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承認欲求の問題

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#8157

推し活動の脆弱性

承認欲求のために活動することは、成果を生み出す段階では報われるかどうかわからないという意味でギャンブルであり、
そうした活動からギャンブル性を払拭するための実践として利他活動は有望なのではないか、
というようなことをここ2年くらい繰り返し論じてきました。
利他活動(自分の利益を一切求めない、他人のためにする活動)によって「自分は社会貢献している」と実感できれば、
少なくとも活動は他人に認められないと無意味だ、というような文脈の活動よりも持続しやすいのではないかと。


そして当時の自分は「推し活動」を利他活動のひとつとして挙げました。
推し活動、つまり誰かの活動を(多くの場合金銭的に)サポートするという活動です。
パトロンサイトで課金制のファンクラブに入ってブログに全肯定的なコメントを残したり、コミケでグッズを買ったり。
推し活動が利他活動と言えるのかどうかについてはかなり厳しいような気はしていますが、
いずれにしろこれらの考えの根底には「自分が社会に埋没することに対する恐れ」から脱したいという願いがあり、
その視点からすると推し活動はカネさえ払えば推しからレスポンスはもらえるという点で、
不特定多数を相手にする成果主義の「承認欲求ありきの活動」よりは若干マシのように見えます。


承認欲求ありきの活動は、認めるかどうかは他人次第であり活動主体はそれをコントロールできません。
そのため頑張っても頑張っても認められないという経験が累積すると他者不信に陥り無償では頑張れなくなります。
これは本人のスキルだけに必ずしも依存しません。時代の価値観、運、人間関係にも大いに左右されるでしょう。
そして自分は20年のネット活動の末にもはや頑張れなくなってしまったという事情がまず念頭にあります。
その点、「推し活動」は憧れている人に自分を重ねることによって、
憧れている人が社会に認められたとき、他者に褒められたとき、成果を発表したとき、
それらをあたかも自分ごととして捉えることで欲求を満たすことができます。
しかも、自分自身はファンクラブのサブスクにさえ入っておけば主体的に努力する必要もありません。
語弊があるかもしれませんが、承認欲求の投資信託みたいなイメージです。


しかしそれがいかに脆弱であるかということは、2024〜2025年にVTuber界隈を見渡して痛感しました。
推される側は、推す側の期待によって敷かれた見えないレールの上を正確に歩くことを求められていて、
そこから少しでも逸脱すると「解釈不一致だ」と叩かれます。まずこの難しさがある。
また、推しが叩かれるとそれを推している人もあたかも否定されたかのような気持ちになることは避けられません。
ホロライブ界隈はこれに派閥や不祥事の問題が加わっているので泥沼の戦争みたいなことを裏でやっているわけです。
そして決定的なのは、ファンが多いような人やキャラの推しをやっていても、
ただそれだけでは「社会に埋没することへの恐れ」は払拭できないということです。
ちょっと母数が減っただけで、結局ファンクラブ内では有象無象の一人であるということは否定できない。
そこから抜け出したいと思ったらファンとして主体的に「認められないかもしれない活動」をするしかないわけで、
結局冒頭の地点に戻ってしまいます。


この問題は、「どの程度欲求が満たされれば満足できるのか」というボーダーラインを見極める必要がありそう。
埋没している・していないという観点でこの問題を考えてしまうと、解決は不可能なのではないかということです。
それは自分が推していたVTuberもYouTube配信界隈では埋没している1人の配信者にすぎないことからも明らかです。
もしかしたらこの問題は、視点が高すぎてなんでも他人の成果を俯瞰できるからこそ深刻に思える問題なのかも。
ネット社会はそういう視点の高さがデフォルト設定だからこそ こういう悩みが深刻になっていますが、
実社会の仕事においては、自分は社会に埋没しているという事実を否定できない一方、
たとえば同じ会社でも隣の部署の人が何をやっているのかさえクローズドであるからこそ
自分の領分に集中できているというような側面もありそうです。


実社会をヒントにネット社会における立ち回りを今一度見直してみる、というのはひとつの方針としてアリだと思います。


#8135

匿名テスト

ここ3年くらい、主に「独り言」ではネット人格の承認不安の実践的な解決に向けていろいろな角度から考えています。
承認不安についての考察は何度もおさらいしているので割愛しますが、
ここ最近の自分の思想を一言で乱暴にまとめると、ネット活動はよほど卓越していないかぎり基本的に不毛な活動であり、
少なくとも実績ゼロの地点で不特定多数に認められることを前提とした活動はすべきではない、となります。


これは自分のネット活動遍歴のかなりの割合を否定していますが、しかしすべてではありません。
では、どういう活動は不毛で、どういう活動なら不毛ではないのか。
これについては、匿名テストをパスしたならば、その活動は有望であるというのが現時点の答えです。
ここで匿名テストとは、それが誰にも見られなかったとしてもしたいと思えるかどうかを自問して、
はいと答えられるかどうかという検査です。
逆に言えば、活動の結果、その成果がまったく認められないとしてもそれでもやる価値があると思えるかどうか。
もしそうでないなら、その活動はいずれ承認不安との戦いを避けられなくなるという点で不毛だということです。


この匿名テストは0か100かで決まらず、部分的にはそうだけど部分的にはそうじゃない、
ということが往々にしてありえます。
自分の場合、たとえばこのブログはさまざまな紆余曲折を経て誰にも見られなくても継続できる地盤を手にしました。
そういう意味では大部分は匿名テストをパスしているとも言え、伊達に長く続いていないと思います。
ただ、それでも「誰かに認めてほしい」という欲求はもちろんゼロではありません。
むしろ近年は低コストで誰かに認知してもらうチャンスを作れるなら積極的に実施すべきだ、
との思いから数年ぶりに投稿告知Twitterアカウントを復帰するなど、社会からの認知も狙うようになっています。


