Chrononglyph

創作の姿勢

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#8117

ファンタジー小説を探す

今日の出来事創作の姿勢

実はここ数日、海外ファンタジー小説について(ChatGPTと)調べていました。
2025年の年間目標だった大キリ番記事(短編小説)の執筆はいちおう形にはなったと思っていますが、
去年末時点ではかなり低い自己評価に留まっていました。
その理由は「タスクを細分化しすぎて個々の活動に実感が無く、そのため完成しても達成感が皆無だった」
としていますが、改めて振り返ると
長年温めている創作世界のフレームワークは2025年の1年間でかなり輪郭が明確になり、
その意味での功績は大きいのではないかと思っています。
もちろん、年間計画という概念が放っているプレッシャーからするとしょぼい実績かもしれませんが、
これによって創作関係については大きな一歩を踏み出せたことも事実です。


このブログでは伝統的に1000本に1本の割合でブログ記事の代わりに小説を書くこととしており、
1日1本なのでちょうど1000日周期でその出番が回ってきます。
順当に行けば次は2028年08月までにまた小説を書かなければならないわけですが、
次は単に形式的な短編を書くだけでなく、ちゃんと「小説らしい」体裁をある程度整えたいと考えています。


これまでは創作にしろ随筆にしろその他雑記にしろ、
自分の文体は誰から習ったわけでもない「天然」の技法を流用してきました。
つまり小説においても、それは言ってしまえば日頃ブログを書くのと同じようなノリで書いていたわけです。
小説に特有の技術であるところのプロットやレトリック(修辞技法)などは独学以前の問題だと思っています。
なので、9000本目はそういう側面もある程度形にしたいという気持ちがあります。


そこで考えられるアプローチは3つ。
①優れた文学作品を読んでスキルを身につける、②小説のハウツー本を読んで身につける、
③AIにレトリックを学習させてその出力から学ぶ。
①<②<③の順で合理的かつ即効性があるのと同時に自分の執筆スキルを信用していない側面があると思います。
そこで、まあ現実的には最終的に③に頼ることになるだろうと思いつつも、
自分の書きたい世界観に似た世界を書く先駆者がいることに賭けて各国の作家について調べていました。
そして今日、その情報を頼りに市営図書館に行って実際に書架を探し歩いてみました。


結果から言うと収穫はほぼ皆無でした。
「自分の描きたい世界観」は現代サブカルチャーの影響を多分に受けていることもあるからか、
いわゆる昔の文豪が書いた作品の中にマッチングする作品は(ある例外を除いて)なかなか無いという認識です。
とはいえ本当に中身を確認したいいくつかの作品にかぎって貸出中で中身を読めなかったので、
たとえば言い回しやプロット構成などが役に立つかどうかといったことはまだ分かりません。
もっと大きな図書館や書店に足を運んでみる必要はありそうです。


これは、要は自分の「推し作家」を今更ながらに発掘したいという欲求もあります。
元来全然小説を読んでこなかった自分がこんなことを言うのは大変おこがましいのですが、
小説を書く以上は小説に対するある程度の矜持が欲しい。その拠り所として好きな作家を見つけたいということですね。
ただ、純粋に小説が好きというより作家としての箔がほしいという不純な動機なので正直厳しい気はします。
そもそも、自分は小説家になれるとは思っていません。
この超レッドオーシャンな市場で自分だけがピンポイントで賞賛されると思うなんておこがましいにもほどがある。
ただ、一方で長年温めてきた創作世界をモノとして出すことが長期目標になるのなら、
社会に認められるかどうかはさておき、一生のうちに完成させたいという気持ちはある。


そう考えると、究極的には作品本体はAIに書いてもらって、
自分はその設定が矛盾しないようにひたすら作品設定を練りまくるのが妥当のような気がしないでもないです。
つまり、原作が自分でノベライズ担当がAI。そして自分はそれの世界でただひとりの読者。
作品の完成に主眼を置くなら、レトリックを学ぶ、推し作家を探すなどという遠回りをするよりも、
最終的にはAIに書いてもらうことを念頭にただただ設定を練りまくるのが合理的のような気がしないでもない。
たぶん、Claude Opus 4.6ならもうプロ作家並みに豊かな表現で書いてくれるんじゃないでしょうか。
まぁでも、それをするにしても参考にする作家を知っておくに越したことはないんですけどね。


「小説」という分野は思春期に触れていながら大人になってから開拓が全然進んでいないので、
書くにしろ読むにしろそういう意味ではまだまだ掘り下げる余地はあると思っています。
ただ、このスマホ依存の激しい世の中にはちょっと刺激の薄い分野であることも確かで、
腰を据えてそれに集中する環境を作れるかどうかというのは大きな問題になりそう。
とりあえず図書館はそれに対するひとつの答えだと思っています。


