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社会参加の問題

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#8173

二度目の存続危機

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#7927

ニーズの範囲

直近のキリ番記事では「ニーズに対して貢献しようとする意志の無い活動は無責任であり、不毛である」
というような利己的活動に対する批判を展開しました(#07900 / 2025年08月02日)。
承認欲求を求めるような「結果的に認められるかどうかわからない活動」は単なるギャンブルであり、
ニーズについて考慮しないような活動は「誰にも求められていない」という側面を否定できないのだと。
だからこそ、しっかり社会的需要を把握してそのために責任ある活動をすべしという方針です。
これは「自分さえ良ければ」という方針で
自分のシマで自分にしか分からないコンテンツを展開してきた従来(2003〜2012年ごろ)のネット活動を
ほとんど全否定する言説であり、
そういう意味では半ば自虐的なエッセイと言うこともできます。
ただ、だからこそ今後20年の活動方針を見定めようとする意志を強く反映したつもりでもあります。


キリ番記事はその時点の思想のスナップショットとしての意味合いが強くありますが、
たいてい1本書き上げるとそこから新たなツッコミどころがたくさん出てきます。
そのため、テーマとしては1本で完全に完結することはなく、後続の記事で補足することになる場合がほとんどです。
特にここ1〜2年はそういう傾向が強いと思っています。
未完成で出しているというよりは、あるテーマについて一通り考えると新たな扉に行き着く感じですね。
さて、今回はどういう新しい扉が見つかるのか。


ひとつの可能性として提示できるのは、「ニーズの範囲」です。
つまり、昔の自分はニーズ(誰に見せるか)を考慮していなかったので
「誰にも求められていない」という側面を否定できず、
だからこそ責任も生まれないし、責任が生まれないからモチベーションも続かなかった。
ネット社会も現実社会と同じように責任の上で活動すべきという考えに基づくと、それは確かに不毛だと言えます。
他人との関係性をいっさい持たなかったら、どんなに有能な仕事をしても意味はありません。
フリーランスもアルバイトも正社員も、想定する「お客さん」あっての仕事です。
これはネット活動も同じで、web制作活動をするなら訪問者を想定する必要があるはずです。


では、ここでいうニーズとはどの程度のことを言うのか?
「ネット社会全体」に対してニーズが無いからダメというのはいささか乱暴な気がします。
たとえばSNSをやっているからといってバズらなかったら価値が無いというのは暴論だということです。
つまり「いいねの数」などのように数で数えるようなものではない。
そこには必ず人間関係があり、要するに大小様々なコミュニティが形成されていると考えることができます。
必ずしも言語コミュニケーションが発生するとは限りませんが、確かにそこには人間関係がある。


こう考えると、「従来型活動」をしていた自分の不毛さの正体というのは、
ピクミン活動以外はすべて「コミュニティに属していない」というのがその原因だったと指摘できます。
「好きなゲームの特集サイトを作る」系の企画が当てはまりますね。
要するに、部員1人で活動していた。だから不毛だし報われないし、社会的意義も見出せなかった。
ネットですらコミュ障ムーブをしていたのがそもそもダメだったということです。
ブログも3代目中期までは訪問者がいるという自覚は持てていました。
しかし3代目末期の非公開運営でこれも断ち切れたので実質これも部員1人と言えるでしょう
(現に4代目以降、アクセス数は激減しています)。
また、やはりブログを見ていると公言していた人と絶縁してしまったのがこの点では致命的になったのだと思います。
だからこそ活動21年目になってこういう問題が頭をもたげてきたのかもしれない。


わずか1人増えて2人になるだけでもそこに小さな社会が形成され、ニーズが発生する余地が生まれるわけです。
もし1人だけだったら自己満足以外にニーズの発生しようがない。
それが従来型活動を続けてきた自分の虚無感を拭えない根底的な原因なのではないかと。
なかなか残酷な結論で、我ながらここまでストレートに書くと心に来るものがありますが……。


