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日本語

#8169

「感想さ」の奇妙さ

今日の出来事日本語

1週間くらい前に何気なくYouTubeのコメント欄を見ていたら、「感想さ」という奇妙な日本語を目にしました。
あいにくなんの動画か覚えていなかったのでそのコメントは見失ってしまったのですが、
試しにweb検索したら同じニュアンスの使用例を発見したので引用します(ブログ主さんすみません)。



食べたものが違うのですが、概ね同じ感想さです。

私はポテトサラダ、オニオングラタンスープ、アワビ煮込みを頂きました。
ですが、これらでドリンク込み3500円の価値は無いかなと思います。


東京美食Life, 2017/02/02 のコメント - 2023/07/16



おそらくですが、この「感想さ」とは文字通りに受け取れば感想の程度というニュアンスになりますが、
文脈的には飲食店に対する評価の程度を表現しようとしているのだと思います。
同じようなニュアンスで以下のように「感動さ」という表現も見つけました。



詳しく話してしまったら動画の感動さ(?)が欠けてしまうかもしれないのでここら辺にしておきますが、
凄く細かく作られているので考察のしがいはありそうだなと思います


さちの自己満日記, 2019/11/30



これも「感動の度合い」という意味なのでしょう。
つまり「程度」を表すために名詞に「-さ」がくっついているというわけですが、これは正しいのでしょうか。


形容詞は、それを名詞化するために「-さ」がつくことがあります(例:大きい→大きさ)。
同様に、「〜な」と表現できる形容動詞についても、「-さ」に置き換えて名詞化できます(例:公平→公平さ)。
「公平」のように(活用が隠れていて)名詞としても形容動詞としても通用する語彙については、
「〜性」とつけても違和感なく通じることが特徴として挙げられます。
ざっくり言えばこの「〜性」を「〜さ」に置き換えることができるというわけですね。


感想という語それ自体に度合いを表現するニュアンスは含まれていないので、
「感想さ」を正しい日本語と言い切るのは相当厳しいような気がしていますが、では「感動さ」についてはどうでしょうか。
感動にも程度の違いというのはあるのだから、「〜さ」でその程度を表すのは間違いとは言い切れない気がする。
「感動」は名詞なので形容動詞としての活用形は作れないし、「〜性」をつけるのも違和感があります。
何かつけたいならこの場合は「〜的」とつけるのが妥当ですが、それでは感動の度合いを説明したことにならない。


そこで引用文をもう一度読むと、そのあとに「欠けてしまうかもしれないので〜」と続いています。
結局ここで感動の度合いについてのニュアンスを説明できているので、
「感動さ」の「-さ」は不要で、「感動が欠けてしまう」で十分に伝わるというのが正解かなと。
欠けてしまう、というのは物質みたいで少し違和感があるので、より自然な文にするなら「薄れてしまう」でしょうか。
1つ目の引用も、「食べたものが違うのですが、概ね同じ評価です」で何も問題ありません。


つまり、若者言葉になりつつある(?)名詞の形容動詞化はシンプルに蛇足だという結論になりますが、
言葉のルールというのは実は単に正しい・正しくないで決まるわけではありません。
誤用が広まった結果、それが辞書に載るようになったケースはけっこうあります。
「敷居が高い」「とんでもございません」「既存(きぞん)」などなど。
もし今後「感動さ」という表現を使う人が多数派になれば、それは正しい日本語として受け入れることになるのでしょう。
「タピる」(タピオカミルクティーを飲む、を意味する動詞)が流行する若者言葉界隈なら何が起きてもおかしくない。
言葉はいきものと言われますが、本当にその通りだと思います。


#8133

日本語の再学習

今日の出来事日本語

いつか必ずやりたいとは思うものの、なかなか手が出ない分野に「日本語の再学習」があります。
自分はこうして長年ブログを書いていますが、当然その言語のほとんどは日本語です。
そしてその文法や言葉の用法、使い分け、適切な表記については当然ルールがあるわけですが、
最後にそのルールを体系的に学んだのは高校の授業が最後です。
その高校時代当時も、すでにブログは書いていましたが文法を気にするようなレベルには達していませんでした。
その後、長年の執筆経験によって自分なりに日本語のルールが整備されつつありますが、
これは言うなれば独自ルールであり、一般的な日本語のルールとは乖離している可能性を否定できません。
まあ、めちゃくちゃ乖離しているわけでもないとは思いますが。