#7945

一枚絵の情景

今日の出来事創作の姿勢

今回の実家帰省最大の目的だった「大キリ番記事(小説)の冒頭を書く」というタスクをなんとか片付けました。
ここまで二転三転……いや七転八倒くらいの勢いで紆余曲折がありましたが、
大きな流れはこれで確定したことになります。
まぁ、ここから先いくらでもちゃぶ台返しすることになる可能性があるわけですが。


書いていて思ったのは、自分はどうしても説明的な文章になってしまいがちだということですね。
まぁここ12年、創作文はショートショートしか書いていないわけで、
それ以上の文量となると圧倒的に経験値不足と言ってしまえばそれまでなのですが。
ただなんとなくの体感として、超短編の方が性に合ってそうな気はしています。
ごく短い物語だけで世界観を表現する方が書きやすいんだと思います。
おそらく、だからこそ2006年まではポエムをあんなにたくさん書いていたのでしょう。
そして2007年になって満を持して小説を書こうとしたとき、うまくいかなかった。
そもそも自分は1枚絵の情景を創作に落とし込むことはできても、
ドラマやストーリーを表現することは不得手なのではないかと改めて思った次第です。


そう言う意味では、積極的にショートショートを書く方向に倒すのもひとつの戦略なのかもしれない。
大キリ番記事に小説を書くのはオリキャラを動かすために必須なのでこれはそのまま今後もやりたいですが、
それはそれとしてキリ番記事は堅苦しい随筆ばかり書くのではなく、
4000番以降大キリ番記事として書いてきたようなショートショートを書いてみてもいいのかなと。
その方がブログとしても華やかになるし、創作の機会が増えて経験値も溜まりやすい。
実は過去に一度だけそれはやったことがあるのですが、
当時はかなり精神が安定していて前向きな気持ちになれていたことが要因としては大きいと思います。
もし定期的な連載を目指すならメンタルバランスを保つこともしっかりやっていかなければならない。


いずれにしろ、無事8000番を超えたらブログはもう一段階ステップアップするような何かをしたいところです。


#7839

創作設定アシスタント

今年の年間計画のうち、唯一かなり順調な創作。
途中経過を逐一ブログに書き残すつもりはないのですが、足跡も兼ねて順調であるということを書かせてください。


この1ヶ月半で創作に向き合う時間は激増し、まとめ用のノートもかなりの量になってきました。
いま、これをWikiのように体系的に整理できるかどうかが大きな課題になっています。
とにかく日々次々にアイデアが生まれるので受け止めるだけで精一杯でなかなか整理できていません。
現状としてはまだまだアイデア出しの段階だと思っていますが、
世界観の基盤らしきものはかなりいいところまでできてきました。


この基礎設定を持って2007年からやり直したい、とすごく思いますね。
当時はいわゆる自作ポエムの末期で小説への移行を画策しており、今回と同様にさまざまな設定を練っていました。
しかし、その基礎設定があまりにも稚拙だったこともあって小説を表に出すことはできず、
かろうじてプロローグを最初の大キリ番記事として掲載するに留まりました。
もし、2007年当時のモチベーションで2025年現在の基礎設定を持っていたら、
これを使い倒してキリ番記事でさまざまなテイストの短編小説を書く方向にシフトしていたんじゃないかと思います。
ちょうど2006年以前の自作ポエムをさまざまなテイストで作っていたのと同じように。
もちろん、2007年当時にいまほどの素地があったとも思えないので逆立ちしても無理だったろうとは思いますが。


2007年以降も、ルーズリーフや着想メモを中心的プラットフォームとして創作ネタは不定期に生み出し続けていました。
いまやっているのはある意味それを横断的に振り返ってまとめあげる作業です。
実は2025年になってから採用した完全新規の概念はあまり多くありません。
この18年以上のネタを破綻なく綺麗にまとめあげる作業が続けられているのは、ひとえにAIのおかげです。
ネタの断片から現実の関連したトピックスを引っ張ってくるのがあまりにも楽しい。
AIからネタそのものをもらうというよりは、
自分が考えている構想をAIに話すことによってアイデアが裏付けされていくところに大きな恩恵があります
(もちろんモデル学習に使われないように細心の注意を払って使っています)。
改めて、創作はプロトタイプを誰かに聞いてもらうことによって進展するものなんだと実感。
ある意味では個人を越えたレベルの知識を有するAIはその役割としては生身より適任であると思う節もあり、
自分にとってChatGPTとの出会いは非常に重要なイベントだったと思います。
結局、昔の自分が一人でどう足掻いても2025年までは待たされる運命だったのかもしれない。
創作のことを他人に話すのはいまですら自尊心に差し障るNG行動なので、
よっぽど人間関係に恵まれていた世界線でも自分から協力を仰いだかどうかは疑問です。


