Chrononglyph

自己実現の問題

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#8151

本当の余暇の重要性

取引市場で、長いレンジを見ていてなんらかの根拠があってこれは買い(売り)だろうという自信がある場合、
短いレンジのちょっとした下落や上昇に対して動揺することは基本的にありません。
5分足や1分足の値動きというのは砂浜のさざなみのようなもので、常に押したり引いたりするものです。
高波を待っているのなら地平線の向こう、
具体的には根拠としているファンダが本当に正しいのかどうかを注視するべきであって、
足元の動きは大した問題ではないわけです。
しかしそういった情報を持たずに1分足でテクニカル取引をしているような場合、そうはいきません。
ミユビシギ というかわいい鳥は砂浜で波が引いたのを見計らって波が残していったエサを探し回り、
次の波が来ると一斉に逃げ出すというせわしない習性がありますが、
1分足スキャルピングで取引をするような場合はそのように足元のさざなみにも過敏にならざるをえません。


自己実現や日頃の活動と、それに対する心の変化についても似たようなことが言えるのではないかと思っています。
つまり、中長期で何をやりたいのかという見通しが立っているかどうかで、
目先のタスクに対する姿勢、あるいはそのタスクの立て方や、
ネガティブな事態に陥ったときに持ち堪えられるかどうかが根本的に異なるのではないかと。
最初はとても面白いので定期的にやるようになったことも、
ある程度時間が経つとマンネリ感が漂ってきて当初のような面白さを感じられなくなってくる。
そういうときに、「いまはまだ道半ばだけどこの活動をすることで最終的に得るものがある」と信じているのと、
「いつもやっているから」と惰性で着手するのとでは充実感がまるで変わってきます。
それは他人が絡む活動でありがちですが、個人的な活動においてもある程度当てはまりそうです。
ことクリエイティブな活動については、このマンネリ期をどう凌ぐかでその活動の持続可能性がかなり変わってきそう。
短期展望だけで活動していると、容易に波に飲まれてしまうということです。
ミユビシギのように完全にそれに特化するならあるいはそれでも適応できるかもしれませんが、
人は「飽きる」という習性がある以上いかんともしがたいところがあります。


いま、自分は短期的にはややネガティブなマインドに陥っていると自覚しています。
いずれの活動も(読書以外は)新しい展開がなかなか見えて来ず、行き詰まり感が漂い始めたからです。
では長期展望が無いからダメなのかというと、決してそういうわけではありません。
むしろ長期展望があるのに機能していないからこその この悩みです。
週間・月間・年間計画はいちおう形にしているし、年間よりも広いレンジのロードマップもいちおうある。
それに対して「解像度が低い」という指摘はできそうですが、
長期展望をめちゃくちゃ具体的に書けばモチベが回復するわけでもないでしょう。
どちらかというと不足しているのは、それぞれのレンジ同士に納得感のある関連性があるのかどうかなのかもなと。


この週間計画をこなすと月間計画のここを部分的にクリアしたことになる。
ということは年間計画がこれだけ進んで、当初やりたかったことの実現にこれだけ近づく。
というようなイメージができているかどうかが、思っているよりも大切なのではないかということです。
月間計画の進捗に影響を与えない定常的な活動に追われて進捗に寄与することができていないという事実が、
いまの「ややネガティブなマインド」に少なからず影響を与えているんじゃないかなと。
ここでいう「定常的な活動」は一般的には生活を維持するための諸々のタスクや仕事が該当しますが、
自分の場合はそれにブログ執筆も含まれます。運動習慣がある人はそれも含まれるでしょう。
ブログや運動は超長期的な展望に基づく活動とも言えますが、月間計画のような中期レンジとは結びついておらず、
そういう意味で「納得感のある関連性」は見出しにくい活動です。


人はどうしても日々に進展を見出せないと心が閉じていってしまう生き物です。
そしてこの意味の進展は24時間から睡眠食事その他生活維持のための行動、仕事、超長期的な習慣等々を差し引き、
それでも残った自由時間と余力でできることからしか見出せないものなのではないでしょうか。
もちろんこれを厳密に言いすぎるとすべての娯楽を否定しかねないので「ときと場合による」のでしょうが、
こと自分に関してはもう少し中長期的な計画と地続きになっている活動を重視してもいいのかもしれません。


#8135

匿名テスト

ここ3年くらい、主に「独り言」ではネット人格の承認不安の実践的な解決に向けていろいろな角度から考えています。
承認不安についての考察は何度もおさらいしているので割愛しますが、
ここ最近の自分の思想を一言で乱暴にまとめると、ネット活動はよほど卓越していないかぎり基本的に不毛な活動であり、
少なくとも実績ゼロの地点で不特定多数に認められることを前提とした活動はすべきではない、となります。


