Chrononglyph

人生観

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#8085

理想と現実のゴールデンクロス

今日の出来事人生観

そろそろ真面目にこれからの人生を考えるために、現時点で思いつく人生論を軽く整理しておきたいと思います。
ここで言う人生を「生まれてから死ぬまでのロードマップ」として定義したとき、
それはライフステージごとに志向する内容や目的などが異なるものだと思います。
まず、この世に生を受けたら、何はともあれ世の中に何があるのかを知らなければなりません。
それを「与えられる」のが未就学時代〜小中学校時代で、これは自分の意思では半ばどうにもならないケースも多いです。
一方で、ここで与えられたものが後人生に多大な影響を与えるのも事実です。
自分の場合、それはゲームでした。


中学〜高校時代は「好きなもの」がおおむね確定して、それについて制限なく妄想するもっとも多幸な時期です。
「こうなったらいいな」を語っているだけで許される時代。
社会との整合性や他人の需要などいっさい考えなくてもいいのはこの時代が唯一でしょう。
自分の場合はネット文化がまだ未成熟だったこともあって、中高生でも活動しやすい土壌がありました。
そのためwebサイト運営を通じて先行して社会活動を始めた側面があります。
web制作が生活基盤になったのはそういう時代背景も多分にあるのでしょう。


大学時代〜20代前半は実際に社会活動が始まるステージで、
どちらかというと他人(社会)の都合よりも自己実現に向かって社会という枠組みの中でもがく段階かなと思っています。
それによって自分の限界を知り、社会との摩擦を知る。
頑張る内容は人それぞれで、前のステージからほぼ繋がっている場合もあるし、
就活の結果思いもよらない分野に手を出すことになる場合もあります。


そして20代後半〜30代は少し歩くスピードを緩め、盲目的に突き進んでいた自己実現への道を客観的に見直し、
活動を社会と調和するような方向に舵を切ることでより盤石な社会承認を得ようとし、
またできないことはできないと潔く認めてその上でできることに的を絞る段階だと思っています。
人生が植樹だとしたら、不要な枝葉を切り落として幹を強くする段階。
いま自分が語れるのはここまでで、ここから先はどうあるべきなのか、どういうものなのかは知りません。


まず、全体としてステージの節目(大学受験、就活、転職など)によってやることがガラッと変わることはよくあり、
それは本人の意思の強さにもある程度依ると思いますが、競争社会である以上はどうにもならないこともあります。
大学受験で志向した分野に30代になっても携われている人は、そうでない人より順調なイメージがあります。
ただ、それが必ずしも正解だと言い切ることはできません。
職歴や能力の違いだけで幸か不幸かが決まってしまうと言い切ってしまうと、
それは現実に競争社会を構築している社会の仕組みそのものを否定しなければなりません。
それを個人がどう論じたところで社会は今更変わらないので、こういう救いのない考えは切り捨てるのが無難でしょう。
ただ、10代までに思い描いた「こうなったらいいな」という理想に対し、
あまりにもギャップのある現実を生きていると精神的な豊かさは感じられないかもしれません。
ある程度精神が成熟してくると10代に思い描いていたことは絶対正しいとも思わなくなり、
理想は徐々に整理されて現実に近づいていきます。
一方で現実(個人のスキル、社会、技術革新など)も確かに変化して、部分的には理想に近づいている。


このように、理想の高さを縦軸とし、時間(年齢)を横軸としたとき、
理想は非常に高いところから始まって成人した辺りから徐々に下がっていくのに対し、
現実は非常に低いところから始まって紆余曲折を経ながらも長期的には上がっていくはずで、
だとしたらどこかでクロスするところがあり、そこで初めて人生の目的や意義が確立するのではないか……
というのが現時点の自分の仮説です。


ただ、これはグラフにもできる非常に明快(簡易ともいう)な説明ですが、
実際の人生において理想と現実が交わった瞬間を実感することはまず無いのではないかと思います。
いろいろやっていくうちに、結果論として「ああ、やっぱりこれがそうだったんだ」と思うものなのではないかと。
それに気づくのは交わってから10年以上経ってからというのも全然ありえる。
そしてまた、理想と現実が交わった(現実が上回った)からといって、
それがただちに幸せに直結するとは限らない。
理想は手に入らないから理想なのであって、現実に落とし込んだところで理想が持つ煌びやかな響きは失われるからです。
「現実になった理想」は、それはそれでちゃんと向き合う覚悟が必要なのではないかと。


