Chrononglyph

コミュニケーション能力

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#8102

反省できることの強み

自分は自称コミュ障なのですが、
いつの間にかわりとマシな方になっていたんじゃないかと実感する出来事がありました。


今日は次のプロジェクトを決めるために、某大企業の人とオンライン面談をすることになりました。
事前に聞いていなかったのですが同じ所属会社の1人と一緒に受けることになり、
2対2対2(面談を受ける技術社員、担当営業、先方)の6人で面談を実施する流れに。


この場合、自分以外の技術社員のことは自分にはまったく関わりないのですが、
かといってその人に関する話をしているときだけ退室というのもなかなか面倒なので普通に話を聞くことになります。
スキルシート(経歴書)なんかも堂々と映し出され、ある程度の経歴がわかってしまったりもします。
逆に言えば自分の経歴が相手に筒抜けになるということでもあるのですが。
今回一緒に受けた人は、推定42歳で見た目は50以上ありそうなおっさんだったのですが、
明らかに客先の質問に沿わずに「〇〇はできませんが、これからできるように頑張ります」の一点張りで、
客観的に見てコミュニケーション能力が豊かには見えませんでした。
それはまるで社会人黎明期の自分を見ているような感覚で、なんとも言えず歯痒いものがありました。
ということはその地点から比べると、それを歯痒いと思えるくらいには上達したのだと思います。


面談が終わると技術社員だけが退場して先方から営業に率直な感触が伝えられる時間があり、
その後個別に営業から自分に連絡が来て先方の感触を伝えられるのですが、
受け答えで人柄を感じられたのでできれば参画してほしいという旨を伝えられました。
まあ、推定42歳のおっさんと比べれば多少心証は良かったということなのでしょう。
ちなみに自分はこの現場に行くつもりは(いまのところ)ありません。


自分は思春期から「自分はコミュ障という欠点がある」ということに対して自覚的だったので、
ブログ、他人との会話、特に黒歴史となるような失敗を通じて、
「こういうコミュニケーションは良くないのだろう」という経験則を積み重ねてきたつもりです。
その結果、特にここ2〜3年はかなりマシになってきたんじゃないかとボンヤリ思っていました。
それが、失礼ですがよりコミュ力の低い年配者と遭遇したことによって改めて実感したというわけです。


ちょうど同じ日にSNSで「上の立場になるとわかるが、
人並みに仕事ができ、勤怠良好で、人間関係トラブルを起こさず、ホウレンソウできるだけで社会人としてはかなり上位」
という言説がバズっているのを読みましたが、
確かに大人になったらみんな自動的にコミュ障を克服するわけではなく、
年齢的に見て一生改善しないんだろうなと思わせる人も決して少なくないという実感は自分にもあります。
特にIT業界はその傾向が強いような気がしないでもないですが……。


この話は別にコミュ力が改善したことをもってコミュ障おっさんを見下したいとかそういうわけではありません。
むしろ、中年期以降の社会的地位に求められるコミュ力から考えると、
自分もまだまだ多くの課題を抱えており、とても「コミュ力がある」とは言えないような段階です。
ただ、少なくとも劣っているところは引き続き改善したいという反省の意思はあり、
どうやらそれは実効性のあることのようだという気づきがありました。
こうした心構えがあるということは意外と多数派ではなく、
ブログを通じてひたすら内省を繰り返してきた自分ならではの強みなんじゃないかと改めて思った次第です。


#8079

対人関係のコスト

旧Twitterで対人関係に関して鋭い意見を述べた1ページ漫画の投稿 がバズっていました。



「そもそも他人というのは存在するだけで負担なのです
会話する、気を遣う、予定を合わせる……
そのコストを上回るメリットがある相手かどうか
人は他人と関わる時 無意識に判断しています
そんな中で「ありのままの自分を受け入れてほしい」というのは
関係維持のコストを相手に押し付けると宣言するのと同じ」


『運命など存在しないので』(井原タクヤ、ヤングマガジンKC)



出典元は婚活に関するリアルを描いた漫画とのことです。
言われてみれば確かに、理想の結婚相手というのは会話においてストレスが生じないものだと思いがちです。
「ありのままの自分を受け入れてくれる相手がいい」というのはわりとありがちな要望なのではないでしょうか。
しかしこの言説は、そんなのは幼稚な妄想に過ぎないと切って捨てているわけですね。
ただただ自分にとって都合が良いだけの人間関係など存在し得ないと。