これは自分のネット活動遍歴のかなりの割合を否定していますが、しかしすべてではありません。
では、どういう活動は不毛で、どういう活動なら不毛ではないのか。
これについては、匿名テストをパスしたならば、その活動は有望であるというのが現時点の答えです。
ここで匿名テストとは、それが誰にも見られなかったとしてもしたいと思えるかどうかを自問して、
はいと答えられるかどうかという検査です。
逆に言えば、活動の結果、その成果がまったく認められないとしてもそれでもやる価値があると思えるかどうか。
もしそうでないなら、その活動はいずれ承認不安との戦いを避けられなくなるという点で不毛だということです。


この匿名テストは0か100かで決まらず、部分的にはそうだけど部分的にはそうじゃない、
ということが往々にしてありえます。
自分の場合、たとえばこのブログはさまざまな紆余曲折を経て誰にも見られなくても継続できる地盤を手にしました。
そういう意味では大部分は匿名テストをパスしているとも言え、伊達に長く続いていないと思います。
ただ、それでも「誰かに認めてほしい」という欲求はもちろんゼロではありません。
むしろ近年は低コストで誰かに認知してもらうチャンスを作れるなら積極的に実施すべきだ、
との思いから数年ぶりに投稿告知Twitterアカウントを復帰するなど、社会からの認知も狙うようになっています。


一方、なかなか手が出ないクリエイティブな活動はやはり他者承認を主目的としている側面を否定できません。
なぜ承認ありきなのかを否定しがたいのか改めて考えてみると、
これは主要プラットフォームに投稿するという前提があるからなのかもとふと思いました。
たとえば小説なら「小説家になろう」、イラストならPixiv、ゲームならSteamに投稿することを考えたとき、
否応なしにその閲覧数、「いいね」数、コメント(レビュー)、DL数などのステータスが作ったモノに結びついてしまう。
せっかく作ったモノのステータスがよりよいに越したことはないわけで、
つまり何らかのプラットフォームに投稿した時点で他者承認を重視せざるをえなくなるからなのではないかと。
本当にロースキルで努力のきっかけが掴めない活動は、これらに投稿することを前提とするのはむしろ悪手なのかも。


もしそうだとしたら、自分の場合ブログは2014年に独立プラットフォームへ移行したからこそ継続できている側面があり、
またクリエイティブな活動もプラットフォーム非依存なら着手できる可能性はあると言えそうです。
ややこしい言い方をしましたが、要するに自分独自のwebサイトでのみ発表し、承認は期待しないということです。
まあせっかく作ったらSNSで紹介くらいはするかもしれませんが。


去年春、完成度4割くらいで頓挫してしまったデジタルイラストの挑戦も、
「ブログの挿絵を作る」という目標なら再挑戦する価値はあるのかもと改めて思います。
あれもいろいろ方策を考えましたが、結局プラットフォームに発表するという前提が織り込まれていましたからね。
もちろんゆくゆくはそこに行き着くのでしょうが、自信が確立していない段階からそこを目指さなくてもいいのかなと。
ある意味、去年の大キリ番記事としての短編執筆プロジェクトはその一歩だったと言えるでしょう。
いずれはブログを文字媒体だけでない創作物を発表する場として育てていけたらいいなと改めて思います。


#7759

表現活動とコンプレックス

ポケモン対戦専門YouTuberのインゲンさんが、
ルンパッパの解説動画 の「後語り」としてコンプレックスについて話していて興味深かったので引用してみます。


インゲンさんはもともとポエマーで、独特でテンポの良い言い回しをするのが好きだったと言います。
新しい言葉を覚えたらすぐ使う性分で、それこそ未就学時代からそうだったそうです。
しかし、それは「恥ずかしいこと」なので大っぴらに他言することができずにいました。
そこで、ある意味その恥ずかしい物事を正当化するために作詞家を目指し、
しかし当初は作詞家として仕事をもらえるレベルでもなかったので
架空の歌詞を考えて掲載するwebサイトを作ったりもしたそうです。


やがてそれが信頼できる人の目に留まり、仕事をもらえるきっかけになり、インゲンさんは思いました。
世間からはみ出している「恥ずかしい」と思う部分こそがその人の長所であり、
その長所は自分に救われるのを待っている人にとっては確かな一助になる。
コンプレックスは恥ずかしいとか恥ずかしくないとか思っていてもそれを答え合わせをする機会など無いのだから、
むしろ堂々としていればいいのではないか、と。


