群れの話
ここ数年の承認不安に対する一連の考察を経て、僕は不特定多数に承認を求めることから卒業しようと思った。
承認不安とはつまり、「自分は誰かにとって個の確立した誰かでありたい」という欲求だった。
ここで客体としての「誰か」を不特定多数と置いてしまうと、
多種多様な価値観を持つ人々が、
それでも誰もが認めざるを得ない最大公約数的な価値観にリーチしなければならないという重すぎる制約が課される。
そしてその種の成果は「いいね」にしろ再生数にしろ何にしろ、Web 2.0の世界では数値によって可視化される。
僕はいままで、インターネット世界で個を確立するとはつまりその数値的ステータスの問題なのだとぼんやり考えていた。
その数が大きければ大きいほど良く、また逆も然りなのだと。
それがあまりにも愚直な妄想だったことは一生悔やむべきだろうが、
その後悔の中で自然と、客体としての「誰か」は必ずしも不特定多数でなくてよいのではないかという発想が浮かんだ。
突き詰めればそれは0人、つまり主体としての「誰か」と同じであっても成り立つかもしれなかった。
かくして僕は20年以上のネット活動における紆余曲折を経て、
ごく少数の承認によって確立したweb制作活動と、自分自身によってのみ承認するブログ活動を残すのみとなった。
道中さまざまなことに手を出してみたが、結局残ったのはネット黎明期からずっと続けてきた活動だけになった。
これらはかつて、長い間僕の心を満たすことはなかった。
しかし承認不安について考えた末に「不特定多数に認められなくてもいいんだ」という事実を飲み込んだことにより、
ともすればかつては心細かったはずの少数の承認は確かに質量を得て、それは僕にとって大切な活動基盤になった。
改めて僕は、そうした少数の「確立した個」にとって確立した個であることに依拠し、
だからこそ今後も活動を続けていきたいと思う確かな志がある。
不特定の承認ではなく相互の承認を是とする考えは大きくずれているとは思っていないものの、一方で明確な疑問もある。
それは、相互に承認できる相手はただ待っているだけでは永遠に現れないという事実だ。
相手がいない段階では認識されるためにこちらから勇気を出して「何か」をする必要があり、
しかしその矛先に特定の誰かを想定できない以上は不特定多数を念頭に置いた活動にならざるを得ないこともありうる。
こうなると結局元の木阿弥なのではないだろうかと考えてしまう。
それを踏まえてもう一度世界に一歩踏みだすことを想像してみよう。
それは承認する側の「個」を考慮せずにとにかくなるべく多くから称賛を得たいという営みではなく、
想定する「個」に喜んでもらうための活動と考えるのはどうだろうか。
その文脈であれば、仮にインターネットがどれだけ不平等な実力主義で、
それに相対する自分に相応のポテンシャルがないかもしれないとしても、活動を始める意義を見出すことはできる。
想定しているペルソナだけを考慮すればいいのであれば、外野の否定的意見はノイズと割り切れる。
仮に(普遍的な)真理を追い求めていることを標榜するなら、こうしたスタンスは自分勝手だと咎められるかもしれない。
しかし、一般に個人の活動というものは果たしてそこまでの正義を求められるものだろうか?
イルカやオオカミ、ゾウなどのように、小さな群れを作ることが合理的であることを知っている動物は多い。
ヒトも狩猟社会から現代に至るまで、小さな「群れ=社会」を作り、個々がそれに適応することによって生存してきた。
社会的欲求は本来そうした小さなクラスタで満たすものだったのではないだろうか。
しかし、インターネット空間はそれ自体個人の手に負えないほど大きく、
そして個々のクラスタ同士の距離も不適切なほどに近い。
僕はどうしても、そのような現代のソーシャルネットワークの在り方がヒトの心理に正しく適合しているとは思えない。
それが抜本的に見直されるまでにはあまりにも長い時間がかかりそうな気がしているが、
幸か不幸かその黎明期に生まれた僕は、この未熟な情報社会と向き合わざるを得ない運命を背負っている。
仮に答えを見出しても、答えを出す頃にはその正解も通用しない世界になっているのかもしれないが、
少なくとも僕は「いまの社会」の一員であり、それを誇ってもよいのだというところまでは間違っていないと思う。
そこから先、個別のクラスタで役割を得ることはあくまでも個人の付加価値であることは改めて認識しておきたい。