Chrononglyph

人間関係の問題

#7781

平均的人間関係

最近の自己研鑽トピックスとして挙がってきている、
自分は中長期で健全な人間関係を維持するのが不得手なのではないか、という問題。
前回は体育の授業によって思春期に自尊心を大きく傷つけられ、協調性を育む機会を逸したのが原因なのではないか、
という仮説を書きました(#07774 / 2025年03月30日)。


他にも思春期に影響を受けたことというのは数多くあるのですが、
これらは基本的にもうリベンジすることはできない「変えられない歴史」であり、「自分そのもの」です。
体育の授業を無かったことにはできないし、
思春期の人生がいかに惨めだったとしても、それを否定することは自己否定にしかなりません。
思春期に出会った人間に対する恨み言を書く前に、もう少し解決の余地がありそうな原因を探りたいものです。


そうした文脈でこのトピックスの原因たりうるものを考えたときに思い浮かぶ仮説がひとつあります。
それは、自分の協調性などのコミュニケーション能力に関わる各ステータスは、
自分が普段から関わる人々の平均に近い
のではないかということ。
「中長期的な人間関係を維持すること」は協調性さえあれば達成できるというほど単純なものではありませんが、
そういったステータスが周囲の人間に影響を受けるというのはありそうです。


先日、公開されたサイトから誰でも入れるDiscordのボイスチャットルームで他人のちょっとした地雷を踏み、
「こういう誰でも無責任に入れる『ジャンクな』コミュニティに依存するのは危険かも」
と思い直すという出来事がありました(#07761 / 2025年03月17日)。
無責任に誰でも入れる=ジャンクであることと民度が低いということは必ずしも相関しませんが、
誰でも入れるからこそ、十分なモラルを身につけていない人が入る可能性が高いというのは事実です。
そういう人は得てして、道徳にもとる発言、他人を貶めるような発言をしがち。
こんな人がいるところに長期で関わっていれば、自分自身もモラルが後退していくことは想像に難くありません。
「インモラルなことを言っても許される」という空気感を受け入れてしまうというわけですね。
ピクミン界隈はダンドリバトル大会でそういう空気感が醸成されつつあったのでイベントごとバツンと切ったわけですが、
ここ自体はまだ関わって1年ちょいなので、自分の長期的な人格形成に与えた影響は少ないと思います。


そういう点で自分に悪影響を及ぼしたコミュニティとして思い当たるのは、某巨大掲示板と地方時代の職場です。
地方時代の職場については闇が深いのでまた今度にするとして、
某巨大掲示板はネット黎明期のメインストリームとしてそれなりに影響力があり、
自分もネット活動黎明期はよく利用していました。その民度の悪さは語るまでもありません。
その中で煮湯を飲まされることも少なくなかったので、できれば利用しない方が良いという空気は昔からありました。
が、一方で人間関係に不足を感じたときにもっとも手軽に入りやすく、
かつリアルでは他人に言えないようなことを言うのに適している場所として機能していたのも事実です。
2019年からは同系統のサービスとして匿名系SNS(チャットアプリ)が台頭してきて一時期猛烈にハマりましたが、
いずれも完全匿名ででき、無責任でモラルを求められていないような場でした。


こういうところに入り浸っていた歴史はそう浅くないので、
ここでインモラルな部分を他者に見せつけることに慣れてしまった、という側面はあるのかなと。
また煮湯を飲んだ(罵倒された、恥をかいた、自分の信念を否定された……などなど)ことによって、
自分も他者全般に対して暗に報復したいという気持ちが芽生えてしまったのかもしれません。
職場や学校でイジメをする人がかつていじめられていた側であることが少なくないように、
人は得てして、自分がされたことを他人にしてしまいがちです。


これはもしかしたら個人ではどうにもならないのかもしれません。
悪感情のバトンは世の中を絶えず循環していて、いまこの瞬間にも嫌な目に遭っている人がいる。
その流れを断ち切ることは人との縁を完全に断ち切ることに他ならず、しかし単なる絶縁はこの問題を解決しません。
この問題を自分が断ち切るためには、「心のごみ箱」のようなものが必要になってくる。
これについてはまさに抑うつから脱出しようしていた過渡期の時代に考察していて(#05749 / 2019年09月15日)、
そこでは嫌な出来事を反芻してしまう場合の対処法として、
「どうせそのうち忘れるだろう」という呪文で反芻を断ち切るテクニックを紹介しています。
また、暇であることは抑うつのエサになるとも書いています。