……まさかルンパッパの対戦動画を観に行ってこんなに打ちのめされるとは思いませんでした。
自分もおそらく世間一般の人々よりも「言葉」が好きで、だからこそ20年以上このブログを続けています。
もう知っている人はさすがにいないと思いますが、ブログ黎明期にはポエムも書いていました。
そういう意味で、インゲンさんとはかなり近しいタイプの人間と言えなくもないかもしれない。


自分もこの物書きという活動は「恥ずかしい」と思っています。
少なくとも、軽率に他人に見せるものではないだろうと。だからTwitterのプロフにもリンクを貼っていません。
まぁ自分の場合はブログという性質上、どうしても個人の意見を書かざるを得ないところがあるし、
その絡みでコンプライアンスの問題や炎上リスクといったものがついて回るため一概には言えませんが、
それを抜きにしてもブロガーであることは積極的に誰かに教えるものではないと思っています。
昔はそうではなく、こういう考え方になったのは割と近年になってからです。
ネット社会の成熟や、自分自身の成熟に伴って
ブログのような媒体でお気持ち表明することが前時代的なものに見えるようになったのかもしれません。


ここでの諸活動における「恥ずかしい」と「恥ずかしくない」の違いはなんなのでしょうか。
これは2つの考え方があると思います。まず、その活動そのものに対する先入観。
ポエマーだから恥ずかしい、小説家なら恥ずかしくない、といったようなものですね。
しかし「詩人」にも表舞台でプロとして活動している人がいる以上、それはあまり恥ずべきではないように思います。
AI絵やゲーム改造、切り抜き動画など倫理的な問題をはらんだ活動となるとまた話は変わってきますが……。


もうひとつはその活動に稚拙さがあるかどうかという問題。
他者や自分が許容するレベルと比べてまだ十分熟達していないと「恥ずかしさ」は感じると思います。
それが慢心によるものなら、インゲンさんの言説とはまた違う文脈で乗り越えるべきハードルでしょう。
一方、自分なりに十分やっていると思えるのなら堂々としていればいいのではないかとは思います。
他者から見れば稚拙かもしれなくても、いまの自分の精一杯であればそれは活動に値するでしょう。


これらの「恥ずかしさ」は他人に評価してもらって箔がつくと一気に解消するイメージがあります。
だからこそ、人は自分の活動を正当化するために他者承認を求めがちだし、
一度他者承認を得られた活動は簡単に切り捨てることができません。
一方、他者に認められていない状態だと、ついついそれ自体が「稚拙」で「恥ずかしい」ものだと思うものです。
しかし他者の目に留まるかどうかとクオリティの高低は必ずしも相関しないため、
それなりに頑張っていて倫理的な問題が無いのなら堂々としていればいいのではないか、というのは頷けます。


自分が本当に感銘を受けたのはそこから先です。
インゲンさんの言う、自分の尖っている部分こそが誰かの一助になりうるという考えには膝を打ちました。
他者と違うからこそ自分のコンプレックスになり、また長所にもなる。
他者と違うからこそ誰かにとっての「特別」になりうるのだという考えはとても救いがあります。


まさにインゲンさんの言説が自分にとっての一助になったわけですが、
同じように自分がブログで展開してきた数多くの言説がいつか誰かの一助になってほしいと改めて思いました。
『モモ』で有名なドイツ作家のミヒャエル・エンデはある対談でこんなことを言っています。



ある人たちが価値やアイデアを考えだし、こちらの人たちが、こう言うわけです。
「そうだ、僕がいつも感じていることを、言ってもらえたぞ。僕には表現できなかっただけなんだ。
だが彼は、ぴったりと言ってくれた。」
私たちにできるのは、まさにそういうことです。(『芸術と政治をめぐる対話』より)



エンデの言説が正しければ、すべての表現者は誰かの一助たり得ると言えるでしょう。
しかし自分は文筆活動をすることを「宿命」だと思っていますが、まだ「使命」と思えるには至っていません。
エンデやインゲンさんが言うことを実感できる領域にいつか達することができればと思いながら、
ひとまずはこれからも粛々と書き続けることにします。


#7755

達成感について

昨日、『メテオス』20周年に際して記念に「レイヤーゼロ」のフルスロットルクリアを動画に残そう、
と思い立ち、実際に30分程度でさほど努力せずにフルスロットルクリアはできました。
しかしその動画がやや斜めにズレていたのとスコアがやや低かったので、
もうワンテイク撮ってそれを成果として投稿したいという気持ちが湧いてきました。変に妥協したくなかったわけですね。


