Chrononglyph

社会批判

#7794

個人主義が行き着く壁

養老孟司『人生の壁』(新潮新書、2024年)を読みました。
養老さんは『バカの壁』(#05847 / 2019年12月22日)で有名な解剖学者兼エッセイストですが、
自分にとっては実は去年他界した祖父と同い年の有名人でもあります。
養老さんも去年肺がんにかかり、もうさすがに長くないと観念しているそうです。
そして『遺言』に続き刊行された、人生をざっくばらんに振り返ったエッセイがこちらの著作。
全体の要約は作りませんが、気になった点を2点ピックアップしてみます。



たとえばアフガニスタンの復興に人生を捧げた中村哲さん は、
もともとは虫が好きで蝶を求めてアフガニスタンに行ったことで、現地と縁ができました。
その後、医者として同国に赴任し、調べていくうちに、
問題は個々の患者ではなく、インフラなど現地の環境にあると気づく。
そして見捨てられた農地をよみがらせるためには、水を引かなければと考えて、実行に移すわけです。
結果として、中村さんがやったことは立派な偉業です。
しかし彼自身は、偉業を成し遂げようとしていたわけではない(…)はずです。
本人が日々、やらなければならないこと、目の前にあることを片付けていくうちに、
到達したのがそこだったということです。
(中略)
仕事の本質は、目の前の穴を埋めることです。(…)ここを理解していない人がとても多いのです。
仕事というのはあらかじめ存在しているものだというのは勘ちがいです。
そういう勘ちがいをする人はともすれば、上司や会社に「私の仕事を定義してください」
などと求めることになる。
まず存在しているのは「穴」の方です。需要と言ってもいいでしょう。
自分のやりたいことが先にあるのではなく、求められることが先にある。(pp.34-35)




ドイツの若い哲学者でトーマス・メッツィンガーという人がいます。
彼は著書の中で、自己とはトンネルである、と述べています(『エゴ・トンネル 心の科学と「わたし」という謎』)。
(…)要は、自分なんて空っぽだというのです。面白いのは、この考えが老子と共通している点です。
現代人、とくに若い人は、おそらくトンネルの中身があると、よく考えないで信じ込んでしまっているのではないか、
と思います。その中身のほうを「自分」と呼んで、実体があると思い込んでいる。(…)
確固とした「個性」があり、それこそが自分の本質だと考えている。でも、実はそうではなくてあるのは壁だけ、
確実にあるのは身体のほうです。
(中略)
(京都アニメーション放火事件の)被告は一心に自分の存在を主張していたように見えます。
自分はここにちゃんと存在していて、やろうと思えばこんなに大きなことができるのだ、と。
自分の重みを必死にアピールしているのです。前提には、自分には何らかの重みがあるはずだ、
あるべきだという考えがあるのでしょう。(…)
他人と接点を持つのは煩わしいことですが、そのおかげで自然と自分の重みを感じることができるのです。
お祭りの時に「お前が抜けると、神輿を担ぐときに他の人が重くて仕方ないだろう」と言われる。
つまり他人と付き合えば、自分の存在には自然と重みを与えられる。
しかし他人との関係が希薄になればなるほど、自分で勝手に重みを作りたがってしまう。(pp.63-67)



この本が一貫して重視しているのは、1947年の民法改正によって「家制度」が廃止されたことが、
平和憲法よりも日本人の生き様に強い影響(主には悪影響)を与えたのではないか、という意見です。
つまり家という最小の共同体が否定される社会になり、
過剰な個人主義になったことで日本という国の歯車がどこか狂ってきているのではないか、と。
そして養老さんは最終的に「家は持った方が良い」と締めています。
家の中でも分かり合えないことはあるが、他者の無理解はいまに始まったことではない。
そもそも人と人は分かり合えないわけで、
それでも共同体さえあればその中で自分の役割(重み)を確かに持つことができる。
完全に個人として生きると、そういったものも持つことができない。
家制度が廃止されたこの世の中において、
社会が(家の代わりに)何かを与えてくれるものと期待することがそもそも大きな勘違いだということです。
それは中村哲さんの話もそうだし、放火事件の話もそう。


