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#8083

秩序を守るガイドライン

かつて参加者の不快な罵詈雑言が問題となり中断していた「ダンドリバトル大会」(#07767 / 2025年03月23日)を、
2026年はコンスタントに開催したいと考えて先週末に実際に開催しました。
ただ、そのまま開催したのでは以前と同じような問題が起きる可能性がある。
そこで、前もってイベントの秩序を破壊しそうな人が入ってきにくいようなガイドライン を発布しました。


まず前提としてダンバト大会自体は「COMが妨害してくるスコアアタックの競争」である以上、
理不尽な展開ではCOMに対して罵倒したくなるというのはある程度やむを得ないと考えています。
しかし、だからといって一定の規制線を敷かないと、罵倒はどんどんエスカレートしていく。
また、罵倒というのは誰かが発言すると「あ、それも許されるんだ」と認識されてしまいがちで、
要するに場の空気を通じて伝染してしまうおそれがあります。
そうして一度壊れた秩序はなかなか戻らないので、そういう意味でも元から断つ必要があると考えました。


とはいえぶっちゃけ言うと過去のイベントを思い返すと本気で規制したいのは特定の2人にかぎられ、
それ以外の人に対してはとやかく言いたくないという気持ちがあります。
この2人の罵倒レベルが逸脱しているのは確かで、直感的にはこの2人を狙い撃つのが正しいように思う。
しかし特定個人を規制するだけのガイドラインに意味は無いし、
ただ自分が直感でこう思ったから規制します、では該当する2人が納得しないでしょう。
そこで、なぜこの2人がアウトで他はセーフなのか、客観的かつ公平な言葉で言語化する必要が出てきました。


ガイドラインでは10項目の判断基準が挙げられていますが、ポイントは最後の2つです。


  • 罵倒が冗談・誇張・演技であるという意図が客観的に読み取れる場合は許される(意図の透明性の確保)
  • 罵倒の直後、当人か第三者のフォローによって場の空気を罵倒する前の状態に戻せる場合は許される(場を回復する意思)

まず「意図の透明性の確保」については、
要するに遊びでやっているイベントなのにガチトーンでキレ出すのはこの基準ではアウトということです。
門外漢にはゲームのイベントを大人がやっているのだから当然守られる範囲じゃないかと思われるかもしれませんが、
実は去年春まではこのラインが守られていませんでした。
そしてそれの何が不快なのかというと、語彙というよりトーンの問題なのではなかろうかと。
もちろん多少熱くなってガチギレっぽく解釈されかねない場合もあるかもしれませんが、
それは他の項目によって「単発である(常習的ではない)場合は許される」という規定でフォローしています。


「場を回復する意思」についても概ね同じようなことを言っていて、
これは周囲がフォローする余地があるならセーフですが、誰もフォローしない(できない)場合はアウトという基準です。
フォローする・しないは他参加者の自由であり、誰もそれを強制することはできません。
場の空気を作るのはあくまでも「みんな」であり、声の大きい人ではないということです。
要するにこれらのガイドラインはイベントに対して協力的なのか、ただの自己満足なのかを測っているわけですね。
そしてイベントの性格上、後者は歓迎しませんと。
ただ「イベントに協力的かどうか」を直接問うただけではおそらく意味がないので、
具体的にどういう行動を「非協力的とみなす」かをできるだけ客観的に定義したのがこのガイドラインです。
ちなみに「体調不良者の参加はおすすめしません」と付記することによって、
ガイドライン違反になりそうな人も体調不良のせいにするという逃げ道を作ってやんわりと退場できるようにしています。
この辺はとにかく角を立てたくないということからやっている配慮です。


いずれも道徳的にはおおむね妥当だと思うので、主催者特権を越えた言論弾圧にはあたらないと思っていますが、
自分がそのラインを越えてしまうとおそらくすぐにコミュニティは離れていってしまうので、
この辺はかなり慎重に考える必要があります。
ダンバト大会以外ではこういう問題はほぼ起きていないのですが、
このイベントだけはやたらとデリケートな問題に首を突っ込まざるを得ない状況になってしまっているのは残念。


ちなみにイベント自体はほぼ想定内でしたが、
初参加者がつよつよプレイヤーだったため別の意味で阿鼻叫喚の地獄絵図でした。
ダンバト大会のシステムは初心者が上級者に勝たなくてもポイントはほぼ減らない仕様になっているのですが、
このように新規プレイヤーがめちゃくちゃ強かった場合、
初期レートよりも高い人が負けるとごっそりポイントを取られてしまうという仕様になっています。
そのため今回はその辺のレート帯の人にとってはめちゃくちゃ苦しい展開になってしまいました。
これによって中堅以上は「ダンバト大会は参加するなら練習必須」みたいな空気感ができてしまったため、
参加ハードルがかなり上がってしまったと思います。
それでも継続できるならダンバトガチ勢のための定期コンテンツとしてやっていけそうですが、
練習するほどの価値が無いと思われれば衰退を余儀なくされるでしょう。
ようやく罵詈雑言の問題が軽減したかと思ったら今後は腕前の差という問題に直面したダンバト大会の明日はいかに……。


#8084

趣味としての株取引

今日の出来事暗号資産

今回、ゴールド先物で痛い目に遭っていますが(だいぶ値は戻してきた)、
図らずもこれをきっかけに「ゲームが本当に衰退したら次は投資」という予感を裏付けるかのように、
投資が新しい趣味としてますます盤石になっていることを感じています。


自分が何かに「ハマる」とき、その対象は情報量が圧倒的に多いというわかりやすい共通点があります。
そしてその情報量の方向性として、横に広いかどうかを重視する傾向にある。
たとえばポケモンは、文化として好きなのは幼少期から遊び続けてきたからという歴史的な理由も多分にありますが、
一方ですべてのポケモンに異なる種族値があり、わざ・とくせいがあり、戦略があるという、
その圧倒的な選択肢の多さと奥深さこそが魅力だと思っていて、
だからこそメインゲームを遊ばなくなったいまでもたまにポケモンについて調べると止まらなくなることがあります。
2022年から定期的に沼っている『原神』も、キャラごとのビルドやその闇の深さはなかなかのもので、
これとキャラデザの相乗効果でハマったのだと思っています。
ちなみにピクミンシリーズもチャレンジモードのステージは100を超えており、
そのそれぞれに特有の戦略やルート研究、やり込み要素があるという点では「横に広い」側面を持ち合わせています。
要は数多くの選択肢から自分のメガネにかなう要素を能動的に選ぶことができ、
それを中心とした活動(戦略を考える、キャラビルド、スコアアタックなど)ができるのが好きなんだろうなと。
逆に言えば、単一の要素だけをひたすら磨き上げるようなゲームはあまりハマらない傾向にあると思っています。


自分は2021年に仮想通貨と出会い、2022年に先物取引デビューしました。
当初はBinanceに上場しているさまざまなアルトコインを対象として取引をしていましたが、
あらゆるアルトコインはビットコインに連動することを知り、
どれだけアルトコインのファンダ集めやチャート分析をしても
ビットコインが予想外の値動きをすると裏切られることを痛感。
そこで2023年からは主にビットコインのテクニカル分析で勝負するようになりました。
しかしここ2年ほどはテクニカル分析はしょせん占い程度の信憑性しかなく、
ビットコインを含むすべての市場はそれを取り巻く思惑やファンダメンタルズで値が動いているのだと実感。
特に最近は調子の悪いビットコインを見限ってゴールドに乗り換え、
「安定資産と言われているゴールドにとって世界情勢が有利か否か」という目線で情報収集をするようになりました。


そうして世界の物事に興味を持つと、知るべき情報は山のようにあります。
アメリカの景気やインフレ率、政策金利、株や大企業の業績、債券、為替、そしてなによりもトランプ大統領の動向。
そして大統領の目線の先には欧州や中東、アジアなど世界各国の情勢があり、そちらについても知る必要があります。
まずこれだけでもおおむね毎日退屈しないような情報量が飛び交っています。
さらに、足元の情報収集に便利な掲示板の存在。投資アプリなどにはさまざまな思惑を書き込む掲示板機能があり、
他にも匿名掲示板では(株関連は比較的民度が保たれた上で)株についてやり取りする場が続いています。
これらの情報に頼るのは危険ですが、孤独に自分だけやっている感が薄れるという点では有用。
また、ここでは世界情勢に加えて国内株の情報なんかも語られており、
個別株に手を出せばその選択肢は無数。情報量についても圧倒的です。
大手企業の四半期ごとの決算はほぼ毎日あるので、個別株をある程度持っていればまず退屈しないでしょう。


自分はいまのところ個別株には「まだ」手を出していませんが、
ビックテックなどの主要アメリカ株はxStocksという技術によって仮想通貨取引所でも24時間売買できるので、
海外株なら新規アカウントを作る必要もなくいつでも参入できます。
国内株は2019年に当時のカブドットコム証券のアカウントを作っていて、
それが現在ではアプリを提供しているらしいのでいちおうこれで参入できそうではある。
ただ、自分の取引スケールから言って国内株は単位未満株を扱えないとあまり意味無いですが……。


ここ最近のビットコインの見放されたかのような雰囲気を鑑みると、
自分もそろそろ株に手を出すときが来たのかもしれないと思った次第です。
そして株に手を出せば、その情報量の多さから言ってかなり沼にハマりそうな予感がしています。
このことからも、やはりゲームの次に主戦場になるのはきっと投資(投機)なんだろうなと。


#8085

理想と現実のゴールデンクロス

今日の出来事人生観

そろそろ真面目にこれからの人生を考えるために、現時点で思いつく人生論を軽く整理しておきたいと思います。
ここで言う人生を「生まれてから死ぬまでのロードマップ」として定義したとき、
それはライフステージごとに志向する内容や目的などが異なるものだと思います。
まず、この世に生を受けたら、何はともあれ世の中に何があるのかを知らなければなりません。
それを「与えられる」のが未就学時代〜小中学校時代で、これは自分の意思では半ばどうにもならないケースも多いです。
一方で、ここで与えられたものが後人生に多大な影響を与えるのも事実です。
自分の場合、それはゲームでした。


中学〜高校時代は「好きなもの」がおおむね確定して、それについて制限なく妄想するもっとも多幸な時期です。
「こうなったらいいな」を語っているだけで許される時代。
社会との整合性や他人の需要などいっさい考えなくてもいいのはこの時代が唯一でしょう。
自分の場合はネット文化がまだ未成熟だったこともあって、中高生でも活動しやすい土壌がありました。
そのためwebサイト運営を通じて先行して社会活動を始めた側面があります。
web制作が生活基盤になったのはそういう時代背景も多分にあるのでしょう。


大学時代〜20代前半は実際に社会活動が始まるステージで、
どちらかというと他人(社会)の都合よりも自己実現に向かって社会という枠組みの中でもがく段階かなと思っています。
それによって自分の限界を知り、社会との摩擦を知る。
頑張る内容は人それぞれで、前のステージからほぼ繋がっている場合もあるし、
就活の結果思いもよらない分野に手を出すことになる場合もあります。


そして20代後半〜30代は少し歩くスピードを緩め、盲目的に突き進んでいた自己実現への道を客観的に見直し、
活動を社会と調和するような方向に舵を切ることでより盤石な社会承認を得ようとし、
またできないことはできないと潔く認めてその上でできることに的を絞る段階だと思っています。
人生が植樹だとしたら、不要な枝葉を切り落として幹を強くする段階。
いま自分が語れるのはここまでで、ここから先はどうあるべきなのか、どういうものなのかは知りません。


まず、全体としてステージの節目(大学受験、就活、転職など)によってやることがガラッと変わることはよくあり、
それは本人の意思の強さにもある程度依ると思いますが、競争社会である以上はどうにもならないこともあります。
大学受験で志向した分野に30代になっても携われている人は、そうでない人より順調なイメージがあります。
ただ、それが必ずしも正解だと言い切ることはできません。
職歴や能力の違いだけで幸か不幸かが決まってしまうと言い切ってしまうと、
それは現実に競争社会を構築している社会の仕組みそのものを否定しなければなりません。
それを個人がどう論じたところで社会は今更変わらないので、こういう救いのない考えは切り捨てるのが無難でしょう。
ただ、10代までに思い描いた「こうなったらいいな」という理想に対し、
あまりにもギャップのある現実を生きていると精神的な豊かさは感じられないかもしれません。
ある程度精神が成熟してくると10代に思い描いていたことは絶対正しいとも思わなくなり、
理想は徐々に整理されて現実に近づいていきます。
一方で現実(個人のスキル、社会、技術革新など)も確かに変化して、部分的には理想に近づいている。


このように、理想の高さを縦軸とし、時間(年齢)を横軸としたとき、
理想は非常に高いところから始まって成人した辺りから徐々に下がっていくのに対し、
現実は非常に低いところから始まって紆余曲折を経ながらも長期的には上がっていくはずで、
だとしたらどこかでクロスするところがあり、そこで初めて人生の目的や意義が確立するのではないか……
というのが現時点の自分の仮説です。