人間関係そのものが本来維持コストのかかるものだというのは同意できるし、
自分も実際にそれぞれのコミュニティでそれなりのコストを支払っているという実感があります。
それなりに信頼関係を築けているという相手でさえも、コストはちゃんと払っていると思います。
そして確かにこの「コスト」がメンタルに重くのしかかってくることもある。
気を遣いすぎて自分の都合を二の次にしたり、どう思われているか気になって病んだりといった感じですね。
かといってこのコストは名目上は自分が好きで支払っているものであり、見返りは求められません。
他者からの反応が薄かったり、自分が尊重されていないと感じると「払い損だ」と感じたりする。
そういうときに、こういう風に悩ませないような相手が現れたらいいのに……とふと思う。


「そのコストを上回るメリットがある相手かどうか」というのはかなり残酷な話で、
それを考える以上は相手にとっての自分についても同様に考えざるを得ません。
客観的に見てコストが重いのにそれをフォローするメリットを持たない人は人間関係の構築が難しくなるし、
逆も然りならそこにはそれなりの格差が存在していることになるでしょう。


確かに周囲を見ていると、「ありのままの自分」をわりと安直に暴露する人もいれば、
明らかにそれを表に出さないように気をつけているんだろうなというような人もいる。
そして、前者の人は周囲に配慮させているという点で明らかにコストを押し付けているのですが、
かといってただちに嫌われているようにも見えない。まぁ、ひそかに疎まれているというのはあるでしょうが。
つまり「『ありのままの自分』を暴露された人にとってのありのままの自分」が暴露されないかぎり、
それを表に出そうが出すまいがコミュニティにおける表向きの状況はあまり変わらないわけです。
そうやって配慮ができる人の良心に依存して自分勝手に振る舞う人というのは少なくありません。
引用元のテーマになっている婚活市場のことはよく知りませんが、
この言説はそういう他者依存的な人が人間関係で豊かになるのは厳しいということを示唆していると思います。


人間関係は長年かけて構築してもたった一言であっさり根元から倒れることもある砂上の楼閣であり、
そのあまりの脆さに気を遣うのに労力がかかるというのは考えてみれば当然です。
人間関係は多い方が偉い、みたいな価値観は平成中期に強くあっていまはやや弱体化した観がありますが、
こうしてみるとそれは明らかに個人のキャパシティに依るものであり、
キャパの小さい人が無理に人間関係を広げても何も良いことはないんだろうなと改めて思います。
いま継続している縁では「ありのままの自分」を軽率に出さないように、
これからも慎重なバランス感覚が求められそうです。


#8072

会話のニーズ

いま改めて思えば2022年までの自分はコミュ障だったなと思います。
そしてそれはいくつかのイベントを経て確かに改善してきたと思う。
ここで言う「コミュ障」とは声が出てこない、語彙が少なすぎる、呂律が回らないといった身体的なものではなく、
いわゆる「言わなくていいことを言ってしまう」という類の状況を指します。
言い換えれば、空気が読めないタイプ。


世の中的には先天的に空気が読めない=発達障害とする向きもありますが、
自分はそっちの手合いは完全に専門外なのでとりあえず考慮せず、ここでは定型発達のケースについて話します。
その前提で言うと空気が読める・読めないは知識の差であり、克服はコミュ障が思うほど難しくないと考えています。
「言わなくていいことを言ってしまう」原因にはさまざまあり、
たいてい、慢性的な承認不足によって自己主張をしたい欲求が強い、話されている話題に興味が無く流れを変えたい、
自分の話すことはみんなが興味を持つべきだという高慢さがある、
などといった主にプライド周りの自己都合由来の欲求が含まれています。
ただ、そういう欲求はいわゆるコミュ障でない人も多かれ少なかれ抱えているでしょう。
かといって、これらの欲求を我慢できないこと=コミュ障と結びつけるのはちょっと強引のように思う。