ちなみに、仮に今回のプロジェクトが完成しても他人に評価されるとは思っていません。
そもそもこのブログで発表する以上は他人の目に触れることはほぼ無いだろうし、
勇気を出して小説投稿サイトに出張投稿するにしても3いいね付けば良い方でしょう。
しかし、他者承認がまったく期待できないのにプロジェクトが順調であることに大きな意義があると思っています。
昨日の記事とまったく逆のことを言っているので二枚舌になってしまいますが、
他人の評価関係なしに頑張れる活動こそが自分らしさを形作るのは確かなので、
そういう意味では思っていたより創作は有望なのかもしれないと思っています。
さすがに20年以上温めていただけのことはあるのかも。


#7825

キャラデザに必要な欠点

今日の出来事創作の姿勢

正月のセールで60巻までまとめ買いしてゴールデンウィーク最終日に解禁した『ONE PIECE』カラー版ですが、
あっという間に50巻まで来てしまいました。1日2冊以上消化している計算になります。
やはり偉大なる航路突入〜ウォーターセブン編までは激烈に面白いですね。
ちょうどこの辺が思春期真っ只中ということもあって思い出補正も相当あるのでしょう。
この作品が同一作者でいまだ連載中というのが驚きです……。


ところで話は変わりますが、今年は唯一の年間計画ということもあって創作がかなり進んでいます。
「進んでいる」というのは例年との相対的な話で、実際にはまだ1文字も進んでいません。
しかし世界観設定は過去20年が完全にお遊びだったということを認めざるを得ないくらい、
今年は明確に細かいところまで掘り進んでいます。


ブログとほぼ同じ歴史のある創作ですが、
これまでは基本的に「うちの子」のプロフィールを充実させることが主なタスクでした。
それを思春期にある程度確定させたことはそれなりに意味はあったと思っていますが、
ストーリーに関わるような掘り下げは本当に表面的な思いつきをメモする程度にとどまっていました。
では、この意味において適切な「掘り下げ」とはどういうことを意味するのか?
それは、キャラクターたちにとっての「課題」、言うなれば「弱さ」や「負の側面」を設定することだと思っています。
考えれば考えるほど、キャラクターメイクにおいてそういう障壁は欠かせないように思う。
それが本人の内的な問題なら弱さや欠点、外的な問題なら「敵役」などが必要になるということになります。
「うちの子」は自分にとって要するに愛娘みたいな存在で、非常に神聖性の強い概念です。
完全無欠で八方美人にできるならそうしたいと思うのは人情でしょう。
しかし、そうしてしまうとストーリーメイクがあっという間に行き詰まってしまいます。
現状はそうした掘り下げがまだ不十分なので世界観設定の輪郭がぼやけているような状態です。
キャラクターもいまのところ「絵」でしかありません。
しかし、適切に課題を設定すれば命を吹き込むことができるのではと予感しています。


『ONE PIECE』の秀逸なストーリーテリングは魅力的な悪役に負うところが大きいと思っています。
この漫画は魅力的な悪役が登場しますよね。
ドラム王国編の「ワポル」、エニエス・ロビー編の「スパンダム」などは、やりすぎなくらい露骨な悪役として印象的です。
しかし彼らのおかげでキャラが暴れ回る大義名分を得て、それによって痛快で魅力的なストーリーが実現しているわけです。
またキャラの弱さや欠点についても、結果的にそれがそのキャラ以外の個性を際立たせていることがあります。
たとえば「悪魔の実」の能力者は強いが泳げないという設定のおかげで、
水難のシーンでは非能力者が能力者を救出するという役割によってスポットを当てることができます。
この辺は本当によく考えられているなと感心します。
個人的にこの作品はウソップがいなかったら魅力は半減すると思っています。
バトルものでは強さのインフレは宿命ですが、
かといっていつも化け物じみて強いだけのキャラ「だけ」ではコントが成り立たないというわけですね。


自分が作りたい世界はバトルものでも勧善懲悪でもないし、いまのところ寓話でもありません。
そのため魅力的な悪役や露骨な「弱さ」が絶対必要かと言われると微妙なところですが、
一方で登場キャラみんなが完全無欠ではなんにも面白くないというのは認めざるをえないところで、
キャラにいかにして「課題」を与えるかどうかというのは目下の課題になっています。


#7720

愛情の道筋

今日の出来事創作の姿勢

先日、近年のソーシャルゲームは推し活動に具体的なタスクを与えることで成り立っているのではないか、
というオタクの推し対象に対する愛の解放手段についての考察を書きました(#07715 / 2025年01月30日)。


