明日に期待するための努力
ゲーム史に燦然と輝く金字塔、『スーパーマリオブラザーズ』。
このゲームの面白さを考えるということは、ゲームそのものの面白さを考えることにもつながってくると思います。
基本的にこのゲームは右に進み、ゴールまで行けばクリアというベルトスクロールアクションゲームです。
左にはスクロールしないので、初めて遊んでも右に行けば良いということは分かる。
そして、その道中で進行を阻むさまざまな仕掛けが登場するわけです。
たとえば最初に現れるクリボーは左に向かって歩いてくる。これを横から触れるとマリオはやられてしまう。
ところが、ジャンプして上から踏むと倒すことができる。
ここでプレイヤーはジャンプというのがマリオに与えられた強力なスキルであることを知ります。
クリボー以外の敵や絶壁などのアトラクションも、きっとジャンプによって乗り越えていくゲームなのだと。
そして、ジャンプを駆使して1-1をクリアすると1-2、1-3……と徐々に難しくなっていきます。
ステージをどんどん乗り越えていくことで自分のスキルの高まりを実感することができます。
このように、マリオは洞察やトライアンドエラーによってスキルを高め、
大小さまざまなスケールのハードルを「徐々に」乗り越えていくことを楽しむゲームであると言えます。
これがもし、1-2以降も1-1と同じような難易度だったら、たとえランダム生成でも徐々に飽きていくでしょう。
「これを乗り越えたら次は一体どんなものがあるんだろう」
という期待に応え続けていることがいわばマリオシリーズの一貫した面白さ、ひいてはゲームの面白さであり、
マリオにおいては徐々に難易度が高くなるという前提がそういう期待を形作るものとして機能していると思います。
ゲーム制作において、レベルデザインというのがいかに重要かということですね。
もちろん難易度の上昇だけでは作品として味気ないので、
「デザインの変化」「新ギミックの登場」などもそれをフォローする要素になります。
さて、このままゲーム性とは何かという話を続けてもいいのですが、
本当に言いたかったのは実生活においてもこれがわりと当てはまっているという話です。
実生活でも、昨日と同じような一日を送り続けるとマンネリ感によって精神的無気力感を引き起こします。
「今日はこれをしよう」「明日はこれをしよう」という期待感を持っておかないと、
どんどん生活自体に飽きて、しかし生きることからは逃れられないので精神がすり減っていってしまう。
ゲームは飽きたらやめればいいですが、実生活はそうもいきません。
先日、興味関心が浅く広いことについての批判思考を展開しましたが(#07458 / 2024年05月18日)、
浅く広すぎることの副作用は、応用性・専門性のある、スキルが求められる物事に着手できないことです。
現代はネットの発達によって文化の幅広さと情報収集の簡便さ、着手のしやすさによって
完全に空手でもできることは多いし、そういう人をターゲットにした初心者向けコンテンツは多くあります。
しかし、それらをつまみ食いしていくのはマリオで言うと景色の違う1-1を無限周回しているようなものであり、
「乗り越えていく楽しさ」は永遠に味わえないという欠陥があります。
飽きたら次、をただただ繰り返していく受動的な人生。
それは、目新しい何かをうまく見つけられなかったときにマンネリ生活に陥りやすいリスクもあります。
怖いのは、マンネリ生活をも受け入れてしまったときです。そうなったら抜け出すことはできるのだろうか。
明日、今日より発展したことをするためには、ある程度は今日を頑張らなければならない。
これは『賭博破戒録カイジ』で登場するハンチョウの名言にも通じるところがあります。
「明日から頑張ろう」という発想からはどんな芽も吹きはしない…
明日から頑張るんじゃない、今日だけ頑張るんだ
今日を頑張った者、今日を頑張り始めた者にのみ、明日が来るんだよ(福本伸行『賭博破戒録カイジ』1巻)
これは本来、課題を後回しにして目先の利益ばかりを享受してしまう先延ばし癖を戒めるセリフですが、
受動的にコンテンツを食い潰して生活が発展していかないことに対する戒めとしてもよく刺さると思います。
現時点での自分は非生産的な生活であることは否めないですが、
ここから明日への期待感を持つに足るタスクを組み立てるのはなかなか難しいと思っています。
ただ、今後のためにもその組み立て方を言語化できるように意識はしていきたいですね。