ただ、これはグラフにもできる非常に明快(簡易ともいう)な説明ですが、
実際の人生において理想と現実が交わった瞬間を実感することはまず無いのではないかと思います。
いろいろやっていくうちに、結果論として「ああ、やっぱりこれがそうだったんだ」と思うものなのではないかと。
それに気づくのは交わってから10年以上経ってからというのも全然ありえる。
そしてまた、理想と現実が交わった(現実が上回った)からといって、
それがただちに幸せに直結するとは限らない。
理想は手に入らないから理想なのであって、現実に落とし込んだところで理想が持つ煌びやかな響きは失われるからです。
「現実になった理想」は、それはそれでちゃんと向き合う覚悟が必要なのではないかと。


仏教では、ものの道理を悟り、それを保つ心を「諦念」と呼ぶそうです。
しかし「諦念」は漢字を見れば明らかなように、日本語の語義として「諦める気持ち」という意味もあります。
自分のここまでの人生観はこの「諦念」の2つの意味をちょうど内包しているようにも思います。
自己中心的なふるまいからスタートした理想が社会に揉まれて徐々に現実へ「降りていく」様は、
ある意味ものの道理を理解することであるかもしれないし、またある意味では諦めることでもあるのかもしれない。


理想と現実が交わった先のグラフがどうなるのかは、まだ考えられません。
そのままそれぞれ直線を突き進むだけとは思えない。
理想論だけで言えば徐々に高くなる現実の線に理想の線が合流して一体化し、
40代以降は現実の線だけになるのではないかと思うのですが……
では、その先は? 理想を高めることだけが人生の目的なのか? そもそも今後も順当に現実の線は高められるのか?
わからないことだらけです。
果たして自分は自分の人生観について結論を出すことができるのでしょうか。
少なくとも40代半ばになったとき、「30代はこういうものだった」と明確に言えるようにはなりたいところです。


#8086

好奇心依存

今日の出来事意欲不足

いま、自分は安易な理想化を戒めるというスタンスにいると思っています。
何か新しいコンテンツや技術に対して過度に期待しすぎないようにしようと。
なぜなら、その「過度な期待」はほとんどが妄想で構成されていて、
実際に対象物に着手した途端に霧散してしまうことがほとんどだからです。


しかし一方で、そういう心の動きが好奇心を行動に変換していたのではないかと思う節もあります。
最初に大きく上振れる期待感があってこそ新しい何かに興味を持てるのではないかと。
実際、理想化を戒めるという意識が芽生えてからは好奇心が減衰してしまったような気がします。
かつては2週間ごとに興味関心が移り変わるという自覚がありましたが、
ここ数ヶ月はそういうこともなくなって単に時間を持て余すようになってしまった。
これは非常に危険な兆候です。
自分は強い好奇心や発想があってこそさまざまな活動を推進してこれたと思っている側面が強いので、
その根本とも言えるエネルギーが衰退してしまったら何もできなくなってしまうでしょう。
過度な期待は戒められるべきかもしれませんが、
かといって物事に対して「何も期待しない」のも良くないということです。


物事が進展しないと毎日が同じような日々の繰り返しのように感じられ、未来に希望を持てなくなる。
それを防ぐためには少しでも物事を進展させて昨日との差分を作るのが大事なわけですが、
好奇心が衰退してくると必然的に行動力も衰退して、進展を生むのが難しくなるように感じます。
実際、いまは最低評価の01月を終えてゴールド先物のポジションのみ持ち越し、
これさえ解消すればなんでも自由に活動できるというところまではきていますが、
まあポジションのせいもあるものの02月に入ってもなお多方面の活動が停滞してしまっています。
一度停滞すると再開するのにそれなりにエネルギーが要り、
いまはそれを捻出することができない状態に陥ってしまっています。


こういう状態に陥って改めて思うのは、こうなったときの脱出方法をちゃんと確立しておかないと、
もっと歳を取ったときにさらに脱出が難しくなるんじゃないかという懸念です。
これまでの経験から言って、具体的な脱出方法はまず生理的欲求(食事、睡眠など)は過不足なく満たしておき、
なおかつ人間関係と金銭関係の心配事を無くす。
いまは先物取引のポジションを開けていることが金銭関係の心配事に該当するので
これのせいで活動が停滞しているという言い訳は成り立ちますが、
果たして本当にそれだけが原因なんだろうか。
少なくとも言えるのは、自分はその「間の悪さ」によってやりたいこととやっていることが噛み合わないことが多々あり、
それは昔からそうですがいまも大して改善していないということです。
2026年のスタートダッシュを決めるチャンスの時期に仮想通貨に手を出すとか。
そしてその結果ブログを溜め込んでさまざまな活動のモチベーションが冷え込むとか。
この間の悪さについてはまだしっかり言語化できていませんが、
簡単に言うと短期展望に基づいてしか行動できないので長期計画に対して合理的な行動が取れない、
ということだと思っています。
まぁでもそれだけでなく、さまざまな要因が雁字搦めになってそうではありますが。


物事に興味を持ち、活動し、自分の糧にするという「素直な」プロセスを実行できないと、
やはりどこかで行き詰まるのではないかと思っています。
そしてその意味での素直さを実践するためには、物事への期待をほどほどにするというバランス感覚然り、
短期展望だけですべてを判断しない長期目線の判断力然り、
あたかも投資家のようなスキルが必要なのではないかと改めて思うわけです。


#8087

予想外の本命

今日の出来事Nintendo-Direct

「Nintendo Direct 2026.2.5 ソフトウェアメーカーラインナップ」にて、
カルドセプトシリーズの最新作『カルドセプト ビギンズ』が発表。2026年07月16日発売。
カルドセプトはモノポリーのような土地売買系ボードゲームにカードゲームの要素を加えたターン制ストラテジーで、
かつてニンテンドー3DSで2作品発売されていました。


自分はこのタイトルに結構昔から興味があって、買いはしないものの2011年からブログでたびたび言及しています。
3DSソフトを2本買うと一本無料でもらえるキャンペーンで無印の『カルドセプト』をもらおうと思っていたものの
ソフトの登録忘れで結局もらえなかったり、
その翌年にもさんざん購入を検討した結果積みゲーが多すぎるという理由で続編の購入を見送ったり、
さらに2023年にはeショップサービス終了でダウンロード版を買う最後の機会に直面し、
これまたさんざん悩んだものの当時は仮想通貨の含み損もあって散財が憚られたこともあって結局見送り。
その当時、「まあいずれNintendo Switchで続編が出るだろう」と書いていますがそれが現実になりました。


土地を育てる系のボードゲームはアナログでは未経験ですが、
デジタルゲームでは『ダイスDEチョコボ』というPS1のゲームを幼少期にさんざんプレイした経験があり、
令和になってから再燃してプレイステーションを引っ張り出してきて身内と遊んだこともあります。
なにげに令和以降でレトロゲーム実機を遊んだ唯一の経験ですね。
これは4人対戦でマップも複雑なので単純比較はできませんが、
カルドセプトに興味があるのは『ダイスDEチョコボ』が面白かったからというのも大きな理由です。
まあ、この手のゲームは対人戦をガチでやると友情破壊ゲームになりがちなので、
遊ぶとしてもCOM相手にしか遊ばないと思いますが……(最新作はオンライン対戦に対応)。


実は今年は、よっぽどの本命でないとゲームは買うまいという方針があります。
これはNintendo Switch 2がロンチされた2025年、
大型タイトルを何も考えずに買ってことごとく遊びきれなかったことを踏まえたものです。
これまでは任天堂から出るタイトルは何も考えずに買ってきた側面がありますが、
今年からは任天堂からそれなりのタイトルが出ても最後まで遊び切れるかを考慮してから買うつもりでいました。
カルドセプト新作は任天堂のタイトルではないですが(3DS版2作品は任天堂から発売)、
まさかの新作に早くも気持ちが揺らいでいます。
これを買うくらいなら許されるんじゃないか、という。
ただ一方で、それでもなお買ったとしてガッツリやる気力はないんだろうなという気持ちも正直あります。
この状況で果たして買っていいのかどうか、微妙なところですが……。
2011年からブログで言及してきた長い伏線を回収するまたとないチャンスであることは確か。
発売日が近づいてきたらまた改めて考えようかなと思っています。


#8088

情報収集手段としての本屋

今日の出来事本屋

一時的に基本的な好奇心が枯渇していまい、結果として行動量もかなり減ってしまった今週。
短期的にでも何か興味を惹くものに触れ続けていないと、
自分は簡単に廃人のようになってしまうリスクがあるということを改めて実感しました。
まだ30代でこれですよ。この先どうなるんでしょうね本当に。
これは要するに相当なデジタル依存、というよりネット依存であると推測できます。
自分はスマホPCを取り上げられたらもう生きていけないのでしょう。


ただ、そんな状況から回復したのを実感したきっかけはネットではなく、本屋でした。
なんとなしに近所の本屋に行き少しでも興味のあるカテゴリの棚をざっと見て回ったところ、
改めて知りたいこと興味のあることを次々と発見。
今回はたまたまそれが数学分野だったのですが、きっかけさえつかめばいまはChatGPTがあります。
「〇〇について分かりやすく教えて」等と打ち込むことでざっくばらんに知識を得ることができ、
結果的に一時的な好奇心枯渇状態からはかなり回復したと実感するに至りました。


いまやネットも受動的にどんどん情報が入ってくるプラットフォームであることは間違いありませんが、
いわゆるキュレーションサービスはAIが話題をパーソナライズするため、
入ってくる情報はかなり偏っています。
そしてこの偏りがときに強いマンネリ感を催すこともあり、今回のような事態に陥ることもあるのではないかと。
ネットは一周回って能動的に探しにいかないと有用な情報を得られなくなった感じがします。
そして検索エンジンにしろ生成AIにしろ、
ネットで能動的に探すとなると少なくともその語彙を知らなければ探しようがない。
「語彙さえ思い浮かべば情報を探しに行ける分野」が枯渇すると、ネットだけでは行き詰まることになりかねません。
まぁ、いまならそういう事態を予期して語彙が出てこなくても情報を探すというアプローチが取れるかもしれませんが。


一方、本屋のようなアナログ情報媒体は提示できる語彙がなくても、歩き回ればあらゆるカテゴリと出会えます。
実は本屋というのは特定の語彙を知らなくても情報と出会えるうってつけのサービスなんですよね。
こうして考えると、本当に興味関心が枯渇した場合はむしろアナログな探し方の方が強力なのかもと思った次第。
今回は近所の本屋で済ませましたが、もっと大型の店舗や図書館に行けば、
規模次第ではより強力な処方箋になるかもしれません。


猫も杓子も生成AIという趣の世の中ですが、決して情報収集手段としての本屋の価値は落ちていない、
むしろ上がっているのではないかと改めて思った今回の一件でした。


#8089

コミュニケーションの壁

今日の出来事人間関係

自分はこのブログを通じて、なるべく健全なコミュニケーションを実践するにはどうしたらいいか、
あるいは人間関係を損なわないためにはどうすればいいのかということを多方面から検討してきました。
不合理な自己正当化フェーズを経て、近年はようやく客観的に反省できるようになってきたと思っています。
最近では会話はニーズを考慮すべき(#08079 / 2026年01月28日)という言説や、
あらゆる対人関係は維持するだけでコストを支払っている(#08072 / 2026年01月21日)という言説を紹介しました。
これらはいずれも道徳的に妥当で、実践に値する正論だと思っています。
そういう意識があればこそ、自分はコミュニケーション技術について改善していくだろうという見通しもある。
事実、昔はともかくここ2〜3年は毎年それなりに成長していると感じています。
逆に言えば、いかに昔の自分が粗暴なコミュニケーションをしていたかが浮き彫りになってきている。


そのように、自分個人としてはコミュニケーションに関するPDCAサイクルをそれなりにうまく回せていると思う。
まあ年齢相応に立派ではないかもしれませんが、少なくとも過去の自分との相対では確実に改善していることでしょう。
しかし皮肉なことに、そういう「健全な技法」を学び良識を身につけるほど、
身近にいるコミュニケーション能力が著しく低い人が悪目立ちするように見えてくるんですよね。
有り体に言えば、その不合理な立ち振る舞いにイライラすることも少なくなくなってきた。
「自分ならそんな言動は絶対しないのに」という立場を表立って表明できない不満が募るからでしょう。
なぜなら、それを指摘することは少なからずコミュケーション弱者のプライドを刺激すると思うからです。
そういう人を相手に下手に角を立てたくない。


彼らは基本的に悪意があって場の空気を乱しているわけではないし、
なんなら場の空気を乱しているという自覚も薄いと思われます。
コミュ力が低く承認欲求不満な人ほど「空気を読む」という所作は非常に大きなコストがかかるので、
それを表立って規制することはその人に対して大きなストレスを与えることになるかもしれない。
ストレスを抱え込むに値する納得感のある理由を提示できなければ、ただ対立を生むだけに終わってしまうかもしれない。
というような数々の懸念から、結局良識のある側は黙殺するのが無難だということになってしまいます。
反省と実践を繰り返した末に一端のコミュニケーション技術を習得できたとしても、
それはあくまでも自分個人にしか通用しないノウハウであって、他人に押し付けることはできないわけです。
技術格差があってもそれなりに信頼関係が構築できていればじっくり話せば納得してくれるかもしれませんが、
往々にしてこういう問題を意識する相手というのはそこまで深い関係にもなれていない場合が多いと思います。