戦中世代の養老さんは、幼少期に終戦を迎え、昨日まで正しいことを言っていると思っていた先生が
今日から突然教科書に墨を塗れと言い出すなど、価値観の大転換を目の当たりにしてきました。
それゆえに、夢(将来の見通し)がなければならないというような風潮が理解できないと言います。
南海トラフ大地震や世界情勢の悪化で価値観の大転換が起きれば、そんな夢想は泡と消えます。
そういうことがいつ起こるか分からない世の中になってきている。
政治や世論は、そういった「いつ起こるか分からない危機」にもう少し目を向けてもいいのではないかと。


こういった戦中世代の話はとても貴重で、いまの価値観を全体的に俯瞰する良い機会になります。
思えば、祖父とそういう話が全然できなかったのは孫として大きな損失だったと言えるのかもしれません。


#7774

体育の授業への恨み

去年末の、週イチ開催のゲーム会に陰りが見えてきた辺りから考えるようになった、
「自分は長期(数年単位)で人間関係を維持することに関して克服するべき課題があるのではないか」という気付き。
まず、『性格は悪いとはどういうことか?』という本で
自分にナルシシズムとサディスティックな傾向があることを再確認し(#07725 / 2025年02月09日)、
特に後者が人間関係の健全な維持を妨げているのではないかと考えました(#07772 / 2025年03月28日)。
これはいわば「性格の歪み」であると言えそうなことですが、ではいつどこでこの性格は歪んだのでしょうか。
今回は、ひとつの可能性として体育の授業を挙げてみたいと思います。


去年末、6桁いいねを記録したツイートにこんなものがありました。



ツイッターやってて特に衝撃的だった事件のひとつに、
市民がスポーツする場をつくるNPOの人が
「ツイッターやるまでは学校の体育を恨んでいる人がいるなんて知らなかった」
と「目から鱗」になってたこと。
その人は体育がいちばん楽しかったから、と。
体育へ寄せられる恨み言の数々に呆然とされていた。(@jiro6663)



また今年02月には、ニコニコ動画出身の作曲家であるヒャダインが、体育教育の専門誌『体育科教育』に対して
「体育の授業は大嫌いだ。体育の教師も大嫌いだ」と
真っ向から体育教育を否定するエッセイを寄稿していたことが6年越しに大いに話題になり(Yahoo!ニュース )、
体育嫌いが世に多く存在することを再確認させられました。


運動音痴のヒャダインはみんなの前で走り幅跳びをさせられる、いわば公開処刑を受けた苦い思い出があり、
体育の授業が「人格形成の障害だった」と一刀両断します。
その公開処刑は体育の教師が「できるようになるまでみんなで見守ろう」という好意によるものでした。
「体育が好きだから体育の教師になるわけで、教員に体育嫌いの子の気持ちがわかるわけがない。
だからできない子に対して平気で恥をかかせるようなことをする。
人間は自分が得意なことをできない人を責めがちだ。教育者なら、そのことも配慮しなければならない」と言います。


作家の村上春樹も体育嫌いだったようで、
「体育は人を運動嫌いにするためにあるようなものだと思っていた。
大人になってからスポーツの楽しみを知り、自分は体育が嫌いだが運動は嫌いでないのだと知った」
という旨の経験談を『職業としての小説家』という自伝に書いています。


このように、体育が好きな人とそうでない人の間には確実に隔たりがあり、
後者は少なからず体育というシステムを恨んでいることが分かります。近年は後者の人間が増えているそうです。