一方、なかなか手が出ないクリエイティブな活動はやはり他者承認を主目的としている側面を否定できません。
なぜ承認ありきなのかを否定しがたいのか改めて考えてみると、
これは主要プラットフォームに投稿するという前提があるからなのかもとふと思いました。
たとえば小説なら「小説家になろう」、イラストならPixiv、ゲームならSteamに投稿することを考えたとき、
否応なしにその閲覧数、「いいね」数、コメント(レビュー)、DL数などのステータスが作ったモノに結びついてしまう。
せっかく作ったモノのステータスがよりよいに越したことはないわけで、
つまり何らかのプラットフォームに投稿した時点で他者承認を重視せざるをえなくなるからなのではないかと。
本当にロースキルで努力のきっかけが掴めない活動は、これらに投稿することを前提とするのはむしろ悪手なのかも。


もしそうだとしたら、自分の場合ブログは2014年に独立プラットフォームへ移行したからこそ継続できている側面があり、
またクリエイティブな活動もプラットフォーム非依存なら着手できる可能性はあると言えそうです。
ややこしい言い方をしましたが、要するに自分独自のwebサイトでのみ発表し、承認は期待しないということです。
まあせっかく作ったらSNSで紹介くらいはするかもしれませんが。


去年春、完成度4割くらいで頓挫してしまったデジタルイラストの挑戦も、
「ブログの挿絵を作る」という目標なら再挑戦する価値はあるのかもと改めて思います。
あれもいろいろ方策を考えましたが、結局プラットフォームに発表するという前提が織り込まれていましたからね。
もちろんゆくゆくはそこに行き着くのでしょうが、自信が確立していない段階からそこを目指さなくてもいいのかなと。
ある意味、去年の大キリ番記事としての短編執筆プロジェクトはその一歩だったと言えるでしょう。
いずれはブログを文字媒体だけでない創作物を発表する場として育てていけたらいいなと改めて思います。


#8106

承認に関する社会の潮流

200日ぶりの「独り言」ではネット活動の本質的な不毛さについて論じたわけですが(#08100 / 2026年02月18日)、
キリ番記事を書かねばというプレッシャーに押されて短期間で書いたこともあって
一番言いたいことが埋もれてしまっている「独り言」独特の文章、言うなれば「独り語」になってしまっているので、
ここでは書いてから諸々頭が整理されてきたあとの所感を書いておくことにします。


キリ番記事でネット社会の不毛さを論じたのは、少なくともネット社会にツバを吐くことが本懐ではありません。
あの記事では要するに外発的動機づけはリアル社会(仕事)で満たし、
内発的動機づけはネット社会(趣味)で満たすのがもっとも筋が通っているのではないか、
ということを言いたかったような気がします。
少なくとも外発的動機づけの目的(社会的欲求=他者承認)をネット活動で得ようとするのは不毛なのではないかと。
それはどちらかというとリアル社会に求めた方が合理的なのではなかろうかと。


リアル社会は外発的動機づけの目的であるところの名誉や承認、金銭を得るための仕組みが確立しています。
しかも匿名活動ではないので、自分という人間がそのまま地続きになって他者とつながることができる。
基本的には頑張れば頑張るほど社会に感謝され、報酬は増え、地位も向上していく。
少なくともネット社会でそれを求めるよりハードルは明確に低い。
ネット社会の(真面目な)実績だけで最低時給相当の年収を得たいと思ったら並大抵のことでは達成できませんが、
リアル社会ならコンビニバイトでも達成できます。
そしてそれは他者承認についても(多くの社会人は実感が無いかもしれませんが)同じことが言えるでしょう。
ただし、リアル社会における仕事では「好きなこと」だけで報酬をもらい続けるのは多くの人にとって困難です。
もし好きなことを仕事にできているのなら、それはあくまでも副産物として捉えるべきでしょう。
好きなことだけを仕事にする=正しい、では世の中は回らないからです。


一方、ネット社会は自分とは物理的に切り離された社会なので承認欲求を満たすのには向いていませんが、
内発的動機づけを発露するプラットフォームとしてはうってつけです。
内発的動機づけ、つまり自分の個人的な興味関心、好奇心、情熱、こだわり。
ネットは好きなことを突き詰めようと思えば無限に情報があるし、それについて何かしようと思ったらいくらでもできます。
webサイト、ブログ、動画、配信、SNSなど、「好き」を発信する手段はたくさんある。
その代わり、ここで名誉や承認や金銭を得ようとする、つまり仕事にするのはかなり難しい。
ネット社会では承認リソースが有限である以上は運が良い人やより情熱がある人に報酬が偏らざるを得ません。
ここで外発的動機づけ、つまり他人に認められたいというだけの動機で勝負するのはそもそも不利だということです。
たまに承認をもらえることがあるかもしれませんが、それはあくまでも副産物として捉えるべきでしょう。
常にそれを求めて一喜一憂するようになると、ネット活動がギャンブルになってしまうからです。


あくまでも好きなことを仕事にしたいという人もいるし、
ネットで承認、名誉、金銭を得たいと思って馬の目を抜こうと躍起になっている人もいますが、
自分が観測しているかぎり、いずれのケースも母数に対してあまり成果は芳しくないという認識です。
それは世の中の潮流に逆らっているようなものなのでしょう。
なので、これからは金銭や社会的欲求は仕事で追い求めることにして、
ネット活動は好きなことを好きなようにやるだけと割り切っていくのが健全なのではないか、
ということを言いたかったのでした。


自分は幼少期からwebサイト管理人(仕事人)としてネット社会の成熟を見守ってきたという経歴から、
ネットに外発的動機づけの報酬(仕事としての成果)を求めては承認不足にうんざりしてきた側面があり、
その「報われなさ」の正体はなんなのかとずっと前から思っていました。
そしてそれはもしかすると、自分の内にある内発的動機づけを蔑ろにしてきたことに原因があるのかもしれません。
ずっと社会の潮流に逆らってきたからこそ報われないし、疲弊してきたのではないかと。
リアル社会にはリアル社会の、ネット社会にはネット社会の適切な立ち回り方がある。
それに対する認識がずっと甘かったからこそのこの現状なのではないか、と改めて思うわけです。