仏教では、ものの道理を悟り、それを保つ心を「諦念」と呼ぶそうです。
しかし「諦念」は漢字を見れば明らかなように、日本語の語義として「諦める気持ち」という意味もあります。
自分のここまでの人生観はこの「諦念」の2つの意味をちょうど内包しているようにも思います。
自己中心的なふるまいからスタートした理想が社会に揉まれて徐々に現実へ「降りていく」様は、
ある意味ものの道理を理解することであるかもしれないし、またある意味では諦めることでもあるのかもしれない。


理想と現実が交わった先のグラフがどうなるのかは、まだ考えられません。
そのままそれぞれ直線を突き進むだけとは思えない。
理想論だけで言えば徐々に高くなる現実の線に理想の線が合流して一体化し、
40代以降は現実の線だけになるのではないかと思うのですが……
では、その先は? 理想を高めることだけが人生の目的なのか? そもそも今後も順当に現実の線は高められるのか?
わからないことだらけです。
果たして自分は自分の人生観について結論を出すことができるのでしょうか。
少なくとも40代半ばになったとき、「30代はこういうものだった」と明確に言えるようにはなりたいところです。


#8028

37

今日の出来事人生観

人は生まれたときはあまりにも不自由であり、徐々に自由を獲得していく。
寝返りすら自分でできなかった乳幼児は、やがてハイハイを経て自分の足だけで一歩ずつ歩くようになる。
そして自我が自由になると、ときとして親の要求が「自分」の自由に反することもある。
保育園や幼稚園、やがて小学校と階段を上がっていくと、「自分」は社会の一員であるということを体感する。
社会と折り合いをつけていきながら自分の「居場所」を探る活動はこのときすでに始まっていると言える。
そして中学・高校と良くも悪くも閉鎖社会において自分がどのような立ち位置であるかを思い知らされ、
「自分とはこういう人間である」というアイデンティティーとして抱え込むことになる。
そして多くの場合、それを基準としながら大学というモラトリアムを経て社会に羽ばたいていく。


社会は教室と違って、労力と引き換えに自由を与えてくれる。
この意味での自由とは要するに貨幣であり、
それによって私たちは実家を出て居を構え、そこでそれなりの生活をすることはできる。
つまり、社会に帰属して時間的自由を差し出せば、空間的・社会的・金銭的自由が保障されるというのがこの世の仕組みだ。
あとは身体さえ健康であれば、道徳が許す限りさまざまな活動を選ぶことができるはずである。
ただし、与えられた自由を行使した結果のすべてについての責任は負わねばならない。


僕はこの数年をかけて、自由を行使できる基盤を整えてきた。
そしてそれは決して順風満帆ではなかったとはいえ、上京前よりも確かにより自由になったという実感はある。
しかし自由になったからといって、ただちに生活が豊かになったというわけでもない。
自分の本心に対して愚直に「生き甲斐」に打ち込めるようになったわけでもない。
昨今の僕は、その自由の「重さ」に薄々気づき、何かを選択することから逃げ続けていると思う。


できないことをできると信じるのは自分の事実性に対する嘘であり、
自分の本意でない対象に「好きだ」と言うのは自分の本心に対する嘘である。
この6年間は自由を獲得する代わりに嘘に塗れて生きてきたと思う。
だからこそ本心の所在が分からなくなり、やがて世界は灰色に染まり、ワクワクすることが無くなってしまった。
僕は本来社会的には自由であるにも関わらず、
活動対象を思春期からの延長線上にあるものに絞り込んで、その意味ではかなり不自由な活動を継続してきた。
その気になればこれまでの人生になんの脈絡もない活動に手をつけることはできるはずだが、そのための勇気が出ない。
半ばそれを正当化するためにもっともらしいタスクを詰め込み、
それがあるからこそ虚無な人生にはならずに済んできた。しかし、本当にこれでいいのだろうか?


いまの自分が、その自由な社会的基盤と自由意志においてやりたいことを主体的に選択し、
それについて熟慮した計画に向かって邁進する。これこそが生き甲斐であり、生を肯定する根拠になるはずである。
果たして、社会的外圧などに身を任せる人生を当人が本心から肯定的に捉えることはできるのだろうかと思う。
思春期から続く延長線上の活動そのものが悪いと言っているわけではなく、
それそのものを主体的に捉え直し、
「自分はこれをこういう理由でやりたい」と言語化することが重要なのだと思う。