2019年の気づきは、今回の問題解決に直接役には立ちませんが非常に有用な考察だと思います。
悪感情のバトンを受け取ったら忘却のテクニックで積極的に忘れる。
または、適度に忙しければそもそもそれを溜め込んでいる余裕も無いということです。
ただ、これはやはりどこまで行っても理想論に過ぎないということは注意が必要です。
人間、そんなに簡単に悪感情だけを積極的に忘却できるほど都合の良い脳みそは持っていないわけで。
また常に忙しくできるような気力・体力も持ち合わせていないわけです。


まぁでも、気力が下がったときに吐き出し先があるか否かと言うのは大きな差になる気がしますね。
長続きさせたい人間関係だけがコミュニケーション相手だと解消する手段が無いわけで、
ずっと我慢し続けるのは現実的とは言えない。
「心のごみ箱」は自分にとってかつてはこのブログでしたがそれはコンプラ的な都合でダメになり、
巨大掲示板などのジャンクコミュニティは吐き出した分以上の悪感情のバトンをもらってしまうことがあるため、
これも結局適切とは言えません。積極的な忘却は理想的ではあるものの、常に実践できるともかぎらない。
愚痴を聞いてくれるような人との関係で満足できればいいのですが、
中長期で付き合っていきたい人間関係でそのレベルまで達した人はなかなかいない……。
炎上事件がある意味そういったストレスのガス抜きになるのではないかという話も書きましたが(#07772 / 2025年03月28日)、
これも結局本当にスカッとするだけの炎上事件はそんなに多くないのではと思っています。


ガス抜きの手段はいろいろありますが、現状は某巨大掲示板への依存が実はまだ続いています。
こうなると、表面上の人間関係に疲れる→掲示板で民度の悪さに慣れる→モラルが低下する、
というような悪循環に陥ってしまうのではないかという懸念はあります。
というより、これまでそういう負のスパイラルで徐々にモラルが低下してきた側面があるのではないかと。
これは断ち切りたいところですが、そう簡単に切り捨てられる問題でもなくまだまだ考える必要がありそうです。


#7774

体育の授業への恨み

去年末の、週イチ開催のゲーム会に陰りが見えてきた辺りから考えるようになった、
「自分は長期(数年単位)で人間関係を維持することに関して克服するべき課題があるのではないか」という気付き。
まず、『性格は悪いとはどういうことか?』という本で
自分にナルシシズムとサディスティックな傾向があることを再確認し(#07725 / 2025年02月09日)、
特に後者が人間関係の健全な維持を妨げているのではないかと考えました(#07772 / 2025年03月28日)。
これはいわば「性格の歪み」であると言えそうなことですが、ではいつどこでこの性格は歪んだのでしょうか。
今回は、ひとつの可能性として体育の授業を挙げてみたいと思います。


去年末、6桁いいねを記録したツイートにこんなものがありました。



ツイッターやってて特に衝撃的だった事件のひとつに、
市民がスポーツする場をつくるNPOの人が
「ツイッターやるまでは学校の体育を恨んでいる人がいるなんて知らなかった」
と「目から鱗」になってたこと。
その人は体育がいちばん楽しかったから、と。
体育へ寄せられる恨み言の数々に呆然とされていた。(@jiro6663)



また今年02月には、ニコニコ動画出身の作曲家であるヒャダインが、体育教育の専門誌『体育科教育』に対して
「体育の授業は大嫌いだ。体育の教師も大嫌いだ」と
真っ向から体育教育を否定するエッセイを寄稿していたことが6年越しに大いに話題になり(Yahoo!ニュース )、
体育嫌いが世に多く存在することを再確認させられました。


運動音痴のヒャダインはみんなの前で走り幅跳びをさせられる、いわば公開処刑を受けた苦い思い出があり、
体育の授業が「人格形成の障害だった」と一刀両断します。
その公開処刑は体育の教師が「できるようになるまでみんなで見守ろう」という好意によるものでした。
「体育が好きだから体育の教師になるわけで、教員に体育嫌いの子の気持ちがわかるわけがない。
だからできない子に対して平気で恥をかかせるようなことをする。
人間は自分が得意なことをできない人を責めがちだ。教育者なら、そのことも配慮しなければならない」と言います。


作家の村上春樹も体育嫌いだったようで、
「体育は人を運動嫌いにするためにあるようなものだと思っていた。
大人になってからスポーツの楽しみを知り、自分は体育が嫌いだが運動は嫌いでないのだと知った」
という旨の経験談を『職業としての小説家』という自伝に書いています。


このように、体育が好きな人とそうでない人の間には確実に隔たりがあり、
後者は少なからず体育というシステムを恨んでいることが分かります。近年は後者の人間が増えているそうです。