最近、対人関係についてはここに高い壁を感じています。
個人が深く内省してこちらから人間関係を破壊しないようにする自制心を手に入れることまではできても、
対人関係に他者が不可欠である以上、健全なコミュニケーションは他者のスキルにも依存せざるを得ない。
こちらから働きかけてそのスキルを引き上げるということはそう簡単ではないと思われますが、
かといって仕事等において、「一定以下のスキルの人とは人間関係を構築しない」と割り切るのはなかなか無理がある。
唯一できるのは自分のレベルを一時的に下げて相手に合わせるということですが、
自分が一度身につけて道徳的に正しいと認識した信念を「無かったことにする」のはかなり困難なイメージがあります。


この問題の鍵は「自尊心」だと思っていて、しばらくはこれがキーワードになりそうな気がしています。
自分の自尊心とどう向き合い、また他人の自尊心をどう扱うかということですね。
この壁を突破した景色がどんなものなのかまだ分かりませんが、
いずれにしろいま、これに関してはかなりの行き詰まり感を感じているのは事実です。


#8090

バイブコーディングの新常識

今日の出来事ai

ゴールド先物で抑圧されていた行動力が少しずつ回復している兆しがあり、
この連休中は少し前に環境を整えていたバイブコーディングをより本格的に試してみました。
ここでいうバイブコーディングとは、人間は自然文で指示を書き、AIがコーディングを担当する開発手法です。
少し前(去年前半?)まではプロンプトエンジニアリングといえばあくまでも人間が主体で、
人間がわからない部分のスニペットをプロンプトに入力してAIが改善案を提示するといった趣でしたが、
いまや人間が直接コードを書くことは無くなっています。
ChatGPT CodexやClaude Codeのようなエージェントならプロジェクトを横断的に読み取ることができるので、
人間はどのコードの何が問題かといったことさえも把握しなくても済むからです。


試しに、人力でやるのが面倒で後回しにしていた軽微なセキュリティ課題について投げてみたところ、
驚くほど的確に改修が必要な複数のファイルについて直してくれました。
年単位で放置していた課題がこうもあっけなくクリアするのを見ているとなんとも言えない気持ちになります。
そして、コーディング環境がこのように激変したことで新たな課題も浮き彫りになってきました。
それはバージョン管理の問題と、テストの問題です。


自分はバージョン管理についてはこれまでかなり我流で、悪く言えば非論理的な切り方をしていました。
要するに作業がひと段落するごとに切っているので、同じコミットに複数の機能が混じることもあったわけですね。
しかし今後は基本的に「Codexのタスク1個ごと」に切るのが妥当だと思っています。
これは、AIが施した改修が破壊的な変更でない保証はどこにもない以上、作業単位で巻き戻せる必要があるからです。
逆に言えば、そこさえ徹底していれば破壊的変更も多少は恐れずにCodexを使うことができる。


あとはテストの必要性です。
これまでは改修内容をコード単位で自分が100%把握していたのでテストの必要性は必ずしも高くなかったですが、
今後は事実上AIとの共同開発というスタイルに変わっていくので、
コードレベルでどういう動作になるか把握しきれなくなることが予想されます。
コードを把握していないのに本番環境にぶち込んだらどんな想定外の事態が起こるか分かったものではありません。
そこで、最低限デバッグ用のページを作るなどして人間の目を通す重要性はかなり増したのかなと。
これは正直開発内容によっては徹底できるかわかりませんが、
まあテストケースも作るのはAIなのでその気になればなんとかなりそうな気はします。


バージョン管理やテストはいままでおざなりにしていた工程でしたが、
今後はむしろ人力でできる数少ない作業として重視することになりそうです。
あとはマニュアル(AGENT.md / CLAUDE.md)の整備ですね。要するに指示書。
これをどこまで正確に書くかでAIの精度も大きく変わってくると思われるため、
AIにやってほしいことを言語化するスキルが問われてくるのではないかと思います。
結局そのためにはコーディングを含む開発の知識もある程度は必要になってくるので、
バイブコーディング以後もこれまでの知識は無駄にならない……と信じたいところですが、実際どうなんでしょうね。
ともあれ、しばらくは長く保留していたセキュリティのタスクや微妙に面倒なタスクを処理することになりそう。


ちなみにCluade CodeではAIエージェントを複数立てることができ、
エージェントAはテストを、エージェントBはコーディングを、といったように役割分担することができるみたいです。
AI同士が勝手に連携して作業を次々にこなしてくれるので、人間は最初に指示をするだけ。
正直、Cluade Codeはかなり評判が良いのでちょっと試したい気持ちもあります。
いずれCodexも似たような機能を実装してくれるような気はしますけどね。


#8091

憲法改正の機運

今日の出来事法学

珍しく政治の話です。
高市政権が実施した衆議院議員の解散総選挙によって、衆議院は与党が3分の2以上の議席を占拠することとなりました。
316議席というのは与党としては過去最高だそうです。
正直、ここまで圧勝するとは思いませんでした。野党に準備時間を与えなかったのが大きいのでしょうか。


3分の2の議席をゲットするとかなりの優越性が認められ、
たとえば参議院で否決されても衆議院で3分の2の賛成があればゴリ押し可決することができたりするわけですが、
おそらくいまの世界情勢を踏まえてもっとも注目されているのは憲法改正に関する権限でしょう。
日本の憲法は①衆議院で3分の2以上の賛成、②参議院で3分の2以上の賛成、③国民投票で過半数の賛成、
という3重の壁によってそうそう簡単には改正できないようになっており、
これによって、周知の通り日本国憲法は今年で公布から80年になりますが一度たりとも改正されていません。


しかし今回の選挙によって与党は3分の2議席を獲得しているため、
憲法改正を望むならすでに第1の壁は突破したことになります。
もしも2028年までに実施される次の参議院選挙でも与党が圧勝すれば、残る壁は国民投票のみ。
同じく憲法改正を目指していた安倍政権と比べてもかなり現実的になってきたような雰囲気を感じます。
となると、「本当に憲法改正は必要なのか?」ということを国ぐるみで議論するようなフェーズがいずれ到来するでしょう。
そのとき、世の中がどんな風になるのかは想像つきません。
国民投票の一票の重みは選挙とは段違いなわけで、そこかしこで(特にネットで)さまざまな議論が交わされるのでしょう。
あるいは愚民を先導(扇動)すると言わんばかりに政治活動が盛んになるんだろうか。
もし国民投票まで行く見通しなら、フェイクニュース関連は罰則を強化した方がいいような気はしますけどね。
これだけの大事になるとどんな手を使ってでも賛成(反対)に入れさせたいと考える人は少なくないはず。
まぁでも、改正案がどんなものになるのかによっても議論の毛色は相当変わってくるんじゃないかと思います。
9条だけ手を加えるのか、それともここぞとばかりにがっつり改憲するのか……。


自分は現段階でなぜ改憲が必要なのかについてもしっくり来ていない無知な国民なので、
本当に改憲ムードが高まってきたらそれなりに勉強する必要がありそうです。
もし本当に国民投票の機会があるとしたら、それはまさに時代の節目に当事者として立ち会うということ。
ふだんの選挙と違って心から納得できる方に投票したいものです。


#8092

オタクを降りるということ

今日の出来事年代論

精神科医の熊代先生が、ブログ で『オタクを降りた。何も残ってない』と題するはてなブログを引用して、
オタク活動は20代・30代は続けられても、
同じマインドで40代・50代以降も続けるのは難しいとする自論を展開していました。
当該はてなブログや引用RTではさまざまな意見が飛び交っています。


熊代先生は40代(中年)以降もオタク活動を続けるのが困難であるファクターとして
時間、経済力、健康、関心(好奇心)の4点を挙げています。
が、このうち時間と経済力は要するに「家庭を持つとオタク活動にリソースを注げない」と言っているだけであり、
結婚とオタク活動は両立しないと言っているようにも聞こえます。
これはまぁ、そりゃそうだろうという以外の感想はありません。ここだけを切り取ればつまらない言説です。


ということは、独身であるかぎりはオタク活動は中年以降も難なく続くのか?
これについては、4点目の「関心」が重要なのではないかと個人的には思います。
熊代先生は「知識が増えるほど好奇心が減衰していく」と言っており、
また引用元ブログもさまざまなゲームやアニメを「流行りを追いかけては捨ててきた」と言っていますが、
個人的には好奇心がオタクの必須条件なのかと言われるとかなり疑わしいと思っています。
むしろ興味の範囲を狭めて、狭い世界でひたすら掘り下げ続ける人こそがオタク然と言える人種なのではないかと。
ただ流行りを追いかけているだけの人はにわかオタクでありミーハーです。
コンテンツの表面だけを摂取しては乗り換えるミーハーならそりゃいずれ興味関心が枯渇して飽きるだろうとは思う。
それは中年になったからどうこうというより、もともと持続可能性が低かっただけなのではないかと。


自分が知るかぎり、(単一コンテンツを掘り下げるという意味の)オタク活動をしている人はざっくり2つの側面があって、
それぞれ異なる動機によってオタク活動をしているように見えます。
いわゆる「本当のオタク」は、対象とする文化が純粋に好きだから活動しているという人たち。
こういう人は活動がアイデンティティと結びつくので、
好奇心が枯渇してきたからといってそう簡単にはオタク活動を辞めることはないように思います。


一方、本当のオタクと言えない人(要するにミーハー)は、対象とする文化が好きだから活動しているというよりも、
そのコミュニティに所属することによって社会的欲求を満たすことが目的になっているケースが多い。
対象とする文化は「他者とのつながりを担保するツール」でしかなく、
それに対する情熱は実はもともとそんなに持ち合わせていません。
はてなブログの投稿主はどちらかというとこちらに該当するように見受けられます。
この意味での「本当のオタク」とミーハーの境界線は実はかなり曖昧で、
一個人を見ても部分的には本当のオタクで部分的にはミーハーということは往々にしてあります。
ただ、個別のコミュニティでは両者の違いというのは話しているとすぐに分かる。


対象とする文化が心の底から好きでない人は、コミュニティに所属しても望むようにチヤホヤされることはありません。
なぜなら「純粋にそれが好き」な人の方が圧倒的に熱量も活動量も上だからです。
結果として、コミュニティに属することまではできても永遠にそこから地位が向上しない。
コンテンツがめちゃくちゃ好きというわけではないので別にそこにいて何か充実感を感じられるわけでもない。
だからといってそこから抜けると孤独になってしまうのでなかなか抜けられない。
そんな欲求不満の狭間で生き続けた末に中年になったとき、
自分はリアル人間としてもオタク人間としても何もできていないということに気付かされる。
熊代先生は、そういう人はえてして政治経済を語る人間になると言っていますが、
個人的には「いきなり婚活に目覚める」というのもあるあるだと思っています。
いずれにしろ、ミーハー活動に行き詰まると中年になってからいまさらのようにリアルに回帰するということですね。
確かに政治クラスタはその受け皿としてわりと適当な気がしないでもない。
特定の政党を支持するという名目でクラスタに埋没してしまえば、「個」としての実績は問われなくなるわけで。
そういう人は支持政党の実績があたかも自分の実績になるのでしょう。


自分は残念ながら多くのコミュニティにおいて後者のオタク、つまりミーハーに近いポジションを自認しています。
オタクが片道切符の列車だとしたら、そこから降りることをずっと躊躇い続けているという段階。
列車から転がり落ちることは少なからず痛みを伴うものであり、その決断には勇気が要ります。
かつて自分はオタク列車から降りてリアルを志向した人を「オタクから脱落した人」と見下していた節もありますが、
ある意味自分みたいな損切りできない人間がもっともタチの悪い人種なのかもしれません。


#8093

プライドの整理

自分が個人的に30代最大の年代特有の課題と考えている「プライド」の問題。
しかしこの言葉に対する自分の理解があいまいなせいで、ブログで取り扱っている話題が多岐にわたり、
同じ言葉なのにさまざまな意味が混在してしまっているように見受けられます。
そこで、問題解決の前段としてまずは言葉の意味とそれに対する現時点の認識を整理したいと思います。


まず、辞書的意味は以下のとおりです。


【プライド(pride)】
自分の才能や個性、また、業績などに自信を持ち、他の人によって、自分の優越性・能力が正当に評価されることを求める気持。また、そのために品位ある態度をくずすまいとすること。誇り。自尊心。自負心。矜持(きょうじ)。(精選版日本国語大辞典)

【自尊心(じそんしん)】
自尊の気持。自分を尊び他からの干渉をうけないで、品位を保とうとする心理や態度。プライド。(同上)

一般に「プライド」と言ったときはこのような肯定的なニュアンスを含む意味になりますが、
一方で「傲慢である」という否定的なニュアンスを含むこともあります。
いちおう「傲慢」についても辞書を引くと以下のとおりです。


【傲慢(ごうまん)】
おごりたかぶって、人をあなどること。人をみくだして礼儀を欠くこと。また、そのさま。(同上)