自分の能力的な限界を正直ベースで見つめなおし、それに合わせて目標を是正することは大事な営みである。
そしてそれと同じように、自分が自分の意志でそれをやろうとする覚悟についても考え直してもいいかもしれない。
自分はそれを「やらなければならないからやる」のではなく、実際にはやらない権利も留保しているけれども、
いまの自分がこういう理由でやりたいと思っているからあえてやる、という気持ちを確認するのである。
それをしなかったら諸活動をするにあたって本心の居場所はどこにも無いだろう。
義務感で身体だけを動かしていれば、いずれ心が壊れるのは当然の成り行きだとも思う。


ここ数年の迷走を経て、いまの僕はようやく社会的に自由になれたと思う。
しかしだからこそ、それに付随する選択の責任に怯え、新しい活動を選ぶことから逃げ続けている。
誰かにやれと言われたことをこなすだけで許される人生だったらどんなに楽だっただろうかと思う。
自由を保障されているからこそ、その選択に付随する責任や不安のためにより一層不自由になっているようにも思う。


この「自由に対する不安」という名の壁は、いま30代半ばの僕の前に立ちはだかっている。
壁の前で立ち尽くし見上げるこの感覚は、かつて10代・20代のときにさんざん思い悩んだ、
「大人になるとはどういうことか」という名の壁を前にしたときのことを思い出す。
果たして僕に、胸を張っておっさんだと言えるような日は来るのだろうか。


#8018

甘い言葉の人生論

今日の出来事人生観

いつの間にかブログ界の国内最大手に君臨していた「note」ですが、
まれに良記事に出会うことがあるので最近たまにおすすめをざっとチェックするようにしています。
そこで、『20代を逃した人が、40代で追い抜く方法。 』というタイトルで、
その言葉通り20〜30代を無為にやり過ごしてしまっても大丈夫だよという趣旨の内容の記事が注目されていました。
6,000いいねが「注目されている」と言えるかどうかは分かりませんが、
数値的にはかなりバズっている部類ではないでしょうか。


著者は、まず20代で頑張った場合はそれが「複利」としてその人の資産になるとしつつ、
若いうちから頑張れば構造的に優位になることを認めています。
一方で、「複利」で成果を得るのは何も時間的リソースを費やすだけではないと指摘。
40代からでも活路はあると言います。
そのためにも、まずは「自分は出遅れた」という自己否定をやめること。
過去を取り戻そうとする自己否定や焦りはかえって判断を鈍くするというのです。
20代はその体力と若さで失敗を恐れずに数をこなせること(失敗できること)がひとつの強みである一方、
年齢を重ねた場合は若いころと比べて選択を研ぎ澄ませることができるのが強みである。
「どれだけ頑張るか」という努力の度合いよりも、
どこで戦い、誰と関わり、何を残すかという選択についてしっかり見直し、リソースを集中することが大事だと。
また、その集中すべき活動を習慣というシステムに落とし込むことも大事だと言います。
若いころのように衝動的に行動するのではなく、習慣という形に設計して静かに前進を続けるべきだと。


二流の自己啓発本みたいな内容ですが、バズっているので刺さっている人が多いのでしょう。
しかし基本的な理屈として、量や質、そのベクトルはともかくとして努力の末に成功があるとするならば、
20代から努力している人に、20〜30代を怠けて過ごした人が勝てるわけがない。
「追い抜く」というのは誰に対して言っているのか分かりませんが、
素直に解釈すれば「20代を逃した人以外の他人」に対して言っているものと思われ、
だとしたらそれはちょっとした誇張表現であり現実的ではないように思います。


この記事の内容は体力が衰えてからの頑張り方の指南書としては、方向性は誤っていないと思います。
近年の自分も、どちらかというとこの著者の言うような「選択重視」の活動をしてきました。
どんなこともいったんは必要性を疑い、明らかに無駄なことはしない。やると決めたことはなるべくやる。
それ自体も本当に正しいのかどうかは分かりませんが、
一方でがむしゃらに頑張る気力がもう残っていないのはれっきとした事実であり、
がむしゃらに頑張れないのであれば選択から見直そうとするのは当然の流れであるように思います。


ただ、じゃあ20〜30代を怠けずに努力し続けた人が選択と合理化をしていないかというと、そんなことはありません。
彼らはそれこそ複利でとてつもない高さまで登っていて、もはや別世界を生きています。
そもそも本当に成功する人は、選択と集中を10代、20代のうちからやっている。
大学進学や就職など、制度設計的に若年の段階で「選択と集中」をする前提で作られているのがこの社会です。
10年以上何も生み出せなかった人がタスクの合理化だけでそれを追い抜けると考えるのは甘すぎると言わざるを得ないし、
「追い抜く」という言葉自体が競争原理の泥沼から抜け出せていないようにも思います。
競争原理の中に生き続けるかぎりはそこには勝ちと負けがあり、
40代までに努力できなかった人はさまざまな面で負ける可能性があまりにも高い。
それって活動の合理化でどうにかなる話なのだろうかと。