もし、これが答えなら直近の言説はひっくり返ります。
ピクミン活動は規模縮小傾向にありインセンティブを十分にもらえないのでもう不毛だと嘆いていましたが、
自分にとってみれば(ブログと違って)それこそが社会的充足感を得られる唯一の可能性でもある。
インセンティブをもらえる・もらえない以前の問題だということです。
少なくとも、ブログ内特集みたいな形で自己満足コンテンツを展開するよりは絶対にそっちに注力した方がいい。
ブログについても、4代目黎明期のいま、ネットの片隅で書き続けると割り切るのではなく、
たった1人でもいいからファンを得られるような立ち回りが求められているのは確かでしょう。
その辺は2026年の課題になると思います。


こういう結論に辿り着くと、自分はやはりどこまで行ってもコミュ障なんだなということを改めて実感します。
社会人になって長い月日が経ち、もうそんな自覚は吹き飛んでいましたが根底はずっと変わっていないんだなと。
そして昨今の悩みは結局意欲の問題に行き着き、
ここで書いたことを鑑みるに2020年の結論(#05971 / 2020年04月25日)がこの悩みの答えなのかもと思います。
こう考えると、この6年間自分は堂々巡りを繰り返していただけだったのか……?


#7900

ビジネスの話

中高生時代からそれなりの期間、
僕にとってネット活動と言えば「自分のテリトリーで好きなゲームについて発信すること」だった。
本当に無邪気に発信していたのは黎明期だけで、
通り一遍の攻略情報などのように誰もがプレイヤーに求めるような情報は
2000年代中期までは個人サイトが担っていたこともあったが、まもなく有志によるWikiが主流になり、
やがてはそれさえも企業系Wikiによって駆逐されていった。
僕はそれを個人サイトが担っていた時代でさえ、本心では競合サイトに情報の質で勝てるとは思っていなかった。
そこで、「自分が好きなゲームランキング」「ゲームレビュー」といった自分本位な情報発信にシフトしていった。
やがてゲームそのものへの熱量がある程度落ち着いていくと、日記という体のブログに専念するようになる。
そうしてこのブログは、もともとゲームの攻略等情報を取り扱うサイトから徐々に遷移してきた歴史がある。


果たして、僕は何がしたかったのだろうか?
少し前、ゲームをダシにした活動は「興味関心を承認欲求のエサに還元する愚行」として批判した(#07734 / 2025年02月18日)。
しかし、僕は本当にゲームをエサにしてまで承認欲求を満たしたかったのだろうか?
つまり、不特定多数から活動の成果について褒められ、認められ、チヤホヤされればそれで満たされていたのだろうか?
僕はそこまで承認欲求不満に陥っていたのだろうか?
これの答えは、いまは「NO」だと思っている。
僕はネット社会でなんらかの「役割」を持ちたかったのだと思う。


不特定多数の承認を求めることは、それがどちらに転ぶか分からないという点でギャンブルである。
成果が「ゼロ」になるかもしれないギャンブルに全賭けするのは心理的に困難であり、
失敗すればするほど損失を恐れて活動は萎縮していく運命にある。
一方、自分の活動に対していつもレスポンスをくれる人の存在は活動を盤石にする。
いつしか僕はそういう人との出会いを期待してネット活動に勤しんでいたような側面も否めないが、
それもまた利己的な活動を続けているかぎりは確率的に不毛である(#07800 / 2025年04月25日)。


言われてみれば当たり前のことではあるが、ネット社会も「社会」に過ぎないのだ。
つまり、ニーズがあるからこそ諸活動であるところのビジネス(取引)が成立する。
ニーズに対する考慮が甘い、いわば「自己満足」の活動は社会の役割を探す就職活動のようなものである。
2000年代前半までのネットは、ネット全体がどちらかというと発信者優位でビジネスの場ではなかったかもしれない。
しかし、2025年現在のネット社会は力関係がすっかり逆転している。
であればこそ、ここで活動を盤石にしたいならニーズを求めていくべきだろう。
少し前までの僕は、そういう観点が抜け落ちていたからこそ活動自体がジリ貧の一途を辿っていたのではないか。


