていけない、活動を継続できない、
結果として何も生み出せないという悪循環に陥っている。


なぜ掘り下げるのが「難しい」と感じるのか。現時点の結論は、それはスキルというより勇気の問題だと思っています。
一昔前は逆だったと思うので、これは年齢が重なったことによる価値観の転換なのかもしれません。
10年前までは、新規の分野に入っていけないのは技術不足、
とりわけ「自分の抱いている期待」に自分自身が応えられるだけのスキルを持っていないというのが主な障壁でした。
それは単純にスキルが足りていないというのはそうなのですが、
誇大妄想によってできるはずもないレベルを求めてしまっていたことも要因としては大きいです。


近年、その誇大妄想は悪癖として認識するようになり、掲げる理想はかなり低くなりました。
低くなりすぎてもいけないのでこの辺の舵取りはまだ試行錯誤の段階ですが、
それでも一昔前と比べると相当低くなったとは思います。
さらに、スキル云々の側面はAIが「最初の一歩」を後押ししてくれるようになったこともあり、
AI登場以前の時代と比べるとそういう意味でもハードルは下がったと思います。
たとえばゲーム制作に関しては10年前までは夢のまた夢でしたが、
いまは下手すると簡単なゲームなら日曜大工みたいな感覚で作れてしまうのではないでしょうか。
もちろん、作りたいゲームのイメージがちゃんとあればの話ですが。


そういうわけで、「掘り下げること」が難しいのはスキルが原因ではないように思われる。
ではここで言う「勇気」とは何なのか。
これは、要するにリスクやインセンティブなどを勘案した結果、それでもやるに値するという決断を下すことです。
そしてこの意味での勇気を振り絞るためには、その行き先を「信頼」できる必要があります。
つまりこの分野で活動すれば相応のインセンティブがもらえるという期待がちゃんと持てるということです。
なおかつ、それは諸々のリスクと釣り合っていなければならない。


自分が2025年現在継続している活動のうち、仮想通貨取引は信頼できる活動のひとつです。
取引が成功すれば、必ず相応のお金を受け取ることができる。リスクとリターンも釣り合っている。
適切に取引すればちゃんと儲かるし、下手なことをすれば相応に報いがあります。
その基盤であるところの取引システムは元を辿れば「物々交換」であり、有史以前からあると考えるととても盤石です。
そして、これによって得られる「お金」というインセンティブもきわめて強力です。
さまざまなモノに交換でき、あればあるほど確実に生活を豊かにする。
よって、仮想通貨取引は頑張れば頑張るほど直接的かつ強力なリターンをもたらすものと考えることができ、
注力する理由も見出しやすいと言えます。まぁ、当然と言えば当然でしょう。
余談ですが自分の中では「仕事<仮想通貨」という図式が確立してしまっています。
なぜなら、仕事は頑張りに対する賞罰が曖昧で頑張ったところですぐに給料が増えるわけでもないから。
これはひとえに複雑な商流のせいだと思っています。
この価値観ができたからこそ、先物取引デビューした2022年は仕事を舐めるようになった側面も否めず、
その姿勢がお局様とのバトルなど不遜な態度に繋がっていったことは否定できない事実です。