むしろ大事なのは著者も言っている「自己否定の停止」だと思います。
過去にサボっていたことを後悔するとますます時間を浪費する悪循環になるのでまずはそれをやめる。
そして過去(体力・気力があったころの自分)を基準とした活動設計をしない。
後半の甘言よりもこっちの方がよっぽど重要なのではないかと思いました。


余談ですが、当該記事の関連記事に「20代でサボった分は30〜40代では二度と埋められない」と言っている人もいました。
20代の頑張りがその人の社会活動の基準になり、人はその基準を急に逸脱できない。
なので20代に頑張って当然という基準を作った人はそのペースで走り続けるし、
手を抜いた人は30代になっても相変わらず手を抜き続ける。
20代から勉強している人はそれ相応の評価や信頼を得ているのでさらに学びを深めやすいなど、基盤もしっかりしている。
30代からスタートしてもそういった基盤はなかなか得られないのだと。


さて、どちらが正しいのでしょうね。
まぁでもこういうのは何が正しいとか正しくないとかというのはあまり意味が無いのかもしれません。
30代まで努力してこなかった人に後者の記事の内容を告げても「だからなに?」と言われて喧嘩になるだけです。
過ぎたことをわざわざ掘り返して責めたところでなんにもならない。
かといって前者の甘言で「君はいまからでも20代から努力している人に勝てるかも!」と言ったところで、
短期的には良い気分になっても結局なんの解決にもなっていない。
しかし、いいねがもらえているのは圧倒的に後者であるという現実もあります。
正しいかどうかというよりも、それを読んで楽になるかどうかで社会的評価(いいね)が決まっているようにも思う。
こうして考えると、不特定多数相手にこの手の人生論を披露するのは難しいと改めて思いました。
このブログのような自己批判的な主張をnoteに繰り広げても誰にも読まれなさそう……。


#7519

ライフステージを再定義する

今日の出来事人生観

先日、中年というライフステージから現状課題を改めて考えてみましたが(#07511 / 2024年07月10日)、
そういえばこれまでのライフステージはどう区分されるのだろうと少し気になりました。
こういう区分はどうも時代ごとに定義が揺れ動くため決まりきった物差しはなさそうです。
そこで、自分の経験則として実感できるライフステージの区切り目を整理しておきます。


基本的には15歳以降を青年期とするのはどこも共通しているようで、
それをどこまでとするかは政府・中央官庁の中でも統一された答えはなさそうです。
辞書的には青年期とは思春期に等しいのでアラサーを含むのはやや不適切という意味では25歳辺りが妥当そう。
ただ最近の価値観だと中年期の前まで、つまり39歳までとする説もかなり有力のように思います。
本当は青年期と中年期の間には「壮年期(働き盛りの意)」という区分がありますが、
昨今はこれを老齢期の直前のような意味で使われる誤用が浸透しており、これを使うこと自体あんまりしっくり来ません。
なお、青年期以前は0〜4歳を乳幼児期、5〜14歳を少年期(少女期)とする説が有力です。
ただこれは身体の成長に基づいた区分であり、これもまたやや文脈にそぐわない感じは否めません。
少年と言えば高校3年生、つまり18歳までと考えるのが自然であるように思います。
ちなみに2022年の民法改正で現在は18歳からが「成人」とされていますが、これもまだ違和感があります。


以上を踏まえて勝手に整理すると、当ブログでは18歳までが少年期、
19〜29歳までが青年前期、30〜39歳までが青年後期(壮年期)、40〜64歳までが中年期、
65歳以上が高齢期とする説を推したいと思います。
自分の履歴書ベースの区分では小中高校が少年期、大学・大学院と地元社会人時代が青年前期、
上京以降が青年後期という感じになりまあまあしっくり来ます。
前期が12年で後期が10年なので単純比較はできませんが、
後期6年目であるいまは前期で言うと
大学時代からの長いモラトリアムを抜けてちょうど例のブラック企業に入ろうとしているところです。
また14年ある少年期なら比率から考えて小学校時代を終えて中学時代に突入するところです。
各時代の後半にはたいてい修羅場があるのが気になりますね……。