ニーズがありビジネスが成立するということは、活動の結果なんらかのリワードがあるということだ。
成果を出してもリワードがもらえない(こともある)のなら、それはビジネスではない。
たとえばWikiを編集してポイントがもらえるなら、それは立派なビジネスである。
ポイントがもらえないタイプのWikiはビジネスというよりはボランティアだろう。
SNSへ投稿して「確実に」いいねがもらえるなら、それもいちおうこの意味でのビジネスと言ってよい。
活動の結果お金がもらえるなら、それはコンテンツを享受した人がコストを支払ってまで楽しみたかったものであり、
相応にニーズがあるものだと納得することができる。


一方で、見返りを当初から求めないような活動は社会において「必要とされていない」という側面を否定できない。
自己満足と割り切り、自分にしかニーズが無いような活動はモチベーションを維持できなくて当然であり、
そんな活動の泥沼に浸かっているかぎり、自分の定めたハードル以上に努力できる見込みも無い。
当然、そういう環境で活動するかぎりハードルも下がっていき活動が大きく進展することもない。
そしてそれは僕にとって従来型のネット活動の姿勢そのものであり、「行き詰まった」と感じるのも当たり前だと思う。
むしろ気づくのが遅すぎたくらいだろう。
ある意味、このブログはニーズを一切考慮しない「従来型活動」の最後の生き残りとも言える。


これから新規活動をするなら、少なくともニーズを追い求める必要があると思う。
仮に当初は見返りを得られないような活動も、長い目で見ればそれを生み出せる見通しは必要だろう。
絵描きやゲーム制作は現時点では高確率で何も得られないという点で「就職活動」のようなものだが、
最低限の独創性さえあれば、それによってニーズを得られるポテンシャルは感じる。
一方で好きなゲームのランキングだけを作るような活動は、
自己アピールに特化しておりニーズを得られる見通しが無いという点で言えば縮退する運命だったのだろう。
無論自己アピールのすべてが無意味とは言わないが、それならそれで必要なクオリティの水準というものがある。
それをも自己満足で済ませてしまう活動者が報われることは少ないだろう。
僕の黎明期から社会人突入くらいまでのネット活動が報われなかったのは努力不足も多分にあるが、
ニーズを把握し、想定するユーザーが満足するレベルまで頑張ろうという見通しを持てなかったことが大きいと思う。


利己的な活動と利他的な活動の違いは、ニーズに対して貢献しようという明確な意志があるかどうかである。
利己的な活動においてクオリティを担保するのは自尊心だけであり、それは客観的評価に晒されることもなく、
したがって社会との整合も無く、それ自体は本人が意味を見出さなければ価値は無いに等しい。
利他的な活動は、それを求める人の期待というハードルが存在する以上、一定の評価水準があり責任がある。
それは結果的に主観的に見てクオリティが相応でなくても、責任を果たしているなら社会的には価値はあると言ってよい。


社会的には、誰にも見せない数千ページの小説よりも市場に出ている一足の下駄の方が価値がある。
社会で役割を持ちたいのなら、その後者を追い求めないのは不合理と言わざるを得ない。
利己的な活動に限界を感じていた僕は、ここに来てようやく、
小学生時代にわだかまっていた「将来の夢とは、あなたがしたい『仕事』のこと」(#03700 / 2014年03月28日
という暗黙の定義に対し、自分なりに溜飲を下げることができたのである。


#7209

やりたい仕事をするのは理想なのか?