なのでまあ、いまの自分の何が一番ボトルネックになっているのかと言われると、
それはおそらくwebクリエイターとして上京したのにほとんどweb制作に関われていないという仕事面の事情なのでしょう。
しかしこれはもう年齢的・時代的にいかんともしがたいところがあり、悩ましいところです。


#8100

社会と承認の話

インターネットにおけるこれまでの活動成果への他者のフィードバックに対する率直な認識として、
僕は活動量に対して得られている他者承認が不当に少なかったと思っている。
そして「このクオリティでは不十分だから認められなかったのだろう」という安直な反省により、
承認を得るためのハードルが青天井に上がり続けるという悪循環によって行き詰まりを感じてきた。
この流れは思い返せばネット活動初期から連綿と続いており、
ゆえに(匿名・半匿名の)ネット活動そのものに対する不毛さはいまだ否定できていない。


これまではネット活動の不毛さを他責論から出発して考えようとすると議論さえも行き詰まると考え、
基本的には自分の側に原因があり、それを克服することで多少なり改善するはずだという希望を捨てずにやってきた。
利他活動に注力すべし(#07800 / 2025年04月25日)といった考えや
仕事として捉えるべき(#07900 / 2025年08月02日)といった考えはその一環とも言える。
いまはいわば実践過渡期であり、これらが正しかったのかどうかについてはまだ結論を下せないけれども、
しかし短期的には何も解決していないという実情もある。
少なくとも匿名の人が跋扈するプラットフォームで活動を続けるかぎりは何も変わらないのだろうと。


安定した承認基盤が確立していないコミュニティにおけるコミュニケーションの基本的な動機は、
他者の中にいる自分の「存在確認」である。
コミュニティに所属しているかぎり他者は自分を少なくとも認識はしているのだろうと思うが、絶対的な確信は無い。
そこで挨拶が返ってくるか、質問に答えてくれるか、向こうから話を振ってくれるかなどというように、
少しずつ探りを入れてどの段階まで自分が人として認識・尊重されているのかを逐一確かめることになる。
そのような心理状態において、自分は尊重されているという根拠になる他者の発言は大きな救いになる一方、
反応を得られないという事実に直面すると大きな心理的負担にもなる。
そこには主観的な自分ではなく「他人の中にいる自分」こそを尊重されたいという欲求が確かにある。
そしてその「他人の中にいる自分」が確立して初めてその人との間で安全なコミュニケーションができるようになり、
ようやく自分はこういう人なんだという根拠になるようなスキルや実績を遠慮なく発露できるようになる。
まず実績を作ってそれによって自分を認識してもらおうというネットでありがちな営みは、そもそもこの順序が逆なのだ。


「他人の中の自分」は、できればその他人の自由意志のもとに尊重してほしいと思う。
しかしそれは存在確認がお互いに行われ、自分もその人を尊重し、承認基盤が安定して初めて望めるものであって、
尊重される以前の「いかにして認識してもらうか」という段階においては、
「他人の中の自分」の容れ物にすぎない他人そのものを尊重する余裕が無いこともあり得る。
そこで、そういう人は話を遮って自分語りをしたり、掲示板を荒らしたり、わざと他人が不快に思う言動をしたりする。
すると他人は否が応でも「他人の中のその人」を認識し、したがってその人の目的は達せられることになる。
認識させたいだけなら他人を尊重しない言動の方がスキルも不要で手っ取り早いのは間違いない。
少なくともTwitterのようなサービスではそのような倫理との不整合があると思う(#08044 / 2025年12月24日)。


モラルを逸脱して「他人の中の自分」を無理やり他人に認識させれば、当然の成り行きとして尊重はされないだろう。
しかしネット活動では「他人の中の自分」が認識されないということは死人と同義である。
誰かに認識してもらうかどうかというのは多くの有象無象にとってネット活動を支える重要な関心ごとであり、
一方で尊重されることはそのハードルの高さからもはや諦めている人も少なくないと思う。
少なくとも実感として東日本大震災以降のネット社会では承認リソースは数値的優位な上位層に集中し、
それ以下へは十分に行き渡っていないと感じている。
つまり、ここには「すべての人が可能なかぎり尊重されるべきだ」というような思想は流れていない。


承認欲求は他人の中の自分が尊重されているという実感を得ることで初めて満たされる欲求であり、
他人に認識されるためだけの行動では基本的に満たされない。
その点、利他活動はモラルを逸脱せずに他人に自分を尊重してもらう余地を残した「認識されるための行動」と言えるが、
それが成立するためには見返りを求めないという厳しい条件が付随する。
誰かに認識されたいという見返りを期待するならそれは道徳的な是非は別として、本質的に自分語りや荒らしと変わらない。
やはり、現代のネット社会は承認を得たいという目的から出発して考えると
もともと潤沢な人間関係があるか卓越したスキルを持つ人のための実力主義社会であり、
ここで他者に認識されていない人がゼロから承認を求めるのは極めて困難だという考えはますます否定できない。
もちろん、だからといって現実が正しく平等社会なのかというとまったくそんなことはないのだが、
市井に横たわるマナーの存在感を考えるとネット社会よりは幾分かマシのようには思える。


