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人間関係

#8104

嫌いな人に関する処世術

今日の出来事人間関係

これは若干アルゴリズムによる偏りの影響もあるかもしれませんが、
近年のTwitterでは「嫌いな人は『いなかったことにする』のが精神的安定の近道である」などのように、
嫌いな人に関する処世術をよく見ます。
嫌いな人への憎悪はドーパミンが出るので、嫌いな人を追いかけていると中毒になってしまう。
なので精神的健康のために嫌いな人はなるべく遠ざけた方が良い、というのはSNS特有の共通認識としてありそうです。


今日も「母親には『嫌いな人にも良いところがあるんだから、その良いところを見つけてあげなさい』
と言われたが、実際にはその母親は大人になって振り返るとかなり嫌な人で、
その人は母親の嫌な部分を見せつけられるたびに(良いところを見つけられない)自分はダメな子だと思っていたが、
大人になってあの言葉は毒親が娘にかけた呪いで、大人になってそれは解けたのだった」
というエピソード が紹介されていました。


「嫌いな人にも良いところがある」。確かにそれ自体は間違っていないように思います。
しかしそれは嫌われている側が言うとあたかも「自分の負の側面は見るな。良いところだけ見ろ」という強要、
あるいは加害や不道徳の正当化にもなりかねない。
ということはつまり、「嫌いな人にも良いところがある」というのは嫌われている可能性のある人はおいそれと言えない、
かなり人を選ぶ価値主張なのではないかと感じました。


メンヘラ全盛期の7年前の自分は人を嫌う3条件に「自分が遵守している道徳やポリシーを守らない人」
「自分が望む期待を裏切ってくる人」「自分の希望を先に叶えた格下の人」を挙げています(#05536 / 2019年02月16日)。
このうち3つ目は単なる嫉妬ですが、当時のボキャブラリーではなぜか嫉妬という言葉を使っていません。
いずれにしろ嫉妬はより個人的なもので、別に嫌いな人に社会的に不誠実な部分があるとはかぎりません。
まあ、制度上の抜け穴を使って社会的地位を上げているので嫉妬する、みたいなケースはありえますが。


1〜2つ目の条件は、社会規範やルールをどう守るかという意識のギャップのようにも思います。
物事に対して誠実に対応しようとする人ほど、杜撰な人を嫌いになりやすい。
「自分はちゃんとルールを守っているのに、あいつはそれを守っていない!」という感情が憎悪になるわけですね。


これは暴論だと思いますが、バカはルールを守れないと思います。ルールを守れないからバカとも言う。
ここでいうルールとは社会規範、法律、規律、道徳、作法、コミュニティルール、暗黙の了解などを指します。
この意味のバカは、欲求不満が強い、精神的に自立していない、単にスキルが不足しているなどの理由から、
ルールよりも自己都合を優先してしまうわけですね。
そして、えてしてこの意味のバカはどこへ行ってもルールを守れないので嫌われやすい。
ルールを逸脱しても周囲の人は基本的に指摘しないので、そもそも自覚が無いことも多いでしょう。
また、ルールというのはきわめて複雑で個人が全部遵守するのはとうてい不可能なので、
そういう意味ではどんな人でもルールを逸脱しうるし、つまり誰もが誰かに嫌われる可能性があります。
突き詰めればルールをどこまで重く見るかという価値観の違いでもあると思います。
この世の中には「社会人なら最低これくらいのルールは遵守するべき」という暗黙の了解が確かにある。
逆に言えば、「ここを逸脱したら叩かれてもしょうがない」というボーダーラインがある。
SNSでは、そのボーダーラインを越えてしまった人が毎日のように炎上しています。
ここでいうルールは客観的公共性がないと炎上も単なるイジメでしかないのですが、それはまた別の話。


個人にとってこのルールの「重さ」はどの程度が妥当なのかという話はまた別の機会にするとして、
とにかく自分が遵守しているルールを守らない他人は嫌いになりやすいという傾向はあると思います。
では嫌いな人とどう向き合えばいいのかというと、人間関係の距離感によってさまざまな答えがあると思いますが、
さしあたりSNSのつながり程度の関係性であれば、冒頭に書いた通り「いないことにする」のが妥当かなと思っています。
憎悪に依存してしまうリスクを考えると、SNSにおいて嫌いな人とつながっているのは普通に高リスクです。
「なんだこいつ」と思ったらさっさとミュートないしブロックしてしまうことが望ましい。
そういう意味でもSNSで脳死で意見を垂れ流すことはそれだけでリスクの高いことをしていると思います。


