深刻な悩みは余裕を奪う
仮想通貨の先物取引では短期的には未確定損益がマイナスになることはよくあります。
当然、そのまま利確したら大損なのでマイナスであるというのは嫌な気分になります。
嫌な気分というか、むしろ悪いことをしているような気分といった方が正確かも。
ギャンブルと言ってしまえばそれまでの行為なので背徳感があるのも納得できます。
しかし、だからといって利益を急ぐとそれがかえって損失を拡大することもあるため、
嫌な気分を抑えながらチャートと向き合わなくてはなりません。
先物取引はメンタルが問われるというのは本当にその通りだと思います。
再三書いている通り、仮想通貨をやっているとき、
特に損益がマイナスのときは気持ちがすべてそっちに持っていかれてしまいます。
他のことを並行してできるような精神的余裕はまるでありません。
それは、トレーダーとしては正しいと思っています。
生半可な気持ちで利益は出せないというのはここ1年半で痛感させられてきました。
他のことと並行して利確のときだけポチッと押せば利益になるのならみんなやっています。
この「マイナスのときは背徳感のために他のことを考える余裕さえ無くなる」という体験は、
思い返すと大学時代に似たようなことを散々味わってきたように思います。
以前も大学時代に整理作業ばかりしていたのは現実逃避の表れだったんじゃないか、
という分析をしましたが(#07175 / 2023年08月09日)、そもそも後ろめたさゆえに
「整理作業以外に着手する精神的余裕が無かった」と言う方が適切かもしれません。
整理系作業はあのときの精神状態でできるせいいっぱいだったというわけですね。
そしてこれは実家時代までに長く悩んでいたテーマにもひとつの答えを提示してくれます。
昔から自分はそれが好きでぜひとも着手したいのに、
好きだからこそ着手できない、近付けないというおかしな行動をすることがありました。
最たる例は大学時代の恋愛ですが、恋愛にとどまらず非常に多くの実例があります。
それらのショーウィンドウの向こう側にあるものに対する羨望は確かなもので、
実際にはガラスの向こう側にあるわけでもなく、すぐ触れられる距離にあったものも多くあります。
にも関わらずそれに触れないという非合理な選択をし続けてきたのは、
「理想のそれを、欠点などを知らないまま理想として記憶に留めておきたいから」
というのが12年前に理想恋愛を諦めた自分が出した結論でした。
また、後年の自分は「理想のそれと比較した際に、現実の自分自身があまりにも不甲斐ないから」
という理由を見出したこともあります。今回の結論もその後者に近いです。
要は、単純にそれどころではなかったからなのではないか、というのが現時点の結論です。
本当に好きな何かに触れたい感情は確かにあるけれども、それはあくまで自分個人の話。
一方で、当時の自分は卒論もまともに書けない、バイトもできない等、
大学生としてやるべきことをクリアできていないという後ろめたさがあったわけです。
現在の自分も、先物取引に頼らざるを得ない金銭問題はその範疇に入ると思います。
「やるべきこともやっていないのに私利私欲を満たそうとするのはいけないことだ」
という信念が自分の正義の根底にあるのでしょう。
だから後ろめたい状況であればあるほど、自分の「好き」という感情と向き合えなくなる。
その信念そのものは正しいと思うし、そう考えていればなおのことまず課題と向き合うべきで、
課題と向き合えなかった自分が間違っているというのは確かです。
しかし、そうやって自分自身が達成できない信念によって自由に行動することを阻まれ、
ある種の自己欺瞞に陥って人生を浪費することが必ずしも適切でないこともまた事実です。
単純な話、できないことを信念として掲げることは愚かであるとさえ思います。
信念を否定することが「悪」になるのなら、
大学時代の自分はもっと悪人として生きていた方が人として豊かに生活できていた気がします。
たとえば、思い切って1年留年してみるとか。
例の嫉妬対象として嫌い続けてきた高校時代のいじめられっ子は
社会人として何一つうまくいっていないのに恋愛だけはがっついて結果を出したという点で
自分の信念で計れば「悪」ですが、
一般的な価値観で言えば彼の方が勝ち組であることを否定することはできません。
少なくとも大学時代の充実度は自分よりも彼の方が上回っている気がします。
この信念というものさしは自分の心の中にしか存在しないので、世間はそれを考慮してくれないし、
他人から見れば自分は非合理なことばかりしている愚かな人なのでしょう。
この信念がいつ芽生えたものなのかは分かりません。
親に植え付けられたのか、思春期やそれ以前の人生経験から必然的に発生したものなのか。
確かなのは、今更になって急にそれを無いものとして振る舞うのはもはや不可能だということです。
心の奥底にある信念は古い古い憲法みたいなもので、時代錯誤だとしても根本的な改正は困難です。
であれば、せめてできることは関連法案を作ってサポートしてやることでしょう。
たとえば、「やるべきこと」とはどういうタスクが該当するのかをしっかり定義するとか、
達成困難なタスクがそこに含まれてしまうと自己欺瞞(違憲状態)に陥ってしまうので、
それを避けるための問題解決フローをどう設定するかとか。
もし、いまの自分が大学時代の自分にひとつアドバイスできるとしたらタスクの細分化を勧めます。
「できないこと」も細かく切り分けてみるだけで随分と違った印象を受けるもので、
日頃からそのうちひとつでも実践できていれば
大学時代は自己欺瞞が解消されてまるで変わったものになっていたかもしれません。
当時、このことに気付けなかったことが本当に悔やまれます。
とはいえ、人生100年とすると30代でこのことを見出しただけまだマシなのかも。