Chrononglyph

ブログの価値

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#7557

約束された黒歴史

アニバーサリーまでの目標としていた「2023年元日以降の全記事整理」が完了しました。
目視でしかできない細かなコンプラチェックはまだなので非公開化措置を取る記事が出てくるかもしれませんが、
基本的にこれで公開運営に戻るための最低条件はクリアしたという認識です。
なお、2022年以前については結構ガッツリとコンプラチェックしないといけないと思われるため、
20周年後に整備するつもりではありますが再公開は基本的に期待しないでねというスタンスです。
まぁ、そもそもサーバーにアップするのも「ほぼ自分用」という認識ですが。
唯一の読者だった高校時代のクラスメイトとも絶縁してしまったし、不特定多数に読んでほしいわけでもないし。


ただ、それはそれとして過去記事を読み込む必要性は感じています。
ここ数年、特にブログ非公開化を決断した2023年05月以降は自分にとってかなり激動の期間でした。
いままでずっとブログという固定化された視座からしか見ていなかった世界を、
ついに別の角度から見ることに成功した……と言うべきか。
ブログ継続問題と向き合う過程で
変えられないことに原因を求める議論に意味は無いと考えるようになったこと(#07491 / 2024年06月20日)、
自分の無能さをとことん受け入れて客観視するようになったことなど(#07508 / 2024年07月07日)、
全体的にいままでよりも感情や欲求から一歩引いて自分を顧みるようになったという印象です。
その結果、いままでの考えをより有意義に批判できるようになった実感があります。
これは視点が変わっただけで昔の自分も間違っていない可能性は多分にありますが、
まあ概ねこの思考変化がいろいろな活動にプラスな作用をもたらしているという点では進歩と言えるでしょう。
そういう意味で、この激動の非公開運営期間で自分は殻を一つ破ったのかもしれないと思っています。


であれば、昔の記事は格好の批判材料なんですよね。
ぜひ昔の自分がどんなに非合理なことを考えていたか知りたい。
それに、昔の信念らしきものをいまの視座から考え直すことで新たな気づきがあるかもしれません。
そういう意味で古い記事を読み込むニーズがあるのは確か。
ぜひとも2022年以前の記事整備も、時間はかかるかもしれませんが進めていきたいところです。


人の考えはどんどん移ろうもので、いずれ古くなり否定される日が来るであろうことを考えると、
ブログとして公開される記事は約束された黒歴史と言ってもいいのかもしれません。
それを公開するというのはやはり勇気が要ることだと思います。
ただ、だからこそそれ自体が「いまの価値観」を切り取ったものとして意味があることもまた確かです。
「途中経過」は得てして忘れてしまいがちですが、都度明文化していればすべて残すことができ、
これこそがブログの意義とも言えるでしょう。
いまの自分が何を正しいと思って生きているのか。
それはもしかしたら将来の自分や通りすがりの他者に否定されるものなのかもしれませんが、
だからと言って引き下がっていては何も始まらないのもまた事実です。


2021年当時見出したブログの究極的な目標として
全時代の価値主張を集約したときに残るものを知りたいというものがあります(#06271 / 2021年02月17日)。
普遍的な教訓というものは探せばたくさん見つかると思います。
4代目以降の時代はそういう掘り下げも含めて「ただ書くだけ」以上の何かをしたいなとつくづく思います。
ただ書くだけではまたいずれ限界が来るでしょうしね……。


#7361

ブログという読みもの

読書の目的は人それぞれだと思いますが、
自分は主に知識を深めるためと生活をより豊かにするためという2つの目的を持っています。
ゆえに、そこまで専門的ではなく間口の広い新書に手を出しがち。
新書であればこのどちらかの目的は達せられることが多いからです。
まあ、どちらかというと前者の方が多いでしょうか。


