Chrononglyph

教育論

#7774

体育の授業への恨み

去年末の、週イチ開催のゲーム会に陰りが見えてきた辺りから考えるようになった、
「自分は長期(数年単位)で人間関係を維持することに関して克服するべき課題があるのではないか」という気付き。
まず、『性格は悪いとはどういうことか?』という本で
自分にナルシシズムとサディスティックな傾向があることを再確認し(#07725 / 2025年02月09日)、
特に後者が人間関係の健全な維持を妨げているのではないかと考えました(#07772 / 2025年03月28日)。
これはいわば「性格の歪み」であると言えそうなことですが、ではいつどこでこの性格は歪んだのでしょうか。
今回は、ひとつの可能性として体育の授業を挙げてみたいと思います。


去年末、6桁いいねを記録したツイートにこんなものがありました。



ツイッターやってて特に衝撃的だった事件のひとつに、
市民がスポーツする場をつくるNPOの人が
「ツイッターやるまでは学校の体育を恨んでいる人がいるなんて知らなかった」
と「目から鱗」になってたこと。
その人は体育がいちばん楽しかったから、と。
体育へ寄せられる恨み言の数々に呆然とされていた。(@jiro6663)



また今年02月には、ニコニコ動画出身の作曲家であるヒャダインが、体育教育の専門誌『体育科教育』に対して
「体育の授業は大嫌いだ。体育の教師も大嫌いだ」と
真っ向から体育教育を否定するエッセイを寄稿していたことが6年越しに大いに話題になり(Yahoo!ニュース )、
体育嫌いが世に多く存在することを再確認させられました。


運動音痴のヒャダインはみんなの前で走り幅跳びをさせられる、いわば公開処刑を受けた苦い思い出があり、
体育の授業が「人格形成の障害だった」と一刀両断します。
その公開処刑は体育の教師が「できるようになるまでみんなで見守ろう」という好意によるものでした。
「体育が好きだから体育の教師になるわけで、教員に体育嫌いの子の気持ちがわかるわけがない。
だからできない子に対して平気で恥をかかせるようなことをする。
人間は自分が得意なことをできない人を責めがちだ。教育者なら、そのことも配慮しなければならない」と言います。


作家の村上春樹も体育嫌いだったようで、
「体育は人を運動嫌いにするためにあるようなものだと思っていた。
大人になってからスポーツの楽しみを知り、自分は体育が嫌いだが運動は嫌いでないのだと知った」
という旨の経験談を『職業としての小説家』という自伝に書いています。


このように、体育が好きな人とそうでない人の間には確実に隔たりがあり、
後者は少なからず体育というシステムを恨んでいることが分かります。近年は後者の人間が増えているそうです。


さて、お察しの通り自分も運動音痴であり、体育に人生を破壊された一人です。
自分は小学校から高校まで忌引きを除くと1日しか休んでいないのですが、
その1日というのが逆上がりのテストをする日だったんですね。小学校3〜4年生の頃だったと思います。
当時の自分は逆上がりができるような見込みがなく、恥をかかされるのがもう目に見えていました。
もう当時の記憶というのは断片的にしか残っていないのですが、
とにかくできないのが明白だったので教師に怒られ、みんなの笑いものにされるのが恐ろしくてたまりませんでした。
それで親に怒鳴られてもなお断固として学校には行きませんでした。


しかし、いま思えば小学校の逆上がりのテストなんていうのはまだまだ生ぬるい方の地獄だったわけです。
中学校から上はさらに陽キャとの身体能力の差が開いていき、サッカーなどのチーム競技では疎まれるのは当たり前。
これによって中学時代は紛れもない陰キャコースとして歩むことになったのはもちろん、
比較的クラスに溶け込めていたと感じる高校時代も体育の時間だけは毛虫のような扱いを受けていました。
体育はある意味陰キャか陽キャかを区別する分かれ道としても機能していると思います。
運動音痴の陰キャは決して自分だけではなかったわけですが、
体育の教師は常に体育ができる人の味方で、我々も体育を楽しめるような働きかけをしてくれることはありませんでした。
そのため自分はヒャダインの論調に全面的に同意せざるを得ません。


多感な思春期に、大勢の前で屈辱的な目に遭って人格形成に悪影響を及ぼさないはずがありません。
自分がたった1日の欠席で済んだのは本当に運が良かったと思います。引きこもっても全然おかしくなかった。
これは比較的運動音痴からの共感を得やすいであろう体育のみならず、
音楽や美術、図工といった実技系科目全般にも同じようなことが言えると思います。
いや、なんなら座学も十分当てはまりますね。
たとえば体育は大好きだが国語は苦手な脳筋が、国語の音読で簡単な漢字も読めずにみんなから笑いものにされ、
文章を読むということに対してちょっとしたトラウマを植え付けられた結果、
国語力がまったく伸びないまま成人して社会生活に支障をきたす……
というようなケースもあり得るのではないでしょうか。
こうして考えると、そもそも学校という閉鎖社会そのものが差別を助長しかねない構造になっていて、
オールラウンダーを除く多くの人が多かれ少なかれどこかで屈辱的な目に遭っているのではないでしょうか。