ブログを遡ると、まず10〜20代の自分はプライドを「客観的に見て不合理なこだわり」という意味で使っています。
「ゲームの〇〇を(あえて)解禁していなかったがプライドを捨てて解禁した」という感じですね。
自分は昔からゲームの一部分のコンテンツなどの「とっておき」を
あえて着手しないことで神聖視してコンテンツ全体の価値を高めようとする癖がありました。
この意味のプライドを捨てられないがためにクリエイティブな行動が抑制される問題については、
このブログでは「タコウインナー問題」と名付けて考察してきました(#07454 / 2024年05月14日)。
タコウインナー問題では、好きだからこそ着手できないという心理に立ち向かっています。
ただ、これは辞書的意味のプライドとはちょっと毛色が違います。


一方、タコウインナー問題に似て行動抑制に関する問題として、
「やるからにはここまでやらなければならないというハードルの高さによって着手を阻まれる」という心理もあり、
これも当ブログではプライドと呼んでいます(#07960 / 2025年10月01日)。
ただし、これは辞書的意味がいうところの「才能や個性、業績」といった客観的に提示できる事実とは関係なく、
どちらかというと「自分はこうでありたい」という自己像が不当に高すぎるという問題であり、
これもまたいわゆるプライドとはちょっと違う話です。
この問題は「この年齢ならこうあるべき」といった外圧の影響もあって深刻さを増していることを自覚しているので、
30代で解決を見たいということは以前も書いています(#07756 / 2025年03月12日)。


自己像との乖離による行動抑制はそれはそれで大きな問題であり、
最近は不当に上がりすぎた理想を引き摺り下ろそうとする「無能主義」的思想が台頭してきました(#07600 / 2024年10月07日)。
が、それは2025年の1年間を通じて破綻したことを実感しています。
できて当然のことをやるだけの人生に意味を見出すのは難しいというのがその理由。
とはいえ、だからといって理想が高ければ良いというわけではないと考えています。


しかしプライドの問題で本当に重要なのはそこではありません。
自分の実績が「他人に正当に評価されているかどうか」が問題であって、それ自体は理想の高さは関係ないわけです。
これまで悩んできたタコウインナー問題や無能問題というのはいわば「行動できない」という悩みであり、
それは実績を積み上げて誰かに評価してもらう以前の問題です。
つまり、(理想との対比で)手元にある実績があまりにも貧弱であることは認めざるを得ないところがある。
それが近年深刻化する他者に対する負の感情、
特に格下だと思っている相手に対して高慢な態度を拭えないという事態につながっているのではないかと。


こう考えると理想が不当に高いことそのものが問題というより、
それとの相対で実績がしょぼく見えるので卑屈になりやすいことが問題なのかも?
ただ、いずれにしろ自己承認だけでは解決できないと思っていて、
他者承認を求めるプロセスからは逃れられないと思っています。
そのためにはまず、自分の実績を正直ベースで認識することが重要なのかもしれません。


#8094

人依存の仕事からの脱却

プロジェクトの変更が確定したことを受けて、自社のキャリア面談を受けてきました。
キャリア面談とは会社の偉い人と自分のキャリアについて相談できる制度で、
自分は年配者と話せる貴重な機会として半ば悩み相談の場として利用させてもらっています。
2年前の前回(#07371 / 2024年02月21日)は主に仕事に対してモチベーションが上がらないという悩みを吐露し、
それに対してアドバイザーには「仕事にモチベーションは要らない」という考え方を提示されました。
要するに仕事は(趣味と違って)何もしなくても外発的動機づけが供給される環境なので、
自分からやる気(内発的動機づけ)を絞り出さなくてもやっていけるのではないかということでした。
2024年当時の自分はフルテレワーク&閑散期の影響でプライベートも仕事もモチベを捻り出せないことに悩んでいて、
そういう状況を踏まえて相談したのだと記憶しています。


今回はそういったメンタル面の問題は特に起きていない……
というより、問題はあるがまだ言語化できていないので相談できないという状況のため(自尊心の問題など)、
それよりも「40代以降も仕事していくために、いまやるべきこと」にフォーカスしました。
自分は地方時代を経て2019年末に上京し、当初は開発案件に携わりたいという気持ちが強くありました。
webエンジニアの仕事というのはもっぱらコーディングだと思っていたからですね。
しかし自分の上京と同時に世の中はコロナ禍に見舞われ、
IT業界もそれまでの売り手市場から一転してどこも即戦力を求めるような風潮に(なったとされています)。
そしてなんやかんやあっていまの会社に転職して、まもなくするとChatGPTが登場。
コーディングはAIが肩代わりする未来が日に日に現実に近づき、
そして体感ではCodexやClaude Codeの登場によってそれはもう現実になったと思っています。


こうした世の中の激変を経て、自分はもはや仕事でコーディングをしたいとは思わなくなりました。
ただ、だからといって異業種に行くという選択肢は無い。
となると、中年以降も生き残るためにはマネージメント職も前向きに考えなくてはならない。
むしろ、自分に向いているのはそっちなのではないかという話をしたこともあります(#07204 / 2023年09月07日)。
ただ、そのためにPMPなどの難関資格を取るモチベーションは正直無い。
とはいえその小さなポテンシャルの中でもできることはやっていきたい。
それに対するアドバイザーの答えは「ヒューマンスキルを重視するのはどうか」ということでした。


つまり、プロジェクトマネジメントのスキルはマネージメントの仕組みとしての部分と、
配下のメンバーやお客さんとうまくやっていくために必要な対人スキルとがある。
前者は本を開けば載っているが、後者は実際に経験してみないとなかなか身につかないところがある。
特に、人や現場が変わったら通用しないということではダメで、
どこに行っても通用する(ポータブルな)スキルでなければならない。
これからはその対人スキルを意識的に磨くのはどうだろうかと。


確かに自分は現状、かなり「人依存」の働き方をしていると言わざるを得ません。
というより、これまで現場を変更してきた理由のほとんどは現場にいる人と合わなかったからです。
良い人がいれば仕事できるし、嫌な人がいると仕事はできないというのが実情。
ただ、中年以降はそれでは通用しないということです。
まあ、地方時代もある意味それが通用しない世界でいちおうやってきたつもりではありますが……。


対人関係については近年プライベートでもいろいろと思うところがあり改善はしていると思うので、
次のプロジェクトでこれが通用するのかどうかは気になるところです。
人格者だけでメンバーが構成されていれば仕事しやすいのは確かなのでそれはそれで歓迎ですが、
対人スキルを磨きたいという動機を考えると、
変なやつがいたらそれはそれでチャンスなのかもしれない。
いずれにしろ、次は「人」を重視することになるんじゃないかと予感しています。


#8095

web制作は上流工程へ

今日の出来事web制作ai

Codex導入以降、web制作が捗りまくっています。
具体的にはピクチャレ大会の改修が10コミットに達しており、これは低迷していた2025年の7ヶ月分の作業に相当します。
必要性は感じているが見た目の変化に乏しいので改修モチベーションを捻出できない、
といったような保留タスクが一気に進んだ感じですね。セキュリティ関係とかちょっとした不具合とか。
このブログも先日プロジェクト全体のセキュリティ強化を実施しましたが、
Codexが出してくれたレポートによると驚くほど多くの脆弱性がありました。
このブログはGPT-4の時代にChatGPTに大部分を書いてもらった経緯があり、
自分にとっては初めてのAIコーディングによる成果物です。
ただ、当時はまだエージェント機能は使えなかったので1ファイルずつ作らざるを得ず、
そのため機能単位でAIにコードを書いてもらって自分がそれを該当箇所に埋め込むという作業が主でした。
総合テストなんてやっていません。
そういう経緯もあり、ファイル間の連携が雑だったのは間違いありません。
が、しかしまさかこんなにガバガバだったのかというほどたくさんのセキュリティリスクが出てきました。


実は02月01日復帰前にこのブログはまた攻撃されたのか、
それとも内部の不具合だったのかコンテナが暴走してCPUを食い続けるという事故が発生し、
去年末のReact2Shellに続いてまたしても強制シャットダウンを経験しました。
セキュリティを見直そうと思ったのはそういうきっかけがあったからですが、
このタイミングでCodexと出会えたのは運が良かったと思います。これが無かったら相当の難工事だったでしょう……。


とはいえ、Codexがあまりにも有能なら人の手はもう不要なのかというとそういうわけでもありません。
体感では、コーディングをAIに依存すればするほど、人間が自然言語で書くプロンプトの重要性は高まっています。
やってほしいことを一言一句漏らさず言語化する必要があるからですね。
軽微な修正では、プロンプトをしっかり書いて指示するより自分で改修した方が早いケースもまあまああります。


結局、AIに指示するためにはシステムのことを十分理解していないといけないし、
web制作の基礎知識もそれなりに求められます。
書く内容がコードそのものではなく自然言語になっただけで、やっていることはあまり変わっていないような気も。
ただ、知識を補填して完成度の高いコードを爆速で書いてくれるので間違いなく効率は上がりました。
個別の言語化があまり必要ないセキュリティ強化などは本当にやりやすくなりましたね。
AIのおかげでwebサイト全体のセキュリティは長い目で見てかなり強化するんじゃないだろうか。


一通り保留タスクを片付けたら、次はいよいよ大規模開発をCodexでやっていくつもりです。
これはまず「仕様書の整理」といういままでやってこなかったタスクが待ち構えており、
これをどう片付けるかという問題になりそう。
趣味のweb制作活動も、今後はシステム開発における上流工程みのある作業にシフトしていくんでしょうね。


#8096

情報収集手段としてのTwitter

今日の出来事twitter

ここに来て旧Twitterの利用が加速しつつあります。
超ざっくり振り返ると、自分は2009年に運営サイトの更新通知としてTwitterの利用を始めました。
そしてTwitterの日本語コミュニティの勢いが高まってきたことから2010年春に汎用アカウントを開設。
2013年までは主に音ゲークラスタとしての運用でしたが、
同年の『ピクミン3』の発売をきっかけにピクミンコミュニティへの所属を自認するようになります。
以降、ピクミンコミュニティの中心地として運用を続けていったわけですが、
2018年にそのコミュニティ内で大きな問題を起こしてしまい、メンヘラになり、アンチTwitterを標榜するように。
翌年はいわゆる匿名メッセージアプリの(個人的)大流行があって一時Twitterは忘れ去られ、つぶやく頻度は大幅に減少。
ピクミン界隈に復帰してからも「個人の意見」を発信する機会はどんどん減っていき、
その後例の大量リムーブを決行してますますその傾向は強まることに。
こうしたアンチ以降の動向については現在はどちらかというと後悔しています(#07726 / 2025年02月10日)。


それによって「より自由に発信するネットコミュニティ」を失ってしまった自分は、
2023年に同人界隈をフォローするためだけにサブアカを開設。
当初は推し絵師さんの動向を見守るためだけに運用しているようなアカウントでしたが、
翌2024年にYouTubeのおすすめをきっかけにVTuber(ホロライブ)を見るようになり、
また同時期に『原神』にもハマったことでサブアカは同人&ホロライブ&原神アカウントという名目になりました。
そしてしばらくして『原神』は自分の中で衰退していき、
またホロライブも博衣こよりお気持ち表明事件の辺りからホロライブを叩きたい勢力があまりにも大きなことを知り、
ちょっとした価値観の違いで大炎上する界隈に正直疲れてきました。
いちおうまだ主なライバーの通知は切っていませんが、動画自体は(角巻わため以外は)もう見ていません。
また、同人界隈についても2025年以降は画像生成に興味がシフトしたことで昔より熱は冷めていきました。


その結果サブアカのおすすめタイムラインは「育児漫画」「猫動画」「名言・格言・自己啓発」「女の子イラスト」
といった要素が入り乱れる、暇なときにちょうどいいコンテンツをつまみ食いするシステムになりました。
これは、かつての汎用アカウントの運用にかなり近い状態です。
おかげで電車移動中などはこれを見ていれば基本的に退屈しません。


現状、この本アカとサブアカの他にも
「電子音楽」「投資・仮想通貨」「ゲーム制作」「読書・ブログ」と4つのアカウントを運用していて、
それぞれのおすすめタイムラインは分野別にキュレーションされた投稿が無限に供給されるようになっています。
このうち、2025年までに主に「開拓」していたのは仮想通貨のみでしたが、
2026年からはブログ活動も恐れずにSNSで発信していこうという方針に基づき、ブログ系アカウントも動かしています。
そしてこのアカウントはいわゆる知的活動にフォーカスしていることもあって、
整備すればするほどめちゃくちゃ有意義な情報が滝のように流れてくるんですよね。
最近、この整備が多少進んだことでアカウントとしてかなり使えるようになってきたという印象です。
この影響で、ここ数日で新規に読みたい本がかなり増えました。
が、読書は全然進んでいません……。


確かにTwitterは欠陥の多いシステムで、SNSとしてはイマイチなのは間違いないと思います。
サブアカを好きなだけ作れるため倫理的に逸脱しているような人も自由に無責任に発信できる構造上の欠陥もあって、
VTuberのような叩かれやすい著名人にとっては悪魔のようなサービスだと思っています。
自分はいまだにXに改称したことにも納得していません。
が、一方でいまだに利用者が圧倒的に多い覇権プラットフォームであることは疑う余地もなく、
またキュレーションをうまく操縦すれば有意義な情報を得るのには手軽で強力なツールであることは確かです。
情報収集プラットフォームとして優れていることは認めて、
アカウント別のキュレーションを「育てる」ことにしばらく注力してみるのもいいかもなと改めて思っています。


#8097

コスパの良い気分転換

今日は夜まで特にこれと言って用事は無いが家にずっといるのも嫌だったので、
珍しくゲーセンに行ってメダルゲームの『アニマロッタ 勇者アニマと竜の秘宝』をプレイしてきました。
レンタルメダル枚数は360枚で、30枚ずつのBETで3時間半ほど遊べたと思います。
1,500円でこれなのでコスパは良い……のか?