明確に後者を求める場合はどうしても自己啓発、心理学本などに頼ってしまいがちですが、
経験上、こういう本は似たり寄ったりなことを書いているケースが多く、
また当然ですが自分という個人の状況にクリティカルな解決方法を書いている本はほぼありません。
このジャンルは最初の数冊は衝撃的ですが、ある量を超えると急にマンネリ感が出てきます。
これは、心理学本が幅広い層を想定して書いている以上仕方のないことでもあります。
想定読者に広く刺さり、かつ科学的に認められた手法となると相当限られるのでしょう。
認知バイアスや行動療法など、テーマが重複する本を除外するとかなり減るのではないでしょうか。
もちろんそういう知識は知っておいて損はないので各1冊は読むべきだと思いますが、
心理学者でもない一般人が同じテーマの本を何冊も読み込む必要があるのかと言われると微妙なところです。


では「自分の生活をより豊かにするための読書がしたい」という要件を満たす書物は無いのか。
ふと、自分にとってはこのブログが当てはまるのではないか、と思いました。
自分にとってのブログは基本的にアウトプット手段としての役割を担ってきましたが、
言うまでもなくそのアーカイブを自分で読むこともできるわけです。
そして、ブログの歴史は自己批判と反省の歴史と言っても過言ではないくらい、
自分はこのブログで後悔と反省をつらつらと書き残してきました。
それはつまり、自分にとってものすごく有用かつ自分にクリティカルな内容ということです。
なるほど、確かにブログをれっきとした読みものとして捉える視点は近年抜けていたかもしれない。


例えば最近は14年ぶり新作の『風来のシレン6』を買ったものの、
理不尽にやられることが多くその挫折から立ち直るのが困難でなかなかクリアできない、
そもそも自分は本当にゲームが好きなのか?(#07359 / 2024年02月09日)という悩みに直面しています。
しかしこれもブログを遡ってみると以前(#06195 / 2020年12月04日)もまさにその前作リメイクで同じことを書いているし、
そこにリンクが貼られている(#05800 / 2019年11月05日)もこの悩みを深く言語化していて、
直面している悩みを客観視する読みものとしては非常に頼りになります。
ここまでパーソナライズされた教訓を読めるのは、長年ブログを書いてきたからこそ。
改めてこのアドバンテージは生かしたいと思いました。


風来のシレンのケースでは悩みのキーワードが分かりやすいので横断検索で見つけられ、
基本的にはそういう現在の悩みに関連する過去記事を読む対処療法的な読み方が主になると思いますが、
それとは別に普段から能動的にアーカイブを掘り進む「ランダム読書」も面白いかもしれません。
アーカイブを読み漁れば必然ブログを書くモチベも上がるのでメリットは結構大きいと思います。
Obsidianにはランダム閲覧とブックマーク機能があるのでこれを活用する感じになりますが、
欲を言えばランダムアクセス時に出て欲しくない記事を除外する機能も欲しいですね。
反省も意見も書いていない大昔の今日の出来事系記事はさすがに要らないと思うし。
この辺は4代目移転時にフロントエンドで実現できればいいのですが。


ブログの歴史は自己批判の歴史……と書きましたが、
これからは自己理解の歴史も踏み出していくことができればと思います。
これまで「ブログの想定読者は自分自身」と言って継続の正当化をしてきたのは
読んでもらえる他人がいないことの逃げ口上だとずっと思っていましたが、
こうなるともう自信を持って「自分自身が最大の読者です」と言い張ってもいいのかもしれない。
自分が読むために書く。書くために読む。ある意味究極的な自給自足の活動というわけですね。


#7200

宿命

「1日1本ブログを書く」という制約を自分に課して19年が経った。
それによって積み重なってきたものの価値は大きく、だからこそ制約に意味は無かったとは言えない。
しかしそれを前向きに捉えられるのは1日1本何かを書けるだけの精神的・時間的余裕があればこそであり、
もともと三日坊主気質だったことに加え、しばしば精神的に日記を書くどころではなくなる自分を
騙し騙し19年続けていくということは並大抵のことではなかった。