さて、お察しの通り自分も運動音痴であり、体育に人生を破壊された一人です。
自分は小学校から高校まで忌引きを除くと1日しか休んでいないのですが、
その1日というのが逆上がりのテストをする日だったんですね。小学校3〜4年生の頃だったと思います。
当時の自分は逆上がりができるような見込みがなく、恥をかかされるのがもう目に見えていました。
もう当時の記憶というのは断片的にしか残っていないのですが、
とにかくできないのが明白だったので教師に怒られ、みんなの笑いものにされるのが恐ろしくてたまりませんでした。
それで親に怒鳴られてもなお断固として学校には行きませんでした。


しかし、いま思えば小学校の逆上がりのテストなんていうのはまだまだ生ぬるい方の地獄だったわけです。
中学校から上はさらに陽キャとの身体能力の差が開いていき、サッカーなどのチーム競技では疎まれるのは当たり前。
これによって中学時代は紛れもない陰キャコースとして歩むことになったのはもちろん、
比較的クラスに溶け込めていたと感じる高校時代も体育の時間だけは毛虫のような扱いを受けていました。
体育はある意味陰キャか陽キャかを区別する分かれ道としても機能していると思います。
運動音痴の陰キャは決して自分だけではなかったわけですが、
体育の教師は常に体育ができる人の味方で、我々も体育を楽しめるような働きかけをしてくれることはありませんでした。
そのため自分はヒャダインの論調に全面的に同意せざるを得ません。


多感な思春期に、大勢の前で屈辱的な目に遭って人格形成に悪影響を及ぼさないはずがありません。
自分がたった1日の欠席で済んだのは本当に運が良かったと思います。引きこもっても全然おかしくなかった。
これは比較的運動音痴からの共感を得やすいであろう体育のみならず、
音楽や美術、図工といった実技系科目全般にも同じようなことが言えると思います。
いや、なんなら座学も十分当てはまりますね。
たとえば体育は大好きだが国語は苦手な脳筋が、国語の音読で簡単な漢字も読めずにみんなから笑いものにされ、
文章を読むということに対してちょっとしたトラウマを植え付けられた結果、
国語力がまったく伸びないまま成人して社会生活に支障をきたす……
というようなケースもあり得るのではないでしょうか。
こうして考えると、そもそも学校という閉鎖社会そのものが差別を助長しかねない構造になっていて、
オールラウンダーを除く多くの人が多かれ少なかれどこかで屈辱的な目に遭っているのではないでしょうか。


そしてこんな恨み節がそこかしこで聞かれる以上、教師が何の役にも立っていないケースが多いのは明白です。
こうなると教員採用システムからして正しく機能しているのか疑わしい。
「得意な人は不得意な人の気持ちがわからない」が正なら、
「ただ担当教科が得意なだけの人」が教鞭を持ったところで意味は無いわけです。
そういう意味では、教壇に立つに値しない教員もごまんといるのではないでしょうか。
以前も書きましたが、教えるというのはそもそもめちゃくちゃ高度なコミュニケーション能力が必要な作業です。
相手の能力を正しく測り、それと同じ目線で「分かる」を導かなくてはなりません。
少なくとも自分が出会った体育教師たちがそういった能力を兼ね備えていたとは思いがたい。
とはいえこれは理想論でしかなく、実際には大人の都合、学校の治安、サービスとしての教育の限界などなど、
さまざまな問題を内包したうえでいまの形になっているのでしょうが……。
まぁでも結果として人生を破壊された方としてはたまったものではないんですよね。


とまぁ、ちょっと主語が大きくなってしまいましたが、
ともあれ体育という落ちこぼれを追い詰めるシステムによって自分は精神的成熟の機会を逸した、
という仮説は十分に有力だと思っています。
体育というのは成長期に必要な体づくりだけが目的ではなく、コミュニケーション能力や協調性も育む場です。
全然違う世界の人とも協働する機会としては絶好で、社会人になったら同等の機会は仕事(社会活動)しかありません。
その仕事も基本的には属性の近い人とするのが当然で(業種にもよりますが)、
自分のようなホワイトカラーにとっては体育というのは貴重な機会だったと思います。
自分がもし運動音痴でなかったら、いまの自分が欲しい他人観もとっくに身につけていたのかもしれません。
大人になってしまったいまとなってはそれが何だったのかさえ分からないわけですが。


ここまでの仮説が正しいのなら、
冒頭の課題の解決策としては「価値観がまるで異なる人と共同作業をする」というのが
荒療治ではあるものの本件の根本原因を払拭しうる実践として有効のような気もします。
現状、いまの仕事でこれを達成するのは難しそうなので能動的に機会を探す必要がありますが、
果たしてそれが本当に有効なのかどうかはわかりません。
ただ、そうなると2014〜2019年の地方時代のブラック企業勤務は
ある意味本来の体育の授業に匹敵する貴重な体験だったのかもしれません。
そのときの教訓を掘り起こせば、この問題を解決に導く何かがあるのかもしれない……?