とにかく完全に独学でここまで来てしまっているので、
まあそれについてはいまさら大きく方向転換する必要性を感じているわけではないものの、
一般的な国文法と自分のルールのどこに差異があるのかは一度点検したいと思っていました。
また、明文化されたルールをちゃんと読むことで独自ルールをさらに読みやすく洗練できるかもしれないな、とも。
そういう意味で、たまに日本語を学び直したいという機運がやってくるのですが、
いかんせんそれを学ぶメリットがブログの書き方がほんの少し変わるかもしれない、という程度のことであり、
あまりにも優先度が低く後回しにされてきたという経緯があります。
基本的には本を読むという手段によって学び直しするつもりでいるのですが、
「日本人のための日本語学び直し本」って意外と少ないんですね。外国人向けならわりとありますが。


3年前、国立国語研究所の石黒圭先生が書いた『ていねいな文章大全』という分厚い本を衝動買いしたことがありますが、
これは自分みたいな物書きオタク向けというよりは一般ビジネスマン向けの本で、
書いてあることは有意義ではあるもののニーズに完全一致はしませんでした。
なんというか、「副詞はこういう順番だと一番伝わりやすい」とか「この助詞はこういうときに使う」とか、
そういう日本語の細かい表現が好きな人が食いつくような話題を網羅した本はないんでしょうか。
いつぞやに発見した、「えっとですね」という言葉が助詞だけで構成されているという話や(#07595 / 2024年10月02日)、
「とんかつ専門店よ」の〈ん〉は音声学的にすべて異なるという話などのように(#07162 / 2023年07月27日)、
日本語の面白い側面をまとめた本があるならぜひ読んでみたいですね。


#7694

愛でると愛する

日本語で「愛する」というと、まず思い浮かぶのは好きな人、要するに恋愛対象です。
一方、「愛でる」というと、モノも含まれるようなニュアンスになります。
もともと「愛でる」は「賞でる」とも書くそうで、漢字から想像できるように褒めるという意味合いも持ちます。
好きな異性などに対する強い気持ちは「愛する」であって「愛でる」ではないですが、
「愛する」は必ずしも異性だけを対象とした概念ではなく、たとえば「祖国を愛する」といった使われ方もします。
なんとなく対象が対等以上の存在で尊重しようとするニュアンスが含まれている気がしますね。
しかし、対象が無機物だと「愛でる」は適当ですが「愛する」は不適当な気がします。
同様に、二次元キャラ等の「推し」に対する気持ちはそれが異性であっても「愛でる」がしっくり来ます。
全体的には「愛でる」よりも「愛する」の方がより強い感情であるというニュアンスがある気がしますね。
趣味や推し活動も相当に突き詰めれば(尊愛の感情があれば?)「愛する」という表現を使っても許されうるでしょう。


さて、昨今の自分はこの「愛でる」感情が迷子になっている感じがします。
なにかを愛でたいが、その対象がいまいち定まらないので心がフワフワと落ち着かない感じ。
実家のねこさまを喪ってからこういう気持ちが徐々に湧いてきたのかなと思っています。
思えばそれとほぼ同時にいわゆる推し活動が本格化したのは偶然ではないのかもしれません。
しかし、考えてみれば当然ですが推し活動がねこさまの代替になれるわけがない。
だからこそ欲求不満に陥っているわけです。
代替は存在し得ないので基本的にはもう2023年以前の状況には戻れなくなってしまったわけですが、
だからといって諦めるわけにもいかず、できれば現状手が届く範囲でベターな何かを見つけたいところではあります。
とはいえ文字通りの代替としてペットを飼うのは一人暮らしにはあまりにもハードルが高すぎる。
百歩譲って猫カフェとかならアリかもしれませんが……。


現実的な範疇でこの欲求をある程度充足できるのが「物欲」だと思っていましたが、
この1年で物欲も半ば消えてしまったように思います。
去年くらいまでは心が踊るような欲しいものを一定周期で見つけることができていたのに、
最近はめっきりなくなってしまった。
もしこれがペットロスによる影響なのだとしたら、それは自分が思っている以上に大きな影響があるのかも。
ただ、物欲も完全に消えたわけではないため、残っている欲求をうまく育てていきたいと思っています。


この文脈でいまの自分に欠けた何かを充足するものがあるとしたらなんだろうと考えてみたのですが、
360枚あるねこの写真と改めて向き合い愛でることが一番の正攻法になるのかなと思いました。
ただ鑑賞するだけで満足できないならiPhoneの純正「写真」アプリの機能にあるメモ機能を使って
各写真にキーワードを付与するとか、AIを使ってエンハンス(超高画質化)するとかやることはいろいろあります。
あとは、存命のうちに3Dスキャンすることはできませんでしたが、
最近は静止画を3D化する技術もあるそうなのでそれを使って3DCG化してみるとか……?


