体育の授業への恨み
去年末の、週イチ開催のゲーム会に陰りが見えてきた辺りから考えるようになった、
「自分は長期(数年単位)で人間関係を維持することに関して克服するべき課題があるのではないか」という気付き。
まず、『性格は悪いとはどういうことか?』という本で
自分にナルシシズムとサディスティックな傾向があることを再確認し(#07725 / 2025年02月09日)、
特に後者が人間関係の健全な維持を妨げているのではないかと考えました(#07772 / 2025年03月28日)。
これはいわば「性格の歪み」であると言えそうなことですが、ではいつどこでこの性格は歪んだのでしょうか。
今回は、ひとつの可能性として体育の授業を挙げてみたいと思います。
去年末、6桁いいねを記録したツイートにこんなものがありました。
ツイッターやってて特に衝撃的だった事件のひとつに、
市民がスポーツする場をつくるNPOの人が
「ツイッターやるまでは学校の体育を恨んでいる人がいるなんて知らなかった」
と「目から鱗」になってたこと。
その人は体育がいちばん楽しかったから、と。
体育へ寄せられる恨み言の数々に呆然とされていた。(@jiro6663)
また今年02月には、ニコニコ動画出身の作曲家であるヒャダインが、体育教育の専門誌『体育科教育』に対して
「体育の授業は大嫌いだ。体育の教師も大嫌いだ」と
真っ向から体育教育を否定するエッセイを寄稿していたことが6年越しに大いに話題になり(Yahoo!ニュース )、
体育嫌いが世に多く存在することを再確認させられました。
運動音痴のヒャダインはみんなの前で走り幅跳びをさせられる、いわば公開処刑を受けた苦い思い出があり、
体育の授業が「人格形成の障害だった」と一刀両断します。
その公開処刑は体育の教師が「できるようになるまでみんなで見守ろう」という好意によるものでした。
「体育が好きだから体育の教師になるわけで、教員に体育嫌いの子の気持ちがわかるわけがない。
だからできない子に対して平気で恥をかかせるようなことをする。
人間は自分が得意なことをできない人を責めがちだ。教育者なら、そのことも配慮しなければならない」と言います。
作家の村上春樹も体育嫌いだったようで、
「体育は人を運動嫌いにするためにあるようなものだと思っていた。
大人になってからスポーツの楽しみを知り、自分は体育が嫌いだが運動は嫌いでないのだと知った」
という旨の経験談を『職業としての小説家』という自伝に書いています。
このように、体育が好きな人とそうでない人の間には確実に隔たりがあり、
後者は少なからず体育というシステムを恨んでいることが分かります。近年は後者の人間が増えているそうです。
さて、お察しの通り自分も運動音痴であり、体育に人生を破壊された一人です。
自分は小学校から高校まで忌引きを除くと1日しか休んでいないのですが、
その1日というのが逆上がりのテストをする日だったんですね。小学校3〜4年生の頃だったと思います。
当時の自分は逆上がりができるような見込みがなく、恥をかかされるのがもう目に見えていました。
もう当時の記憶というのは断片的にしか残っていないのですが、
とにかくできないのが明白だったので教師に怒られ、みんなの笑いものにされるのが恐ろしくてたまりませんでした。
それで親に怒鳴られてもなお断固として学校には行きませんでした。
しかし、いま思えば小学校の逆上がりのテストなんていうのはまだまだ生ぬるい方の地獄だったわけです。
中学校から上はさらに陽キャとの身体能力の差が開いていき、サッカーなどのチーム競技では疎まれるのは当たり前。
これによって中学時代は紛れもない陰キャコースとして歩むことになったのはもちろん、
比較的クラスに溶け込めていたと感じる高校時代も体育の時間だけは毛虫のような扱いを受けていました。
体育はある意味陰キャか陽キャかを区別する分かれ道としても機能していると思います。
運動音痴の陰キャは決して自分だけではなかったわけですが、
体育の教師は常に体育ができる人の味方で、我々も体育を楽しめるような働きかけをしてくれることはありませんでした。
そのため自分はヒャダインの論調に全面的に同意せざるを得ません。
多感な思春期に、大勢の前で屈辱的な目に遭って人格形成に悪影響を及ぼさないはずがありません。
自分がたった1日の欠席で済んだのは本当に運が良かったと思います。引きこもっても全然おかしくなかった。
これは比較的運動音痴からの共感を得やすいであろう体育のみならず、
音楽や美術、図工といった実技系科目全般にも同じようなことが言えると思います。
いや、なんなら座学も十分当てはまりますね。
たとえば体育は大好きだが国語は苦手な脳筋が、国語の音読で簡単な漢字も読めずにみんなから笑いものにされ、
文章を読むということに対してちょっとしたトラウマを植え付けられた結果、
国語力がまったく伸びないまま成人して社会生活に支障をきたす……
というようなケースもあり得るのではないでしょうか。
こうして考えると、そもそも学校という閉鎖社会そのものが差別を助長しかねない構造になっていて、
オールラウンダーを除く多くの人が多かれ少なかれどこかで屈辱的な目に遭っているのではないでしょうか。
そしてこんな恨み節がそこかしこで聞かれる以上、教師が何の役にも立っていないケースが多いのは明白です。
こうなると教員採用システムからして正しく機能しているのか疑わしい。
「得意な人は不得意な人の気持ちがわからない」が正なら、
「ただ担当教科が得意なだけの人」が教鞭を持ったところで意味は無いわけです。
そういう意味では、教壇に立つに値しない教員もごまんといるのではないでしょうか。
以前も書きましたが、教えるというのはそもそもめちゃくちゃ高度なコミュニケーション能力が必要な作業です。
相手の能力を正しく測り、それと同じ目線で「分かる」を導かなくてはなりません。
少なくとも自分が出会った体育教師たちがそういった能力を兼ね備えていたとは思いがたい。
とはいえこれは理想論でしかなく、実際には大人の都合、学校の治安、サービスとしての教育の限界などなど、
さまざまな問題を内包したうえでいまの形になっているのでしょうが……。
まぁでも結果として人生を破壊された方としてはたまったものではないんですよね。
とまぁ、ちょっと主語が大きくなってしまいましたが、
ともあれ体育という落ちこぼれを追い詰めるシステムによって自分は精神的成熟の機会を逸した、
という仮説は十分に有力だと思っています。
体育というのは成長期に必要な体づくりだけが目的ではなく、コミュニケーション能力や協調性も育む場です。
全然違う世界の人とも協働する機会としては絶好で、社会人になったら同等の機会は仕事(社会活動)しかありません。
その仕事も基本的には属性の近い人とするのが当然で(業種にもよりますが)、
自分のようなホワイトカラーにとっては体育というのは貴重な機会だったと思います。
自分がもし運動音痴でなかったら、いまの自分が欲しい他人観もとっくに身につけていたのかもしれません。
大人になってしまったいまとなってはそれが何だったのかさえ分からないわけですが。
ここまでの仮説が正しいのなら、
冒頭の課題の解決策としては「価値観がまるで異なる人と共同作業をする」というのが
荒療治ではあるものの本件の根本原因を払拭しうる実践として有効のような気もします。
現状、いまの仕事でこれを達成するのは難しそうなので能動的に機会を探す必要がありますが、
果たしてそれが本当に有効なのかどうかはわかりません。
ただ、そうなると2014〜2019年の地方時代のブラック企業勤務は
ある意味本来の体育の授業に匹敵する貴重な体験だったのかもしれません。
そのときの教訓を掘り起こせば、この問題を解決に導く何かがあるのかもしれない……?