リアルの関係性における「嫌いな人」も、離れられるならそれが一番良いと思います。
ルールを守ってもらうのが一番合理的のように思うのですが、
自分が直感的に嫌いな人というのはえてして相手もこちらのことをうっすら嫌っていることが多いので
(なんらかの事情でルールを守れない人は、ルールを守っている人に嫌悪を感じるものなのかもしれない)、
「価値観を変えてもらう」という段階に至るまでのハードルが非常に高いんですよね。


ただちに縁を切ることが難しいような場合は、やんわりと距離を取るのが妥当だと思っています。
つまり相手を「認識」はするが「承認」は基本的に与えない。当然その人に期待もしない。
ただ、これを徹底すると自分が別のまともな人に「承認」されなかったときに「あれ? この人に嫌われているのかな?」
と思いがちで、嫌いな人にした行為はすべて自分に跳ね返ってくることを覚悟しなければなりません。
それもそれで息苦しいときがある。


そこで、「嫌いな人が守っていないルールは自分も守る必要がない」という考え方もあります。
つまり自分がルールに対して従順すぎるので、その程度を少し落としてみることで解決することもあり得る。
夫婦でルールに関する価値観の食い違いでうまくいかないときなんかは有効のようにも思えますが、
もちろん道徳を守らなくていいわけではないので、ルールを軽くするのにも限度はあります。


「嫌いな人」というのはネガティブな感情をもたらす存在ですが、実は学べることも多いと自分は思います。
少なくとも自分の自己批判の歴史では、嫌いな人に気づかさせてもらった部分が少なくありません。
実は人生において、反面教師こそが最高の先生なのではないかと思う今日この頃です。


#8089

コミュニケーションの壁

今日の出来事人間関係

自分はこのブログを通じて、なるべく健全なコミュニケーションを実践するにはどうしたらいいか、
あるいは人間関係を損なわないためにはどうすればいいのかということを多方面から検討してきました。
不合理な自己正当化フェーズを経て、近年はようやく客観的に反省できるようになってきたと思っています。
最近では会話はニーズを考慮すべき(#08079 / 2026年01月28日)という言説や、
あらゆる対人関係は維持するだけでコストを支払っている(#08072 / 2026年01月21日)という言説を紹介しました。
これらはいずれも道徳的に妥当で、実践に値する正論だと思っています。
そういう意識があればこそ、自分はコミュニケーション技術について改善していくだろうという見通しもある。
事実、昔はともかくここ2〜3年は毎年それなりに成長していると感じています。
逆に言えば、いかに昔の自分が粗暴なコミュニケーションをしていたかが浮き彫りになってきている。


そのように、自分個人としてはコミュニケーションに関するPDCAサイクルをそれなりにうまく回せていると思う。
まあ年齢相応に立派ではないかもしれませんが、少なくとも過去の自分との相対では確実に改善していることでしょう。
しかし皮肉なことに、そういう「健全な技法」を学び良識を身につけるほど、
身近にいるコミュニケーション能力が著しく低い人が悪目立ちするように見えてくるんですよね。
有り体に言えば、その不合理な立ち振る舞いにイライラすることも少なくなくなってきた。
「自分ならそんな言動は絶対しないのに」という立場を表立って表明できない不満が募るからでしょう。
なぜなら、それを指摘することは少なからずコミュケーション弱者のプライドを刺激すると思うからです。
そういう人を相手に下手に角を立てたくない。


彼らは基本的に悪意があって場の空気を乱しているわけではないし、
なんなら場の空気を乱しているという自覚も薄いと思われます。
コミュ力が低く承認欲求不満な人ほど「空気を読む」という所作は非常に大きなコストがかかるので、
それを表立って規制することはその人に対して大きなストレスを与えることになるかもしれない。
ストレスを抱え込むに値する納得感のある理由を提示できなければ、ただ対立を生むだけに終わってしまうかもしれない。
というような数々の懸念から、結局良識のある側は黙殺するのが無難だということになってしまいます。
反省と実践を繰り返した末に一端のコミュニケーション技術を習得できたとしても、
それはあくまでも自分個人にしか通用しないノウハウであって、他人に押し付けることはできないわけです。
技術格差があってもそれなりに信頼関係が構築できていればじっくり話せば納得してくれるかもしれませんが、
往々にしてこういう問題を意識する相手というのはそこまで深い関係にもなれていない場合が多いと思います。