そしてこんな恨み節がそこかしこで聞かれる以上、教師が何の役にも立っていないケースが多いのは明白です。
こうなると教員採用システムからして正しく機能しているのか疑わしい。
「得意な人は不得意な人の気持ちがわからない」が正なら、
「ただ担当教科が得意なだけの人」が教鞭を持ったところで意味は無いわけです。
そういう意味では、教壇に立つに値しない教員もごまんといるのではないでしょうか。
以前も書きましたが、教えるというのはそもそもめちゃくちゃ高度なコミュニケーション能力が必要な作業です。
相手の能力を正しく測り、それと同じ目線で「分かる」を導かなくてはなりません。
少なくとも自分が出会った体育教師たちがそういった能力を兼ね備えていたとは思いがたい。
とはいえこれは理想論でしかなく、実際には大人の都合、学校の治安、サービスとしての教育の限界などなど、
さまざまな問題を内包したうえでいまの形になっているのでしょうが……。
まぁでも結果として人生を破壊された方としてはたまったものではないんですよね。


とまぁ、ちょっと主語が大きくなってしまいましたが、
ともあれ体育という落ちこぼれを追い詰めるシステムによって自分は精神的成熟の機会を逸した、
という仮説は十分に有力だと思っています。
体育というのは成長期に必要な体づくりだけが目的ではなく、コミュニケーション能力や協調性も育む場です。
全然違う世界の人とも協働する機会としては絶好で、社会人になったら同等の機会は仕事(社会活動)しかありません。
その仕事も基本的には属性の近い人とするのが当然で(業種にもよりますが)、
自分のようなホワイトカラーにとっては体育というのは貴重な機会だったと思います。
自分がもし運動音痴でなかったら、いまの自分が欲しい他人観もとっくに身につけていたのかもしれません。
大人になってしまったいまとなってはそれが何だったのかさえ分からないわけですが。


ここまでの仮説が正しいのなら、
冒頭の課題の解決策としては「価値観がまるで異なる人と共同作業をする」というのが
荒療治ではあるものの本件の根本原因を払拭しうる実践として有効のような気もします。
現状、いまの仕事でこれを達成するのは難しそうなので能動的に機会を探す必要がありますが、
果たしてそれが本当に有効なのかどうかはわかりません。
ただ、そうなると2014〜2019年の地方時代のブラック企業勤務は
ある意味本来の体育の授業に匹敵する貴重な体験だったのかもしれません。
そのときの教訓を掘り起こせば、この問題を解決に導く何かがあるのかもしれない……?


#7218

ゆとり教育は成功していた?

今日の出来事教育論

自分は世代的には「ゆとり教育の2世代目」であり、
思春期はマスコミや世間やネットユーザーから「ゆとり世代はバカ」と言われ続けてきました。
いわく円周率は約3で教えられているだの、台形の面積の求め方は教えられていないだの。
ゆとり教育はこれまでの詰め込み教育と学歴偏重を否定するものとして、
新学習指導要領では小中学校は完全週休2日制になり、本人の主体性を尊重することを重要視し、
「総合的な学習の時間」を取り入れるなどの試みがなされました。


しかしその施行後PISA(世界で一斉に行われる、高校1年を対象にした学力テスト)
で日本の国語ランキングが如実に落ちたということで、
「ゆとり教育のせいで子どもたちの読解力が落ちた」とメディアに批判されるようになり、
そこから「ゆとり教育」というのは失敗したものというイメージが付きまとうようになりました。


ところが、いわゆる脱ゆとり教育が始まって久しい昨今、
むしろゆとり教育は成功していたんじゃないかという意見を少なからず目にするようになりました。
批判の根拠とされているPISAのランキング推移の見方に無理があるというものです。
まず国語力低下が指摘された2003年のPISAを受けたのはゆとり先頭世代であり、
それは要するに小中学校のほとんどの期間ゆとり以前の教育を受けてきた世代であって、
1年しかゆとり教育を受けていないのにそれを国語力低下の根拠にするには無理があるだろうと。


そして2008年以降、ゆとり教育をフルに受けてきた世代はむしろ国語力が如実に良くなっている。
さらに「脱ゆとり教育」が浸透してきた近年は国語力はまた落ちている。
このことから、むしろゆとり教育によって読解力は上がっていると言えるのではないかと。
むしろ失敗しているのは「脱ゆとり教育」なのではないかなどとも言われています。
ちなみに理系科目はどの世代も強いそうです。


また、最近はゆとり世代のスポーツ面での活躍が非常に著しいです。
野球界ですでに生きるレジェンド扱いの大谷翔平をはじめ、
フィギュアスケートの羽生くんなんかもゆとり世代です。
昨今はどのスポーツも世界大会における日本代表チームが好調なイメージがあります。
野球は世界の頂点に立ったし、いままであまり注目されなかったラグビーやバスケも好調です。
これは彼らが子どものころ、
詰め込み教育をされずにのびのびとスポーツに打ち込めた結果なのではなかろうかと。
これが本当かどうかはZ世代が中心世代になったら答え合わせができると思います。


