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#8085

理想と現実のゴールデンクロス

今日の出来事人生観

そろそろ真面目にこれからの人生を考えるために、現時点で思いつく人生論を軽く整理しておきたいと思います。
ここで言う人生を「生まれてから死ぬまでのロードマップ」として定義したとき、
それはライフステージごとに志向する内容や目的などが異なるものだと思います。
まず、この世に生を受けたら、何はともあれ世の中に何があるのかを知らなければなりません。
それを「与えられる」のが未就学時代〜小中学校時代で、これは自分の意思では半ばどうにもならないケースも多いです。
一方で、ここで与えられたものが後人生に多大な影響を与えるのも事実です。
自分の場合、それはゲームでした。


中学〜高校時代は「好きなもの」がおおむね確定して、それについて制限なく妄想するもっとも多幸な時期です。
「こうなったらいいな」を語っているだけで許される時代。
社会との整合性や他人の需要などいっさい考えなくてもいいのはこの時代が唯一でしょう。
自分の場合はネット文化がまだ未成熟だったこともあって、中高生でも活動しやすい土壌がありました。
そのためwebサイト運営を通じて先行して社会活動を始めた側面があります。
web制作が生活基盤になったのはそういう時代背景も多分にあるのでしょう。


大学時代〜20代前半は実際に社会活動が始まるステージで、
どちらかというと他人(社会)の都合よりも自己実現に向かって社会という枠組みの中でもがく段階かなと思っています。
それによって自分の限界を知り、社会との摩擦を知る。
頑張る内容は人それぞれで、前のステージからほぼ繋がっている場合もあるし、
就活の結果思いもよらない分野に手を出すことになる場合もあります。


そして20代後半〜30代は少し歩くスピードを緩め、盲目的に突き進んでいた自己実現への道を客観的に見直し、
活動を社会と調和するような方向に舵を切ることでより盤石な社会承認を得ようとし、
またできないことはできないと潔く認めてその上でできることに的を絞る段階だと思っています。
人生が植樹だとしたら、不要な枝葉を切り落として幹を強くする段階。
いま自分が語れるのはここまでで、ここから先はどうあるべきなのか、どういうものなのかは知りません。


まず、全体としてステージの節目(大学受験、就活、転職など)によってやることがガラッと変わることはよくあり、
それは本人の意思の強さにもある程度依ると思いますが、競争社会である以上はどうにもならないこともあります。
大学受験で志向した分野に30代になっても携われている人は、そうでない人より順調なイメージがあります。
ただ、それが必ずしも正解だと言い切ることはできません。
職歴や能力の違いだけで幸か不幸かが決まってしまうと言い切ってしまうと、
それは現実に競争社会を構築している社会の仕組みそのものを否定しなければなりません。
それを個人がどう論じたところで社会は今更変わらないので、こういう救いのない考えは切り捨てるのが無難でしょう。
ただ、10代までに思い描いた「こうなったらいいな」という理想に対し、
あまりにもギャップのある現実を生きていると精神的な豊かさは感じられないかもしれません。
ある程度精神が成熟してくると10代に思い描いていたことは絶対正しいとも思わなくなり、
理想は徐々に整理されて現実に近づいていきます。
一方で現実(個人のスキル、社会、技術革新など)も確かに変化して、部分的には理想に近づいている。


このように、理想の高さを縦軸とし、時間(年齢)を横軸としたとき、
理想は非常に高いところから始まって成人した辺りから徐々に下がっていくのに対し、
現実は非常に低いところから始まって紆余曲折を経ながらも長期的には上がっていくはずで、
だとしたらどこかでクロスするところがあり、そこで初めて人生の目的や意義が確立するのではないか……
というのが現時点の自分の仮説です。


ただ、これはグラフにもできる非常に明快(簡易ともいう)な説明ですが、
実際の人生において理想と現実が交わった瞬間を実感することはまず無いのではないかと思います。
いろいろやっていくうちに、結果論として「ああ、やっぱりこれがそうだったんだ」と思うものなのではないかと。
それに気づくのは交わってから10年以上経ってからというのも全然ありえる。
そしてまた、理想と現実が交わった(現実が上回った)からといって、
それがただちに幸せに直結するとは限らない。
理想は手に入らないから理想なのであって、現実に落とし込んだところで理想が持つ煌びやかな響きは失われるからです。
「現実になった理想」は、それはそれでちゃんと向き合う覚悟が必要なのではないかと。


仏教では、ものの道理を悟り、それを保つ心を「諦念」と呼ぶそうです。
しかし「諦念」は漢字を見れば明らかなように、日本語の語義として「諦める気持ち」という意味もあります。
自分のここまでの人生観はこの「諦念」の2つの意味をちょうど内包しているようにも思います。
自己中心的なふるまいからスタートした理想が社会に揉まれて徐々に現実へ「降りていく」様は、
ある意味ものの道理を理解することであるかもしれないし、またある意味では諦めることでもあるのかもしれない。


理想と現実が交わった先のグラフがどうなるのかは、まだ考えられません。
そのままそれぞれ直線を突き進むだけとは思えない。
理想論だけで言えば徐々に高くなる現実の線に理想の線が合流して一体化し、
40代以降は現実の線だけになるのではないかと思うのですが……
では、その先は? 理想を高めることだけが人生の目的なのか? そもそも今後も順当に現実の線は高められるのか?
わからないことだらけです。
果たして自分は自分の人生観について結論を出すことができるのでしょうか。
少なくとも40代半ばになったとき、「30代はこういうものだった」と明確に言えるようにはなりたいところです。



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