最近、対人関係についてはここに高い壁を感じています。
個人が深く内省してこちらから人間関係を破壊しないようにする自制心を手に入れることまではできても、
対人関係に他者が不可欠である以上、健全なコミュニケーションは他者のスキルにも依存せざるを得ない。
こちらから働きかけてそのスキルを引き上げるということはそう簡単ではないと思われますが、
かといって仕事等において、「一定以下のスキルの人とは人間関係を構築しない」と割り切るのはなかなか無理がある。
唯一できるのは自分のレベルを一時的に下げて相手に合わせるということですが、
自分が一度身につけて道徳的に正しいと認識した信念を「無かったことにする」のはかなり困難なイメージがあります。


この問題の鍵は「自尊心」だと思っていて、しばらくはこれがキーワードになりそうな気がしています。
自分の自尊心とどう向き合い、また他人の自尊心をどう扱うかということですね。
この壁を突破した景色がどんなものなのかまだ分かりませんが、
いずれにしろいま、これに関してはかなりの行き詰まり感を感じているのは事実です。


#7682

年末に思い出す孤独感

今日の出来事人間関係

なんとこれが今年最後の通常記事になります。
「え、もう2024年終わるの?」という困惑しかありません。
自分の中では2024年ってまだまだ新しい年という感覚なのですが……。


今年は思い返してみればそれなりに精神的試練がありましたが、
総じて立ち直りが非常に早かったおかげでメンタル的には安定した一年だったように思います。
というより、早く立ち直るプロセスを練習する一年だったと言った方が正確かもしれません。
まあ、たまーにどん底状態が長期化することもありましたが……。


実は昨日は2つの意味でモヤっていました。
例の同僚とのゲーム会がもう完全に末期を迎えていてなにひとつ面白くなく、
最後に奥の手として自分が『ピクミン4』をやっているところを見せたらやってみたいと言うので、
メルカリで売れば実質タダか黒字になる中古パッケージ版を買ってもらい、
新宿で待ち合わせてキャプチャーボードをお貸しして同僚に『ピクミン4』をやってもらうことになりました。
が、画面共有してもらっても見ている側はなーんにも面白くない。
ピクミンシリーズって、本当に下手くそなプレイは非常にイライラさせられるんだなと改めて感じました。
別のコミュニティで上手い人のプレイしか見ていないから慣れてしまっているのか……。
それでいて、同僚もあまり楽しんでやっているような雰囲気でもない。
ゲーム会は今年1年ずっと迷走していましたが、このLose-Loseな関係はもはや時間の無駄と悟りました。


最後に雑談も30分ほどしたのですが、
同僚は根がリア充(リア友が多い)ということもあり、
年末に一緒に過ごす相手がいない状況に置かれている自分とは随分対照的です。
そういう立ち位置の違いから、自分の中で嫉妬の感情が芽生えていることを自覚しました。
いままで過去5年、この関係性で負の感情が芽生えたことはまず無かったのですが……。


まあ雑談パートで受けたダメージは、
自分がこれまでそれとなくNGワードとしてきたことに自ら首を突っ込んでしまったことが諸悪の根源であり、
そもそもリアル人間関係の充実度を否応なしに考えさせられる年末というタイミングの悪さもあったと思います。
年末を一人で過ごすようになったのは去年からで今年は2年目。
去年は20年以上の慣習をついに放棄してぼっち年越しをしたことにある種の解放感を感じていましたが、
これからは年末という時期は自分にとって孤独の負の側面を考えさせられるシーズンになるんだなと実感しました。
完全に割り切れるようになるまで、まだ時間がかかりそうです。


当初は大晦日に横須賀の花火を一人で見に行こうと思っていたのですが、
それを同僚に話したら冷笑されたので素直に家でカウントダウン番組を見ていようかなと思っています。
まあ確かに滑稽な行動ではあるけど、察してほしかった感は否めない。
こういうところのちょっとしたフックのかけ違いで人間関係って綻んでいくんだろうなと改めて思います。
まあ、現状まだこの負の感情は表沙汰に出していないので、
このまま適切な距離感を計り直すことで変なトラブルに発展することを避けられたらと思います。
嫉妬したからと言ってリアルの人間関係、具体的には恋愛を追い求めるべきだとはいまのところ考えていません。
が、やはりリアルでの関係はどこまで行ってもこういうことが付きまとうのはデメリットだなと感じます。
ネットありきのオタクな人間関係はそういうことが半ば暗黙の了解でNGになっているので気楽だなと。


そういうわけで昨日はなかなかにモヤっていて頭が痛かったのですが、
一日ガッツリ寝て好きな音楽を聴いていたらそれらもどうでも良くなりました。
とにかく音楽がメンタルの特効薬というのは今年一年を通じて学んだことです。
これは他のあらゆる趣味にも真似できない、音楽だけの特権です。
そのためにも、好きな音楽を追い求めることだけは歩みを止めないようにしたいですね。