アニマロッタは中央に大型のアナログ抽選機があり、ボールが1〜25番のいずれかの穴に入っていきます。
その抽選をボール8個分行い、その結果によってメダルが払い出されるというもの。
抽選結果に左右されるミニゲームは14種類もあり、好きなものを選んでプレイすることができます。
ちなみに派生シリーズに「カラコロッタ」「ツナガロッタ」という2種類のゲームがあり、
カラコロッタはやったことが無いのでまったくわかりませんが、
タイトルから察するに抽選が数字ベースではなくて色ベースなんでしょうかね?


ツナガロッタはアニマロッタと同じ数字ベースのゲームですが、
抽選機が直接各ステーション(プレイヤーの画面)に投影されるという特徴があり、ミニゲームは限られています。
これはたしか8ゲームごとに全国ネットワークで行う大ビンゴ大会があり、
筐体からジャックポット進出者が出ると東京にあるスタジオで巨大な装置による抽選会が行われます。
自分はどちらかというとこのツナガロッタが好きなのですが、
残念ながら筐体は減少傾向にあるのか、都内にも2台しか存在しません。


まぁ正直ツナガロッタと比べるとアニマロッタはそこまで面白いわけではない……と思っていますが、
まだゲームを全部遊んだわけではないのでなんとも言えません。
ちなみにぱっと見有望のように思っていたゲームは『ビンゴシアター』というセガの筐体だったのですが、
こちらはアニマロッタよりもノリがキツかったのですぐにやめてしまいました。
アニマロッタもかなーりキツいですけどね。ジャックポットが出るとジャックポットの歌が流れ出したり……。
メダルゲームってこういうものなんだろうか。


基本的にゲーセンは他にタスクが無い、かつ気分転換したい、かつお金をそんなに使いたくない、
といった諸条件が揃ったときのみ選択肢に入る気分転換だと思っていますが、
まぁコスパの良さでは抜群なので数ヶ月に一度くらいは行ってもいいかも。
ちなみに休日にゲーセンへ行った場合メダルゲームになりますが、平日は音ゲーが候補になります。
そういえばbeatmania IIDXも新作稼働直後は新曲にいたく感動して、
これからはまたHYPER譜面を埋めていこうと思っていましたが見事に定着しませんでしたね。


#8098

飛ばし読みのバランス感覚

今日の出来事読書

01月が最悪の出足となったことで半ば忘れ去られていた読書録復活計画(#08022 / 2025年12月02日)についてですが、
最近ようやく読書機運が高まってきているので改めてその具体的な方向性について整理しておくとします。
まず、なぜ読書を年間計画として復活させたのかというと、
自分の中で教養と言えるもののレベル、特に価値判断の根拠になるツールがなかなかアップデートされておらず、
自己啓発本をよく読んでいた2020年から停滞していると実感したことに依ります。
2021年以降は承認欲求についてずいぶんと長く考察してきましたが、
独力でどうにかしようとしているのでなかなか遠回りをしているような実感があります。
これにかぎらず、先人がすでに答えを出していることは少なくないと思われるので、
それにアクセスする手段としての読書は途絶えさせない方が諸々効率が良いのではないかとは改めて思います。


とはいえ、ただ読むだけでは身につかないという考えから、
年間計画として標榜しているのは読書ではなく読書録、つまり1冊読んだらそれを要約してブログに載せる、
という活動を最低年4回行うことを目標としています。
そして、「読書録を書くに値する本」かどうかは読んでみないとなかなか分からないだろうという予感から、
読む本そのものは2021年の大人買いを復活させる勢いでとにかくウィッシュリストを厳選して買いまくり、
それらは読書録を書かなくてもいいからとにかくパラっと読んでしまおうという方針です。
ちなみに読書時間は週6〜10時間確保できる見通しですが、この辺はモチベに大きく左右されそうです。


「読書録を書くに値する本を精読して読書録を書く」というプロセスは、まあなんとかなると思っています。
曲がりなりにも2020年に12本も書いた実績があるわけで、そのプロセスと大差無いわけですからね。
問題は「パラっと読む」というプロセス。
何も考えずに買ってきた本を読み出したら結局端から端まで読んでしまいそうで、
そんなスピード感ではおそらく目標を達成することができません。
持続可能なモチベを捻出できそうな範囲で想定しているペースは、1日で1冊読み切ってしまうことです。
たとえば本を読むために退勤後カフェに入店したとしたら、そこにいる間に全部読み切ってしまいたい。


自分は本を読む前に過大評価や理想化がどうしても付随するものと思っていて、
本は買った以上は(ともすれば値段以上に)何か有意義なことが書かれているものだと期待してしまうものです。
だからこそいきなり精読しようとして、そして挫折してしまうパターンがとても多い。
なのでもう少し気負わずに、「面白いことが書かれていたらラッキー」くらいのスタンスで臨むことは重要だと思います。
かといって、本当に文字通りパラパラとめくっただけでは何も意味がありません。
精読しないということは読まない箇所があるということを意味しているわけですが、
どれくらいまでのカットなら「いちおう読んだ」と言える読後感を得られるのか……。
この辺のバランス感覚は読んでみないとなんとも言えず、試行錯誤することになりそうです。


#8099

ゴールド現物の行方

今日の出来事暗号資産

投資で含み損を抱えていると、心理的に金銭的な自由は(手元のお金がどうであれ)縛られるものです。
自分は01月上旬にビットコイン乱高下で肝を冷やしたあと、XAUT(テザーゴールド)の先物に参加。
先月下旬のゴールド市場最高値(5,600ドル)のあと、
地政学リスクなどを見てゴールドは長期的にはまだまだ上がると考え、
短期的な暴落を見届けてから5,300ドルでロングポジションを握りました。
が、ゴールド価格はさらに暴落して二番底を探る展開になり大ピンチに。
一時的に高騰したところで99ドルの実損を覚悟して部分損切りしたり、大底でナンピンしたりして、
ポジション平均価格を5,080ドルまで落とすことに成功したのですが、
ゴールド市場は先月末の乱高下のあとはずっと5,000ドル近辺をうろうろするようになってしまい、
利確できずにもどかしい思いをしたまま1ヶ月が過ぎようとしています。


世の中的には今日から中国が旧正月(春節)に突入し、来週明けまで現地の市場は休みになります。
中国はゴールド現物の最大の取引市場と言われていて、春節の開始タイミングでゴールドは明らかに値を落としました。
春節に合わせて旅行などをするのに現金が必要なのでゴールドが売られやすいということですね。
そして順当に行けば、春節が終わって中国市場が再開したときに売られた分を買い戻すのではないか……
と言われていますが、実際にどうなるかはわかりません。
他にもアメリカの金融政策や地政学リスクなど、ゴールドの価格を決定する要因はいろいろあります。
まあでも春節が終わるまでは薄商いになるので暴落も高騰もしないんじゃないかとは思っています。
少なくともビットコインを握っているときよりは随分安心感はあります。
むしろビットコインを握っていたら今頃破滅していたでしょうね。今年は仮想通貨はダメっぽいなぁ……。


とりあえずゴールドは5,300ドル近辺まで戻したら利確していったん日本円にして、
目先の金銭的自由を強化するのに消費してしまおうかと思っています。
具体的には、Twitterを情報収集手段として割り切るようになってから欲しい本がめちゃくちゃ溜まっているので、
これを厳選した上で一気に大人買いしたいという機運があるんですよね。
こういう知的好奇心はできるだけ温かいうちに消化できるだけ消化してしまいたいところです。
去年まではこうした物欲さえ死んでいたことを考えると欲しいものが明確にあるというのは良い傾向だと思っていて、
投機がその機会を損失させることはなるべく避けたいと思っています。
ゴールドを売ったらいったんコモディティ市場を含めて投機からは離れるのが無難かなと。


#8100

社会と承認の話

インターネットにおけるこれまでの活動成果への他者のフィードバックに対する率直な認識として、
僕は活動量に対して得られている他者承認が不当に少なかったと思っている。
そして「このクオリティでは不十分だから認められなかったのだろう」という安直な反省により、
承認を得るためのハードルが青天井に上がり続けるという悪循環によって行き詰まりを感じてきた。
この流れは思い返せばネット活動初期から連綿と続いており、
ゆえに(匿名・半匿名の)ネット活動そのものに対する不毛さはいまだ否定できていない。


これまではネット活動の不毛さを他責論から出発して考えようとすると議論さえも行き詰まると考え、
基本的には自分の側に原因があり、それを克服することで多少なり改善するはずだという希望を捨てずにやってきた。
利他活動に注力すべし(#07800 / 2025年04月25日)といった考えや
仕事として捉えるべき(#07900 / 2025年08月02日)といった考えはその一環とも言える。
いまはいわば実践過渡期であり、これらが正しかったのかどうかについてはまだ結論を下せないけれども、
しかし短期的には何も解決していないという実情もある。
少なくとも匿名の人が跋扈するプラットフォームで活動を続けるかぎりは何も変わらないのだろうと。


安定した承認基盤が確立していないコミュニティにおけるコミュニケーションの基本的な動機は、
他者の中にいる自分の「存在確認」である。
コミュニティに所属しているかぎり他者は自分を少なくとも認識はしているのだろうと思うが、絶対的な確信は無い。
そこで挨拶が返ってくるか、質問に答えてくれるか、向こうから話を振ってくれるかなどというように、
少しずつ探りを入れてどの段階まで自分が人として認識・尊重されているのかを逐一確かめることになる。
そのような心理状態において、自分は尊重されているという根拠になる他者の発言は大きな救いになる一方、
反応を得られないという事実に直面すると大きな心理的負担にもなる。
そこには主観的な自分ではなく「他人の中にいる自分」こそを尊重されたいという欲求が確かにある。
そしてその「他人の中にいる自分」が確立して初めてその人との間で安全なコミュニケーションができるようになり、
ようやく自分はこういう人なんだという根拠になるようなスキルや実績を遠慮なく発露できるようになる。
まず実績を作ってそれによって自分を認識してもらおうというネットでありがちな営みは、そもそもこの順序が逆なのだ。


「他人の中の自分」は、できればその他人の自由意志のもとに尊重してほしいと思う。
しかしそれは存在確認がお互いに行われ、自分もその人を尊重し、承認基盤が安定して初めて望めるものであって、
尊重される以前の「いかにして認識してもらうか」という段階においては、
「他人の中の自分」の容れ物にすぎない他人そのものを尊重する余裕が無いこともあり得る。
そこで、そういう人は話を遮って自分語りをしたり、掲示板を荒らしたり、わざと他人が不快に思う言動をしたりする。
すると他人は否が応でも「他人の中のその人」を認識し、したがってその人の目的は達せられることになる。
認識させたいだけなら他人を尊重しない言動の方がスキルも不要で手っ取り早いのは間違いない。
少なくともTwitterのようなサービスではそのような倫理との不整合があると思う(#08044 / 2025年12月24日)。


モラルを逸脱して「他人の中の自分」を無理やり他人に認識させれば、当然の成り行きとして尊重はされないだろう。
しかしネット活動では「他人の中の自分」が認識されないということは死人と同義である。
誰かに認識してもらうかどうかというのは多くの有象無象にとってネット活動を支える重要な関心ごとであり、
一方で尊重されることはそのハードルの高さからもはや諦めている人も少なくないと思う。
少なくとも実感として東日本大震災以降のネット社会では承認リソースは数値的優位な上位層に集中し、
それ以下へは十分に行き渡っていないと感じている。
つまり、ここには「すべての人が可能なかぎり尊重されるべきだ」というような思想は流れていない。


承認欲求は他人の中の自分が尊重されているという実感を得ることで初めて満たされる欲求であり、
他人に認識されるためだけの行動では基本的に満たされない。
その点、利他活動はモラルを逸脱せずに他人に自分を尊重してもらう余地を残した「認識されるための行動」と言えるが、
それが成立するためには見返りを求めないという厳しい条件が付随する。
誰かに認識されたいという見返りを期待するならそれは道徳的な是非は別として、本質的に自分語りや荒らしと変わらない。
やはり、現代のネット社会は承認を得たいという目的から出発して考えると
もともと潤沢な人間関係があるか卓越したスキルを持つ人のための実力主義社会であり、
ここで他者に認識されていない人がゼロから承認を求めるのは極めて困難だという考えはますます否定できない。
もちろん、だからといって現実が正しく平等社会なのかというとまったくそんなことはないのだが、
市井に横たわるマナーの存在感を考えるとネット社会よりは幾分かマシのようには思える。