……ネット活動を「損切り」すべきなのではないかというのは、ずっと前から考えていた。
僕は根本的に承認に飢えていて、条件付き承認しか与えられないネット活動でそれが満たされることは無い。
かといって本当の自分を隠したまま「無条件の承認=愛」をネットの向こうの誰かに求めるのもまた不合理だと考えている。
今後も死ぬまで承認欲求との戦いになるなら、どこかで絶対にリアルと向き合わなければならない。
とはいえネットのキャリアを捨てなければリアル活動ができないかというとそういうわけでもないので、
もしも実践するとしたらネット活動とのリアル活動の両輪作戦(#07500 / 2024年06月29日)になると思っているし、
なんなら仕事もリアル活動の一環である以上はすでに両立しているとも言える。
ネット活動は自分をすでに認識している人のためだけに行為するという方向性は今後ますます強くなっていくと思う。
顔の見えない誰かに承認を求める不毛な活動はさすがにもう終わりにしたい。


#8073

承認枯渇による行き詰まり

東京一人暮らしという環境下で優良なパートナーがいない自分は、
いわば「条件付き承認」によってのみ社会に存在意義を認められる状況で生き続けています。
条件付き、つまりなんらかの実績を出さないと社会から見向きもされないというシステムは、
あるときには努力するための種火になることもあり、あるときは人生に行き詰まり感を与える壁になります。
そのどちらになるかについては、自分がその「条件付き承認」にどこまで希望を抱けるかどうかに依ると思われ、
「この程度じゃ誰も認めてくれないだろう」と思えば活動が長期停滞してしまうことも珍しくありません。


いま、諸々の誘惑に負けて2週間という時間をドブに捨てた結果、
他の活動をすべて止めて日課としてのブログを復旧する作業に取り組んでいます。
ブログは基本的に「条件付き承認」の枠組みの外にある活動であり、
基本的に自分はこの活動で他者承認を得られるとはもはや思っていません。
一方で、2週間の停滞によって社会的承認を渇望する気持ちは膨れ上がってきて、
メンタルバランスはかなり危ういところに来ていると思います。これを年単位で放置したら心は壊れるでしょう。


社会的承認が枯渇してくると、自分より実力で劣る相手を殊更に侮りたくなったり、
または自分の些細な言動を否定されると必要以上に傷ついたりします。
活動が停滞している後ろめたさから、自分は不当にこの地位にとどまっているという気持ちがあり、
地位の低い相手の活動を否定することで自分を少しでも正当化しようとしているのかもしれません。
ちゃんとした成果が出ていなくても活動に対して誠実に対応していればそうは思わないはず。


年始にしてぶつかったこの2週間以上の長期停滞をもし抜け出したら、
少しずつでもいいから各方面の活動を継続するということを心がけたいと思っています。
ブログを抱えていたり取引で含み損を抱えていると活動が停滞してしまうのは人の性と諦めていますが、
そうでないときにも活動が停滞するようなことは絶対に避けたい。
えてして停滞が長期化すると復帰にもそれなりに高い心理的ハードルができるので、
これ以上の長期化は是が非でも避けたいところです。


にしても、今年で22年になるのにいまだにこんな問題が出てくるようでは先行きは不安ですね。
自分はもう一生この問題を抱えて生きていくことになるのだろうか。
いまはまだなんとかなっていますが、40代や50代になったときに果たして乗り越えられるのか甚だ疑問です。


#8041

承認欲求の暴走

改めて思うのは、承認欲求「だけ」を求める行動は非合理なところに着地しやすいということです。
承認欲求との適切な付き合い方については悩み続けてなお明瞭な結論が出ていませんが、
少なくともそれは「使い方」を誤ると自分の人生を迷走させかねない恐ろしさがあると思います。


直近でそれを実感したのは『カービィのエアライダー』ですね。
このゲームタイトルは世間的には間違いなく今年最大級の注目作で、
自分も可能ならその波に乗っかりたいと思っていましたが、
その実自分にはもうそんな気力が残っていないということは嫌と言うほどわかっていました。
でも、だからといってせっかくのビッグタイトルの発売日に何もしないのも悔しい。


ということで需要があるなら既存のシステムをフォークしたランキングサイトを作る意志がある、
というような内容の投稿をわざわざ本アカでしたり、
Discordに新規サーバーを作ってDisboardというサーバー検索サイトに登録したりしました。
両方、特に後者については何をやっているんだというレベルの黒歴史で、
発売してすぐにやらなくなったあとのいま思い返せば、本当に何をやっていたんだろうと思います。
いずれも、どう考えても自分みたいな熱量のプレイヤーがやるようなことではありません。
終わってみるとなぜこんな不合理なことをしてしまったんだろうという不思議があります。


これは、例えれば広大な砂漠で喉が渇いているところに1杯の水が見つかったとき、
その道中がどんなに険しくても水に向かって歩くしかないというようなことなのだと思います。
死ぬほど喉が渇いているからこそ、千載一遇のチャンスである水を見捨てる理由はどこにもないわけで。
承認欲求も、あまりにも満たされずに枯渇するとそうならざるをえない。
『カービィのエアライダー』の登場は、自分にとって第二の活動場所になる可能性がありました。
そしてそういう可能性はこうした新規タイトルの発売が契機であることが多いという昔からの固定観念もあります。
その確率は1万分の1かもしれませんが、ゼロより大きいのならやらざるを得ないみたいなところがあるわけです。
しかし客観的にみれば、どう見てもほとんどゼロなのだからそれは合理的な行動には見えない。
一言で言えば非合理というよりは惨めな行動だということなのでしょう。


これをどう反省するべきかということを考えたとき、
単に「ビッグタイトルだから」というだけで食いつくのではなく、
自分自身の熱量やポジションを冷静に考慮した上で少しでも高い確率のルートを選ぶ必要があるのでしょう。
自分のケースで言えば、やはりどんなに新鮮さが失われていても既存コミュニティで頑張る方がまだ可能性がある。
この歳にして完全新規のコミュニティを「作る」ということがそもそも難しいわけです。
新しいコミュニティに所属することさえ難しいんだから当然のこと。
その「合理性」と直感的な興味関心は相反することが間々あり、既存のものはつまらないと思いがちですが、
しかし実際にやってみれば合理的な方が楽しめるかもしれない。
そもそも、たいてい2週間で冷める「直感的な興味関心」は果たして信用できるのかという話です。