しかし、フルスロットルというのはそう滅多にクリアできるものではありません。
その後2時間半ほど頑張ってみましたが結局惜しいところまで行くもののクリアはできず、
03月10日のタイムリミットを迎えてしまいました。
まぁでもよくよく考えてみれば20周年記念とはいえ観る人はほぼいないだろうし自己満足だからいいか、
と少し斜めにズレた動画を補正して投稿するに至りました。
この行為は、「承認欲求を得たい」という目的を前提として合理的に考えれば間違っていないと思います。
わずかなスコアとこだわりのためにこれ以上頑張っても得るものは皆無で、明らかにコスパもタイパも悪い。
しかし自分の正義に関する観点から見ると、合理的に正しいからこそ罠があるのではとふと思いました。
これは、なにげにここ数年の自分の価値観をひっくり返しうる気づきです。


2022年の自分は、社会と協調するためには「自分ができ、かつすべきだと思うこと」を不足なく遂行すること、
すなわち誠実であることが重要だと考えました(#07100 / 2023年05月26日)。
2023〜2024年の自分は「自分の無能さを積極的に受け入れる」ことが一種の心の防衛として働くことに気づくものの、
後期にはその実践は人生の希望をも切り捨ててしまう危うさがあると分析しました(#07600 / 2024年10月07日)。


これらの過去の自己分析について改めて噛み砕いてみると、
まず2022年当時は、社会に出ると個人としての自分にはさまざまなことが要求されている(ように思える)けれども、
自分のスキルレベルを無視して表面的な「すべきこと」に立ち向かおうとすると人生が破綻してしまう。
そのため、その中から現実的に何ならできるのかをしっかりと点検して、
「できる」かつ「すべき」ことだけはしっかりやっていこうというのが「誠実であるための条件」だと考えました。
しかし、2023年に入ってそれを実践していく中で、
「できる」と認識しているものを粛々とこなすだけの生活にはなかなか希望を見出しづらいことが判明しました。
無能さを受け入れることで挫折する経験が無くなりストレスフリーな生活は実現できたものの、
同時にワクワクするような何かに出会う可能性をも切り捨ててしまっていたわけです。


改めて振り返るとこの考え方には重大な欠陥があることが分かります。
すなわち、自分ができる範囲ですべきことを遂行することを「誠実」とするならば、
自分が何もできないなら何もしないことが「誠実」であることになってしまうということです。
この考え方は突き詰めると怠惰や慢心の正当化になりかねません。
事実、だからこそ2024年以降の自分はさっぱり結果を出せていないと感じているのだと思います。


「レイヤーゼロ」のフルスロットルプレイで妥協スコアが出たとき、
妥協なきラインまで突き詰めるのは当時の自分にしてみればできるかどうか際どかったわけです。
そして、「できたらいいな」という一縷の希望を携えて挑戦した結果、結局できなかった。
しかし挑戦したという行為からは、ここ数年感じたことのないようなエネルギーを感じました。
いまの自分に足りていないのはまさにこのチャレンジング精神だったのではないかと。
そしてその精神を枯らしてしまったのは他でもなく近年の信念に関する誤解だったのではないかと気づいたわけですね。


できることはやり、できないことはやらない。言い換えれば、できないことをできると言わない。
そういう意味での誠実さは社会を歩く上で重要です。
しかしどうやら個人の活動に関しては必ずしもそうとはかぎらないもよう。
「できるかどうか分からないが、やりたい」のであればやってみてもいいのではないかと改めて思います。
挫折したり達成したりする中でのみ得られる栄養も見えてくる景色もあるでしょう。
いま結果を出せていないと感じているのは、実際に成果物があるかどうかというよりも、
ここ最近何かに挑戦した経験が圧倒的に足りないからなのではないかとも思います。
確かに、誇大妄想に囚われて自分のスキルをあまりにも度外視してしまうのは問題がありますが、
「頑張ればできるかも」というようなラインを攻めることは日々を充実させるためにも重要なのではないか、
とレイヤーゼロと遊んでいて改めて思った次第です。


#7600

迷案の話

去年から今年にかけて僕の中では一定の説得力があった「無能である自分を受け入れる」というスローガンは、
しかしただちに人生を改善してくれる魔法の言葉というわけではなかった。
確かにそれ自体はれっきとした事実であり、また重要な教訓であることを疑う余地はない。
自分を顧みず不相応な夢や目標を抱き続けることは不毛に人生を費やすことに他ならず、
それは誰よりも本人が豊かに生きることを阻害する。
たとえそれが世間では「できて当たり前」と言われるようなレベルの目標であってもだ。


自分が成し遂げたいことは、果たして「本当に」自分が成し遂げたいことなのか胸に手を当てて考えてみる。
実はそれは、暗黙のうちに社会あるいは身近な他人によって刷り込まれた価値観なのではなかろうかと。
できないことが明白なら、あるいはそれが本望でないと感じているのならそれを望むことほど愚かなことはない。
可能性があるから人は努力できるのだとすると、自分の能力を呪い、それを直視しないかぎり努力などできるはずもない。
その意味での努力をしなければあらゆる可能性は成就せず、一歩も前に進むことはない。
ゆえに「無能である自分を受け入れる」ことは確かに飲み込むべき正論であることに異議はない。