まず、コミュニケーションというのはある程度対等であるという前提が守られているかぎり、
それは共同作業なんですよね。
そして共同作業において何が大事なのかというと、発言に対して相手のニーズがあるかどうかです。
いわゆるコミュ障はこのチェックをしようとせず、「自分が話したいかどうか」で会話内容を選んでいる節があります。
もちろんたまたまニーズがあるケースもあるでしょうし、一概にすべての発言がダメなわけではありませんが、
一方でこの意味でのコミュ障でない人というのはニーズをチェックしてから(場の空気を読んでから)発言しているので、
そういう手間を放棄して話したいことだけ話す人は当然鼻につくわけです。


「場の空気が求めていないことはなるべく話さない」というのは要するに会話における暗黙のマナーであり、
いわゆるコミュ障はそれに対する理解が浅いか、あるいは知らないのではないかと思うわけです。
そして知らないのが悪いのなら、それを理解すればいいだけなのではないかと。
コミュ障とそうでない人の違いというのは、たかだかそれくらいの違いなのではないかと。
「コミュニケーションの経験が足りないから仕方ない」などと言う人もいますが、自分はそうは思いません。


もちろん「ニーズが無い事柄は絶対話しちゃダメ」などと言うつもりはなく、この辺は空気感次第です。
信頼関係や相手の引き出しの広さによってもどこまで許容されるかがかなり変わってきます。
たとえば相互理解が進んでいない関係でこれを厳密に適用すると、会話は止まってしまいます。
なのでそういうケースでは多少ニーズの有無を越えた範囲の話題を出してみてテストする必要もあるでしょう。
これは相互理解をさらに進める場合にもよく使う手です。
ただ、少なくともその場にいる人が求めていない自分語りがコミュニケーションにおいて悪手なのは確かだし、
思い返せば話していて悪印象を抱く相手というのはそういう人が多かったなと思います。
そして、まず間違いなくそのうちの一人に2022年の自分も含まれていると思います。


この手のコミュ障でやっかいなのは、本人に自覚が無いことです。
なんなら、そういう人にとってはこの手のマナーは守らない方が合理的ですらあることもあります。
これはコミュ障かつ承認欲求不足でプライドが高い人に限定されるかもしれませんが、
「相手のニーズをチェックしてから話す」というマナーを遵守しようとすると、話したいことの多くは話せなくなります。
そうすると承認欲求不満をはじめとする社会的欲求は満たせず、不満やストレスを抱えることになってしまいます。
そうした当人だけの都合を考えればむしろそのマナーは「見て見ぬ振り」をする方が合理的のように思う。
もちろん、そういう振る舞いを許容できない相手からは静かに評判を落とし続けることになるわけですが、
まぁ永遠に続くような人間関係でもないなら多少信任を落とすことはさほど痛手でもありません。
代替できない相手にそういう態度で臨むのは不合理だと思いますが。
この辺はその人が相手やコミュニティをどう思っているかという価値観にもつながってくるかもしれません。


2022年以前の自分は結局この種のマナーに対して無責任な振る舞いをしていたことは否めず、
結果的に10年以上続いていた縁が立ち消えるというイベントが立て続けに起きました。
これは今後も長らく擦り続けるイベントになると思いますが、
原因はこうしたちょっとしたマナーに対する意識の違いだったんじゃないだろうかと改めて思うわけです。
もちろん、2022年以前の自分が相手のニーズをまったく考慮しない物言いをしていたわけではないのですが、
一方で承認欲求不満が強かったのも事実で、それが一時的に高まったときに自制できなかったケースはあると思います。
そういうとき、当時周囲にいた人たちはひそかに失望していたんだろうなぁと。


そして紆余曲折を経て「誰かと会話をする自分」を真面目に客観視するようになり、
その自分によりよい振る舞いをさせるために何が必要なのかを考えたとき、
自然とこのニーズについての発想に行きつきました。
もしかしたらこの考え方もまだ不完全で、他人に良く思われたいという思惑が強すぎる嫌いがあるかもしれません。
そういう意味では「自分と他者どちらを尊重するか」というバランス感覚的な意味での改善の余地はありそうではある。
が、コミュニケーションは基本的にトラブルを起こしてはいけないという前提があり、
それを未然に防ぐための処世術としては
「相手が求めていないことは話さない」というマナーは少なくとも有用だと思います。