この辺は20代以前と30代以上では考え方や立場も違うのかなと思います。
20代以前なら直感に基づいて空手で挑んでも良かったのかもしれないけれども、30代以上はそうはいかない。
やはりどこまでいってももうこれまでのキャリアを無かったことにはできないわけです。
なので自分の興味関心や気持ちがどうであろうと、もう敷かれたレールの上を歩くしかない。
果たして本当にそうなのか、という疑問は散々抱えてきましたが、まあこういうものなんだろうなと思いつつあります。


#8006

主人公になれない

いま現在、世界同時株安で含み損を抱えている関係でかなりネガティブな状態になっているため、
これはネガティブ思考が憶測に憶測を重ねた妄言であることを承知の上で考えてしまうのですが、
やはり自分が主体でないコミュニティに居続けても消耗するだけだなと改めて実感します。
もっと言えば、自分が「主人公」である社会に1つでも所属していないと自己肯定感はいつまでも育たない。
そしていま自分が所属しているリアル・ネットそれぞれのコミュニティは、
いずれも自分は主人公ではないと言わざるを得ません。


ここ3年推進してきた「推し活」も、利己的活動からの脱却という大義名分はあるものの、
結局のところそれに心から満足する瞬間というのはいつまで待っても訪れないわけです。
推しと直接話せる機会はVTuberならスパチャ、リアルアイドルならサイン会などであり得るかもしれませんが、
それはよっぽどレアなケースであり日常になることはあり得ません。
そしてそういうレアケースを除いた推し活動の日常というのは、推しから見た自分は有象無象のひとつでしかない。


ゲームコミュニティもここ2年はどちらかというと他者を応援するというスタンスでいましたが、
結局その立ち位置であるかぎりコミュニティの脇役であるという立ち位置を否定することはできない。
この場合、メインストリームの人たちと脇役の違いは当該ゲームをしているか否かの違いなので、
推しと創作活動の関係よりは比較的ハードルが低いのも事実ですが、
ゲーマー人生が後期高齢時代に突入してしまった自分にとってはその低いハードルを越えるのもまあまあ難しい。
「低いハードル」といっても、最終的にはメインストリームの人たちに匹敵する成果が必要だからです。
たとえば流行しているRTAの上位に入るとかですね。誰もやっていないスコアタで上位を取ったところで、
その種目を他に誰もやっていないなら注目されるに値しません。


リアルの関係においても、自分は基本的に相手が完全に無害だと確信しないかぎりは聞き専に回るタイプなので、
1対1の会話においてもコミュニティ主体になることはありません。
これは単にコミュ力(相手を楽しませる話術、基礎知識や趣味に対する造詣の深さ)の不足も多分にあると思いますが、
それ以上に相手の懐に入っていけない勇気の不足というのもあると思います。
主人公になるには少なからず勇気や努力が必要になる。
しかし、それが報われないことが多々あったのでコミュニティを信じ抜くことができないというわけです。


ただ、「コミュニティの主人公になる」ことが必ずしも正しいとは限りません。
ここは昔の自分とは異なる考え方です。昔は「主人公になれないなら人生無価値だ」と考えていた節があります。
これは長男坊特有の思想なのではないかと思います。
しかしいまは、人はより多くの人に埋没するのが当たり前、
オンリーワンになったからといって脚光を浴びることがないのも当たり前。
だからこそ「埋没する自分」を受け入れるように舵を切らないと消耗する一方だという考え方が根強いです。
これが合っているのかどうかは分かりませんが、
少なくとも言えるのはただ無防備に埋没しているだけではメンタルが保たないということ。
特にいまのような低迷期にこの現実は大きな重石になってきます。
コミュニティに対して「主人公になれないなら無意味だ」という価値観は間違っていると思うし、
客観的にはすごくわがままなことを言っていると思います。
一方で、脇役では満足できないという欲求不満があるのも偽りがたい事実であり、それを無いことにはできません。


まぁ、世の中の人たちも意外と、多かれ少なかれ主役になれない自分にうっすらと不満を抱きつつも、
ときに満たされないと実感するコミュニティにしがみついてどうにか生きているのかもしれません。
それではどうしてもダメだという人はたとえば配信者になったりするわけですが、
これも相当にコミュ力が必要な活動なのでスキル不足ならままならないでしょう。


「利己的活動は不毛」という経験的事実から推し活という「利他活動」にある種の希望を見出した近年ですが、
本音ベースでは結局この路線で満たされることはないということが分かってきました。
埋没してもなお満足するためにはどうすればいいのかを考えるべきか、
あるいは自尊心を捨ててでもチヤホヤされる道を探るべきか……。
また、根本的にあらゆる文化に対する意欲不足も多分に悪影響をもたらしているものと思われ、
そういう「地力」を鍛える方向に舵を切るのも手かもしれません。
いずれにしろ、「利己的活動がダメなら利他活動」という単純なスイッチングは失敗だったと認めざるをえないでしょう。


#7857

アイデンティティーを支えるもの

熊代亨 『何者かになりたい』 (2021年、イーストプレス)を読みました。
この本は「何者かになりたい」「何者にもなれない」という悩みを「何者問題」と呼び、
それに対する著者の考えを展開する本です(本質的な意味での「何者問題の処方箋」ではありません)。
ネットレビューでは「結局何が言いたいのか分からない」等とやや低評価で、
個人的にも熊代先生の本は3冊目ですが(前回→#05529 / 2019年02月09日)、
確かに前回よりは内容がぼんやりしていたような印象を受けます。
しかし、それでも大切な箇所が皆無ではないのでメモ程度に感想を書き残すとします。


