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人は生まれたときはあまりにも不自由であり、徐々に自由を獲得していく。
寝返りすら自分でできなかった乳幼児は、やがてハイハイを経て自分の足だけで一歩ずつ歩くようになる。
そして自我が自由になると、ときとして親の要求が「自分」の自由に反することもある。
保育園や幼稚園、やがて小学校と階段を上がっていくと、「自分」は社会の一員であるということを体感する。
社会と折り合いをつけていきながら自分の「居場所」を探る活動はこのときすでに始まっていると言える。
そして中学・高校と良くも悪くも閉鎖社会において自分がどのような立ち位置であるかを思い知らされ、
「自分とはこういう人間である」というアイデンティティーとして抱え込むことになる。
そして多くの場合、それを基準としながら大学というモラトリアムを経て社会に羽ばたいていく。
社会は教室と違って、労力と引き換えに自由を与えてくれる。
この意味での自由とは要するに貨幣であり、
それによって私たちは実家を出て居を構え、そこでそれなりの生活をすることはできる。
つまり、社会に帰属して時間的自由を差し出せば、空間的・社会的・金銭的自由が保障されるというのがこの世の仕組みだ。
あとは身体さえ健康であれば、道徳が許す限りさまざまな活動を選ぶことができるはずである。
ただし、与えられた自由を行使した結果のすべてについての責任は負わねばならない。
僕はこの数年をかけて、自由を行使できる基盤を整えてきた。
そしてそれは決して順風満帆ではなかったとはいえ、上京前よりも確かにより自由になったという実感はある。
しかし自由になったからといって、ただちに生活が豊かになったというわけでもない。
自分の本心に対して愚直に「生き甲斐」に打ち込めるようになったわけでもない。
昨今の僕は、その自由の「重さ」に薄々気づき、何かを選択することから逃げ続けていると思う。
できないことをできると信じるのは自分の事実性に対する嘘であり、
自分の本意でない対象に「好きだ」と言うのは自分の本心に対する嘘である。
この6年間は自由を獲得する代わりに嘘に塗れて生きてきたと思う。
だからこそ本心の所在が分からなくなり、やがて世界は灰色に染まり、ワクワクすることが無くなってしまった。
僕は本来社会的には自由であるにも関わらず、
活動対象を思春期からの延長線上にあるものに絞り込んで、その意味ではかなり不自由な活動を継続してきた。
その気になればこれまでの人生になんの脈絡もない活動に手をつけることはできるはずだが、そのための勇気が出ない。
半ばそれを正当化するためにもっともらしいタスクを詰め込み、
それがあるからこそ虚無な人生にはならずに済んできた。しかし、本当にこれでいいのだろうか?
いまの自分が、その自由な社会的基盤と自由意志においてやりたいことを主体的に選択し、
それについて熟慮した計画に向かって邁進する。これこそが生き甲斐であり、生を肯定する根拠になるはずである。
果たして、社会的外圧などに身を任せる人生を当人が本心から肯定的に捉えることはできるのだろうかと思う。
思春期から続く延長線上の活動そのものが悪いと言っているわけではなく、
それそのものを主体的に捉え直し、
「自分はこれをこういう理由でやりたい」と言語化することが重要なのだと思う。
自分の能力的な限界を正直ベースで見つめなおし、それに合わせて目標を是正することは大事な営みである。
そしてそれと同じように、自分が自分の意志でそれをやろうとする覚悟についても考え直してもいいかもしれない。
自分はそれを「やらなければならないからやる」のではなく、実際にはやらない権利も留保しているけれども、
いまの自分がこういう理由でやりたいと思っているからあえてやる、という気持ちを確認するのである。
それをしなかったら諸活動をするにあたって本心の居場所はどこにも無いだろう。
義務感で身体だけを動かしていれば、いずれ心が壊れるのは当然の成り行きだとも思う。
ここ数年の迷走を経て、いまの僕はようやく社会的に自由になれたと思う。
しかしだからこそ、それに付随する選択の責任に怯え、新しい活動を選ぶことから逃げ続けている。
誰かにやれと言われたことをこなすだけで許される人生だったらどんなに楽だっただろうかと思う。
自由を保障されているからこそ、その選択に付随する責任や不安のためにより一層不自由になっているようにも思う。
この「自由に対する不安」という名の壁は、いま30代半ばの僕の前に立ちはだかっている。
壁の前で立ち尽くし見上げるこの感覚は、かつて10代・20代のときにさんざん思い悩んだ、
「大人になるとはどういうことか」という名の壁を前にしたときのことを思い出す。
果たして僕に、胸を張っておっさんだと言えるような日は来るのだろうか。