表現者の話
生きる意味を自問することは、直感的には不毛な作業であるように思う。
それは客観的に納得感のある単一の答えではあり得ないからだ。
「生き甲斐」「使命」「責任」などと言葉を換えてそれに連想する何かを引っ張り出してみることはできる。
しかし、それが果たして全時代の自分にとっての「生きる意味」だと言い切れるだろうか?
一方で、生きる意味と断言するほどではないものの、
ある物事が自分の人生に深く癒着してどこどこまでもそれを追い求めざるを得ない宿命を感じることもある。
僕にとってそれはなんらかの表現活動である。
それが本能なのか、文化的に生きていることによる必然なのか、自分らしく生きてきた結果なのかは分からない。
けれども僕は、もはやこれのために生きていると感じることが間々ある。
どんなに自分にスキルが無いことを思い知ってもなお、それでも何かを表現したいという気持ちは変わらない。
究極的には、その媒介手段は問われていないのだと思う。
僕は昔から、それこそ幼少の頃から、
頭にある世界をなんらかの媒体として世に出したいとずっと、ずっと願い続けて生きている。
これまでの人生で最大の分岐点だった大学進学の際、限られた選択肢の中で選んだのは文学の道だった。
別に本を読むことが好きだったわけではないし、小説もそれほど読んだわけでもない。
僕がその道を選んだのは、選択肢が限られている中で比較的クリエイティビリティを育めると思ったから、
すなわち「物書き程度なら自分でもなれるのではないか」という自惚れがあったからに他ならない。
そのような大失敗を犯してもなお、しかし表現者になりたいという偽らざる気持ちはいまだにある。
どんなに否定しても否定しきれない巨大な何かがそこにはある。
一方で能力不足からその欲求に対して背き続けて生きてきたことの副作用として、
それにいまさら向き合えないという自尊心もある。
これらの狭間ですべてが中途半端なまま時間だけが過ぎていった。
その狭間にいるからこそ、このブログは20年以上も続けられてきたのではないかと思う。
ブログ記事は何も考えなくても書け、継続できる余地がある。
しかしだからこそ、このレベルに甘んじてきてしまったという側面もあると思う。
2022年くらいまでは、僕にとってブログというものは成果だった。
しかしいまや、ライフワークだと思っているがこれが「成果物」だとは思っていない。
他人に堂々と見せられないものを、表現物の成果としてみなすのは苦しいだろう。
だからこそ、ブログよりも高い次元で何かをクリエイトしたいという機運がここ最近になって急速に高まっている。
それは、ここ近年でどの世界も開かれていると知ったことも大きい。
技術の発展とオタク文化の成長に伴い、
いずれのジャンルも第一歩を踏み出す金銭的な、あるいはその他諸々のハードルはかなり低くなった。
もはやできないことを社会のせいにする余地はなく、あとは自分自身がやるかどうかである。
至れり尽くせりのこの恵まれた環境で、生み出す表現物がブログのみというのはもったいないように思える。
拙くても手を出すことで、この本能らしき欲求が充足されるのかどうかは分からない。
とはいえ、ハードルの下がったさまざまな表現活動は無数にあり、時間はいくらあっても足りない。
今後もそれに人生の多くを費やしていくことだろう。
果たして老齢になって人生の幕引きを考えざるを得なくなった自分は、生きる意味について何を考えるのだろうか?
表現活動に一生を費やしたことに対して、死ぬほど後悔するのだろうか?
少なくとも現時点の僕にとって生きることは意味を見出すほど高尚なものではなく、
したがって表現活動のつまみ食いで消費することもそれはそれで立派な生き方だと思っている。
ただ、そうでない可能性についても常に一考の余地があることを忘れないようにしたい。