承認欲求のエサ
以前、内発的動機づけと外発的動機づけの話を書いたときに、
自分の趣味はもともとは内発的動機づけ(好奇心、有能感、自律性)によって触れるようになった文化が、
いつの間にか外発的動機づけ(報酬)ありきに変貌したものが多い、という話に触れました(#07632 / 2024年11月07日)。
今日はそれについてもう少し掘り下げてみたいと思います。
ここで外発的動機づけが期待する「報酬」とは、ほぼほぼ承認欲求が満たされることです。
これまでの趣味、とりわけネット以後においては、
当初は自己満足でそれ自体を楽しむためにやっていたような活動なのに、
いつの間にか承認欲求を得るためにやっている活動にすり替わってしまった例は枚挙にいとまがありません。
そしてそれは、基本的にはインターネットという媒体の「手軽さ」があってこそなのだろうなと。
あらゆる活動はSNSや動画サイト、あるいはwebサイトという形で承認欲求を満たせる可能性があります。
ただしそれは、同時に熾烈かつ残酷なまでの競争社会でもあります。
これまでの経験則から言って、自分の興味関心をなんらかのコンテンツに換えたとしても、
それによって十分に承認欲求を満たせる可能性はきわめて低いと言わざるを得ません。
そしてこれの厄介なところは、承認欲求を満たすことに失敗すると、
元々それとは関係ない文脈で芽生えたはずの内発的動機づけも萎えてしまうということです。
「他人に認めてもらえないことに夢中になっても仕方がない」ということですね。
これは言うなれば内発的動機づけを片っ端から承認欲求ガチャの課金石に変換しているようなもので、
その当たり確率の低さから明らかに不毛だと言わざるを得ません。
にも関わらず、いまだになんらかの興味関心が芽生えればそれを承認欲求のエサにしようとする自分がいます。
なぜ、あまりにも割に合わないと知りながらもそういう思考プロセスを否定できないのか。
それは、自分にとって外発的動機づけが内発的動機づけと比べてあまりにも強力だからなのだと考えています。
自分はおそらく自己愛的な歪みによって人一倍承認欲求が強く、もはやそれに抗うことは難しいのではないかと。
しかしこれまでの人生経験から、明らかにそうでない人も見てきました。
内発的動機づけが明らかに強く、むしろ承認欲求などの賞罰など興味すら示さないような人も知っています。
なのでこの辺はかなり個人差があり、この問題は自分のような人間に特有の問題なのでしょう。
この点、ネット以前(2003年春以前)はどうだったのかというと、
この当時は家族という承認欲求の解消先がいました。
自分の「成果物」がどんなに稚拙でも否定しない弟や親という存在がいたわけです。
それをもって100%承認欲求が満たされていたと断言はできませんが、ネット以後よりは幸せだったような気がします。
この頃は本当に遠慮容赦なく自分の本能に従って表現活動をしていました。
ネット以後についても、2003〜2009年くらいまではネット文化自体のレベルが低かったこともあり、
まだ個人サイトや動画コンテンツを作って多少なり承認欲求を満たすことはできていたと感じます。
自尊心の肥大化とネット文化のレベル向上でそれもできなくなり、迷走が始まったのはやはりTwitter以後ですね。
とりわけ、キュレーションが発達してレベルの高い成果物を大量に目にするようになった近年が一番ひどいかもしれない。
2018〜2022年のメンヘラ期には、
「自分を認めてくれる人のためにこそ頑張ろう」という精神が芽生えたこともありました。
この考え方には、ネットユーザーの大多数は自分が何をやっても認めてくれないので
ネット活動は不毛だという他者不信的な考えが見え隠れしています。
ただ漠然と努力し成果物を発表したところで結局誰も認めてくれないだろうと。
もちろんこれはネット社会が悪いと言いたいのではなく、
自分の自尊心の大きさとスキルの低さのギャップに原因があるのでしょう。
そういうわけで、内発的動機づけによって取り組んでいる活動は
安易にネット活動とは結びつけない方がいいだろうという教訓があります。
自分の場合、これはゲームに関する活動が当てはまります。
ゲームに関する活動はそれこそネット以前から、ゲームの世界を超えた実績を求めて活動していました。
ゲームのデータベースをノートにまとめるみたいなことを幼少期からやっていました。
20年以上ブログを書いているのも、元を辿ればその伝統に行き着きます。
ゲームで頑張った結果を広く認めてほしいという欲求があるということですね。
ただここで気をつけなければならないのは、
そもそもはゲーム内で過剰なまでに頑張った結果があるからこそ それを他人に知って欲しいという欲求があり、
その欲求を発散することを目的としてやり込みの結果を成果物にするという活動をしていたはずです。
しかし近年、特に動画全盛期は承認欲求を発散するため(ネット活動で自分のネームバリューを高めるため)
にゲームをやり込むというような図式になっていた節がある。
これではゲームそのものを楽しめなくなって当然です。
このことは折に触れて戒めていく必要があるだろうなと思いますが、
それと同時に今更になってこの図式を再逆転させるのは難しいだろうなとも思っています。
趣味活動に他者承認が必ずしも必要でないことは自明のことで、
自分の場合もゲームの次に長い趣味である音楽がそれを証明しています。
音楽(電子音楽界隈)はすごく好きですが、これまでほとんどネット活動に結びつけたことはありません。
あまりにもマイナーで需要が薄く、また言語化が難しい世界だからです。
しかし、ネット活動をしていないから不満かというとそういうわけでもない。
むしろ、音楽という趣味はまだ誰にも否定されたことのない拠り所として、大切な文化として順調に育っています。
ゲームは承認欲求を求め、そして失敗する過程で何度かゲームを好きだという気持ちも否定されてきていて、
心の底からゲームを好きだと言えるかどうかやや疑問なところがあるというのが正直なところです。
しかし音楽に関してはそういう変な自信の無さはない。
その違いはゲームと違って「腕前」が必要ないなどの文化特有の事情もあるでしょうが、
やはり自尊心を否定されうる表舞台で活動していないことが大きいのではないかと思うわけです。
外発的動機づけは非常に強く、おそらく理性で制御できるようなレベルではないと思っています。
なのでこれはこれで今後も個別に対処していく必要があるでしょう。
ただ、内発的動機づけによって生まれた興味関心を承認欲求のエサにするかどうかについては、
心構えによってある程度制御できるような気がしています。
ネット黎明期からわりと近年までは興味関心は何も考えずに承認欲求のエサにしようとしていた節がありますが、
今後はなるべく軽率にエサにしないようにしていきたいというのが最近の所感です。