#7660

正義と距離感について

今日の出来事人間関係

まだトラブルに発展しているわけではないのですが、重要なことを思い出したので自戒を込めて。
というのは、人間関係トラブルというのは往々にして、
自分の正義に反する他人に対して、それを指摘する勇気を持てなかった場合に溜まる鬱憤が火種になる
ということです。もちろん一概には言えませんが、そういう側面があることは経験上否定できません。


ここでいう正義とは、社会通念上正しいとされていること……であることが多いですが厳密にはそうではなく、
あくまでも主体がそれを正しいと信じていることであり、微妙にニュアンスが異なります。
それは客観的な道徳というよりも、正義を行使しようとしている側の都合によることが少なくありません。
また多くの場合、主体にとって「正義に反する」とされる行動を行っている客体は、
それを特に悪気なく行っていることが多い印象があります。
単に客観的に(法律等で)悪とされること、要するに犯罪を犯しているのであれば話は早いのですが、
「個人の正義に反する無自覚な行動」というのはコンプラ的にも微妙なライン上のケースであることが多く、
一概に悪と言い切れないような難しさがあります。


そして微妙な問題だからこそ指摘しにくく、それについて言及しがたいもどかしいような空気になり、
そのモヤモヤ感が少なからず主体から客体に対するひそやかな信用の低下の一因となり、
そしてそれは累積していくのではないか、と思うわけです。
だからと言ってなんでもかんでもズケズケと指摘すれば、それはそれで自尊心を傷つけ主体の信用を損いかねない。
なので自尊心を傷つけない絶妙な優しさで指摘する高度な言葉選び、あるいは一歩踏み込む勇気が必要なのですが、
それができない場合は「我慢する」という選択を取らざるを得ない。
得てして、コミュ力が低ければ低いほどこの手の鬱憤は溜まりやすいのではないでしょうか。


誰もが誰かの正義に反している可能性があると思います。
自分もかなり最近まで結構なコミュ障で、失礼なことを周りに言ってきたような自覚はあります。
それは多くの人にとって正義に反することで、きっと自分の知らないところで信用を毀損し続けてきたのでしょう。
おそらく当ブログでは一生涯擦り続けることになるであろう例のイトコとの絶縁の件も、
そういう積み重ねが爆発した結果と見ることもできます。
このことは深く反省し、より「マトモな」社会性を身につけるために不断の努力をしなければならないし、
それ自体はかなり納得して具体的に改善してきたように思っています。


ただそれ以上に問題なのが、自分が果たして「指摘されやすい人柄」であるかどうかということ。
結局のところ、そこが人間関係をこじらせる根本原因のような気がするんですよね。
自分のコミュ障気質のように、確かに他人の正義=絶対ではないとはいえ、
指摘されたら(されなくても)直すべきような欠点というのは無数にあります。
そういう欠点は指摘されることが改善の近道であることは確かです。


しかし人として未熟だったり、心が弱かったりすると自分の欠点を指摘されることに対してどうしても抵抗感がある。
そういうオーラを発している人も世の中には少なくありません。
基本的に指摘するということは勇気が要ることであり、しかも見返りは少ないため割に合わない行動です。
指摘されようものなら必ず自己正当化や反論をしてくる人には誰も指摘しようとしません。
そのため、心が弱い人ほど欠点を誰からも放置されどんどん悪化していくという悪循環に陥りやすいのだと思います。
もっと悪質な場合、心の弱さを逆手に周囲をコントロールすることもあり得ます。
高齢無職やDVなど狭いコミュニティではそういう加害者がかなりいるイメージ。
「弱い部分を指摘する=悪」でありそれはタブーだという風潮さえ作れれば
倫理や人の優しさを盾に永遠に欠点と向き合わずに済み、欠点があるゆえに無責任な自由を謳歌できるわけです。
そんな人がいる環境で鬱憤を溜め続けたらどうなってしまうのでしょうか。


こういう人との距離感の取り方みたいな問題は本当に個々のケースで答えが違ってくると思うので
非常に難しい問題ですが、少なくとも言えるのはただただ溜め込むだけでは良くないということです。
今後も末長く付き合う相手にそれを指摘できそうなら、多少割に合わなくても指摘してしまった方が良い。
短期的には人間関係が悪化しても、長期的にはより信頼できる間柄になるかもしれませんしね。
また、どこまで踏み込んで良いのかどうかは探ってみないと分からない部分も多々あります。
うまい指摘の仕方もどんどん追求していくべきなんだろうなと。
人間関係の構築は途方もないほど奥深いですが、
社会に参加する以上はこれも一生向き合うゲームなんだろうと観念しています。