……ネット活動を「損切り」すべきなのではないかというのは、ずっと前から考えていた。
僕は根本的に承認に飢えていて、条件付き承認しか与えられないネット活動でそれが満たされることは無い。
かといって本当の自分を隠したまま「無条件の承認=愛」をネットの向こうの誰かに求めるのもまた不合理だと考えている。
今後も死ぬまで承認欲求との戦いになるなら、どこかで絶対にリアルと向き合わなければならない。
とはいえネットのキャリアを捨てなければリアル活動ができないかというとそういうわけでもないので、
もしも実践するとしたらネット活動とのリアル活動の両輪作戦(#07500 / 2024年06月29日)になると思っているし、
なんなら仕事もリアル活動の一環である以上はすでに両立しているとも言える。
ネット活動は自分をすでに認識している人のためだけに行為するという方向性は今後ますます強くなっていくと思う。
顔の見えない誰かに承認を求める不毛な活動はさすがにもう終わりにしたい。


#8101

間隙を突かれる

今日の出来事仕事

プライドに関する問題はまだ今後しばらく続くと予感していますが、
自己実現や行動力とはまた違った文脈でプライドが深刻な問題を引き起こしそうな気がして不安です。
簡単にいうとプライドの増大でストレス耐性が減っているという自覚があるという話です。
よく年配者がちょっとしたことでキレるというような話を聞きますが、
それはこうしたプライドの問題をうまく処理できないと中年期を越えてなお深刻になり続けることを示唆しています。
要は、保守的に立ち回ると「自分はうまくできる」という自己イメージが膨らみ続けてしまうので、
少しでもそれを否定する事例に出くわすと強い自己否定感が襲ってくるんですよね。
それこそ「自分はもう良い歳なんだからちょっとしたことでは怒らないよ」というような自己イメージもあり、
ある部分だけ否定されると連鎖的にプライドが崩れていくというような感じ。


自分は2022年に所属会社の勤怠システムをめぐって担当者とバトルした黒歴史があり、
その反省から基本的に自社の総務や営業には喧嘩を売らないようにしています。
業務外のどうでもいいことで社内評価を落とすような愚行はやめようということですね。
ただ、今日総務から一種のペナルティに関するメールが来て久々にイラッとしてしまいました。
かいつまんで書くと、いわゆる帰社日(オンライン)の退場が25分早かったので25分分控除しますという内容です。
時給換算でいくらになるか計算していませんが、まあ小銭程度の給料が減りますと。
人は金額に関わらず金銭的損失そのものに対して過敏に反応してしまうようにできているので、
こういう問題はその金額に関わらずシビアです。


帰社日は業務外時間に行われ、その時間は自社の勤怠では通常業務時間として換算されます。
つまり月の定時内労働時間として計算されるわけですね。
で、確かに自分は早く退場してしまいました。もうとにかく眠かったので話は聞いていなかったし、
終了時間を把握していなかったので終わったと思って切ってしまったわけですね。
なので25分控除は甘んじて受け入れなければなりません。
ここで何か余計なことを言えばただただ社内評価を落とすだけで不利にしか働かないでしょう。
それが分かっているからイライラするわけです。
要は、控除の原因を作ってしまった自分の不甲斐なさに腹が立っていると。
イライラというのはたいていこういうもので、突き詰めれば他人は正論を突きつけているだけでしかなく、
根本的な原因は自分の不誠実さにあることが多いです。


あえて反論するなら帰社日当日は終了後各自でオンライン研修をこなす必要があり、
自分はこれを当日内に片付けているんですね。この研修は人によってはしない人もいます。
そして、帰社日の出勤扱いとなる時間はそこまでの作業時間込みで出ていて、そうとう余る想定です。
つまり出勤扱いとされている時間の大部分は任意の研修時間に充てられていて、
多くの人はその余った時間を拘束時間として認識していないはずなんです。
そこで何してようが控除されないのにzoomの退場が早かった分は分単位で控除するのはおかしいんじゃないか……
というのは無知を装って言うだけ言ってみようと思っていますが、まあ期待はしていません。


こういうことはなるべく起きないように立ち回っているつもりですが、
どうしてもまれに隙を与えてしまうことは今後もあり得ると思います。
そして間隙を突かれて一時的にイライラしたからといって安易に他者を敵に回してしまうと、
それまで積み上げてきたものが崩壊しかねません。
そしてこういうことが減れば減るほど、年齢が上がれば上がるほど、キャリアが積み上がるほど、
突発的に起こるイライラ現象への対応は難しくなっていくんじゃないかと思っています。
自分はキレる老人にならないために必要なストレス耐性をまだ持ち合わせていないと思うので、
プライド問題も重要ですがこういう感情的な分野もいずれメンテが必要なのかなと。


#8102

反省できることの強み

自分は自称コミュ障なのですが、
いつの間にかわりとマシな方になっていたんじゃないかと実感する出来事がありました。


今日は次のプロジェクトを決めるために、某大企業の人とオンライン面談をすることになりました。
事前に聞いていなかったのですが同じ所属会社の1人と一緒に受けることになり、
2対2対2(面談を受ける技術社員、担当営業、先方)の6人で面談を実施する流れに。


この場合、自分以外の技術社員のことは自分にはまったく関わりないのですが、
かといってその人に関する話をしているときだけ退室というのもなかなか面倒なので普通に話を聞くことになります。
スキルシート(経歴書)なんかも堂々と映し出され、ある程度の経歴がわかってしまったりもします。
逆に言えば自分の経歴が相手に筒抜けになるということでもあるのですが。
今回一緒に受けた人は、推定42歳で見た目は50以上ありそうなおっさんだったのですが、
明らかに客先の質問に沿わずに「〇〇はできませんが、これからできるように頑張ります」の一点張りで、
客観的に見てコミュニケーション能力が豊かには見えませんでした。
それはまるで社会人黎明期の自分を見ているような感覚で、なんとも言えず歯痒いものがありました。
ということはその地点から比べると、それを歯痒いと思えるくらいには上達したのだと思います。


面談が終わると技術社員だけが退場して先方から営業に率直な感触が伝えられる時間があり、
その後個別に営業から自分に連絡が来て先方の感触を伝えられるのですが、
受け答えで人柄を感じられたのでできれば参画してほしいという旨を伝えられました。
まあ、推定42歳のおっさんと比べれば多少心証は良かったということなのでしょう。
ちなみに自分はこの現場に行くつもりは(いまのところ)ありません。


自分は思春期から「自分はコミュ障という欠点がある」ということに対して自覚的だったので、
ブログ、他人との会話、特に黒歴史となるような失敗を通じて、
「こういうコミュニケーションは良くないのだろう」という経験則を積み重ねてきたつもりです。
その結果、特にここ2〜3年はかなりマシになってきたんじゃないかとボンヤリ思っていました。
それが、失礼ですがよりコミュ力の低い年配者と遭遇したことによって改めて実感したというわけです。


ちょうど同じ日にSNSで「上の立場になるとわかるが、
人並みに仕事ができ、勤怠良好で、人間関係トラブルを起こさず、ホウレンソウできるだけで社会人としてはかなり上位」
という言説がバズっているのを読みましたが、
確かに大人になったらみんな自動的にコミュ障を克服するわけではなく、
年齢的に見て一生改善しないんだろうなと思わせる人も決して少なくないという実感は自分にもあります。
特にIT業界はその傾向が強いような気がしないでもないですが……。


この話は別にコミュ力が改善したことをもってコミュ障おっさんを見下したいとかそういうわけではありません。
むしろ、中年期以降の社会的地位に求められるコミュ力から考えると、
自分もまだまだ多くの課題を抱えており、とても「コミュ力がある」とは言えないような段階です。
ただ、少なくとも劣っているところは引き続き改善したいという反省の意思はあり、
どうやらそれは実効性のあることのようだという気づきがありました。
こうした心構えがあるということは意外と多数派ではなく、
ブログを通じてひたすら内省を繰り返してきた自分ならではの強みなんじゃないかと改めて思った次第です。


#8103

フィギュア再販を望む

ポケモン30周年に先立ち、『ポケットモンスター ファイアレッド・リーフグリーン』のSwitch版が発表。
30周年当日の02月27日に配信開始されるようです。
少し前から噂が立っていて、Nintendo Classicsのラインナップに加わるのかと思っていましたが
まさかの単独買い切りソフトとして登場するとは。
ポケモンFRLGは第1世代であるポケモン赤・緑のゲームボーイアドバンス版リメイクですが、
第1世代はオリジナルのGB版、FRLGのGBA版、3DSのGB版バーチャルコンソール、
Switchの『Let's Go ピカチュウ・イーブイ』、そしてFRLGのSwitch版と数えると実に4回目のリメイク・移植になります。
ちなみに自分はピカブイ以外は持っています。


赤緑にハマった思い出はゲーマーとしての自分の原体験そのものであり、
半端ない思い出補正があるのは事実ですが、
実は思春期ど真ん中に女の子主人公を携えてリリースされたFRLGにも相当の思い入れがあります。
FRLGの女の子主人公は登場当初名前がなく長く不遇の扱いを受けていましたが、
登場から14年後にスマブラSPにプレイアブルキャラとして抜擢されたり(#05285 / 2018年06月12日)、
さらにその翌年に公式フィギュアが発売されて「リーフ」という名前が一般化したりと(#05769 / 2019年10月05日)、
平成末期になってからようやく脚光を浴びるようになったという経緯があります。
リーフちゃんは二次創作(発売当時Pixivはまだ無く、お絵かき掲示板などが主流だった)も活発で、
公式絵のスカートの短さから過剰なミニスカ姿として描かれることが多く、
これも当時の自分のフェチに大きな影響を与えました。
2019年に購入したフィギュアはその後金銭的な都合で売却してしまったのですが、これはとても後悔しています。


いまFRLGをもう一度やりたいかと言われると微妙ですが、フィギュアは再販されたらぜひ買いたいところ。
まあメルカリの未開封品を買ってもいいのですが、せっかくなら他人の手に渡っていないものがほしいところです。


ちなみにリーフちゃんは自分が欲しいと思う数少ない女の子フィギュアですが、最近その枠にもう一人増えました。
それは遊戯王OCGのキャラクターである〈風霊使いウィン〉のフィギュアで、
2024年に発売されてすでに販売終了しています。
去年初頭くらいに知って、こっち方面にアンテナを張っていなかったことをこれも大変後悔しました。
ウィンちゃんのカード自体は2005年のブースターパックに登場したコモンの魔法使いで特に強くもないカードです。
自分はリアルタイムではそのパックを買っていないのですが、
2009年に家族内で遊戯王OCGが再ブームになったとき、
その最初期にとりあえず実家にある大量のコモンカードでデッキを組んでみようという話になり、
そこで数千枚ある箱の中を漁っていてたまたま見つけたのが「風霊使いウィン」でした(家族が所持していたのでしょう)。
あまりの可愛さに衝撃を受けた記憶があります。
その後、1軍の【宝玉獣】に〈デブリ・ドラゴン〉とのシナジーを見込んで無理やり入れていた時期がありますが、
あまり活躍できなかったのでリストラされてしまいました。


しかしその後、2020年に【霊使い】をテーマとするストラクチャーデッキが登場して脚光を浴び、
先述の通り2024年にフィギュア化。そして2026年現在、ストラクの再販に合わせてなんとアニメ化企画が進行中です。
こうして昔好きだったマイナーキャラが脚光を浴びるのを見るとなんとも言えず幸せです。


デジタルゲームもカードゲームも第一線を退いてしまった自分ですが、
リーフちゃんにしろウィンちゃんにしろ、フィギュアの再販がもしあるなら見逃したくないところです。
どちらもレアカードととして出てくる可能性もあり、1万円以上の値がつくカードが出るなら狙ってみたいかも……?


