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#8122

コンテンツ摂取の完璧主義

基本的に「完璧主義」はそのカッコいい語感に反して明確に性格上の欠点であると認識しています。
もちろん状況によっては妥協しない潔癖さが求められる場合もあるのは間違いないし、
完璧主義=悪と機械的に片付けるのもそれはそれで愚かだとは思います。
ただ、その負の側面であるところの「完璧でないなら着手できない」というのは機会損失を生む要因以外の何者でもなく、
またクリエイティブな活動においては第一歩を踏み出すのに大きな心理障壁になりえます。
対人関係では、他者や自分への不当な期待を生み出し、その人の等身大の長所やスキル感を軽視しかねません。
そもそも完璧主義は「失敗への恐れ」が肥大化しているということが本質であり、
それを野放しにすると人生が「閉じて」しまうというリスクがあります。
つまり、新しいことは着手できず興味関心に対して素直に行動できず、ただ時間を浪費するだけの日々になるということ。
完璧主義を手放すということはつまり、「つくりかけ」の状態を受け入れるということです。
こうしたアンチ白黒思考的な考え方を、近年ではネガティブ・ケイパビリティと言うそうです。


自分は、自分自身の完璧主義についてはここ7年くらいで矯正するようになったと思っています。
自分自身の理想像を不当に高めすぎない、妄想に耽溺しないということですね。
もちろん妄想が全部ダメだというわけではないですが、それによって現実を見ないのは絶対によくない。
要は自分の価値を不当に高めすぎないことを意識するようになったという感じ。


それはいいのですが、最近これとは別の文脈で問題になっているのは、
コンテンツに対して「完璧」を求めてしまうという傾向が強くなってきているということです。
このコンテンツは楽しむに値するのか、自分の「こだわり」を満たしうる将来性があるのかどうか、
というようなことを過剰に考えてしまうということですね。
しかもそれはコストや時間との相対ではなく、自分の中にある「肥大化した自尊心」との相対である気がします。
そのカテゴリ(=文化)が自分の自尊心の深くに根付いているほど、軽率にコンテンツを選びたくない。
またゲームの場合、やり込んだ場合に自尊心を満たす余地があるかどうかも重要です。
それが実際に到達可能かどうかは問われず、ただそういう可能性があるかどうかということが問題になります。
あとは「選択できる可能性から『推し』を見出せるか」というのも重要ですね。
このコンテンツのある部分が自分の価値観・好みに直結している場合、それを軸とした活動が可能かどうか……。
さらに言えばそれらの活動の結果、それが他者に認められるかどうかも重要だと思っていたこともありますが、
これはさすがに不合理だと最近気づきつつあります。
ただ、他人に認められるかどうかはさておき「証」となるものは欲しい。


何が好きで何が嫌いかといった価値観やその閾値が変わったわけではないと思っています。
ただ、着手するまでのハードルはものすごく上がってしまった。
特に、着手する前にそれに関するなんらかの欠点が明らかになってしまうと着手はかなり厳しいという現状があります。
たとえばレビューで作品に対する否定的な意見が上がっているのを見てしまうなどですね。
これは年初のPICO-8で改めて実感した理想化と脱価値化と同じことが言えるかもしれません(#08062 / 2026年01月11日)。
いっそのこと、それを何も知らないまま買ってしまった方がもう少し文化にタッチできる気はする。


こういう姿勢はそもそも「作品を楽しみたい」という純粋な動機が非常に軽視されていて、
「作品を摂取することで自分という人間の価値を底上げしたい」というような不純な動機が多分に含まれています。
だからこそ、摂取する前に不純物を見つけてしまうとそれはもう摂取できない。
ただ、これも文化カテゴリによってだいぶ事情は異なっているように思います。
SNSに流れてくるのも「コンテンツ」ですがこれはもはや自分が選んでいないのでこうした意識は皆無だし、
能動的に選ぶコンテンツも音楽アルバムは比較的この傾向が薄いです。
あと最近復活した読書も、新書・専門書など教養に直結するジャンルはあまりこういうことは考えません。
ただ小説・ライトノベル・エッセイなどの文芸となると180度変わってきます。
そしてやはりゲームはこの傾向が非常に強いのですが、
たとえ同一タイトルでもスマホで買うのとゲーム機で買うのとではかなり異なる気がします。
前者の方が明らかにハードルは低く、後者の方が高いです。


こうしてみると、過去にしっかり選んでから買った実績があるかどうか、
逆にあまり吟味せずに貪欲に次々に買ってきた実績があるかどうかといったことが関係している気がします。
音楽アルバムやスマホゲームはよくよく吟味してから買ったものも多数ある一方で、
次々に買ってきた歴史も短くありません。
一方、コンシューマーゲームは伝統的に本当に好きなタイトルに絞って買ってきた歴史があり、
いまさらそれを否定できないという事情があるのは確か。
まぁ、だからといって買ったタイトルを全部積まずにやってきたのかと言われるとそこはお察しですが。
実用書と小説でこの辺の価値観が違うのも、過去の実績が関わってそうです。
小説は実績が無いからこそ「最初の一歩」に相応しいものを選びたいというプレッシャーがある。
実用書は曲がりなりにも大人になってからそれなりに読んできたのでそういうプレッシャーが無いわけですね。


いずれにしろ、この壁はぶち壊さないと無味乾燥の日々からの脱出は難しそうです。
少なくともコンテンツの消費に関しては、もう味がしない昔からのコンテンツを永遠に再放送することになってしまう。
これは年齢が上がるほど脱出するのが難しくなる予感がしているので、
ここ1〜2年くらいが正念場だと思って意識を変えていきたいところ。



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