2019年に一定の結論を出したかのように見えた「なぜ仕事をするのか」という議題について、
最近また掘り起こす機会が増えてきたように思います。
先日(#07183 / 2023年08月17日)はお金のためにするということは否定することはできないけれども、
お金に困っていない人に仕事を勧めるのは適切なのかということを考えました。


実家にさえ住んでいて親が経済的に裕福ならば、働く必要のない若者は少なくありません。
世の中はそういう人を「自立していない」と叩きたがりますが、
究極的には自立するかどうかは本人の自由であって周囲がどうこう言う話ではないわけです。
しかし、じゃあ働かないことが絶対に正しいのかというとそういうわけでもない。
働かず実家暮らしだと必然的にできることが大きく制限されます。貯金も減る一方です。
毎月の安定収入があれば実家に住む必要もなくなりその制限を大きく越えられるようになるわけで、
誰しもその制限の向こうにこそ本当にやりたいことがある可能性は否定できないわけです。
そういう意味で、実家暮らしで無収入というのは相当に機会損失を生んでいるのではないかと。


仕事を辞めて経歴に空白ができるたびにキャリアアップの機会が失われ、
それによって加齢に収入が追いつかなくなるなど、無視できないデメリットもあります。
個人的に「貯金がある程度貯まったら無職を謳歌する」という立ち回りの最大の欠点がこれかと。
また、お金を使わないことを美徳とする価値観が身につくことで消費活動が停滞、
必然的に生活の変化が少なくなりライフステージを上げる機会にも恵まれなくなるでしょう。
要は永遠に大学生の夏休みのような生活が続き、良くも悪くもそこから脱出できないわけです。
もちろん、代わりに得られる膨大な自由時間で成し遂げられるもののメリットが、
収入増や経歴にキズをつけないことよりも明らかに大きいのであれば話は別になりますが。


自分は昔から仕事が「やりたいこと」になるのが理想だと思ってきました。
そしてそれは2019年にいちおう実現したのですが、
先日もモチベ低下が深刻化したので面談を受けにいくなど、必ずしも順風満帆ではありません。
なぜこんなことが起きてしまうのかと考えていたら解剖学者の養老孟司が面白いことを言っていました。
曰く、往々にして若者は好きなことを仕事にしたがるけれども、
好きなことを仕事にしたところでそれには必ずやりたくないことも付随してくる。
やりたくないことだけをやらないと言うことはできない。
であればいっそのこと、やらなければならないことを好きになる方が早いのではないかと。
仕事を変えるよりも自分の意識を変えてしまった方が早いと言うんですね。


そんな無茶なと思ったのですが、
確かに言われてみれば「やりたいこと」ってかなり曖昧さを含んだ概念のような気がします。
言ってしまえば単なる個人にとっての理想、妄想でしかないケースも多い気がする。
理想と現実が食い違っていたからといって文句を言うのは筋違いということなのでしょう。
それに、とりあえずやってみたら好きになったというケースも世の中には多くあります。
それがいわゆる「やり甲斐」というやつなのではないでしょうか。
一般に、雇用主がこれをクチにする職場はブラック率が高いと言われますが、
個人が仕事をやってみて能動的にやり甲斐を見出す分には問題は無いし、
みんなそうやってなんだかんだで仕事に適応しているんじゃないかなと。
ただ、現代は職業選択は個人の責任なのでそこが難しいところですね。
選択を委ねられればやっぱり誰だって理想に基づいて職種を選ぶでしょう。
実際にはそこには理想と現実のギャップがあり、それで幻滅してしまう人は多いような気がする。
そこを乗り越えられるかどうかという局面では、「やらなければならないことを好きになる」
という意識を持っているか否かでかなり変わってくるような気がします。


とにかく大事なのは、一度きりの人生で取り返しのつかないことにならないように、
いろいろな可能性を考慮することなんじゃないかと思います。
そのためにもこうやって先人の意見を聞くことが改めて大事なのではないかと思いました。
そろそろ読書習慣も復活させていきたいところですが……。


