好きな言葉
「ပန်ကြားသောမျက်နှာ」の名義で知られる〈×××××〉は、国籍不明の前衛音楽家である。
彼は長年のキャリアを経ていま、ようやく認められつつあったが、
認められれば認められるほど深いため息が絶えないようになった。
昔から親交のある私がため息の理由を尋ねてみると、どうも良いアイデアが浮かばないのだという。
彼が言うには、音楽自体はまだまだ作ってみたい世界はあるらしい。
しかし、それに対して付ける良い曲名がさっぱり思い浮かばないと言うのだ。
なにしろ彼の音楽はメロディーがあるような無いような、無機的のようで有機的でもあるような、
とにかく一切の比喩が思い浮かばないほどに独特な世界観なのである。
彼は、その抽象的とも具体的とも言えない世界を音楽に変換することはできても、
「言葉」に変換することができなかった。
「好きな言葉を当てはめていくのはどうだろうか」
私が何気なく言うと、彼はようやくその物憂い頭を上げてこちらを見た。
「好きな言葉?」彼は静かに言う。「それは響きが良いという意味だろうか」
「そう、音声的な意味でも、言葉の定義という意味でも、
君が響きが良いと思える言葉は好きな言葉になり得るだろう」
「あるいは感銘を受けた台詞だとか、利便性の高い言葉という意味だろうか?」
「ああ、より一般的にはそうかもしれない」
「なるほど。それなら私は『確かに』という言葉が好きだ。
あれほど適当に受け答えしたいときに便利な言葉はない」
「確かに」
「しかしそんなものを曲名に使うわけにはいかないな」
「難しく考える必要はないんじゃないか。世の中には『Untitled』という曲もたくさんある」
「確かに」
それからというもの、彼の発表する曲名はすべて意味不明な文字列になった。
彼の熱心なリスナーたちは、その文字列に隠されたメッセージがあると信じて懸命に解読しようとした。
しまいには異なる解釈の対立をめぐって論争が起きるようにもなった。
それから500年が経ったある日、彼の代表作をアナログプレイヤーで聴いている青年がいた。
「ああ、やはり〈×××××〉の音楽は素晴らしい」
そこへ、3歳くらいの女の子がてちてちと歩いてきた。
「また聴いてるの、おとーさん」
「ああ、これは彼の代表作『好きな言葉』だ。素晴らしいだろう、娘よ」
彼は誇らしげに振り返り、娘は首を傾げた。
「よくわかんないよ」
古風なスピーカーからは、何とも言いがたい意味不明な音の洪水が静かに流れていた。
「きっと分かる日が来る。これは彼の〈好きな言葉〉を表現したものだとね。
そういえばおまえの好きな言葉はなんだい、娘よ」
問われた女の子はしばらく指を顎に指して何かを考えていた。父親は満足げにその答えを待った。
やがて女の子は父親の方に向き直り、照れくさそうに笑いながら、
「ありがとう!」 とだけ言った。