さて、お察しの通り自分も運動音痴であり、体育に人生を破壊された一人です。
自分は小学校から高校まで忌引きを除くと1日しか休んでいないのですが、
その1日というのが逆上がりのテストをする日だったんですね。小学校3〜4年生の頃だったと思います。
当時の自分は逆上がりができるような見込みがなく、恥をかかされるのがもう目に見えていました。
もう当時の記憶というのは断片的にしか残っていないのですが、
とにかくできないのが明白だったので教師に怒られ、みんなの笑いものにされるのが恐ろしくてたまりませんでした。
それで親に怒鳴られてもなお断固として学校には行きませんでした。


しかし、いま思えば小学校の逆上がりのテストなんていうのはまだまだ生ぬるい方の地獄だったわけです。
中学校から上はさらに陽キャとの身体能力の差が開いていき、サッカーなどのチーム競技では疎まれるのは当たり前。
これによって中学時代は紛れもない陰キャコースとして歩むことになったのはもちろん、
比較的クラスに溶け込めていたと感じる高校時代も体育の時間だけは毛虫のような扱いを受けていました。
体育はある意味陰キャか陽キャかを区別する分かれ道としても機能していると思います。
運動音痴の陰キャは決して自分だけではなかったわけですが、
体育の教師は常に体育ができる人の味方で、我々も体育を楽しめるような働きかけをしてくれることはありませんでした。
そのため自分はヒャダインの論調に全面的に同意せざるを得ません。


多感な思春期に、大勢の前で屈辱的な目に遭って人格形成に悪影響を及ぼさないはずがありません。
自分がたった1日の欠席で済んだのは本当に運が良かったと思います。引きこもっても全然おかしくなかった。
これは比較的運動音痴からの共感を得やすいであろう体育のみならず、
音楽や美術、図工といった実技系科目全般にも同じようなことが言えると思います。
いや、なんなら座学も十分当てはまりますね。
たとえば体育は大好きだが国語は苦手な脳筋が、国語の音読で簡単な漢字も読めずにみんなから笑いものにされ、
文章を読むということに対してちょっとしたトラウマを植え付けられた結果、
国語力がまったく伸びないまま成人して社会生活に支障をきたす……
というようなケースもあり得るのではないでしょうか。
こうして考えると、そもそも学校という閉鎖社会そのものが差別を助長しかねない構造になっていて、
オールラウンダーを除く多くの人が多かれ少なかれどこかで屈辱的な目に遭っているのではないでしょうか。


そしてこんな恨み節がそこかしこで聞かれる以上、教師が何の役にも立っていないケースが多いのは明白です。
こうなると教員採用システムからして正しく機能しているのか疑わしい。
「得意な人は不得意な人の気持ちがわからない」が正なら、
「ただ担当教科が得意なだけの人」が教鞭を持ったところで意味は無いわけです。
そういう意味では、教壇に立つに値しない教員もごまんといるのではないでしょうか。
以前も書きましたが、教えるというのはそもそもめちゃくちゃ高度なコミュニケーション能力が必要な作業です。
相手の能力を正しく測り、それと同じ目線で「分かる」を導かなくてはなりません。
少なくとも自分が出会った体育教師たちがそういった能力を兼ね備えていたとは思いがたい。
とはいえこれは理想論でしかなく、実際には大人の都合、学校の治安、サービスとしての教育の限界などなど、
さまざまな問題を内包したうえでいまの形になっているのでしょうが……。
まぁでも結果として人生を破壊された方としてはたまったものではないんですよね。


とまぁ、ちょっと主語が大きくなってしまいましたが、
ともあれ体育という落ちこぼれを追い詰めるシステムによって自分は精神的成熟の機会を逸した、
という仮説は十分に有力だと思っています。
体育というのは成長期に必要な体づくりだけが目的ではなく、コミュニケーション能力や協調性も育む場です。
全然違う世界の人とも協働する機会としては絶好で、社会人になったら同等の機会は仕事(社会活動)しかありません。
その仕事も基本的には属性の近い人とするのが当然で(業種にもよりますが)、
自分のようなホワイトカラーにとっては体育というのは貴重な機会だったと思います。
自分がもし運動音痴でなかったら、いまの自分が欲しい他人観もとっくに身につけていたのかもしれません。
大人になってしまったいまとなってはそれが何だったのかさえ分からないわけですが。