#7761

ジャンクな人間関係

Discordの常連サーバーでボイスチャットしていたらきわめて理不尽な形で他人の地雷を踏み、
非常にイライラしつつも寝なければならない時間になったので布団に潜るのですが、
睡眠薬を規定量飲んだにも関わらず(薬が効いていてめちゃくちゃ眠いにも関わらず)03時半まで眠れませんでした。
禁断の3錠目を飲むことでどうにか眠ることはできましたが、やはりストレスは睡眠の大敵であることがわかります。


地雷云々についてはここに何を書いても弁解にしかならないのですが、
ネタのつもりで会話のキャッチボールを投げたら侮辱したものとして受け止められるという、
いわゆる「冗談が通じなかった」系のありがちなトラブルでした。
そもそもネタ自体会話相手に対する侮辱でもなんでもないので会話内容を理解すらせずにキレているとしか考えられず、
あの文脈から悪意を読み取るのは被害妄想もはなはだしいので本当に勘弁してほしいものです。
自分はこの件で、この相手がどうこうというより、誰でも入れるネットコミュニティはときに楽しく感じても
実態としてはジャンクな人間関係でしかないという認識を改めました。
もちろん精力的に活動している人は別であることは強調しておきますが、
しかしこの手の場所はそうではない人も入ってきやすいし拒めないという特徴があるのは事実だと思います。


2024年からはその「ジャンクな人間関係」に半ば依存してきた面もあり、この点もそろそろ改めるべきだと感じました。
当初は入室するのに結構勇気を使ったし、入ってからはそこそこ丁寧に言葉を選んでいたつもりでしたが、
最近はそういうこともなくなってきて悪い意味での慣れを実感しています。
1年首を突っ込んで感じたのは、Discordサーバーにおけるボイチャは必ずしもストレス発散にはならないということ。
れっきとした人間関係としてカウントしない方がいいような気がします。


ここは基本的には共通趣味に関する話をする場であり、それ以外のことは表面的な話に留めるべきです。
ゆえに話したいことが全部話せるわけではありません。
共通趣味に自分がのめり込んでいれば別の話ですが、ガチ勢と違って常にそこまで温度を保てるわけでもないし、
会話相手がいればどうでもいい世間話もしたくなるのが人情というものです。
それが抑制されるというのはかえってストレスなのかもしれません。
共通趣味にのめり込んでいるという前提が欠落しているなら軽率にボイチャルームに入るべきではないのでしょう。


その点では、自分にとってはいまふたたび軽率に入れる系のコミュニティが求められるフェーズなのかも。
過去で言うと2019年の匿名系SNS、2021〜2022年の匿名掲示板がそれに当たりますが、
この手のコミュニティはジャンク度がさらに上がるので触れずに済むならそれに越したことはないと思うんですよね……。
いつぞやに匿名系SNSのボイチャで今回よりもさらにわかりやすい地雷を踏んだことがあり、
どうしてもリアルを介さないネット発の人間関係はこうなりがちという印象があります。


リアル発で2020〜2024年に5年間継続していたゲーム会は1対1で週1回5時間くらい雑談するというものでしたが、
共通してできるゲームが完全に枯渇してしまったためいまは休止しています。
これはゲームという共通項目を用意するという名目はあるものの実態はお互いに話したいことを話す場だったので、
ネットのジャンクな人間関係と比べるとよほど健全かつお互いのストレス発散になっていたと思います。
しかしこれも2024年の末期にはかなり惰性でやっている感覚があったので、
いつかは不本意に一線を越えてしまいトラブルになってもおかしくなかったかも。
大切な相手だからこそ、そうなる前にいったん距離を置いた感じですね。


これらのことから、やはり惰性で人間関係を続けることには多少なりリスクがあるのだと分かります。
自分はおそらく長期の人間関係を築くのが不得手で、そういう面でのコミュ障は克服できていないのかもしれません。
ヤマアラシのジレンマでいうところのトゲが普通の人よりも長かったり鋭かったりする可能性がある。
それは言うなれば潜在的なストレスが溜まりに溜まった結果とも言えるし、
心の負の側面(特にサディスティックな部分)が人よりも濃いと考えることもでき、
いずれにしろ長期の人間関係を構築するための障害になっています。


思えば、現在のライフスタイルでは明確にストレスを発散できる場が存在しないとふと思いました。
それが継続中の人間関係に支障をきたす遠因にもなってそうな気がします。
いわゆる「楽しみにしていること」が現状皆無で、人間関係のみならずすべてが惰性で進行しているなと。
自分で自分の尻を叩いてやるべきことをこなすのも大事ですが、
心が破綻する前にガス抜きの方法も本腰入れて探すべきなのかも。
まぁ、それが簡単に見つかったら苦労しないんですけどね……。