そして、自分の人生に残されているのは青年後期の残り半分と2ステージしかないということです。
特に若者としての残り時間で言うといまはもう最終セットの後半戦のようなものです。
このことはもっと切迫感を持って捉えてもいいのかもしれない。


#7511

40代の展望から見た現状

今日の出来事人生観

先日、労働をはじめとした社会参加を真っ向から拒み続けてきた「自称日本一有名なニート」が、
45歳を迎えて体力的・意欲的な限界を迎えて感じたことを赤裸々に書かれた本が出版されました。
そしてこれを引用した「やはり社会的に無責任な人には相応の報いがあるのだ」
というような論調のツイートがかなりバズっていました。
所帯も持たない、会社にも所属しないと体が衰える中年で人生が詰んでしまうのだと。


本の中身は読んでいないので実際にどういうことが書かれているかは分かりません。
無職批判の格好の的として恣意的に消化されてしまった感はありますが、
まあこれが相当バズるということはそれだけその論調に賛同する人が多いということなんでしょう。
これについては責任、あるいは公平とはなんぞやという観点で考えるとかなり深掘りする余地がありますが、
この記事ではそこまで考える余力は無いので表面的で恣意的な部分を取り上げてお茶を濁したいと思います。
つまり、必ず来る「中年時代」を自分はどう迎えるべきなのかということです。


ここでは中年のスタートをいちおう40歳と置きます。
自分がその年齢になるころにはどうなっているんだろうとぼんやりと空想してみると、
まずゲームはさらにやらなくなっているのではないかと思われます。
いまですら話題の新作すらなかなか手が出ないのでこれはもう時間の問題かと。
レトロゲームに手を出す、一緒にやる相手を見つけるなどといった悪あがきは今後数年ですると思いますが、
その成果が芳しくない場合は最悪40歳を迎える前にはもうゲームから遠ざかっているかもしれません。
ただ、ピクミンやテトリスなどある程度特別な地位にあるタイトルがどうなっているかは別の話。


そして相対的にゲーム以外のライフワークであるブログはいまより執筆量が多くなるのではと思っています。
これは別に集中力要らないですからね。むしろ老年になればなるほど知識量の面からアドバンテージがある。
趣味としての地位が向上すれば30代前半のように存続が危うくなるようなこともないのではないかと。
ただし書く内容は良くも悪くも変化してそう。
同様に、ゲームが衰退すればするほど音楽や動画鑑賞などより低燃費で楽しめる趣味の比率は上がっていくはずです。


問題はそれらよりも、web制作をはじめとする何かを作る趣味が存続できるかどうかという点です。
これは実際に40歳になってみないと分からない。
ブログの優先度が上がるかどうかはゲームよりもこの辺との兼ね合いの方が大きいかも。
願望を言えば存続していて欲しいとは思っていますが、
現状この分野は「生き甲斐」と言い切れるような拠り所が無くいまだ承認欲求頼みであるため、
大きな逆風が吹けば続ける意義もろとも消し飛んでしまうリスクがあります。
ひたすら自己研鑽し続けなければ成果を生み出すこともできないので、
この先ちゃんとした成功体験を積むことができなければ存続は危ういと言って間違いではないでしょう。
むしろここまで存続できていることが奇跡なのかもしれない。


その辺が中年になるまでに課せられた課題といったところですが、
まあ強いて言えばそれくらいで基本的な生活様式はぶっちゃけ大して変わっていないのではないかと。
少なくとも直近数年でよっぽど「変わりたい」と願わないかぎりは
40歳になっても相変わらず一人暮らしで勤め先でやることもいまと大差なさそうです。
先日無責任に辞めていった例の同じ会社の先輩で無能な引き継ぎ人員がおそらく38〜39歳なのですが、
あの姿がまさに未来の自分のように思えます。
30歳からの5年間がほとんど変化を起こせていないので、残り5年間も同様ならこれは確定事項かと。
そうなりたくないならいますぐに変化を起こすべく行動する必要があるわけですが……。
その辺はどうするのがベターなのか、いまいち決断する勇気を出せないのが現状です。
一人で考えているかぎり結論を出せない類の悩みなのかもしれない。


まぁでもこうして人生を俯瞰するような視点から直近の暮らしを振り返ってみると、
コロナ禍以降の4年間は与えられた時間の割に無策のまま過ごしてしまったのではないかと後悔しています。
確かにこの4年間で改善したことは多くあるし無為ではなかったと思っていますが、
20代後半のように変化したいという「焦り」がまるでなく、漠然と消化してしまったような感じ。
それだけいまの生活の満足度が高いということなのかもしれませんが……。