#7506

人間関係は性格を形成する

今日の出来事人間関係

ここ5〜6年くらいの自分を振り返ってみて改めて感じるのは、
人は周囲の環境、というより人間関係によって性格そのものが顕著に変わるということです。
結構自分でも意外なくらい大きく変わる。
「自分の性格は人間関係によって決まる」というのは
性格が悪かったら他人のせいなのかと言われかねない脆弱性が一見してありますが、
まあでもそれも含めて事実なのではないかと思います。
毒親のもとで生まれた子どもは性格が歪みやすいですが、それ自体は当人のせいではありません。
強いて言うならそれは「親のせい」でいいと自分は思います。
もちろんそれは歪んだ性格を作り出した要因にのみ言えることで、本人の行動の責任は当然本人にあります。


ここでいう人間関係とは友達・家族・恋人・同僚といったある程度以上親しい間柄だけを指すわけではなく、
自分と社会を紐付ける関係であればかなりゆるい繋がりでも当てはまると思います。
もしかしたらマスメディアも広い意味では当てはまるかもしれません。
そこまで含めると「人間関係」という言葉をそれに当てはめること自体が不適切のような気がしますが。


個人はそうした広い関係の中で飛び交う無数の意見に基づいて、
社会の一員であるからにはこうありたい、こうするべきだといった常識を持つようになります。
それがいわゆる「性格の種」になるのではないかと思う次第です。
そしてそれを実践できているか否かで誠実さ、劣等感、嫉妬心などといった自尊心が揺れ動くと。
自分個人で言えば2022〜2023年は睡眠の問題等々によって常識に対してあまりにも誠実さが欠けていたため、
かなり攻撃的な性格だったと思っています。
いっぽう、2024年現在はそういったマイナスファクターはほぼ無い認識なので
そもそもイライラするということ自体が無くなり心が穏やかになった実感があります。


基本的に自分ができないことを「できて当たり前」と標榜するコミュニティにいても幸せになれません。
そういう意味で無駄な争いを避けるために「壁」はあってしかるべきだと思います。
2010年代のSNS黎明期はある意味その壁が無くなった混乱期です。
個人は複数のコミュニティに所属していることが当たり前なので、
あるコミュニティでは常識とされていることが他方ではタブー視されているようなこともあるでしょう。
そこに大きな矛盾が生じるようだと個人が板挟みになってしまいます。
だから人間関係を実力以上に広げることにはリスクを伴うし、逆に狭すぎるのも良くない。
自分は2010年代後半にピクミン界隈でいくつかの黒歴史を生み出してしまいましたが、
それは「この界隈以外に縋るところが無い」というのも要因としては大きかったと思います。


何よりもまず劣等感を想起させるようなコミュニティは勇気を出して離脱するべきでしょう。
それは、ここ数年の実体験を鑑みると個人が思っているよりも切迫している問題であるように思います。
自分はいま、誰との関係性がどの程度深くてその健全性はどうなのか……
というのは定期的に棚卸ししてもいいのではないかと改めて思います。


そういう意味で10年以上の付き合いだった高校時代のクラスメイトは
2021年に絶縁して本当に正解だったと思っています。もちろん、その人の善悪とは無関係にこちらの都合での話。
絶縁のきっかけになったトラブルは自分のメンヘラムーブに端を発しているので反省していますが、
他方で彼は意識がすごく高く、いわゆる社会の勝ち組を常識に据えた価値観で物事を話すので
それに遠く及ばない自分の劣等感を長年刺激され続けてきたのは彼がなんと言おうと事実です。
そして絶縁してから気持ちがめちゃくちゃ楽になったのも確かです。
この件は人間関係について考えるにあたり、本当に大きな教訓になったと思っています。
人としてのレベルが大きく異なる人と親密になるにはそれなりのリスクがあるのだと。


分相応な人間関係を維持するために骨を折ることは他でもなく本人を豊かにしますが、
SNS自体が迷走している昨今それを徹底するのは簡単ではありません。
コミュ力、SNSの使い分け、キュレーション対策などなどやることは無数にあります。
いまやティーンエイジャーの3人に1人が精神疾患と言われているこの地獄のような時代ですが、
幸いにして2024年現在の自分はここ数年の取捨選択の結果かなり安定したネットワークを築けていると思います。
他人といることが楽しいと心から思えたのは本当に最近になってからのような気がする。
どうにかこれを維持していきたいと改めて思う今日この頃です。


#7255

友人関係はむしろ少ないほど良い?