仮想通貨と比べてしまうと他の「非営利」なあらゆる活動、あるいは仕事ですら一見見劣りするのですが、
しかし仮想通貨取引は豊かな生活に不可欠な「他者との縁」には一切関与してくれません。
そのため、見劣りするとは言ってもそれだけで従来の非営利的な活動を切り捨てるわけにはいきません。
それは結局ネット活動における人との繋がりに直結してくるからです。
……が、この範疇で頑張るに値するような「信頼」できるプラットフォームは、いまだ見つけられていないのが現状です。
それは19年関わっているピクミン界隈ですら例外ではなく、年々ジリ貧の一途を辿っています。
どれもこれも、「頑張ったらそれ相応のリターンがある!」と信じて飛び込むことができない。
その先を気まぐれな他者に委ねざるを得ない以上、必ずしもリターンがあるわけではないからです。
おそらくそのリターンの確率が一定以上ならおおむね信頼できると言えるのでしょうが、
残念ながら現時点でその閾値に達しているプラットフォームは認知できていません。
そしてこれは、新規の活動に関してもそうです。
むしろ完全新規で突っ込んで期待通りのリターンがもらえると思う方がおかしいわけで、
短期的には絶対に割に合わない活動をするしかありません。
ここでプラットフォームを「信頼」できるかどうかをどう判断するかが重要になる予感がしているのですが、
現状問題として新規活動の場を信頼できるようなマインドは持てそうにありません。
これはこれまでのネット活動であまりにも期待を裏切られる経験が多かったという経験則が足を引っ張っているのか、
あるいは単に怠惰の言い訳に過ぎないのか……。


いま、いろいろな活動が過渡期に差し掛かっていて、どれもこれも「割に合わない」と感じつつある。
嫉妬や劣等感、睡眠障害などに起因する精神不安定と戦ってきたメンヘラ期とはまた違って、
空虚感、孤独感との戦いが自分の中で展開されつつあります。
これはメンヘラ期でいろいろな活動を手放したことによる副作用なのかもしれないし、
「このまま老年期に突入したらどうなってしまうんだろう」という中年期付近ならではの年齢的な悩みなのかもしれない。
いずれにしろ、ここは理屈を無視して何かをやらねばならない転換点に差し掛かっていると感じています。
あるいはこれまで散々軽視してきた「自己満足」がこの割に合わなさを補完する手段になりうるのだろうか……?


#7809

面倒なことに立ち向かえるか

今回のゴールデンウィーク帰省、ずっと東京にいると堕落してしまいそうなのと、
地元がお祭り騒ぎになるのでそれを回避するためにも実家帰省はマストだと思っていました。
また、前回をはじめとして実家帰省は作業が捗りやすい傾向にあるため、
そういう意味でも期待していました。


とりあえずあからさまな堕落は回避できたという点だけでも意義はあったと思います。
もし帰省していなかったら、明確なタスクも無いまま1日飛んで10連休……頭がおかしくなっていたかもしれない。
少なくとも生活リズムは睡眠薬があってもなおぶっ壊れていたことでしょう。
そう考えると前後半で環境をガラッと変えるという今回の作戦は妥当だったと思います。
こういうことは成功していたとしても失敗した場合のシミュレーションがなおざりになりがちなので、
どうしても成功したという実感は得にくいのですが、まぁ今回は成功だったと言えるのではないでしょうか。


ただ、それはそれとして作業は捗っていません。
相変わらず、プラマイゼロまでは来れるけれどもプラスの実績は生めていないという状況です。
今回で言えばデジタルイラスト初挑戦に着手しているけれども、
3日目時点で進捗はかなり悪く、このまま行けば未完で終わりそうな雰囲気です。
これはこのゴールデンウィークだけでなく、近年の自分にとっての大きな課題ですね。
すなわち、「着手はできるが最後までやり遂げられない」という悪癖。
これはどうにかして乗り越えないと、有言不実行がますます悪化しそうな予感しかしません。


これまでの体感で言うと、なんらかの好奇心に押されて着手してから序盤まではすんなり行くんですよね。
なぜなら「やりたいことをやっているだけ」だから。
先日のローカルLLMにしろ、少し前のTF-IDFにしろ、知ったら導入してみるくらいのことはできる。
しかし、やりたいことは文字通りにやりたいことだけで構成させているわけではなく、
実績になるまでの道のりには、できれば避けたい面倒くさいことも必ず付随してくるわけです。
その段階に突入すると、それを完遂するほどの動機が無いのでやめてしまう……というパターンですね。
なのでローカルLLMもTF-IDFも、本来の目的であるところのブログ整理には全然行き着いていません。
導入は簡単でもブログに合わせて調整するのが非常に面倒くさいからです。
一般に、この「面倒くさいこと」をクリアできたかどうかで達成感もガラッと変わってくるんじゃないかと思います。