長く続けてきた習慣を続けていくことが苦痛になってくると、
それはまるで人生単位で与えられた罰ゲームのように感じられてくるものだ。
「なぜ、自分ばかりがこんなことをやっているんだろう……」という虚しさを奥に押し込みながら、
それでもなお、ここまでに至った道のりの遠さを考えれば何の脈絡も無く辞めるという決断は下せない。
何か辞めるに値する決定打となる出来事があればいいのに、とずっと考えていた。
何でもない日に辞める勇気はとても持ち合わせていなかった。
……始まりの日である2004年09月01日はなんでもない日だったはずなのに。


2023年は、これまで何かを押し殺しながら書き続けてきた習慣がついに限界を迎えた年だったと思う。
web制作プロジェクトが煮詰まってきたことによりいままでになくブログどころではなくなり、
数ヶ月の放置期間を経て2023年05月29日、ついに本家ブログを閉鎖するに至った。
放置されたまま過去記事が公開されていることを恥ずかしく感じたからだ。
その恥ずかしさが、いままで何も勝てなかった「辞める決断を下せない自尊心」をついに上回った。
そうして、僕が高校時代から書き続けてきた本家ブログは終わりを告げた……かに思えた。


その直後、偶然出会ったObsidianという高機能メモアプリとの出会いをきっかけにして、
ブログはオフラインで継続的に書き続けるという風習が復活した。
この出会いが無かったらこのブログは本当に終わっていただろう。
辞めたくて仕方なかったはずなのに、ようやく辞める決定打となるきっかけと巡り合ったはずなのに、
それでも結局ブログを辞めるということは叶わなかったのである。


僕の活動のほとんどは他者承認を原動力としていて、それはゲームで遊ぶことさえ当てはまる。
だからブログも、オフライン運営に移行したとして誰も見ていないところでは続かないと思っていた。
ところが蓋を開けてみれば、むしろオフライン時代に突入してからの方が筆の乗りは良い。
ブログに限っては他者承認などとっくに必要無かったのだと初めて思い知らされた。
これはもう、僕の宿命なのだと観念した。


このブログが2周年を迎えたとき、受験生の僕を心配してブログは休止したらどうか、
と担任に勧められたことがある(#00845 / 2006年09月01日)。
当時の僕は、2年間でブログによって自作詩や文章力を評価されそれが新たな「生き甲斐」になった以上、
それを道半ばで捨てる道理は無いと考えて受験期もブログを継続することにした。
当時の僕が言う「生き甲斐」とはつまるところ他者承認ありきの活動であった。
いまの価値観では、他者承認が無かったら続かない活動を生き甲斐と断言するにはやや苦しいところがある。
しかし本家ブログはそれから17年の時を経て他者承認を必要としない「本当の生き甲斐」に昇格していた。
受験期の僕にここまでの先見の明があったとはとても思えないが、
当初からここまでの道のりを考えると、一人が一つのことを長く続けることの大きさを改めて思う。


#7079

枝分かれの迷走

このブログはいまでこそ単独の運営も危ぶまれていますが、
かつて2回ほど、分家を作ろうとしたことがあります。いずれも失敗に終わった黒歴史です。
1回目は2011年秋にlivedoor blog上に開設した『Electric Endless Coaster』というブログで、
これは主にゲームニュースを取り扱うことを目的にしたサブブログです。
いまとなっては12年前の自分が何を思って開設したのかその意図さえ読み取れないのですが、
当時のアーカイブを読み返すかぎり、
当時の自分は日記としての本家ブログとは別の発信場所を作るべきだという考えがあったようです。
おそらくですが、本家ブログ開設当初はゲーム関係のポータルサイトを作りたい、
という野心があったので、それと本家ブログの現状にギャップがあることを憂いていたのでしょう。
あとはアフィリエイトによる収益化への未練なんかもあったかもしれません。


とはいえそのプロジェクト自体は3週間程度でギブアップすることになりました。
ファミ通などの大手メディアを差し置いて自分がゲームニュースを発信する意味は?
そもそも自分はゲームニュースを発信したいのか?
ちゃんとそこまで考えた上で開設したものとはとても思えず、案の定続きませんでした。
まあ冷静に考えれば自分がゲーム系メディアとして発信者になる必要性は皆無でしょうね。
なのでそもそも論として2003年の初代ブログ開設時点からして方向性が間違っていたわけです。
むしろ日記系ブログとして存続する方がまだ正しかったと言えるでしょう。