#7495

会話をカードゲームに例えてみると

以前、Instagramで「コミュ障とは、言わなくていいことを黙っていられない人のことだ」
というような趣旨の投稿を見かけ、かなり感心したという記事を書きました(#07174 / 2023年08月08日)。
当時の記事ではこの意味でのコミュ障とはなんなのかというような若干的外れな考察をしていますが、
この言葉自体は科学的根拠があるかどうかは別としてかなり的を得ていると思っていて、
この言葉との巡り合ったおかげで自分の欠点を客観視でき、コミュ力が改善しているようにも感じます。


コミュニケーションというのは非常に高度なゲームであり、生半可な練習では習得は難しいと思います。
VTuberの雑談コラボ企画では話題の群を「会話デッキ」と呼ぶことがあるそうですが、
自分の中では最近、それに倣ってコミュニケーションをカードゲームになぞらえるのが流行っています。


一般常識や知識(デッキ)を溜め込んだ上で参加者との間に暗黙的に生じる「ローカルルール」を読み取り、
その場その場でどういう発言が求められているのかを推察し、
自分の手持ちカードからどれを選ぶのが適切なのかを判断し場に出していく、勝ち負けの無い協力性ゲーム。
それがコミュニケーションというカードゲームです。
ここで、最初のデッキの枚数は(一般的なカードゲームとは逆に)多い方が基本的には有利なのでしょう。
ただ、多いからといってなんでもかんでも場に出せるわけではない。
どういう発言が求められていないかも適切に読み取り、それに従ってカードを除外する必要があります。
要はデッキ圧縮ですね。結果的には一般的なカードゲームと同じく、カードはある程度絞った方がいいのでしょう。
その上でどこまで風呂敷を広げられるかについては
いわば話題と話題をチェーンさせるスキルが求められるところなのかもしれません。
これは今回のテーマよりもさらに高度な分野になるので割愛します。


デッキ枚数をあらかじめ増やして場に出すのはこのゲームの基本中の基本であり、
これができないという人はかなり少ないのではないかと思います。
しかし「蓄えた知識をただ出すだけ」ではbotや生成AIと変わらず、それは人間味のある所作とは言えないでしょう。
また、「話したい内容をただ発言するだけ」というのもローカルルールを無視していることになり、
非常に程度の低いコミュニケーションといえます。
上記アーカイブリンク先にある祖母とのエピソードなんていうのはまさにその典型例。
詭弁や一方的な価値観の押し付けで相手を困らせるのも、協力するという前提を無視しているため論外です。
ただ、相手を慮る必要のないようなある種のネットコミュニティでは
しばしばそうした低水準のコミュニケーションが行われているのも事実ですが……。


そこでもう一歩踏み込んで人間味のあるコミュニケーションを実現するために必要なのが、
カードゲームでいうところのデッキ圧縮というわけですね。
コミュニケーションというのは共同作業であり、自分が話したいことを一方的に話しても相手は面白くありません。
なので会話の参加者はその場で求められている発言を模索しながら会話に参加することが要請されるわけです。
当然、手持ちのデッキの中にはその場にふさわしくないテーマというのが多くあり、
非常に多くの枚数を所持していてもデッキ圧縮するとごっそり減ってしまうということがあります。
またゲームの進行によってローカルルールが変化し、除外したカードが帰還するケースも間々あります(逆も然り)。
一定の波長が合う相手と信頼関係をさらに高め合うために「お互いに帰還できるカードを探り合う」段階が
個人的にコミュニケーションの醍醐味というか、一番ゲームっぽい側面だなと思っています。


十分な信頼関係を築いたうえでしかも共通項が多い相手と話しているととても楽しいですが、
これは圧縮後のデッキの枚数が潤沢で、いくら話してもデッキの枚数が枯渇しないからだと思います。
デッキの枚数が多いに越したことはない。
ただ、だからと言って圧縮作業を軽視すると「空気が読めない」という印象を持たれがち。
この辺は「場」によって千差万別の対応方法がありうるので非常に奥が深いところですが、
基本的には人は各々の対人関係においてそれ専用のテーマデッキを持っているのが自然であり、
「圧縮後のデッキ」を充実させるために骨を折ることはコミュ力向上のためにかなり大切なことなのではないかと。
それはただただ知識を無差別に溜め込むこととは似ているようで全然違う作業であり、
情報収集の在り方もこの辺の意識の差でかなり変わってくるのではないかと改めて思いました。