この「面倒くさいこと」はおそらく初動の好奇心だけでは突破できないと思うんですよね。
好奇心とは違う、最後までやり遂げるに値する動機が必要になる。
それはありていに言えばインセンティブが必要だという話になります。
この辺は、昔(2019年以前)と現在の自分で一番価値観が異なっている部分かもしれません。
昔は物事をやり遂げるのに必要なのは自分なりの「こだわり」だったような気がします。
だから、1円にもならず他者承認を満たせるわけでもない、
コンシューマーゲーム購入リスト作成みたいなローカル作業も黙々とできた。
現在の自分は、そういう過去の「こだわり」によって作ってきた実績の上に成り立っている部分も多々あります。


ただ、上京でこの「こだわり」という魔法は解けてしまったように思います。
代わりに仮想通貨など、徹底した実利主義で手っ取り早くインセンティブが得られる文化に急接近することになり、
相対的に利益が発生しないような物事への興味は遠ざかってしまいました。
AIがこの潮流をさらに加速させているようにも思います。
これが技術革新や仮想通貨のせいなのか、年齢的なものなのか、上京の影響なのか、原因は分かっていません。
単一の原因では語れないもののようには思います。


一般的な活動でも利益を求めようと思えば求められます。
たとえば配信にしろブログにしろ、需要がある活動なら金銭を求めていくことはできる。
しかしそれはそれなりの完成度が求められるため、そう簡単に達成できるものではありません。
しかもその活動で最終的で得られるであろう実利は、それがまだ見えない段階のモチベーションとしては機能しません。
だから、実利主義に傾倒したと言いつつも副業なども結局実績が出ているわけでもない。
何もかもが中途半端で、共倒れに陥ってしまっているような気がします。


この中途半端さはどこに行き着くのか。
これは30代突入後、何度か危惧している通り「酒・女・ギャンブル」だと思っています。
短期展望でしか欲求を満たせないなら生産的な活動はできなくなり、必然的にそこへ行き着くでしょう。
先物取引はギャンブルと言えなくもないので、すでに片足突っ込んでいると言えます。
そういう意味で競馬なんかはホロメンもやってるので手を出すのはもう時間の問題だと思っています。
そして競馬に手を出せばパチスロなんかも目と鼻の先でしょう。
これらは第一歩のハードルがめちゃくちゃ高いので躊躇しているだけで、そこを乗り越えればハマるのは目に見えています。
このままいけば、この辺は40代以降のメイン趣味になるんだろうなぁ……。


まぁ、こんなことを書くといかにも堕落したおっさん像が目に浮かびますが、
逆に言えばここまで堕ちても人生楽しむ術はことはあるということです。
弱者として落ちぶれたとしても、まったくの虚無になってしまうということはない。
そして、残りの人生を酒漬け、ギャンブル漬け、女漬けにしたくないのであれば、
好奇心だけではどうにもならない「面倒くさい物事」に立ち向かう術を習得する必要があるでしょう。
そういう意味ではある意味ここが正念場なのかもしれない。
……と思いますが、そもそもこういう年齢的な変化にこれまで抗えた試しが無いんですよね。
普通に考えればかなり分の悪い戦いになりそうではある。


ただ、酒・女・ギャンブルに肩まで浸かるのは個人としての活動が全部挫折してからでも遅くないのかなとは思います。
若者として行き詰まったらそういう救済措置があるというくらいに考えておいて、
すべてを投げ出す前に本当に「こだわり」はもう自分の中に残っていないのか点検するくらいはしたいところ。
過渡期にいるのは確かですが、だからこそまだ全部を諦める段階ではないような気もします。


前へ1 / 5次へ