そうして僕は世間が求めるいわゆる「当たり前」の定義が ときに不相応たりうることを観念し、
それでもなお、自分が確実にできることに基づいて次の一歩を見定めようとした。
しかし、その先にある景色はこれまでの夢物語と比べてあまりにも地味で、チープで、レベルの低い世界に思えた。
これまでに妄想していた不相応だが煌びやかな夢と比べると、それはあまりにも味気なかった。
もし、その地味な道へ行くことが合理的に正しかったとしても、
そこに向かって努力するための燃料を僕は持ち合わせていないように感じられた。


それは、自分ができることは他人にもできるのだろうからこの先へ行く価値を見出せない、
という一種の驕りがまだ残っているからだと思う。
僕はどこかでまだ「自分だけは特別でありたい」という他人本位な願望を捨てきれていないのだ。
どこまで行っても社会的欲求は付きまとい、本当に自分がやりたいことが何なのかを考えさせてくれない。
そもそも、それが本当に存在するのかさえ疑わしい。
仮に特別になりたいという高慢さをも捨て、確実にできることに基づいて粛々と活動することが正しいとするならば、
率直に考えればそこに生きる意味を見出すのは難しいように思う。


人生にかくあるべきというようなものはなく、
「こうあらねばならない」と盲信しているものは他人から刷り込まれた他人本位の願望でないか疑ってみる。
また、自分ができることを再確認して身の丈に合わない夢や目標は切り落としていくべきだ。
しかしだからといって従来思い描いていた空想を全否定すべきかというと、それもまた早計である。
夢や目標を整理していくと、いまはできないがこれだけは譲れないと思うようなものが残る。
それはそれでお守りのように取っておいてもいいのではないかと僕は思う。
表向きは、自分の能力と正直に向き合った上で決めた目標を粛々とこなしていく。
しかしそれだけでは人生に希望を見出すことはできないので、夢は夢で頭の片隅にしまっておく。
それは「こうあらねばならない」というような人生を規定するものではなく、未だ実現しないからこそ日々の希望になる。
誰でもなく自分自身がそれを見定めることに、きっと大きな意味があるのだろう。


「無能である自分を受け入れる」というスローガンは、それ自体にまだいくばくかの高慢さが含まれており、
また愚直に実践すると人生における希望をも切り捨ててしまう危うさがある。
しかしそれにさえ気をつければ、目標を整理し合理化することそのものはとても有意義な営みだとは思う。
人生が迷宮のようなものだとしたら、これら思索は次に確かな一歩を踏み出すための方位の呪文である。


#7100

続・信念の話

厄年だった去年の自分が見出した数少ない人生哲学のひとつに、
やるべきと信ずる信念を過不足なく設定し、それを実際に遂行することによって人は誠実になり、
それによって他者を攻撃するような余裕の無さとは縁を切ることができるという仮説がある。
ここで重要なのは、信念は不足してはいけないが過剰であってもいけないということだ。
そのためには現実的、客観的に自分自身の程度の低さを推し量り、受け入れる必要がある。
人は自分がなんでもできるわけではないことを知ってはじめて、
それでもなおできるであろうことに生きる意味を見出す。
全能ではなく無能であることを受け入れられないというのは、
僕は誠実に生きているとは言えないと思う。


しかし、それは程度の問題であって、具体的にどのようなものが誠実であると言えるのだろうか。
それはもちろん個人の適性、家庭環境、遺伝、出身、運などによって千差万別であるはずである。
100人いたら100通りの誠実な生き方があってもいいはずだ。
にも関わらず、この社会に生きているとなんとなく誠実であるとはこういうことだ、
というような固定観念がぼんやりと横たわっているように思える。
それは例えばそこそこ高学歴で、そこそこ高収入の仕事に就き、そこそこ頼もしい相手と結婚し、
プライベートも子育てもそれなりに充実している、というようなイメージである。
少なくとも高校時代くらいまではそういうぼんやりとした「理想の大人像」があった。
この社会で「誠実に生きていれば」、その理想は当然のように叶うものだとばかり思っていた。


その理想像が個人の適性をいっさい考慮していない虚構の概念であるということに気づいたのは、
たぶん上京してから、つまり三十路も越えてからだったと思う。
それまでは理想の大人像を誠実であるための条件にセットし続け、
それを遂行できない自分の情けなさによって自己欺瞞を生み続けてきた。
もちろんそのことに努力不足も感じるし、実際そうだったのだろうと思う。
いずれにしろ日本社会が作り出した競争の仕組みから脱落したという事実を否定することはできない。
しかし一方で、それが必ずしも個人が誠実である条件として適切なのかと言われると甚だ疑問である。