本書の「何者問題(=何者かになりたい)」は「アイデンティティを獲得していない問題」と同義であり、
全体としてアイデンティティの獲得は容易ではないという意見が展開されています。
たとえば東大合格という大きなアチーブメントを達成して東大に入ったとしても何者問題はすぐ解決するわけではない。
なぜなら合格して東大に行けば同じアチーブメントを持つ人が無数にいるからです。
同じようにSNSのフォロワー数や現実の肩書きなどは、それ自体がアイデンティティを保証してくれるわけではなく、
それどころか肩書きに依存すると自分が何者かを見失いやすい危険性があると著者は言います。
ひとつの肩書きに依存するのではなく、
寄木細工のように小さな肩書きを集めて「これこそが自分だ」と言えるのが理想だと。


また、何者問題を解決するとしたらそれは自分にとって「代替不可能な何か」だと著者は主張します。
たとえば恋愛・結婚などのパートナーシップに何者問題の解決を求める場合。
マッチングアプリで出会った段階やパパ活のような関係においては、
「この人がダメなら乗り換えればいい」という考えが念頭にある以上、何者問題の解決になり得ません。
しかし一方、責任感のある親にとってのパートナーや子どもは「代替不可能」であり、
そういう存在はアイデンティティの確立に寄与します。
これは肉親や伴侶だけではなく、十分に信頼関係を築いた相手や文化などについても同様のことが言えるでしょう。
それが失われたらもう代わりは存在しないと言えるものが、我々の「何者問題」を解決しうるわけです。


しかし補論で著者が言うとおり、そういう存在はあまりにも当たり前すぎて我々は軽視しがちです。
すでに何者かになっているのにそれに満足せず、さらに別の「何者か」になろうとするとき、
私たちは代替不可能なそれを安易に切り捨ててしまいがちです(「負のアイデンティティ」)。
日本にはもともとお中元や年賀状といった習慣によって「当たり前」になった縁を折に触れて思い返して感謝していました。
それらが廃れたいまは、SNSの「いいね」なども代替になりうるのではないかと著者は言います。


以上がざっくり本書の中身です。
著者は仕事もプライベートも充実した所帯持ちということもあり、
精神科医としての視点はありつつも、必ずしも本書のテーマを渇望し悩んできた経緯を持っていない「勝ち組」です。
そのため、本当にアイデンティティを獲得できずに切迫しているような人の気持ちを代弁しているとは言いがたく、
それゆえにどこか言葉が軽く、それが本書の低評価につながっているようにも見受けられます。
こういうテーマは恵まれない出自で人生に苦労し、
本当に「何者かになりたい」と渇望してきた人でないと説得力を生みにくいのではないかと改めて思いました。


#7815

遠い昔の全肯定的承認

一般論として、人は誰かにされたことを他人にもしがちです。
嫌なことを言われた経験のある人は、自分より弱い人に辛辣なことを言いがち。
いじめられた経験のある人は、チャンスさえあればいじめる側に回りやすい習性があります。
社会における「〇〇ハラ」は、いじめられっ子が誰かをいじめるチャンスに巡り合ってこそ起きるのではないでしょうか。
逆に言えば、嫌なことをされたことのない人は他人を憎む方法が分からないので、
その憎しみの連鎖に参加することはできません。


これは負の感情だけでなく、愛や優しさについても似たようなことが言えると思います。
誰かに親切にされたことのある人は、そうでない人よりも誰かに親切にする機会が多いでしょう。
もちろんそれも「チャンス」が巡ってこないと発動することはできません。
親切にされたことのない人はそもそもチャンスが巡ってきてもどう行動すれば良いか分からないのではないでしょうか。
愛についても同様のことが言えます。親に必要十分愛されなかった子どもは、
よほどの奇跡でもないかぎり愛を信じることができないまま一生を終えます。
そういう人は、たとえ「チャンス」があったとしても誰かを心から愛することはできないでしょう。


このブログの7801〜7900番のテーマは「愛」になるような気がしているのですが、
欲求不満人間たる自分は当然十分な愛情を受けた覚えがありません。
どちらかというと憎しみの連鎖の中で生きている側の人間です。
パトロンサイトで絵師さんのブログを「全肯定」的にコメントしているという話を書きましたが、
言うまでもなくそれはパトロンサイトに登録していることによる利益があってこそのことです。
実利が無かったらコメントしていないという点で、それは本物の愛とは言えません。
しかし、ネット活動上の承認としてはこれが限界なのではないかとも思います。
実利があるとはいえ、これは誰かに全肯定されたことがあるからこそできている行動であるとも考えられます。
もしそうでなかったらパトロンサイトに登録して実利だけもらっていくのが関の山なのではないかと。


そうして記憶を遡っていくと、いちおう自分にも全肯定の承認をもらえていた時期があることに気づきます。
Twitterも2015〜2017年の全盛期は、あらゆる投稿が最低1いいねはついていました。
どんな内容でもたいてい「いいね」してくれる人というのがフォロワー内に2〜3人いて、
そういう方々によって自分のSNS活動が支えられていました。
メンヘラ期の活動休止を経てそういう方々は軒並み界隈から離れ、近年は「いいね」はつかなくなってしまいました。
かといっていまも界隈にいる人は自分に対して何でもかんでも「いいね」しないので、
そういう人たちにこちらからなんでもかんでも「いいね」をする義理はありません(普通そういうものだと思いますが)。
自分がSNSにおいてずっと迷走しているのは、こうした全盛期とのギャップも多分にあります。


実はブログについても他者に支えられていた時代がありました。
高校当時はブログブームというものがあって、交換日記のようにブログのURLを教え合っていました。
そのためこのブログもごく黎明期にクラスメイトがコメントしてくれるようなこともあったんですね。
いま思えば、そうやってみんなに見られている中であのポエムを発表していたのはおぞましいことですが……。
2006年当時、ブログを「生き甲斐」と認識していたのは
ブログが教室という小さな社会の中で認められるための媒体としてちゃんと機能していたからだと思います。