2つ目のサブブログは2013年末にWordPressとして開設した『ものメモ。』というブログです。
翌年にWordPressで3代目本家ブログを開設する予定でいたため
WordPressの構築を練習しておきたかったのと、
当時新本家サイトでそこそこアクセス数があったアプリゲームレビューを統合したかった、
というのが主な開設理由でした。
さすがに2011年の迷走よりは動機もしっかりしている感じはしますが、
これも結局長続きすることはありませんでした。
この当時は従来型の日記コンテンツ以外に需要のあるコンテンツを作りたいという思いがあり、
それらコンテンツ群をサブブログと同じ名前で「ものメモ」と呼んでいました。
一部はこの本家ブログにも出張して掲載されています。
これ自体を本家ブログの新カテゴリとして運用するというアイデアもありましたが、
それは結局実現せずにいまに至ります。


両者に共通しているのは、当時の自分は「日記系ブログ」からの脱却を図っていたことです。
ただそれは、いわゆる一般に通用するようなメディア系ブログを作りたい、
という確固とした意思があったのかと言われると甚だ怪しいところがあります。
日記系から脱却はしたいけれど、かといって代替になる何かがあるわけではなかったと。
いまにして思えばそれは、日記系ブログを続けることの不毛さを薄々感じていたのかもしれません。
書いても書いてもフィードバックが来ないので承認欲求が満たされない。
ただ続けているだけの底辺ブログを運営し続けることに意義はあるのかと。


しかし、現実的には日記系から脱却すればその問題が解決するわけでもありません。
そのことは本家ブログ以外に作ってきた数々のコンテンツが証明しています。
他人は基本的に自分に興味がない、というのは20年ネット文化に触れていてつくづく思うところです。
興味を持ってもらうためにはある意味自分を犠牲にして魅力的なコンテンツを作っていくしかない。
でも、果たして自分にそれができるほどのキャパシティがあるのかと言われると……。


結局自分は紆余曲折を経てそもそも他者承認に依存した活動が不毛であることを納得し、
本家ブログに関しては自分のためだけの活動として割り切っていくことにしました。
なので昨今は書いたけど公開ボタンを押せずに下書きが溜まるような事態が頻発しています。
もはや誰かに評価してくれることは期待していないからです。
(これを誰かが読んでいたとしたら失礼千万なことで申し訳ないのですが)


「何のためにブログを運営するか」という往年の問題はこんな感じで迷走し続けてきましたが、
次の移転までにはどうにかして一定の結論を出したい問題です。
他者承認に期待しないならローカルでのみ運営するという方針も視野に入りますが、
果たしてそれで毎日執筆を長年維持できるのかという。
誰かが読むかもしれないというプレッシャーが無いとブログ自体維持できないのかも。
でもそれを否定できない時点で結局他者承認を渇望していることに変わりはないわけで、
だとしたら他者承認を得やすい(かもしれない)日記系以外の記事を生み出す必要性はあるかも。
しかし、それは自分自身が本当に興味があって好きな分野でないと長続きは難しい……。
それを19年目というこの段階で今更のように確立できるのかと言う。
こう考えるとブログの維持発展って結構難しい問題なんじゃなかろうか。


正直ベースで言うと、
これまでのブログの存続を支えてきたのは必ずしも自己承認だけの精神論でなく、
2021年に喧嘩別れした高校時代のクラスメイトが長年読んでいることを知っていたからです。
だからその人とのコンタクトが途絶えたので本格的にモチベーションの維持が難しくなってきている、
という側面は否定できません。積極的にフィードバックをくれるのはその人が唯一だったからです。
日記系ブログは本質的にはリアルの人間関係が発展を支えるものなのかも、と今更ながらに思います。
ある意味自分のリアルがもっと充実していたらこのブログも存続危機に陥っていないのかも。


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