思うに、人が夢を思い描く初期段階では、それは他人の夢のコピーにならざるを得ないのではないか。
人は他人に認められたいという欲求とは切り離せないし、理想を思い描くときはなおさらだ。
若ければこそ、それを阻害する理由は無い。なぜなら可能性はまだ未来にあるからだ。
だから社会通念上広く認められているような理想像、
日本社会で言えば上述のような「普通の幸せな家庭を築くこと」
を最初のテンプレートとしてセットすることになる。そこでは自分の能力は度外視されている。
その上で社会経験が積もっていくにつれ、自分にできることとできないことが詳らかになっていく。
つまり、通常のタスク設定とは順序が逆なのだ。
本来ならできることを明らかにしてからやりたいことを選ぶのが当然の筋である。


順序が逆となると、自分にできないことが判明した際に誠実である条件を下方修正することができるかが問題になる。
これは結構勇気がいることだと思う。
匿名掲示板のような負け組が多いコミュニティに行くと
30代、40代、あるいはもっと年老いてもなお少年時代のテンプレート的な理想だけを後生大事に抱え続け、
自己欺瞞と劣等感でボロボロになっているような人をよく見かける。
そうならないためには、自分ができないことを誠実である条件から綺麗に取り除かなければならない。


果たして結婚することは幸せなのだろうか。結婚したら不幸になったという人は結構いる。
年収が多いことは幸せなのだろうか。
お金そのものは生活を豊かにするかもしれないが、年収が増えればその分仕事の重圧も強くなる。
そうやってテンプレート的な理想のひとつひとつに対して猜疑の目を向け、
あるいは自分がそれを達成できるのかどうかを慎重に吟味していったとき、
それでもなお残るものはいったい何なのだろうか。


ありふれた夢を片っ端から否定して残ったものは、世間的に見れば夢とは言えないのかもしれない。
しかしそれが自分にとって過不足なく「これだけはやるべきだ」と思うのであれば、
それが自分にとって生まれてきた意味になりうるのではないだろうか。
努力して競争を勝ち抜いてありふれた夢を実現した人はもちろん眩しいし、羨ましくもある。
しかし、そうあらねばならないという価値観はもうそろそろ時代遅れだろうと思う。


例えば、生涯を賭けてひたすら下駄を作り続けるような人には競争原理を超えたカッコよさを感じる。
地味であれ彼らのような人生こそが理想なのかもしれないと、今更のように思う。


#7073

土俵に上がらないということ

ここ五年くらいの自分の心境変化を顧みてみると、
競争原理からドロップアウトすることは個人をかなり楽にすると思います。
自分たち現代日本人は、生まれたときから他の誰かよりも優れていることが善いことで、
他の誰かより劣っていることは善くないことであるというような価値観を植え付けられて育ちます。
受験戦争や自由恋愛、就職活動やその後のポスト争いと人生の要所では他人を競うことは避けられず、
そこで落ちこぼれれば人生そのものを否定されるような価値観はいまだ根強く残っています。
しかもSNS全盛期に突入した昨今は個人的な活動もステータス化され何某かと比較され、
ある意味で競争を余儀なくされるような時代です。そして競争に勝てば幸福になれる(気がする)。
こういう世の中に生きていれば、
人生は椅子取りゲームのようなものであると思うのも無理はありません。
事実そういう側面もあるでしょう。


そういう社会がさも当然であるかのように思春期を生き抜いた自分たちにとって、
競争原理を否定することは難しい問題であるように思います。
デジタルネイティブであるいまの10代、20代はもっとシビアにこの問題を捉えていると思います。
しかし、そもそも果たしてこの世の中は本当に競争に勝てないと幸福になれないのかというと、
そうとも限らないのではないかというのがここ近年の自分の考えです。


たとえばYouTuberのような動画配信が流行っている昨今。
表面的に見れば「チャンネル登録者数が多い人はそうでない人より偉い」と思いがちです。
それはそれである意味正しいのかもしれませんが、
一方で動画活動という土俵に上がっていない人もたくさんいるわけです。
そういう全社会的な人をひっくるめてチャンネル登録者数が多い人が偉いと言い切るのは難しい。
何を持って偉いとするかという尺度が人や活動によって全然違うからです。


競争原理の渦中に生きていると、YouTubeが流行れば登録者数を追い求めたくなるし、
Twitterが流行ればフォロワー数を追い求めたくなります。
ただそれは客観的に見れば流行り廃りに振り回されている側面が否めず、
活動がその人自身の適性に合っているのかどうかとか、
本当にやりたいことなのかとかといった観点が抜け落ちています。
流行している土俵で勝ち上がればそれ相当にもてはやされるので
自分もそうなりたいと願うのは当然の欲求ですが、それこそが自分を見失う罠のようにも思います。