もちろん一概には言えませんが、ゆとり教育の不名誉な部分が払拭されつつあるのは良いことです。
というか、こうして考えると当時のメディアによる批判って随分短絡的でひどいですね。
もちろんそれは大衆が若者叩きをしたいからこそ煽動していたのであって、
いまはいまでZ世代叩きに夢中になっているので当時のメディアだけを責めることはできませんが。
「最近の若いもんは……」という論調は太古の昔からあるそうなので、
これはもう人間の抗えない本能なのでしょう。
まあそれはそれとして、ゆとり教育がただただ失敗したわけではないというのは良かった。


#7139

なぜ勉強しなければならないのか

今日の出来事教育論

自分は社会人生活と学校生活を比較すると、圧倒的に社会人生活の方が充実していると思っています。
社会人になってからの方が学ぶことも多いし、まだ自分らしく生きられていると思う。
一方、根暗で非リア充な自分にとって学校生活というのは試練の連続でした。
果たして自分が青春を犠牲にして学校に通う意味はあったのか、いまでも分かっていません。
少なくとも大学以降は時間の無駄だったと思っています。


学校に通い勉強することは社会に出る前のすべての人々に強いられるわけですが、
果たしてそれはすべての人にとって有意義なのでしょうか。
「なぜ学校に通うのか」と「なぜ勉強するのか」は議論の方向性がまるで異なるため、
今回はその後者にスポットライトを当てて少し考えてみたいと思います。


例えば国語は明らかに必要だと分かります。日本語でコミュニケーションするのに必須の知識だから。
ひらがな、カタカナ、常用漢字を習うのはまあ言うまでもないとして、
現代文の行間を読むチカラは文学のみならずいろいろな作品を理解するのに役立つし、
古文漢文はややマニアックな領域ですが日本語の構造や歴史を知るのに有用です。
これを学ばなかったら自分の想いを言語化し相手に伝えることができない。
それは明らかに生活に支障をきたすので義務教育として教える意義は大きいと思います。


算数・数学も対象が言語ではなく論理や抽象的概念に代わっただけで重要度はあまり変わりません。
よく二次方程式なんて習っても社会で使う機会が無いなどと言われますが、
パズルを解くチカラが大事なのであってパズルそのものを知ることが重要ではないわけです。
論理的思考ができないと感情的に判断せざるを得ないことがあり、
感情というのは非合理的なことも多いのでそれで人生損することはあるでしょう。
その意味では論理的思考を身につけることは有意義だと思います。
国語と算数・数学は人としてのスキルの問題なので、
QOLを上げたいならスキルは高めておくに越したことはないでしょう。


では、理科や社会や英語、あるいはゆとり教育にあった「総合的な学習」は?
これらは「日常生活に必須のスキル」と断言するにはやや苦しいところがあると思います。
社会に関しては、道徳(倫理)や法律の仕組みを次世代に教えるのは社会としては重要だし、
それを教えるためには日本史もある程度紐解かなければならないというのは分かる。
ただ、先史時代から教えることが妥当なのかと言われるとイマイチ分からない。
理科全般は自分には縁遠すぎてちょっとよく分からないですね。必修科目である必要あるんだろうか?
英語も大事だと言われていますが、果たして社会人になってからそれを活用できるのは何人なのか……。
これも必修ではなく上級国民の子どもだけでいいような気がします。
総合的な学習に至ってはいまだに何がしたかったのかよく分かりません。
これは学習指導要領を読んでみないとなんとも言えないですが、必要かと言われると微妙のような。


このように、実用性で考えるとどうしても必要な科目とそうでない科目が出てくるわけです。
こういう切り口で説明しようとすると全教科の有用性を証明しなければならないため、
説明する方も大変だし理解する方も大変でしょう。
ただ、結局のところ各教科の実用性や意義をきちんと説明することが大事なのではないかと思います。
表題のようなテーマを教えるときは大抵「みんなで学ぶことに意味があるから」
みたいな曖昧なところに持っていってなんとなく納得させるのが楽といえば楽ですが、
それで子どもたちが納得できるのかと言われると微妙だと思います。
そこは大人が逃げちゃいけないところなんじゃないかなと。


勉強そのものが嫌いだと言う子どもはそもそも各教科の実用性は関係なく、
それはどちらかというと「なぜ学校に行かなければならないのか」という疑問を解消する必要があります。
これはもうこのテーマとは180度違う問題なのでここでは取り上げませんが、
いずれにしろ学校に通うことを有意義だと実感しつつ登校できるのは結構幸せなことだと思います。
自分はその意義にこの歳になっても気づけていないので、
だからこそこの学歴も必然的なものなんでしょう。