#8104

嫌いな人に関する処世術

今日の出来事人間関係

これは若干アルゴリズムによる偏りの影響もあるかもしれませんが、
近年のTwitterでは「嫌いな人は『いなかったことにする』のが精神的安定の近道である」などのように、
嫌いな人に関する処世術をよく見ます。
嫌いな人への憎悪はドーパミンが出るので、嫌いな人を追いかけていると中毒になってしまう。
なので精神的健康のために嫌いな人はなるべく遠ざけた方が良い、というのはSNS特有の共通認識としてありそうです。


今日も「母親には『嫌いな人にも良いところがあるんだから、その良いところを見つけてあげなさい』
と言われたが、実際にはその母親は大人になって振り返るとかなり嫌な人で、
その人は母親の嫌な部分を見せつけられるたびに(良いところを見つけられない)自分はダメな子だと思っていたが、
大人になってあの言葉は毒親が娘にかけた呪いで、大人になってそれは解けたのだった」
というエピソード が紹介されていました。


「嫌いな人にも良いところがある」。確かにそれ自体は間違っていないように思います。
しかしそれは嫌われている側が言うとあたかも「自分の負の側面は見るな。良いところだけ見ろ」という強要、
あるいは加害や不道徳の正当化にもなりかねない。
ということはつまり、「嫌いな人にも良いところがある」というのは嫌われている可能性のある人はおいそれと言えない、
かなり人を選ぶ価値主張なのではないかと感じました。


メンヘラ全盛期の7年前の自分は人を嫌う3条件に「自分が遵守している道徳やポリシーを守らない人」
「自分が望む期待を裏切ってくる人」「自分の希望を先に叶えた格下の人」を挙げています(#05536 / 2019年02月16日)。
このうち3つ目は単なる嫉妬ですが、当時のボキャブラリーではなぜか嫉妬という言葉を使っていません。
いずれにしろ嫉妬はより個人的なもので、別に嫌いな人に社会的に不誠実な部分があるとはかぎりません。
まあ、制度上の抜け穴を使って社会的地位を上げているので嫉妬する、みたいなケースはありえますが。


1〜2つ目の条件は、社会規範やルールをどう守るかという意識のギャップのようにも思います。
物事に対して誠実に対応しようとする人ほど、杜撰な人を嫌いになりやすい。
「自分はちゃんとルールを守っているのに、あいつはそれを守っていない!」という感情が憎悪になるわけですね。


これは暴論だと思いますが、バカはルールを守れないと思います。ルールを守れないからバカとも言う。
ここでいうルールとは社会規範、法律、規律、道徳、作法、コミュニティルール、暗黙の了解などを指します。
この意味のバカは、欲求不満が強い、精神的に自立していない、単にスキルが不足しているなどの理由から、
ルールよりも自己都合を優先してしまうわけですね。
そして、えてしてこの意味のバカはどこへ行ってもルールを守れないので嫌われやすい。
ルールを逸脱しても周囲の人は基本的に指摘しないので、そもそも自覚が無いことも多いでしょう。
また、ルールというのはきわめて複雑で個人が全部遵守するのはとうてい不可能なので、
そういう意味ではどんな人でもルールを逸脱しうるし、つまり誰もが誰かに嫌われる可能性があります。
突き詰めればルールをどこまで重く見るかという価値観の違いでもあると思います。
この世の中には「社会人なら最低これくらいのルールは遵守するべき」という暗黙の了解が確かにある。
逆に言えば、「ここを逸脱したら叩かれてもしょうがない」というボーダーラインがある。
SNSでは、そのボーダーラインを越えてしまった人が毎日のように炎上しています。
ここでいうルールは客観的公共性がないと炎上も単なるイジメでしかないのですが、それはまた別の話。


個人にとってこのルールの「重さ」はどの程度が妥当なのかという話はまた別の機会にするとして、
とにかく自分が遵守しているルールを守らない他人は嫌いになりやすいという傾向はあると思います。
では嫌いな人とどう向き合えばいいのかというと、人間関係の距離感によってさまざまな答えがあると思いますが、
さしあたりSNSのつながり程度の関係性であれば、冒頭に書いた通り「いないことにする」のが妥当かなと思っています。
憎悪に依存してしまうリスクを考えると、SNSにおいて嫌いな人とつながっているのは普通に高リスクです。
「なんだこいつ」と思ったらさっさとミュートないしブロックしてしまうことが望ましい。
そういう意味でもSNSで脳死で意見を垂れ流すことはそれだけでリスクの高いことをしていると思います。


リアルの関係性における「嫌いな人」も、離れられるならそれが一番良いと思います。
ルールを守ってもらうのが一番合理的のように思うのですが、
自分が直感的に嫌いな人というのはえてして相手もこちらのことをうっすら嫌っていることが多いので
(なんらかの事情でルールを守れない人は、ルールを守っている人に嫌悪を感じるものなのかもしれない)、
「価値観を変えてもらう」という段階に至るまでのハードルが非常に高いんですよね。


ただちに縁を切ることが難しいような場合は、やんわりと距離を取るのが妥当だと思っています。
つまり相手を「認識」はするが「承認」は基本的に与えない。当然その人に期待もしない。
ただ、これを徹底すると自分が別のまともな人に「承認」されなかったときに「あれ? この人に嫌われているのかな?」
と思いがちで、嫌いな人にした行為はすべて自分に跳ね返ってくることを覚悟しなければなりません。
それもそれで息苦しいときがある。


そこで、「嫌いな人が守っていないルールは自分も守る必要がない」という考え方もあります。
つまり自分がルールに対して従順すぎるので、その程度を少し落としてみることで解決することもあり得る。
夫婦でルールに関する価値観の食い違いでうまくいかないときなんかは有効のようにも思えますが、
もちろん道徳を守らなくていいわけではないので、ルールを軽くするのにも限度はあります。


「嫌いな人」というのはネガティブな感情をもたらす存在ですが、実は学べることも多いと自分は思います。
少なくとも自分の自己批判の歴史では、嫌いな人に気づかさせてもらった部分が少なくありません。
実は人生において、反面教師こそが最高の先生なのではないかと思う今日この頃です。


#8105

発想力が求められる開発

Codexによってwebサイトの不具合修正が捗りすぎて、
少なくともこれまでにタスクリストに羅列していた主な保留タスクは一通り片付けてしまいました。
まだ掘り下げれば出てくると思いますが、出てきてもすぐに片付けられそうな気がしています。
これは「新機能の実装に集中できる」というポジティブな意味もあり、
もちろんそういうスタンスでエージェントAIを使ったコーディングと向き合うべきなのでしょうが、
一方でこの状況は「ちょっとした不具合修正を実績として計上する」ということができなくなったことを意味しており、
これはweb制作活動においてモチベーションを維持するのに障壁になり得ると思っています。


AI以前は、把握している不具合や追加したい新機能をノートにまとめておいて、
いざ作業する段になったらそのうち1つを選んで取り組むという流れが定着していました。
このとき、簡単に修正できる不具合は作業の「入口」としてとても適していて、
そういうタスクをあえていくつかストックしておいた方が作業が捗りやすい傾向にありました。
面倒臭いタスクしか選択できない状況では、なかなか作業自体に着手できないわけですね。


しかしAI以後の現代においては、そうしたタスクは保留していても一瞬で解決してしまいます。
結果的に処理しやすいタスクは保留しにくくなり、
Codexをもってしても処理が面倒くさいような重いタスクばかりが滞留しやすくなりました。
これは少なからず作業の着手ハードルを上げていると思われ、今後の課題になるんじゃないかと思っています。


プライベートにおけるメインプロジェクトである「ピクチャレ大会」は基盤としてはほぼ完成していて、
あとはイベント用の特設ページを作るくらいしか活動意義を見出せないところまで来ています。
いままではこれのメンテをするという大義名分もあって所属欲求を満たせていましたが、
主な不具合を一通り潰してしまったいま、いよいよこれだけでは所属欲求を満たせなくなりつつある。
「みんなのためにサイトをメンテしている」という大義名分でコミュニティ活動をしているつもりでしたが、
それが通用しなくなりつつあるということです。


まぁ、Codexのポテンシャルは計り知れないので今後はより踏み込んだ機能追加もできるようになると思うし、
不具合修正で満足するフェーズからさらに発展して、より高度なことができるようになった、
と素直に喜んでもいいのかもしれません。
いずれにしろもうほぼ完成しているサイトに発展的な機能を盛り込むためには発想力が必要になるでしょう。
発展的な機能を追加するためにはサイトを隅々まで見ながら「まだ無い機能」のことを想像しなければならないため、
ただ不具合を見つけるのと違って人間に求められる作業もより高度になっていくと思います。


いずれにしろ既存のプロジェクトは今後より発展的なことをする段階に突入したと言えそうです。
それだけだとモチベを維持できるか分からないので、
不具合修正をするだけで満足できるようなサブプロジェクトも持ちたいなと思ったりしています。
いまのところこのブログのフロントエンドがそれに適したポジションではありますが、
いつぞやに1日で作ったブラウザゲーム(#07933 / 2025年09月04日)をメンテするのも面白いかもなと。


#8106

承認に関する社会の潮流

200日ぶりの「独り言」ではネット活動の本質的な不毛さについて論じたわけですが(#08100 / 2026年02月18日)、
キリ番記事を書かねばというプレッシャーに押されて短期間で書いたこともあって
一番言いたいことが埋もれてしまっている「独り言」独特の文章、言うなれば「独り語」になってしまっているので、
ここでは書いてから諸々頭が整理されてきたあとの所感を書いておくことにします。


キリ番記事でネット社会の不毛さを論じたのは、少なくともネット社会にツバを吐くことが本懐ではありません。
あの記事では要するに外発的動機づけはリアル社会(仕事)で満たし、
内発的動機づけはネット社会(趣味)で満たすのがもっとも筋が通っているのではないか、
ということを言いたかったような気がします。
少なくとも外発的動機づけの目的(社会的欲求=他者承認)をネット活動で得ようとするのは不毛なのではないかと。
それはどちらかというとリアル社会に求めた方が合理的なのではなかろうかと。


リアル社会は外発的動機づけの目的であるところの名誉や承認、金銭を得るための仕組みが確立しています。
しかも匿名活動ではないので、自分という人間がそのまま地続きになって他者とつながることができる。
基本的には頑張れば頑張るほど社会に感謝され、報酬は増え、地位も向上していく。
少なくともネット社会でそれを求めるよりハードルは明確に低い。
ネット社会の(真面目な)実績だけで最低時給相当の年収を得たいと思ったら並大抵のことでは達成できませんが、
リアル社会ならコンビニバイトでも達成できます。
そしてそれは他者承認についても(多くの社会人は実感が無いかもしれませんが)同じことが言えるでしょう。
ただし、リアル社会における仕事では「好きなこと」だけで報酬をもらい続けるのは多くの人にとって困難です。
もし好きなことを仕事にできているのなら、それはあくまでも副産物として捉えるべきでしょう。
好きなことだけを仕事にする=正しい、では世の中は回らないからです。


一方、ネット社会は自分とは物理的に切り離された社会なので承認欲求を満たすのには向いていませんが、
内発的動機づけを発露するプラットフォームとしてはうってつけです。
内発的動機づけ、つまり自分の個人的な興味関心、好奇心、情熱、こだわり。
ネットは好きなことを突き詰めようと思えば無限に情報があるし、それについて何かしようと思ったらいくらでもできます。
webサイト、ブログ、動画、配信、SNSなど、「好き」を発信する手段はたくさんある。
その代わり、ここで名誉や承認や金銭を得ようとする、つまり仕事にするのはかなり難しい。
ネット社会では承認リソースが有限である以上は運が良い人やより情熱がある人に報酬が偏らざるを得ません。
ここで外発的動機づけ、つまり他人に認められたいというだけの動機で勝負するのはそもそも不利だということです。
たまに承認をもらえることがあるかもしれませんが、それはあくまでも副産物として捉えるべきでしょう。
常にそれを求めて一喜一憂するようになると、ネット活動がギャンブルになってしまうからです。


あくまでも好きなことを仕事にしたいという人もいるし、
ネットで承認、名誉、金銭を得たいと思って馬の目を抜こうと躍起になっている人もいますが、
自分が観測しているかぎり、いずれのケースも母数に対してあまり成果は芳しくないという認識です。
それは世の中の潮流に逆らっているようなものなのでしょう。
なので、これからは金銭や社会的欲求は仕事で追い求めることにして、
ネット活動は好きなことを好きなようにやるだけと割り切っていくのが健全なのではないか、
ということを言いたかったのでした。


自分は幼少期からwebサイト管理人(仕事人)としてネット社会の成熟を見守ってきたという経歴から、
ネットに外発的動機づけの報酬(仕事としての成果)を求めては承認不足にうんざりしてきた側面があり、
その「報われなさ」の正体はなんなのかとずっと前から思っていました。
そしてそれはもしかすると、自分の内にある内発的動機づけを蔑ろにしてきたことに原因があるのかもしれません。
ずっと社会の潮流に逆らってきたからこそ報われないし、疲弊してきたのではないかと。
リアル社会にはリアル社会の、ネット社会にはネット社会の適切な立ち回り方がある。
それに対する認識がずっと甘かったからこそのこの現状なのではないか、と改めて思うわけです。


なのでまあ、いまの自分の何が一番ボトルネックになっているのかと言われると、
それはおそらくwebクリエイターとして上京したのにほとんどweb制作に関われていないという仕事面の事情なのでしょう。
しかしこれはもう年齢的・時代的にいかんともしがたいところがあり、悩ましいところです。


#8107

ふらふらレコード現象

今日の出来事自我の問題

去年末、やる条件が一見揃っているタスクに「なんとなく」着手できない原因は、
言語化できない体調不良にあるのではないかという話を書きました(#08025 / 2025年12月05日)。
これはセルフコントロールの観点からわりと重要な気がしているので、改めて考え直したいと思います。


「自分」を車に例えた場合、意識というのは運転手のようなものと考えることができます。
そして多くの場合、ハンドルを右に切れば車は右に進むと思っている。
しかし現実はそうではありません。右に切っているのに左に進むことさえある。
「次はこれをしようかな」という日常の些細な行動から転職などの重要な意思決定ポイントまで、
さまざまなレンジで意識とは違う方向に進んでしまうことはよくあります。
少なくとも運転手は合理的・論理的判断に基づいて「正解はこっちだろう」という見通しは立てられているはず。
しかし現実には、車はその通りに進むとはかぎらないので心底参ってしまうわけです。


そこで人はある段階から「ハンドルを右に切ったが左に進む」ということを学習するようになり、
次回からその学習結果を踏まえて運転を試みるようになるわけです。
ニッチなゲーマーにしか通じない例えですが、マリオパーティシリーズの「ふらふらレコード」みたいなものです。