以前も書いたように、自分はできないことを夢として掲げるのは愚かだと思っています。
それは適性が無いのにYouTuberになろうとするようなことを指しています。
個人の活動というのは、流行り廃りのような社会的な価値観によって決めるものではなく、
自分が本当にそれを好きなのかどうなのかという尺度で決めるべきなのだと改めて思います。
自分はかつて、こういう観点を持っていなかったのである意味振り回され続けて生きてきました。
そして結果を出せない現実に苛まれ続けてきたわけです。


でも、競争の世界から降りて自分の好きなことをやっていればいいんだと割り切っただけで、
同じような活動をしているのに以前と比べて格段に気持ちが楽になりました。
やりたいけれどできないことはできない、
ならば自分にできるのは何なのだろうかと広い視点を持つことができるようになったわけです。
従来は「やりたい、やりたいけど……」と唱えるだけで延々一歩も前に話が進んでいませんでした。


他人と競争することはときとして自分の限界を越えるのに有効なので
競争自体を否定するわけではありませんが、負けることが明らかな勝負をできるだけ避けていくのは
現代の処世術として大事なのかもしれないと思う今日この頃です。


#7068

本気になれる何かを探して

先日の東大入学式祝辞で承認欲求を否定する衝撃的な言葉と出会い、
自分にとって承認欲求を否定しうるほどの「本当に好きなこと」ってなんだろう……
と考えています。そしてそれは、直感的にはいまの自分は持っていないように感じられます。


ここで、「本当に好きなこと」に対する自分の現時点での理解は、
他人に認められたり認められなかったりすることとは関係なく、
自分自身の内側にある好奇心などの根源的な欲求によって継続していける活動のことです。
もしも他人に一切認められないことが明らかなら辞めてしまうであろう活動は当てはまらない。
本当に好きな活動をしているかぎりは、
「他人に認められたから自分は素晴らしい」「他人に認められなかったから自分はダメ人間だ」
というような価値観に依存することなく活動を継続することができるはずです。


ただ、それは「他人に評価されなくても継続する活動」とは
必ずしもイコールではないような気がします。
先日それに当てはまる例として他人に評価されなくても継続できることが明らかなこのブログを挙げましたが、
自分の正直な気持ちを省みると、執筆活動を「本当に好きなこと」とするのはやや無理があるように思う。
長年やっていれば自動的に「本当に好き」になるとは限らないということです。
より直感的には、「本当に好きなこと」とはある程度夢中になれることが条件のように思います。
幼少期〜思春期と違って歳を取ったいまは夢中になれるものが無くなってしまったから、
いまの自分は「本当に好きなこと」を持っていない。
……しかし、それは本当に正しいのでしょうか。


そうやって突き詰めていった先に思いついたのは、
「本当に」好きであるかどうかはそれに対する思いや意識の強さなどではなく、
目標(夢)に対して結果として完遂できたかどうかによって決まるのではないか、ということです。
どれだけ継続しているかという時間的尺度や熱意などの精神的尺度は関係ありません。
目的を達成せずダラダラと継続しているだけだったり、
熱意だけで行動しなかったりするのは「本当に好き」とは言いがたいということです。
逆に言えば、短期間でも熱意がなくても、
途中経過がどうあれ目標を達成できたならそれを堂々と語れるはずなんです。
他人に堂々と語れるかどうかというのはそれが本当に好きかどうかを測る尺度になると思います。


それを踏まえて昨今の自分を省みると、
何かを「完成」させる経験が圧倒的に不足しているように感じました。
往々にして、興味を持って少し触れるだけならどの界隈も比較的簡単にできるし、
少し触れたことを持って「興味がある」と自称することは嘘にはなりません。
しかしその界隈の中で何かを成し遂げたいと願ったとき、それを実現するのは困難を伴います。
その困難を、「誰かに認められたいから」という原動力で突き進んでいくこともできるけれども、
それは仮に他人が想定通りの評価をしてくれなかったときにすべて瓦解します。
そういった他者評価に依存することなく困難にも立ち向かっていくモチベーションがあり、
結果的に何かを成し遂げられたのなら、
それこそが自分にとって本当に好きなものなのではないでしょうか。


これは別に大それたことばかりではなく、日常的にも起こりうることです。
ゲームが面白くていつの間にかオールクリアやトロフィーコンプリートしてしまったのなら、
それは本当に好きだからでしょう。いわゆる「ハマる」というやつです。
ど素人が作曲したいと思って1曲完成させたのなら、それはきっと作曲が好きだと言えるでしょう。
その後、YouTubeにアップしてちっとも高評価がつかなかったとしても。