#7174

コミュ障の本質

Instagramでこんなことが書かれた投稿が回ってきました。



本当のコミュ障は「言いたいことが出てこない人」ではなく、「言わなくていいことを黙っていられない人」です。



似たようなことを旧Twitterでも見たことがあり、結構なインプレッションを稼いでいるようです。
この主張にはまずいくつかのツッコミどころがあります。
コミュ障というのはいわゆる医学用語ではなくネットスラングを指しているものと思われますが、
その意味では前者も立派なコミュ障です。
そして後者こそがコミュ障だと言っていますが、
これは発達障害の一種であるASDのよくある症状です。いわゆる「空気が読めない」というやつ。
これがそれなりにバズるというのは、大人社会にもASD的な人が少なくないことを示唆しています。
そして自分もおそらくその一人だと思っています。それなりに寛解していますが。


これについては頭の隅にこびりついている苦い思い出があります。
20年近く前、年末年始に祖父母家へ遊びに行った際、祖母が年越しそばを作ってくれていました。
しかしそれは元日になってからだったので、
「年越しそばって年越してから食べても意味ないよ」
みたいなことを作ってくれた張本人へわざわざ言いに行った記憶があります。
祖母は「……そう」と冷めた反応を返しただけでした。
その反応を当時の自分がどう思ったのか覚えていませんが、
バカなのでもしかしたら冷たい反応をされたことに対して憤慨していたかもしれません。
これは明らかに「言わなくていいことを黙っていられなかった」という良い例です。


当時の自分は祖母に不愉快になってほしくてそんなことを言ったはずもなく、
むしろ善意からの発言だったと認識しています。
年越し前に作るのが正しいのを理解してほしかった的な。だってそれが正しいから。
しかし祖母にしてみれば今更そんなことを言われてもどうしようもないわけで、
むしろあんたらのために作ってやってるのにそんな無粋なことを言われても……
と困惑したことでしょう。
当時の自分が、そう思われるであろうことを推察する頭すら無かったのはもはや明白です。
要は筋金入りのバカだったというわけです。
コミュ障とかASDというと「本人は悪くない」というニュアンスが少なからず含まれますが、
個人的にはこの意味でのコミュ障がバカで愚かじゃなければなんなんだと思っています。


また、ASDの特徴に当てはまるというと先天的で治療不可能な病気のように思われがちですが、
「空気を読む」ということ自体はそれなりに高度なコミュニケーションスキルであり、
定型発達でもコミュニケーションの場数を踏んでこなければ身につけるのは難しいと思います
(それを「定型発達」と言い切れるかどうかについてはなんとも言えませんが)。
たとえば毒親だったりイジメだったりで思春期にネガティブな経験を多くしてきて
結果的に人間不信になれば、この手のスキルを磨くのは
本人の能力にかかわらず結構難しくなるんじゃないでしょうか。
自分も思春期は相当に強い承認欲求不満があって他人を思いやる余裕なんてありませんでした。
コミュニケーションスキルの経験値が溜まってきた実感を得られたのは社会人になってからで、
とりわけここ数年の上京以降の経験を経てようやく人並みになった感があります。
話すことを考えながら同時に相手の目線でどう受け取られるかを考えるだけの余裕を
意識的に持てるようになりました。
2021年以前もそういうことは一部の人(仕事の同僚や異性など)にはできていたと思いますが、
誰に対してもそれをしようと心がけていたかと言われると怪しいところがあります。


こういうことは、ある程度信頼関係のある相手と
コミュニケーションを積み重ねていかないと身につかない部分も多いのではないかと思います。
しかし無粋なことばかり言う人はそもそも誰かと信頼関係を築くこと自体が困難でしょうから、
結局なにひとつスキルアップしないまま年齢だけ重ねていく恐れがあります。
でも、社会はある程度の年齢になればそれは身につけて当たり前と言い、
身につけていない人は面接などの社会のシステムによって容赦なく淘汰されていきます。
職業訓練や義務教育のカリキュラムにあるなら本人のせいと言うこともできますが、
そういう制度も無いのに(もしかしたら2023年現在はあるのかもしれませんが)
一方的に社会から弾かれるのは理不尽のような気がしなくもない。
これって何気に人によっては深刻な現代社会の闇のような気がするんですが、どうなんでしょうか。


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