また同時期、楽天ブログからたまたま自分を見つけたのであろうおそらく主婦の方がいて、
この方は自分のあらゆる投稿に対して全肯定的にコメントをつけてくれていたのを覚えています。
自分の厨二病全開な投稿やちょっとした愚痴にも寄り添ってくれていました。
なぜ自分に対してあんなに優しいコメントをくれたのか、いまでも分かっていません。
そういうわけで、このブログも最初の3年くらいは明確に他人に支えられ、だからこそ続けられてきた側面があります。
こういう記憶があるからこそ、自分もパトロンサイトで他人の活動を支援したいと思ったのかもしれません。
もし22年間一度も承認されたことが無かったら、
果たして実利のためとはいえ肯定的なコメントを果たして残していただろうかと。
年数はかなり開いていますが、結局これも他人にされたことのお返しに過ぎないということです。


直近10年は他者からの承認が枯渇していて、それゆえにいま自分が他者不信に陥っているのは確かです。
だからこそ承認社会へ素直に入っていけずにネット活動の行き詰まりを実感している。
でもそれは、ブログを開設して最初の3年はともかくとして、
それ以降は自業自得な面もあり、たとえば本家ブログをより人目につきにくいWordPressに移転する、
TwitterのbioからURLを削除して事実上別名義化するなど自ら承認から逃れてきたという歴史があります。
これはまぁ当時のブログの不安定感を考えると必然的なことだったと思いますが、
そういう過去の愚策が現在の行き詰まりに影響している面は否めないでしょう。
しかし黎明期にああいう体験ができたこと自体、これでもまだ恵まれている方なのかもなとも思います。
本当に他者不信の沼に堕ちて実害が出てくる前に、何か自分にできることはないだろうか……。


#7800

愛と承認の話

2003年から20年以上もの間ネット活動を続けてきた僕は、ここ数年で分岐路に差し掛かっていると感じる。
それは一言で言えば「認めてもらうための活動」が完全に行き詰まり、
方針転換せざるを得なくなったということである。
ブログ、webサイト、動画、SNSなど、活動のための媒体はさまざまなれど、
いずれも当初の目的は自分という存在を他者に認めてもらうことだった。
そしてこの20年余りを振り返ると、どの活動も認められているという実感は無い。
短期的には認められたと感じることはあったけれども、いずれまた喉が乾くということを延々繰り返している。
こういう活動を続けるかぎり、僕は何歳になっても承認欲求不満であり続けるのだろう。


ネット社会で承認欲求を満たすことのみを目的とするならば、モラルを逸脱するのが手っ取り早いと思っている。
きわめて善良で平凡な意見が(多数派だからこそ)見向きもされない一方で、
告発系のYouTuberが同接ランキングの上位を独占したり、センシティブな投稿が桁違いのインプレッションを稼いでいる。
このSNS社会では、本当にただ注目されたいだけなら「悪い人」になってしまうのが手軽で合理的なのだろう。
僕はかつて、ネット社会というものは努力に比例して成果が認められる純粋な実力主義社会なのだと思っていた。
しかし、それはあまりにも甘すぎる考えだったと言わざるを得ない。
良くも悪くも尖っている人ほど目につきやすいという構造の都合上、
狡猾な人が上に立つというのは振り返れば昔からずっとそうだったと思う。
尖った才能の無い僕はそこで馬鹿正直に戦い続けることに、正直そろそろ疲れていた。
かといってモラルの壁を越える度胸も無い。


これまでのネット活動の目的は常にその意味での承認欲求のみが目的だったわけではないと信じたい。
僕はいつからか、「いいね」の数よりも質を重視するようになった。
単に数を求めるだけでは承認欲求は際限なく肥大化していき、あっという間に自分のキャパシティを超える。
そこで自分の活動を好意的に捉えてくれる人との関係を重視し、そのためにこそネット活動は存続してきた。
しかし、隣に自分よりも多い「いいね」を稼ぐフォロワーがいるかぎり結局満足することはなく、
心構えを変えたところでさほど意味は無いのだと思い知った。


人はある程度は失敗しても認めてくれるという安全性が担保されて初めて、そこでのびのびと活動できるものである。
認められないこともあるという状態は「条件付きの承認」に過ぎず、それだけでは活動を盤石にしない。
ネット活動におけるほとんどの個々の他者承認はこれに該当する。
ネット活動をする人々は心のどこかで「認められないかもしれない」「否定されるかもしれない」
という自己否定感や無力感、あるいはプレッシャーと戦いながら成果を求めていく。
そのストレスを前に、表に出すことを諦めた活動は数知れない。
評価される以前の活動はたいてい、受けるストレスと実際に得られる承認が釣り合わない。
自己否定感を払拭したいからこそ承認を求め、認められなければ自己否定感はさらに強まり、
それを「解呪」するためだけにわずかな他者承認を渇望するようになる。
そうして人は、他者承認を求めるかぎり多重債務のような悪循環にズブズブとはまっていくのだ。
活動のための努力は、「きっと承認されるだろう」という期待があってこそ実践できる。
条件付き承認に対する不信が募れば人はいつしか努力さえできなくなり、
究極的には努力はできないが誰かに認めてほしいという、無条件の承認を期待するようになっていく。


「無条件の承認」とは要するに愛であり、自分がただ存在するだけで承認してくれるということである。
ここでいう愛は本人の能力、努力、実績、個性などとはまるで関係ない文脈で成立しなければならない。
無条件の承認を与えるのは本来家族やパートナーなど代替不可能な関係性を持つ人の役目であって、
赤の他人で顔さえ見えないネットの向こうにいる人にそれを求めるのは非合理と言わざるを得ない。
僕は、かつては信頼を得るべく少ない可能性に賭けて努力していたかもしれないが、
いつしかその心も折れ、無条件の承認をネットの向こうに求めていた側面が否めない。
ネット活動が割に合わないと感じるようになった原因はきっとこの非合理性にあるのだろう。