まあ、皮肉にも結果的には20代後半の方がから回っていて何も変化できていないんですけどね。
30代になってからの方が合理的で実効性のある改善ができている気がする。
ただし、未来を変えたいといった野望を含む行動は皆無なので「漠然と消化した」感覚があるのでしょう。


とにかく本当にこれで悔いの残らない人生だと言えるのか、もう一度よく考えておきたいものです。


#7454

タコウインナーのその先

往年の課題でもあるモチベーションの問題に根ざしている、
「本当に好きだと思えばこそ後回しにしてしまい、それに触れる勇気が出ない」という問題。
このブログではこれをタコウインナーの法則と呼び、不定期に考察してきました。
2014年当時の自分は、「本当に好きだからこそ神聖視し、
それと『客観視した自分』の不甲斐なさのギャップがお互いの間に壁を作っている」
というような分析をしました(#03900 / 2014年10月07日)。
対して6年後の再考察では、好きなのに着手できないのは
「着手することで理想通りにならない可能性から逃げ続けることができるから」
と考えました(#06097 / 2020年08月29日)。
両者の考えは見る角度が違うだけでたいていはどちらも当てはまっています。
根底には成功体験があまりにも少ないことによる自己否定感、自信のなさなどが関係しているのでしょう。


これは好きな人、好きな文化、好きな食べ物、好きな場所などさまざまな「好き」に関わる問題ですが、
さらに言えば自己実現にも関わっているところがあると思っています。
長年やりたかったことにもタコウインナーの法則は適用され、
自分の例で言えば「創作」に関わることは一番実現したいことであるという自負がありながら
実に20年近く着手できておらず、普通に考えてこのまま行けば実現することはできずに終わると思います。
一方で、未練みたいなものは確かに頭の隅にずっとあり、もうやらないという決断はできない。
こんな体たらくなのに「いつかは着手したい……」といまだに思い続けている自分がいるわけです。
我ながら「だったらやればいいのに」と心底思うのですが、ここまで分かっていてもできないんです。


これらを踏まえた上で昨今改めて感じるのは、
人は心の状態と行動に矛盾が生じるような行動は強く抑制されるのではないか、 ということです。
好きなことをする、というのはその人にとって少なからずポジティブな意味合いのある行動です。
そういった行動は本来「嬉しい」「楽しい」「ワクワクする」といったポジティブな感情が伴うものであり、
真逆の感情、つまりストレスなど心理的負荷がかかった状態でポジティブな行動ができないのは当然と言えます。


つまり好きなことに向き合うには、ある種の心の余裕が必須になると。
さらに、その心の余裕を得るために身体的・金銭的・社会的・時間的自由を確保することが重要と考えています。


  • 身体的自由は3大欲求が適度に満たされていること(食べ過ぎ・寝過ぎなど過剰に満たされているのもNG)。
  • 金銭的自由はある程度自由に使えるお金が手元にありお金に関する心配が無いこと。
  • 社会的自由は年齢相応にやるべきことをやっていて人間関係に関する心配事が無いこと。
  • 時間的自由は自分専用の自由時間がある程度確保できていること。

ハラスメントや貧困に悩んでいるような状況で、推し活を心の底から楽しめるとは思えません。
人は楽しいことよりも心配事の方に心を引っ張られがちです。これは種の生存戦略から来る本能でしょう。
つまり、タコウインナーの法則による行動抑制を克服したいのであれば、
やるべきことをやっていない後ろめたさ、あるいは生活を脅かす心配事を整理する必要があるわけです。
それらから逃げ続けてきたことこそが、好きなモノと向き合えない要因になっているのではないかと。
このことから、好きな何かを思い浮かべることを阻害されている場合は心の余裕が無いと判断することができます。


自分はかつて、好きなものを想像するとインモラルな描写によって無理やり阻害されるという、
電波を受信しているんじゃないかというような症状に困っていたことがありましたが(#06903 / 2022年11月10日)、
それも潜在的に強い切迫感、不安、心配があったからなのだと納得できます。
それ以来、創作に関する着想や愛猫の写真・動画などの心の底から好きな概念と向き合えるかどうかというのは
心の状態を測るリトマス紙として機能しています。