今日の出来事人間関係

友達(フォロワー)に相当する人間関係が多いほど良いという価値観は
平成と共に時代遅れになったと思う今日この頃ですが、
自分個人としては、
いわゆる親友に相当する人間も決して多くなくていいのではないかと思っています。
正確には、個々人の性格やコミュ力等によって適切な人数が変わってくるのかなと。
そして、多くの場合は1人で十分なのではないかと考えています。


主にDiscordなどボイチャ可能なプラットフォームの普及によって
自分みたいな陰キャにも共通の趣味の人と話せる機会は増えた現代ですが、
だからといって首を突っ込んだクラスタ全部とそれなりの人間関係を築くのは非常に難しい、
というか無理だと思っています。いくら時間があっても足りない。
ゆえに、多趣味で関わる人数が多いと必然的に一人一人との関わりが薄くならざるを得ません。
これを問題にしていた時期もありますが、
これは性格によって向き不向きがあるので良い悪いで片付けない方がいい問題だと思っています。


またこれは、1人と打ち解け合うには相当の時間が必要だという考えに基づいています。
友達のような関係になると話がどんどん広がっていき、お互いの知っていること知らないこと、
あるいは何が好きで何が嫌いかを理解するようになっていくわけですが、
「あなたのことは十分知っている」と自負できるレベルに達するには非常に高いハードルがあり、
10時間あるいは100時間話したところで容易に達することはできません。
最初に理解したと思う段階ではまだ最初の峠すら越えていなかったりして、
下手にそれを本人にひけらかすとトラブルになるのもありがちな罠です。


こういうことは自分のコミュ力の低さゆえなのか、たまたまなのかはわかりませんが、
少なくとも上京以降の人間関係を振り返ったときにそういう実感が強くあります。
十数年話しているような長年の関係だって理解不足からあっさり絶縁することもあるわけで。
そういう人間関係の難しさを考えると、
それなりに信頼できると思える話相手を獲得することは容易ではないとともに、
それを何人も両立するのは相当に難しいのではないかと改めて思います。
少なくとも「自分を理解してほしい」という文脈での損得勘定でしか人間関係を見ていないような
いわゆるメンヘラには無理難題でしょう。昔の自分のことですが。


知人が結婚すると縁遠くなるのは良くあることで、
これも人間関係のキャパシティが関わってきているのではないかと思います。
それは子育てで忙しいとかライフステージが変わって価値観が変わるとか、
あるいは未婚サイドの妬みなども要因としてあるかもしれませんが、
結婚するに足る相手は当然長い時間をかけて相互理解を育んできた経緯があるはずで、
結婚相手を得ることで「長年の話し相手」としての枠が埋まってしまうからではないでしょうか。
逆に言えば、そういう枠が埋まっていない人こそ話し相手探しに余念がないわけです。
でも、そうやってあっちこっちに首を突っ込むと先述の通り深いコミュニケーションが困難になって、
結局打ち解けられるような人間関係を構築するのが困難になってしまう。
この辺のジレンマは誰かと繋がるだけなら簡単にできる現代特有の難しさかもしれません。
かといってたったひとつのコミュニティでは興味を持ち続けるのも限界があったり……。


自分は、過去十年くらいを思い返すとその時々で常に1人は頻繁に話す相手がいて、
人間関係でトラブルになったのは大抵それ以外の人とのコミュニケーションだったように思います。
そして、転職や引っ越しなど何らかの原因でメインの1人と縁遠くなると、
その後1年以内には頻繁に話せる相手を見つけられている傾向にあります。
このことから自分は、①一番大切な人間関係以外は雑に扱っている可能性があり、
②一番大切な人間関係が無い状態では本気で相手を探そうとする、
という傾向があるのではないかと。最悪の喩えですが恋愛と浮気のようなものでしょうか。


ここから先はものすごい結果論ですが、2021年に生物学をきっかけに仲良くなった女子は、
当時『Apex Legends』全盛期でなかったらもっと長続きしていたかもと思わなくもないです。
現在Apexは週1でやるだけでもお腹いっぱいですが、
当時はそれこそ元同僚ではなく同僚と週6で退勤後寝るまでずっとやっていましたからね。
そこに他と交流する余裕なんてあるはずもなかったわけです。
実際メッセージの返信などはなあなあになっていた感は否めません。
恋愛に発展するチャンスだから優先度を上げよう、というような意識も残念ながらありませんでした。
もちろんそれは自分が選択した結果で後悔などしても仕方ないわけですが、
ある程度深い人間関係の両立は結構難しい、というのはもう少し早く知りたかったと思います。
人との距離感はそういう時間的・精神的キャパシティを理解した上でポジショニングするべきだなと。
これこそ社会人になってから気づくのは遅すぎで、学生時代に学ぶべき案件だったんじゃ無いかと。
ここにきて学生時代にコミュ障だったことがジワジワと効いてきている気がする……。