ネットの向こうの人間はどんなに「自分」を承認したくても成果が見えないかぎりは物理的に承認できず、
承認されるためには少なくともなんらかの能動的な活動成果が必要になる。
しかし、成果に求められるクオリティはSNS社会の拡大や自分自身の実績の増加に伴ってインフレしていき、
同じような承認を得られても結局負荷は高まる運命にある。
これは活動の持続性を考えたとき、
「他者が承認を与えるかどうかは不確実だから」ということ以上に深刻な悩みになる。
やがては努力できなければこの関係性を維持できないような無力感に苛まれることになる。
元も子もないことを言えば、自分という人間をただ全面的に肯定されたいだけなら、
ネット活動に血道を上げるより最初から家族などリアルの関係と向き合うべきだったということになる。
しかしそこに希望を見出せるならとっくに行動しているはずで、現実もそう甘くはない。
家族のことを思えばこそ、僕に上京しないという選択肢は無かったといまでも信じている。
いくら親に愛されているからといって、永遠に自立しないわけにもいかない。


ネット活動は、身元を隠しているかぎりオフラインの自分を承認してくれることは永遠に無い。
しかし裏を返せば、オフラインである間はオンラインの人々に否定されることなく過ごせるということでもある。
ネットにはネットの、仕事には仕事の、プライベートにはプライベートの承認相手が存在し、
「自分」はその多面的な世の中をせわしなく行き来している。
そのバランスを保つことが特定の承認への依存を軽減する、いわばリスクヘッジになるのだろう。
ネットに過剰な承認を求めていた僕の現状は、そのバランスを見失っていた状態であるとも言える。
信頼している家族やパートナーから「無条件の承認」を得て、
その安定した基盤の上でネットや仕事、プライベート活動に勤しむのが基本的には理想と言えそうだ。
そしてその基盤をネットに求めるのはお門違いであり、ネットの向こうの人への過剰な期待はネット活動そのものを蝕む。


では家族やパートナーを持たない人に救いは無いのだろうか?
たとえばキリスト教では神による愛はアガペー(ἀγάπη)といい、人は愛されるための条件をいっさい与えられていない。
神は「無条件の承認」によって、人の行為すべて、存在そのものを愛しているというのである。
つまりキリスト教徒はこれを信じるかぎり、生きる上で必要な承認基盤をすでに得ているとも言える。
そしてキリスト教では、神によって無償の愛を与えられたならば次にあなたは隣人を愛せよと言う。
隣人に差し迫った危機が生じているとき、あなたは隣人を助けなければならないと。
この利他行為の実践によって人はアガペーを自分ごととして捉えられるようになり、
また「自分にされたいことを他人にせよ」という黄金律は善い社会秩序を生み出しうる。


ネット活動における「認められるための活動」は、利己的な側面が強かったからこそ報われなかったのだろう。
これまでの僕のネット活動は、言うなれば選挙活動のようなものだったのだと思う。
それは自分らしいとか人として正しいとか実績が素晴らしいとか言う以前に、
他者の需要を推し量る余裕が無く、結果として他者にとって押し付けがましい活動だったという側面は否めない。
であれば、キリスト教の啓示を参考に利他行為に徹するのはどうだろうか?
突き詰めればモラルを逸脱する方が合理的になってしまう「より多くの注目を集められた方が良い」という考え、
あるいは認められないことによる消耗の果てに光回線の向こうの見知らぬ人に対して愛を求める不合理。
徹底した利他主義はこれらを遠ざけ、ネット社会の活動を持続可能なものに昇華できないだろうか。
これは、承認欲求を否定したアドラーが幸福の正体を「貢献感」だと言っていたことにも通じるように思う。


利他行為は他者に利することそれ自体が目的であり、活動の結果自分が世間に認められたかどうかは関係ない。
一方、他者承認のための活動は最後まで承認を得られるかどうか分からないという点でギャンブルに近い。
利他に徹するということは、そのギャンブルから脱出できるということだけ考えてもかなり有望に思える。
たとえば僕はこれまで自分の興味関心を「消費」して、
webサイトやブログ、SNSのネタとして成果を発表するのがせいぜいだった。
それは「自分の成果」でなければならないという暗黙の条件があった。
しかし利他を第一に考えるなら、質問サイトで困っている人に回答を書いてみる、誰かの投稿に「いいね」する、
SNSで誰かの相談に乗ってみる、Wikiを編集する、Githubにプルリクエストを投げてみるといった、
従来なら「自分が認められるわけではないから」と切って捨てていたような活動も積極的にできるようになる。
しかもそれらは、昔の自分がやっていた諸々の不毛な活動よりは明らかに社会的に有意義に思える。
利他行為は、不毛な自己愛やナルシズムから脱却して、社会へと確かに目を向けるための実践なのだと思う。


そして僕はこの利他行為を「推し活動」という形ですでにスタートを切っている。
推し絵師のブログには、内容がどんなにメンヘラじみたものであれ肯定的なコメントを残してきた。
「無条件の承認」には程遠いかもしれないが、
自分自身が誰かに「全肯定の承認」を与えられないだろうか、という試みである。
他方、2003年から継続してきた、ゲームのやり込みを大前提とする他者承認ありきの活動は静かに遠ざかりつつある。
この論に妥当性があればこそ、この流れはもう変えられないだろう。


自分一人はどうしようもなくちっぽけで、無力で、矮小な存在である。
しかし、社会がこの時代を生きる人々の歩く群れだとしたら、僕は確かにそのうちの一人であるということは疑えない。
そして群れの先頭になることはかなわなくても、自分が群れの一員であることを誇ることはできる。
この時代を歩くという壮大なプロジェクトからしてみれば、群れの先頭か途中かという問題は瑣末なことだ。
利己主義から利他主義への転換は、そうしてようやく世界へと目を向けるための第一歩なのかもしれない。


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