右手を挙げようとして左手が挙がる人はまずいないと思うので、
動作が難しい運動をしようとしないかぎりほとんどの人にとってフィジカル面ではこの問題は起きません。
一方、メンタルについては結構このふらふらレコード現象が起きていることがある。
一見して人間関係や仕事、趣味面において特に後ろめたいことが無いにも関わらず、
なんとなく気が塞いで物事をやる気になれないというような場合です。
まぁ、この場合はハンドルというよりアクセルの方が正確かもしれませんが……。


基本的にヒトはまず身体ありきなので、身体の不調はメンタルに直撃します。
なので生理的欲求が欠乏(または過剰)になっていると、どうしてもそちらに気が向いてしまうというのはある。
睡眠、食事など十分に満たされていないのが明らかなら、メンタルコントロールは難しくて当然。
そういう場合はたくさん食べて寝るのを最優先するべきですが、
勤務時間中で拘束されている、中途覚醒で寝付けないなどの問題ですぐにそれを実践するのが困難な場合は、
せめてハンドル操作がかなり難しいということに自覚的になることは重要だと思います。
「いまの自分はお腹が減っていてイライラしやすいのかもしれない」ということを念頭に置きながら仕事をするとか。


そしてそれは「言語化できない体調不良」についても同様だと思われます。
ヒトのメンタルに影響するのは何も睡眠と食事だけではありません。
花粉症でつらいとか、寝違えて腰が痛いとか、お腹の調子が悪いとか、
すぐ改善できない身体の問題はいくらでも起こりうるし、それらは少なからずハンドル操作に影響します。
またそれは体調不良のみならず、
意識の外側にある「いつかは向き合わないといけないこと」がハンドル操作を狂わせている可能性もあります。
こうした問題は、日課をやるにあたって必ずぶち当たる壁だと思います。


今日はこれをやらなければならないことは自明だという状況でも作業が手につかない場合、
そういった些細な問題を踏まえたハンドル操作の補正ができていない可能性を疑ってもいいかもしれません。
着手できる条件が「ある角度に向かって走り出すこと」なのだとしたら、
意識的に方向を矯正していかないと達成は困難です。
ここで「矯正すること」にはある種の意志力、
具体的には目の前の物事にのみ意図的に集中する意識が必要になると思われ、それこそがやる気とも言えるかもしれません。
だとしたら漫然とすべての条件が整うのを待っているだけの完璧主義者は本質的には怠惰を貪っているだけだとも言えます。


意識はそのままでは直進しない。
つまり、「やりたいこと」を意識的に思い描くだけでは向かいたい方向に行けないということで、
そのためにはハンドルの特性を理解して矯正する必要がある。
この仮説が正しいのかどうかはまだ分かりませんが、少なくともいまの自分のハンドルがふらふらなのは確かです。


#8108

出向社員の矜持

今日の出来事仕事

金曜日に面談を受けた件(#08102 / 2026年02月20日)、断るつもりでしたが参画することになる可能性が出てきました。
プロジェクトで使っている技術を自分は知らないとはっきり言ったのですが、
お客さんはそれでも参画してほしい、一緒に受けたおっさんは勘弁してと言っているそうです。
世の中にどれだけ「最低限のコミュ力」がある人が少なく、そしてそれが重宝されるかを実感させられます。


自分はそもそもweb屋さんになりたくてこのSESという正社員なのに派遣業みたいな業界に入ったわけで、
web屋さんを自称できないプロジェクトには入りたくないというのは前々から上司営業その他にエスカしています。
これまでいわゆる開発をする現場に携われた経験は6年のキャリアで考えると非常に少なく、
現時点では堂々とweb屋さんを名乗れるか怪しい段階だと思っています。
web屋さんになることが本命なら、6年かけてこれはあまりにひどい状況だと言わざるを得ません。
基本的にSESにおけるプロジェクトの紹介は建前上本人の希望を優先しますが、
実際には案件が入ってくるタイミング、退場のタイミング、お客さんが求めるスキル感等々の事情もあって、
少なくとも経験則では選べないことの方が多いです。
最初は選べるものだと思っていましたが、そろそろこういうものだと悟るようになりました。
ただ、それでも現場を乗り換える機会は多くないので1回のチャンスを無駄にしたくない。
そこで営業との認識合わせのために裏でいろいろ根回しするのですが、それが実になったことはありません。
営業部はみんな口を揃えて「あなたの希望に沿うように努力はしているが……」と言うものの、
実際には希望にマッチした案件を紹介する兆しすら無いのでどうしようもないんです。
この辺は営業に圧力をかける、逆に信用してみる、SESでない会社に転職する、十分な営業期間を確保するなど、
いろいろな試行錯誤をしてきましたが、それでも一筋縄ではいかないという実感があります。


今回は面談後の電話でいまのところ参画の意思は無いことを伝えたところ、
後日担当営業からその理由を根掘り葉掘り聞かれ、さらに今日は統括管理をしている偉い人から直接連絡が来て、
1時間半にわたってあれこれ話していました。
いろいろ言われましたが、痛かったのは「君のしたい仕事の具体的なイメージは?」と聞かれて、
明確に答えることができなかったことですね。
つまり、web屋さんとしてのプライドは得たい。なのでwebに関わる仕事はしたいと思っている。
しかし、どういう仕事をすればプライドになるのかと改めて言われてみると分からない。
バックエンドのAPIを作るよりもフロントエンドのデザインの仕事をしていた方が「web屋さん」っぽくはあるけれども、
デザインの仕事がしたいと思ってこの業界に来たわけでない。
一方、バックエンドなどの「裏方」の仕事なら実はそれなりに関わっているんですね。
webサイトのデザインはいじらないが、webサイトに関わる仕事って言われてみれば結構やっている。
にもかかわらずそれがプライドとして通用しないのはなぜだろうかと考えたとき、
それは実は業務内容ではなく「自分ができるかできないかギリギリのレベルのタスクを努力してやりきった」
という達成感が足りないせいなのではないか、と。


となると業務内容にはあまりこだわっても仕方がないので、営業に逆らう必要も無くなります。
まぁ、納得感が薄いのは事実ですけどね。それゆえにやる気もなかなか出てこない。
仕事が選択できるなら、自分が「これをやりたい」という能動的な選択をしてこそやる気も出るというもの。
他人が選んできた仕事ではなかなかモチベーションも上がりません。
だからこそ、後々後悔することになるとしても自分の責任で現場を選びたいという気持ちもありました。
でも考えてみれば仕事に選択の余地があると思うのは入社前の就活生くらいのもので、
会社に入ったら会社が得た仕事をこなすしか選択肢はありません。
自分が地方時代に5年やってきた仕事も、別に自分が探してきてやりたいと思ったわけではないですし。
それはSESという業態においても同じことが言えるのかもしれません。
なんだかんだでここは派遣のようで派遣ではない、各案件を客先でやるだけの大きな企業なのかなと。
帰属意識なんて皆無に近いですけどね……。


コロナ以降の仕事の姿勢については、いまのところまだ自分に「言い聞かせている」という段階です。
とてもじゃないが年齢相応に成熟しているとは言えない。
自分はいまだに趣味も仕事もプライドの礎になるようなものを得られておらず、
このままだと中年期になってから本気で絶望する日が来そうで怖いです。
30代の残りで何か収穫があればいいのですが。


#8109

自動タグの本格始動

意識が高かった上京直後に妄想していた、ブログの自動タグ付与プロジェクト。
初言及は2020年ですが、本格的にそれについて書いたのは2021年が最初のようです(#06262 / 2021年02月08日)。
Pythonの自然言語処理ライブラリを使って、
ブログ本文を解析して連想するキーワードを羅列し、それに順位をつけて上位をタグにするという構想。
当時は確かBERTという言語モデルが注目されていた時代で、
GPTは水面下ではすでに誕生していましたが、ChatGPTの登場は翌年秋なので体感的には「AI以前」の時代です。
AIをブログに解析させるという方向性では、
ブログを時代順に解析して自分哲学の真理(個人の憲法)とも言える主張を探し出す(#06271 / 2021年02月17日)、
というような構想を思いついたこともありましたが、
いずれも実現できるのは10年20年未来の話だと思っていました。
しかしまさか翌年にそのためのツールが登場するとは……。


特にCodexの登場によって自分がコーディングする必要が無くなったので、
こうした大きなプロジェクトも比較的気軽に取り組むことができるのは本当にありがたいかぎりです。
「なんでもない日に着手できる」というのは悪い完璧主義を抱える自分がAIから受けている大きな恩恵です。
さっそくいくつかの仕様を決めて読み込ませて、Python製スクリプトが完成しました。
1記事でも全記事でも解析できるようにしたので都度1記事ずつ解析してテスト動くようにはなっていますが、
まだまだ出来としてはイマイチで、Codexを使ってもなお実用化には時間がかかりそうです。


現時点でChatGPTのようなLLMはコンテキスト長に限界があり、
1300万文字もあるこのブログのように巨大データをそのまま読み込んで解析することはできません。
無理やり読み込ませたとしても、情報は圧縮されてしまうのでタグ付与のようなテキスト解析には向いていないわけです。
まあ、1記事ずつ読み込ませて「この本文に適したタグは?」とタスクを与えればやってくれそうですが、
8100本もあるいま、それは途方もない手作業が発生するため現実的ではないわけです。
仮に自動化できたとしてもAPIは有料で、想定トークン量を考えるとかなりの金額がかかってしまいます。
そこで、自然言語処理ライブラリを利用したPythonスクリプトでローカルで動かしてみているのですが、
たとえば半角スペースのある固有名詞を正しく切り分けられなかったり、
名詞以外を排除しても「1日」のような明らかにタグではない単語が入ってきてしまったりと、
なかなか一筋縄ではいかない雰囲気を感じています。


現代語を多く詰め込んだコーパス(特定言語のビッグデータ)を読み込ませるとか、
ローカルLLMを導入してコンテキストを節約した形でループ処理によってタグ付与させるとか、
いろいろなアプローチは考えられるので少しずつ試していこうと思っています。
もし実現したら適当につけられたものも少なくない過去記事すべてのタグを合理的に振りなおせるので、
タグごとの記事の横断読みが捗りそうです。
まぁ、自分が過去記事を読み返すことにしか需要が無い作業なので優先度はめちゃくちゃ低いですが、
Codex活用の一環としてやれるときに細々とやっていこうかなと。


#8110

新作のジレンマ

昨夜、ポケモン30周年を記念する配信「Pokemon Presents 2026.2.27」にて、
10世代目となる完全新作『ポケットモンスター ウインド・ウェーブ』が発表されました。2027年発売。
いまのところオープンワールドであること、
おそらくオーストラリアやインドネシアなどの地域をモデルにした大自然が中心のテーマであること、
海底も冒険できるらしいことしか分かっていません。
いろんな既知のポケモンが住んでいることが明らかにはなったものの、
地域特有のポケモンはいわゆる御三家以外一切明らかになっていません。
グラフィックはSwitch 2専用ということもありかなり美麗で、ここはどのコミュニティでも高評価です。
あと女の子主人公がかわいいのでさっそく二次創作が動き出していますね。
9世代は完全に「ただの子ども」だったのでピンときませんでしたが、今回はちゃんと女の子している感じ。


事実としてはこれしか出ていないのでこれ以上語ることもできないのですが、
個人的には2022年発売の9世代(バイオレット・スカーレット)をまだプレイしていないため、
10世代をやるならその前に9世代をやっておきたいという気持ちはあります。
9世代の発売は2022年11月。
自分は当時在籍していた会社でメンタルをやられ、転職活動をしている真っ只中という状況でした。
上京以降でもっとも追い詰められていた時期ということもあって完全にゲームどころではなく、
ポケモン本編の登場はいま思い返せば最悪のタイミングだったという他ありません。
8世代は上京直前の発売だったこともあって家族も買うからという名目で遊ぶモチベーションはギリギリありましたが、
上京後はそれすら無いということで当時ポケモンのことはほとんど意識さえしていなかったと思います。


その後、転職によってメンタルが回復してくるとゲームを復帰することも考えるようになり、
そこで当然候補としてポケモンSVは入ってきました。
ただ、ポケモン本編はその期待値の高さから自分のような枯れたゲーマーには若干「重い」ということもあり、
優先度はそれほど高くなかったというのが正直なところです。
そのため何度も検討していながらも、いまだに買わずにここに至っているという状況です。


正直、『ポケモンレジェンズZ-A』も買ったのにクリアできていない現状を鑑みると、
10世代が出るからというだけで買うのはかなり厳しいと言わざるを得ません。最後までできる自信が無い。
最後までできなくてもいいなら、どちらかというとポケモンSVよりも来月出る『ぽこあポケモン』の方が気になっています。
こちらは自分が全1025種のポケモンのうちもっとも思い入れがあるメタモンが主人公のゲームで、
しかも『ドラゴンクエストビルダーズ』のようなサンドボックス系のゲーム。
マイクラ以外のサンドボックスはほぼ遊んだことがないのでかなり期待できます。
が、まぁでもいまの自分のポテンシャルを考えると、ここまで条件が揃ってもなおやらなそうで……。


この行き詰まり感を打開するゲームタイトルの登場をずっと待ち続けているのですが、
完全新作のポケモン風波はまぎれもなくその候補の1つだと思います。
合理的に考えれば、何も買わずに意欲を溜め続けて10世代まで待つのが無難のような気がしていますが、
それで本当にいいのかどうかはもう少し考えたいところ。


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