とにかく愛でるものの代替が存在しない以上、そうやって遺されたものに縋っていくしかないのかなと思います。
自分で言うのもなんですが、自分はこういうところはかなり一途なところがあると思っています。


#7595

助詞のカタマリ

今日の出来事日本語

いまの職場はフリーアドレスなのですが、たまたま前に座っていた薄幸そうな綺麗な声の女子社員が電話をとり、
「えっとですね……それについてはこれこれこうで」とお客さんに現状報告的なことをしていました。
ここでの「えっとですね」という言葉は場繋ぎ的なニュアンスがあると思われるわけですが、
それ自体はなんにも具体的な何かを説明していないのが面白いなとふと思いました。
「えっとですね」は構造的には次のように分解できます。


  • えっ(感嘆詞)
    1. 意外なことに驚いたときに発する語。
    2. 問い返すときの語。
    3. チカラを込める際に発する語。
  • と(接続助詞)
    1. 2つの動作・作用が同時に行われることを表す。(庭に出る犬が来た)
    2. 同じ主体の動作・作用が引き続て起こることを表す。(電車を降りるホームをかけだした)
    3. 次に起こる動作・作用のきっかけを表す。(話が始まる辺りは静かになった)
    4. ある条件が備わるといつも同じことが起こることを表す。(猫がいなくなるネズミが増える)
    5. 前後の関係が、いわば順当に起こりうる場合の前件を表す。(お酒は適量に飲むいい)
    6. 次の発言の前置きを表す。(この場合ですお値段が高くなります)
    7. 予想に反する事態が起こることを表す。(行こう行くまい僕の勝手だ)
  • です(助動詞)
    • だ・であるの丁寧語。
  • ね(終助詞)
    1. 軽い詠嘆を表す。(みなさん仲良しでいいわ
    2. 軽く念を押す気持ちを表す。(そんな気がします
    3. 相手の同意を求める気持ちを表す。(本当に明日は来て
    4. 問いかける気持ちを表す。(それは一体何か

(大辞林第8版を参考に作成)


いわゆる主語や述語がまったく含まれていないのに日本語として成り立っている、いわば助詞のカタマリ。
「えっとですね」というのは基本的に場繋ぎとして発声されることが目的でそれ自体に意味はありません。
一方でこの言葉には、実に日本語らしいというべきか会話相手との距離感を規定する魔法が込められています。


「えっと」はフィラーといい、意味のある言葉を発する前の前置きのようなもの。
調べてみるとそれ自体でひとつではなく、上記のように「えっ」と「と」の2つが合体してできた語です。
この場合、接続助詞としての「と」は上記の⑥の用法と見るのが妥当でしょうか。
この部分は人によっては「あ」かもしれないし、カジュアルな場では「え〜っと」と伸ばすかもしれない。
これ自体はややビジネスの場にそぐわない感は否めませんが、次の「です」がそれを中和しています。
カジュアルな場なら「です」を取って「えっとね」でも「えっと」でも成り立ちます。


最後の「ね」は一見して②か③の意味合いがあると思われますが、
「えっとですね」は「ね」を取ると成り立たなくなってしまいます。
「えっと」でフィラーを発声したのち、ビジネスの場に合わせるために「です」をくっつけると、
あたかも断定調のように聞こえてしまいフィラーとしての意味が崩れてしまう。
そこでこれを間投助詞のように変化させ、語尾に「ね」をくっつけることで成り立たせているわけですね。


以前、ブログのモチベ向上に伴い文章力そのものも向上心が芽生えつつあると書きましたが(#07588 / 2024年09月25日)、
ひょっとしたらこれこそがそのモチベーションに一番近い分野なのかも。
先週は好奇心に従って音声学や文字学などの辞書や文献を漁っていたりしたけれど、
もっと身近な「日本語の文法」をもう一度見つめ直すというのはなかなか楽しそうです。
品詞の使い分けを整理して2020年ごろに一度挫折したブログの執筆ルールを今度こそ作ってみるとかね。
それにしても、まさかこんなありきたりな言葉がパズルのように組み合わさって成り立っているとは……。