#7183

お金が要らない人の就職必要性

なぜ仕事をするのかについては最初の会社を辞めたときから度々考えていますが、
自分の中ですっぽりと腑に落ちるような結論にはまだ辿り着いていません。
2019年時点では「仕事をしたいから仕事をする」というのが結論のような気がしていましたが、
当時の夢を叶えて上京しwebエンジニアになったいま、
仕事にそこまでの魅力を感じているかというとそうでもありません。
「無給でもやるのか」と言われたらやっぱりやらないと思います。
つまり、お金のためにやっているという側面を否定することはできていません。
まあ、それはそれで当たり前のことだとは思いますが。


じゃあ、仕事とはお金のためにやることなのか。これは当然「YES」が答えとなります。
それでは、お金に困っていなかったら仕事をする必要は無いのか。
これは意外と難しい問題です。
社会的地位を捨ててある意味後ろめたい存在になる代わりに、圧倒的な時間を得ることができる。
この時代、お金をかけなくても時間さえあればできることは無数にあります。
仕事をしている人よりも無職の方が精力的に活動しているケースもザラにあるでしょう。
その意味で、仕事とは活動という枠組みの一形態でしかないという見方もありえます。
「後ろめたい存在」と軽率なことを書きましたが、
働かなくても生活が満たされていて、生涯独身を受け入れていて、実家が裕福で、
かつ両親が死んで年金が打ち止めになってからも遺産で十分食っていけるのであれば、
それはもう他人が「働け」というのはむしろ野暮だと思います。
ただ、この社会でおそらくそういうケースはかなりまれなのではないかと思っていますが。


5ちゃんねるなどの匿名コミュニティにいる自称底辺がよく言っているのが、
「親が死んだら生活の見通しは立たなくなるが、
そうしたら自殺するか生活保護を受給するから別にいい」
というような主張です。
将来生活保護制度がまともに存続しているのかどうかはさておき、
こういう意見は本質的には問題の先送りをしているにすぎないわけですが、
一方で「無収入でも満足しているので働く意味が無い」という宣言にも聞こえます。
事実お金が無くても生活できているのでこれは「働かざるをえない状態」ではありません。
しかしだからといって仕事をしない方が本人にとって良いのかと言われると、それも違う気がする。
本人が知らない範疇を含めれば、間違いなく安定収入のある生活の方が豊かになる可能性は高いはず。
もちろん、それと対価に差し出す「労働力」「時間」によって生活が壊れる可能性もあるわけで、
往々にして生活保護を希望するような人は
能力的な問題で最低限の仕事さえできないことを自覚しているからこそ、
あえてショーウィンドウの向こう側を見ないようにしている部分もあると思います。
そういう人にまだ知らない裕福な生活を教えるのは残酷なのかもしれません。


ただ、もし健康で体力もあって働けるのであれば、それはやっぱり働いた方がいいのかなと。
世間体とかそういうことをベースに考えるといろいろややこしくなるこの問題ですが、
なんだかんだで適正の仕事に就くというのはコスパが良いと思います。
少なくとも向いていないのにYouTuberになったりポイ活に精を出すよりはマシでしょう。
だから働くのも世間体とか抜きにして、1年働いたらドライブ旅行用のクルマを買いたいとか、
冬ボナでめちゃくちゃ高級なヘッドホンを買いたいとか、そういう動機でいいと思うんです。
預貯金が十分あるのとそうではないのでは、思っている以上に生活の質が変わってくると思います。
ただただ基本無料コンテンツを漁る日々は本人にとっては毎日新鮮かもしれませんが、
お金を出して何かを手に入れる充足感にはかなわないのではないかと思います。
これはすでに働いている社会人も同じで、
生活できているからこれ以上は要らない、ではなく昇給はどんどん求めていっていいと思います。
そうしたら絶対に生活の質は上がるわけですから。
社会人がそうやって欲望に正直になってこそ経済も健全に回るというものです。


なんというか、もっと欲望に正直になってもいいのではないかと思う今日この頃です。
あたかもお金を使わないことを美徳とするような価値観は間違っていると自分は思います。
その辺がうすぼんやりしているからこそ、働く意義を見出せないのかもなと。


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