#6988

人を傷つけた話

2023年が明けてまもない三が日の2日目にその連絡は突然やってきた。
前日まで祖父母家でいつものように集まったイトコから、



「実を言うとお前の言動にずっと傷つけられてきた。今回の帰省でも深く傷つけられた。
だからもう当面会わないようにしたい。祖父母家にも行かないので、お前が行きたければ一人で行け」



とLINEで申し出があったのだ。僕は顔面蒼白になって、



「まったく身に覚えがないので、どの言葉で傷ついたのか教えてくれないと納得できない」



という旨の内容を返信した。



「ありすぎて具体例は挙げられない。改善も謝罪も期待していないので説明する義理は無い。
仮に説明したところで、お前は善悪の判断がつかないんだから説明するだけ無駄だろう。
本来は無言ブロックで終わるところだが帰省する・しないは双方の自由だから敢えて申し出てやった」



と返信がきた。言葉の節々に相手の怒りを感じるが、これは挑発に乗ったら負けると察した。
経緯はさっぱり分からないが喧嘩を売られているのだと理解した。



「傷ついたワード全て挙げろとは一言も言っていないし、
そもそも『無意識で言っている』『善悪の判断がつけられない』等の決めつけは失礼だ。
また、仮にそれが当てはまっていたとしても説明しない理由になっていない。
とにかくひとつふたつは具体例を挙げてくれないと議論にならない。
第一、近年ずっと自分の言動にあなたが傷ついていたのなら
実家や富士登山に誘ってくれたのはなんだったのか?」



僕は率直な気持ちを返信した。論破して優位に立ちたいという思惑は当然あったが、
30年来の付き合いがある人間関係じゃなかったのか? と言う当惑の気持ちの方が強かった。
しかし口喧嘩の経験値が圧倒的に少ない自分にしては冷静に返せていたと思う。



「富士登山については気まずいと思ったが叔父が勧めるので仕方なく誘ってあげた。
傷ついたワードについては、
(2021年末にイトコが自分に就職相談をした際、現職に対して)『底辺』という発言にもっとも傷ついた。
今回の帰省で言えば『仕事辞めてない?』
(姪の語彙がどんどん増えていると言う話に対して)『そのうち追いつかれるかもね』
といった言動が僕を舐めている、見下していると思った。
いくら親戚とはいえ実害を与えてくるなら今後関わるだけ損だと思ってこの話を切り出した。
というか、ゴネているように見えるけど怒っているのはこちらなのであって、
そちらが納得する・しないは関係ない。納得しなかったらどうするつもりなのか」



最後の1文で、もうこの人には何を言っても無駄なのだと観念した。
ヒステリックに歪んでいる。この人はこんな人間だったのかと深く深く失望した。
最後にブロックされるのを覚悟でこちらの潔白を伝えられるだけ伝えておくことにした。
唯一の物的証拠としてこのやり取りを第三者に公開されたとき、
「いや、これはこの人の主張も正しいよ」と弁護してくれる可能性に期待してのことだ。



「冗談が通じない人だとは思わなかった。その辺は長年の付き合いで理解しているつもりだった。
『姪に追いつかれる』は姪を過剰に褒めるための言うなればボケで、
どう考えても実現不可能な以上冗談なのは明らかだろう?
『仕事を辞めていないか』は率直に心配だから聞いただけだし、
底辺と発言した当時あなたは最低時給クラスの工場勤務だったのだからそれは公然の事実でしかなく、
それが不本意だという理解の上でどう這い上がるかを話し合ったんじゃなかったのか。
結局あなたが傷ついているのは他者の言動よりも劣等感や嫉妬感情があってこそのことなのではないのか。
社会通念上暴言と認められるような言動であればこちらが責められるべきだと思う。
しかしそんなことがあれば他の親戚がとっくに注意しているし、今回はそれに当てはまらない。
そもそも、そこまで思い詰めていたのならなぜ何も言わず年末に来たのか?
せめてこんなタイミングで打ち明けるのではなく来る前に言うべきだろう。
それに富士登山を誘った理由が「叔父が誘えと言ったから」というのはガッカリした。
そんな主体性のカケラもない言い訳を押し通してお気持ち表明されても困る。