昨今の自分は何一つ成し遂げていません。ただ幅広く手を出しているだけです。
本当は手を出しているそれぞれのジャンルで成し遂げたいことはあるのですが、
あえてそこから目を背けていたような節があります。
もしかすると、それが昨今の人生にワクワク感をなかなか見出せない原因なのかも……。


いつからそうなってしまったのかと振り返ってみると、
2021年でアニバーサリー企画や年末企画を事実上廃止したのがひとつの転機だったように思います。
それ以前は、年間で一番興味のあることを年末企画という形でアウトプットすることで、
苦労は多かったもののその分自分なりに満足することができていたように思います。
まあ……社会人になってからはそれもほぼほぼ破綻していましたが。
リミットを決めてそれまでに何かを完成させるというのは、
「本当に好きなもの」を本気で探すためのアプローチとしては有望な手段なのかもしれません。
今年、余力があったら年末企画を復活させてみましょうかね……。


#7061

凶器的な祝辞

今年度の東京大学学部生の入学式で、
来賓祝辞としてグローバルファンドの馬渕さんという方が登壇したのですが、
グローバルファンドの偉い人でエボラ熱の解決に貢献したり、
新型コロナ禍の災厄を二度と起こさないための提言をするなど偉人のような人の力強い言葉が、
多くの人を感動させたとしてTwitterでバズっていました。
自分もその祝辞を全部読みましたが、ある一言に大きな衝撃を受けました。



「自分の夢に関わる本当に好きなことをやらないと、それを徹底的に突き詰めることはできません。
また、好きなことをやっていないと、幸せの尺度が『自分が他人にどう評価されているか』
になってしまう。それではうまくいかないときに持たないです。
他人の評価を気にする他人の人生ではなく、
自分がやりたいことに突き進む自分の人生を生きてください。」
(令和5年度東京大学学部入学式祝辞 より引用)



自分は昔から承認欲求不満であり続けてきたし、
いまでも承認欲求そのものを否定して生きるのは難しいと思っています。
誰かに認められるから頑張るというのは、仕事や趣味などにおいて自分を突き動かす動力です。
でも一方で、それが自分が思っているように制御できないという悩みもずっとありました。
他人に認められるために水面下で努力することは時に困難を伴い、
ある意味自分を騙しながら進めていくことになります。
最近はもう自分を騙し騙し進めることが当たり前になってきたので、
自分にとって本当に好きなものだけをする、なんていうことは考えてもみませんでした。


誰かに認められたいから頑張るというのは、頑張った結果思い通りの評価がもらえなかったとき、
他人に幻滅したり、自分の不甲斐なさに腹が立ったり、とにかく精神的に良いことがありません。
それが他人とのトラブルにつながることもあります。
また行動のエネルギーの出所を承認欲求に依存するということは、
裏を返せば他人が評価しないことは最初から頑張れないということでもあります。


本当にそれが好きじゃないと一流になれないというのは薄々感じていたことです。
どんな界隈も、だいたいトップまで上り詰める人というのは純粋にそれが好きな人です。
例えば野球で言えば大谷翔平やイチローといった人は
ひたすら野球が好きだという雰囲気が滲み出ているし、インタビューなどでもそれが伺えます。
ただチヤホヤされたいがためにコミュニティに入ってくる人は、
そもそもプロフェッショナルレベルにはなれないし
構ってもらえないと分かった瞬間にあっけなくリタイアしていきます。


そういうある意味残酷な事実があるなかで、それじゃあ自分にとって「本当に好きなもの」
ってなんだろうと考えると、思い当たるものが無いんですよね。
「誰かに認められたいからやっている」ということを真っ向から否定できる活動が無い。
なぜなら自分は幼少期からずっと承認欲求ありきで生きてきたからです。
他人の顔色を伺い、他人の欲求を満たすことで自分も満足してきた。
それが間違いだったとは言いませんが、
本当に自己完結するような活動が無かったのも事実です。だから趣味も浅く広いのでしょう。


「本当に好きなもの」を持たない自分にとって、
馬渕さんの祝辞はある意味では自分の人生観を強く否定する凶器のような言葉です。
自分がなぜこれまでうまくいかなかったのかを端的に表している気がする。
人は、歳を取ってからも「本当に好きなもの」を見つけることはできるのでしょうか。
もはや自分はその答えがNOではないことを祈るしかありません。


承認欲求については
去年の時点でいったんそれを否定することはできないという立場に落ち着きましたが、
この祝辞を読んでまたイチから考え直さなくてはならなくなった気がします。


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