ここまでの仮説が正しいのなら、
冒頭の課題の解決策としては「価値観がまるで異なる人と共同作業をする」というのが
荒療治ではあるものの本件の根本原因を払拭しうる実践として有効のような気もします。
現状、いまの仕事でこれを達成するのは難しそうなので能動的に機会を探す必要がありますが、
果たしてそれが本当に有効なのかどうかはわかりません。
ただ、そうなると2014〜2019年の地方時代のブラック企業勤務は
ある意味本来の体育の授業に匹敵する貴重な体験だったのかもしれません。
そのときの教訓を掘り起こせば、この問題を解決に導く何かがあるのかもしれない……?


#7191

子沢山は居づらい社会

今日の出来事社会批判

自分が住んでいる多摩地域はベッドタウンとしての性格が強く、それゆえ子どもが多いです。
この街に住んでいると少子化問題なんて別の国の話なのではないかと思うくらいです。
ほとんどの親子に問題は見られないのですが、
昨今ネット上でよく問題になる「毒親」のような親もたまに見かけます。
子どもを論理的に詰めて困らせている母親が多いですね。
さすがに暴力は見たことがないですが、そんなことしたら即通報されるのが現代です。
そしてほとんどの親子は親1〜2人+子1人という組み合わせが多いです。
まれに2人連れている親も見かけますが、3人というのは見たことがない。
しかし先日、初めて3人以上連れている親子を発見しました。


ガパオライスを食べに牛丼チェーンの松屋へ行ったら、
テーブルを3台占拠した親子が談笑していました。
かなり若いママ2人はおそらくママ友の類なのでしょう、そしてそれらの子どもが5人。
2世帯で5人なのでどちらかは必ず3人以上です。
それがまーうるさいのなんの。7人が周りの目を気にせず大ボリュームでしゃべるわけですからね。
加えて、ママ友2人は終始ジャニーズの話に夢中で子どもには目もくれない。ほぼ放置状態です。
かと思えば、トイレに行きたいと一人がせがむと
「ああ? 本当にトイレなの? 本当なんでしょうね?」となぜかキレだす始末。
そんなことで責める必要あるんでしょうか。ああ、これが毒親ってやつなのか……と思うと同時に、
自分にはこの厳しいコンプライアンスの世の中で子育てするのは絶対無理だと改めて思いました。


昭和〜平成中期までは多産も珍しくないのでこういう光景は市民も慣れていたのかもしれません。
しかし、いまとなってはそんな状況はレアもレアなわけです。
そしてレアケースだからこそ実際に出くわすとけっこう不快感というか、抵抗感が強い。
あんなに公共の場で騒いでいたらどこかでトラブルになるに決まっています。
そして、親がそれを避けたいと周囲の人を慮って神経を尖らせていたとしてもどうにもならない。
叱ったり殴ったりしたらそれはそれでまた問題になるからです。


そういう、求められる倫理と子どもの特性の矛盾した状態での板挟みの結果が、
ああいう毒親体質というか、放任体質につながっていくのでは……と少し思いました。
まあそれにしても松屋みたいな格安飲食店に来て子ども5人放置してジャニーズの話すんなよ……
とも思いましたが。


こう考えると保育士って本当にすごい職業ですよね。
現代人がなるべく避けたい子どもの喚き声を一身に引き受けてくれるのですから。
その保育士が生きていくのも精一杯なくらい待遇が悪かったり、
老人たちに保育園の建設を猛反対されて断念したりしているのは本当に現代の闇だと思います。
自分さえ良ければそれでいい、という価値観の世の中で子育てをするのはあまりにも息苦しい。