これらのことは少なくとも自分のこれまでの人生には大小様々な形でよく当てはまっています。
大学生活では、2024年現在もなおこの世で一番だと思っている異性との出会いがありましたが、
一方で当時はバイトしないといけないのにしない、
生活リズムは崩壊して単位は落とすなど大学生としては散々だったため、
それに対する後ろめたさ、劣等感などは非常に強くありました。
もし、それらが無く一端の大学生として堂々としていられる前提があったなら、
2011年のあの局面で告白しないという選択肢はあり得なかったと思います。


そしてその後もなんだかんだで人間関係トラブルや健康の問題、負の感情との戦いが続いてきました。
2024年現在、フルテレワークによる睡眠の問題の改善に加えここ数年のコミュ力の向上と自尊心の変化で
主に人間関係を原因とするネガティブな問題はかなりきれいになりましたが、
一方で上京後には収入が増えたことでむしろ負荷が大きくなった金銭問題や
テレワークを起因とする仕事のやり甲斐の問題が新たに浮上しており、
まだまだ心の余裕を実現できそうにありません。
唯一2021年のみ、人間関係もある程度清算した上でまだ金銭問題もさほど深刻になっていなかったので、
だからこそあの1年間はさまざまなことに興味を抱き、そしてそれに行動力も伴っていたのでしょう。
あの好奇心に溢れている状態こそが本来の自分だと信じたいものです。


自分の場合、長期的に見て一番大事なことから逃げ続けてきたという自覚があるので、
この負け組人生は自己責任だと思っているし、もうこれを根本的なところから覆すのは不可能だと観念しています。
ただ、ポジティブな行動を抑制する「心配事」は、
書類不備で返送された郵便物をまた出さないといけない、というような短期的に面倒くさいトラブルもあれば、
生まれつきの能力の低さでなかなか就職できない、交通事故で半身不随になった、
などといった独力ではどうしようもないことも多くあるわけです。
これらを一緒くたにして自己責任論に結びつけるのはあまりにも短絡的で乱暴なので、
どこかで一定の線を引く必要はあろうかと思います。解決可能か否かで分けるとかですね。
体感的に、ネガティブな物事が心配事になるかどうかの閾値は歳を取るほど上がっていく(心配事になりにくい)
ような気がしますが、この辺は主観的な経験則だけではなんとも言えません。
確かに言えるのは心配事から逃げれば逃げるほどそれの解決を難しくするということです。
年齢が上がれば経験値も積み重なって解決できるハードルは下がっていくのが自然ですが、
逃げ続けてきた人生では経験値が少ないのに心配事の難易度は上がる一方なので逆にハードルは上がると思います。
これもまた短絡的な考えかもしれませんが、この辺が人生の明暗を分ける要因なのかもしれません。


ここ15年くらいの自分は、心の底から物事を楽しめない、
上っ面だけで芯の通っていないような人生を歩んでいる実感がありました。
今回、長らく正体が分からなかったその原因についに腕を突っ込んだような気がします。
いや、ずっと目を背けていた原因とようやく向き合う覚悟ができたと言うべきか。


#7196

30代後半をどう生きるか

今日の出来事人生観

自分は今年の冬で35歳、つまりアラフォーになります。
正直信じたくないし、受け入れられる自信もありません。
アラサーを受け入れられるようになったのもつい最近のように感じられるのに……。


また東京生活も来年で5年目に突入します。
5年というと実家時代に(バイトを除けば)働いていた期間と同じということになり、
現状は実家時代で言えば2018年、辞めよう辞めようと思い悩んでいたころです。
そして東京へのあこがれが強い時期でもありました。
現状、都内からさらにどこかへ転居する必要性は感じないので
6年目以降も同じような生活になっていると思います。ただ、それで本当に良いかと言われると……。


30代後半にやることとしてぼんやりと持っているイメージとしては、
39歳までにフリーランスとして通用するようになるという目標です。
それは30代前半にwebエンジニアとして積み上げた下地を使った第2のステップであり、
確立すれば脱サラリーマン生活が実現することになるため、いまより自由度が生まれると思います。
じゃあその自由な生活で何がしたいのかと言われると、そこはまだ明確な答えを持っていません。
ただ確かなのは、このまま受動的な生活を続けていると後人生で後悔しているであろうことです。


親族の説得を無視して生涯独身を貫く決心をする。それ自体は別に良いと思います。
しかし、じゃあ生涯独身になるとしてその死ぬまでの孤独な人生を何に費やすんだという話。
もうすぐ35歳という年齢になってその辺が確立していないのは非常に痛々しいと思います。
自分の可能性、社会的役割、その他諸々をひっくるめて俯瞰する機会が少なすぎたのでしょう。
結婚してしまえばそれは「家庭のため」と言い切ることができるのである意味楽ですが、
独身を貫く場合は人生の主軸となるものを自分なりに探していかなければなりません。