これ以降、返信は来ていない。
この件については、僕はいまだに自分に非があったとは考えられない。
強いて言えば不本意に工場勤務を続けているという話に対して
『言うなれば底辺じゃん』と言った覚えがあり
それでプライドを傷つけた可能性はあるという意味では、反省の余地はあるかもしれない。
自分も文字通りの底辺だった2013年にそれを言われたら嫌な気持ちになっていたと思う。
しかし今回は当の本人からそれについての相談を切り出したという前提があり、
それもそこから脱出したい/してほしいという共通認識の上で
転職を後押しするためにした発言だったと認識している。
共有している価値観は30年来の付き合いで当然理解してくれているものだと思っていたが、
そこに認識のズレがあったとしたらどちらが善で悪でと言う以前に至極残念だとしか言えない。


僕は彼の言うとおり善悪の判断がつかず、無意識に人を傷つける悪癖を持っているのだろうか?
もちろん、コミュ障を自覚する以上自分に多少なりその傾向があることは否定しない。
口が滑って余計なことを言ったこともあっただろうし、
それらに対して100%公平なジャッジができているとは到底思えない。
ただ、そういういわゆる失言は当然過去にイトコにもあっただろうし、誰にでもある程度はあるだろう。
真っ当に解釈されることを期待した悪意なき発言も
受け手の解釈次第で「見下している発言」にいくらでも捻じ曲げられる以上、
この議論では発言内容自体にはあまり意味は無い。


自分の捻じ曲がった解釈に基づいて相手に変革を迫るのは一方的な価値観の押し付けでしかなく、
そんな主張をしてきた時点で縁は切ってしまった方が明らかに精神衛生的には良い。
もちろんイトコもそれを薄々分かっているから「改善は期待しない」と言ってきたのだろう。
今回の件はイトコのメンタル的な事情でこれまでのような人間関係を維持していくのが困難になり、
かつ自己理解不足から本人がその原因に気づかず
(あるいはそれを認めてしまうと強い自己否定になるから見て見ぬふりをして)、
理解してくれない他者にすべての原因があるという決めつけでお気持ち表明してきたものと推測する。
そのため、とりあえずこちらから譲歩も謝罪もする必要はないと思っている。
それをしたところで、相手方のプライドをさらに傷つけるだけだからだ。


それにしても僕が衝撃的だったのが、ネガティブな感情で腐敗した人というのは、
こんなにも主観的にしか物事を考えられないのかということだった。人の本性を垣間見た気がする。
そしてそれは、まさに自分がお気持ち表明する側だった
2021年に10年以上交流のあった高校時代のクラスメイトと絶縁した件にも通じるところがある
(発端については#06301 / 2021年03月19日、反省まとめは#06325 / 2021年04月11日)。
あのとき、僕は相手を何も理解してくれない「悪」だと完全に思い込んでいた。
理解してくれないことそのものを善悪の基準にしていた節は否めない。
まさに今回のイトコのように見下されていると感じるのが苦痛で仕方なかったし、
実際に彼との間にはその気持ちの根拠となるような見下されエピソードが数多くあった。
しかし、当時の僕はこのイトコのように捻じ曲がった解釈ばかりしていて、
しかもそれに気づけずにいたのかもしれない。


これは、特に人間関係において「対等」であることを望むとこじれやすい問題であると思う。
仲の良い関係は対等なのが当たり前だという固定観念を持っていても、
人間関係は知識の広さや人生経験の深さ、社会的ステータスなどによって不均等になるのが当たり前だ。
そこには常に暗黙の上下関係のようなものが存在する。完全に対等なことはあまりない。
僕は高校クラスメイトに対して対等でありたいと思っていたが、
実際には社会的ステータスの面で言えばかなり水を空けられていた。
そのギャップが自分に嫉妬心をもたらし、あのトラブルへと発展させていったのではなかろうか。
今回のイトコと自分の関係でも似たようなことが言えると思う。
「自分はこれでいい」と言えるような社会的安定をいまだ得られていないがゆえのすれ違いと言うべきだろうか。


誰もが他者の理解を求めている。自分が認められることを渇望している。
得てして、それが極端に不足すると一方的に「認めない他者」を悪と決めつけてしまう。
その原因はたいてい本人にあるのだが、どういうわけか本人だけはそれに気づかない。
「無意識で」「善悪のつかない」ことを言っていたのは皮肉にもイトコ本人だったようだ。
今回はそれを他人事のように眺められたのは収穫だった。
こうはなるまいと戒めの意味を込めて、本人には申し訳ないが顛末をブログに残させてもらう。
無礼な言動をぶつけられた側として、これくらいの報復は許されるだろう。