自分の場合、web制作がそれに相当するものだと思っていました。
しかし現状を冷静に考えてみると、実務シーンでバリバリ意欲的にやっていけているわけでもない。
ピクチャレ大会リメイクプロジェクトはリリースまでは順調でしたが、
その後のメンテナンスはやはりモチベーションとの戦いになってしまっている現状があります。
これではまだ長期的な活動として確立したとは言い難く、
一時的な自己満足の範疇から抜け出せていません。
その程度の活動を人生の主軸として今後も末永くやっていくのは難しいと思います。
10代〜20代はweb制作というよりもこのブログが人生全体の軸になることを期待していましたが、
オフライン運営になってしまったいまとなってはとてもそんなことは言えません。


そもそも人生の軸になるような活動を持っている人は相当に恵まれている人で、
多くの人はそんなものは持っていない、年齢問わず好きなことをやっていればそれでいい、
というような考え方もあると思います。刹那に生きる的な。
せっかくの一度きりの人生、もっと楽しまなければ損だというのは確かにそうです。
そういう意味においても、自分はただ単に好きなことをして過ごしているわけでもなく、
かといって社会的地位が確立しているわけでもなく中途半端なところを漂っている感があり、
それが巡り巡って歳を取ることへの不安につながっているのかもしれません。


30代後半をいかに過ごすかというのは、直近の大きな課題だと思います。
そういえば、ネタバレ厳禁の話題作『君たちはどう生きるか』には
その辺のヒントもあるのだろうか。なんかもっと若い人へのメッセージというイメージですが。


#7023

若き日にバラを摘め

世の中は目まぐるしく変化しているので、
どのように生きるべきかという問いに対する明確な答えはもはや存在しません。
「X歳までにYしておけ」というような人生の先輩たちのアドバイスも、
なかなか通用しない世の中になってきたように感じます。
しかし一方で、いつまでも目の前のやりたいことをやっているだけではダメなのも事実。
自分は高校卒業時、当時の担任に「若き日にバラを摘め」という言葉を贈られて送り出されました。
これは去年亡くなった瀬戸内寂聴さんの言葉であり、
若いうちに摘んでおけば摘むときにトゲが刺さって傷ができても若い治癒力で癒えるという話。
担任が最後に送り出す言葉にこれを選んだのは、それなりに理由があるのだと思います。


人生で得たい結果(バラ)を得るためには、困難(トゲ)も乗り越えなければならない。
仕事におけるキャリアや仕事以外の自己実現、資産形成や家族を持つこともその範疇でしょう。
それをなるべく早めにやっておくことは得だというのはなんとなく分かる。
けれど、その根拠として「治癒力があるから」と言われるのは
10代である当時、ちょっと腑に落ちませんでした。まあ直感的にはそういうものかと思いますが。


あれから15年以上経ったいま、ようやくその意味が分かりつつあります。
10代と20代と30代では、バラは変わらなくてもトゲに対する認識はすっかり変わっている。
10〜20代は言うなれば失敗しても「若いから」と周囲に許される風潮が社会全体にあるし、
成功も失敗もしていない若い段階では、挑戦することにあまり恐れを抱きません。
しかし30代に差し掛かると、年齢的なプレッシャーが重くのしかかってきます。
後輩世代がどんどん出てきて、彼らの手前無様な結果を出せなくなります。
また、個人的にもどうしても20代以前の自分との比較で考えてしまいがちで、
若い当時にもしていない失敗はしたくないというプライドが芽生えます。
結果として、30代になってからは積極的にトゲを掴む勇気は持ちにくくなるわけです。


それに社会的キャリアは不可逆的なものであり、若い日にサボった分を挽回することはできません。
30代になってから履歴書を盛ることはできないわけです。
逆に言えば、20代にある程度無理をすると、その実績だけで30代以降は自動的に登っていける。
20代はまさに社会人としてバネを引くための期間と言えます。
そこで頑張れば頑張っただけ、30代以降は楽をできる。
自分がまさにそういう感じのキャリアを積んでいる実感があります。
20代にブラック会社でやってきたことが評価されたからこそいまがあるので。


20代にキャリア形成について考えなかったために、
30代になってから転職活動をしようとして路頭に迷っている人は自分の周りにも何人もいます。
たぶん、そういうケースは世の中にありふれているのではないでしょうか。
むしろ順当にキャリアを積んでいるケースの方が珍しい気がする。


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