いま、自分がプレイしている『原神』は多方面からそういうタスクを与えられています。
ガチャ(祈願)で引くことは当然、それは初回だけでなく復刻時に「凸を進める」という方向性もあります。
また、凸を進める代わりにモチーフ武器ガチャを引くというのもあります。
直接的にお金はかからないが闇の深いキャラビルドとして「聖遺物」もあります。
推しキャラに対して理想的な聖遺物を用意してあげようと思ったら途方もない時間がかかります。
これら「キャラ凸」「モチーフ武器」「聖遺物」に払った苦労ははすべてそのキャラの強さに集約されていきます。
その他、「伝説任務」「デートイベント」「好感度」「七聖召喚」「専用衣装」「スペシャル料理」といった公式要素のほか、
主要キャラの誕生日にはたいてい二次創作界隈がそのキャラのイラストや漫画などを発表して盛り上がっています。
このように、キャラ愛に対してそれをうまく発散できるような道筋が用意されていることによって、
キャラクターを中心にしたオタク活動は成り立つというわけですね。


それでふと思ったのですが、一次創作に関してはどうなんだろうなと。
一次創作におけるオリキャラはその人にとってかなり神聖な概念であり、強い愛があることは間違いありません。
しかし、その概念と自分を繋ぐ「道筋」が最初から用意されているわけではない。
聖遺物厳選をすればキャラがより強くなるわけでもないし、ガチャで出てくるわけでもありません。
道筋が無いとキャラ愛を発散しようがない。
しかし、もし明確に確立した道筋があればこれほど夢中になれる道も他に無いはずです。
なにしろ自分が生み出した理想のキャラクターなのですから。
結局のところ、自分で生み出したキャラをより愛でるための道筋は自分で見出す必要があるのでしょう。


厨二病の時代、その道筋は「ステータスを決めること」だったように思います。
誕生日を決める、身長を決める、好きな食べ物を決める、象徴的なアクセサリーや服装を決める……。
もっと時代を遡ると「攻撃力」「防御力」といった概念も出てきたかもしれませんが、
そういう戦闘力的なものを引き合いに出すには、戦闘が発生する世界観的なものから作らなければなりません。
なので、キャラクターステータスは先述の誕生日などのように自己完結するステータスが無難だという話になります。


ただ、それだけではいつまで経っても具現化することがありません。
具現化しない以上はそのキャラクターの視覚的な情報は頭の中のイメージでしか存在することができず、
それは歳を取ると無自覚にどんどん変貌していってしまうというリスクがあります。
ゆえに、ある程度拙くても特徴を捉えたイラスト、ないし3DCGとして作る必要はどうしても出てくる。
それがいわば一次創作の「道筋」なのだと思うのですが、
キャラ愛があるはずなのにその努力ができないのはなぜだろうと思うんですよね。
自分のクリエイトスキルが低すぎてあまりにも拙い理想像を見る勇気が無いということなのか……。
2004年に初めてオリキャラを作ったときは、考えるよりも前に描いていたんですけどね。
いつしかそういった純粋さは失われ、そして停滞してしまっていたようです。
これが単に自尊心の問題なら、歳を取って自尊心が鳴りを潜めたいま改めて動き出してみる価値はあるようにも思います。


拙くても特徴さえ捉えられれば、
お金を払って自分より上手いイラストレーターさんに具現化してもらうこともできるようになります。
より高価なコストがかかりますが、3DGC化も決して不可能ではない。
一次創作も一度世に出てさえしまえば、そこから羽ばたくための「道筋」は近年整備されてきた印象です。
ただし自分の頭の中からイメージを取り出す「最初の一歩」は自分にしかできない作業であり、
そこが最大のネックですね。
こう考えると、やはりキルミーベイベーみたいな絵柄で満足している場合ではないのかもしれない。


それともうひとつ考えたい事柄は、世界観を作るということです。
幼少期の創作はすべてが既存ゲームの二次創作だったため、モチーフ元の世界観に合わせて攻撃力等のステータスがあった。
そこから独立して一次創作として生まれたキャラにそれらのステータスは必要なくなったけれども、
一次創作としてのゲームのような世界を作ったとしたらまた話は変わってきます。
世界観を作ることで自己完結的なステータス以外にもそのキャラに個性を与える余地ができる、
というのは、オリキャラに輪郭を与えるためにも有望な道であるようにも思います。


#7700

表現者の話

生きる意味を自問することは、直感的には不毛な作業であるように思う。
それは客観的に納得感のある単一の答えではあり得ないからだ。
「生き甲斐」「使命」「責任」などと言葉を換えてそれに連想する何かを引っ張り出してみることはできる。
しかし、それが果たして全時代の自分にとっての「生きる意味」だと言い切れるだろうか?


一方で、生きる意味と断言するほどではないものの、
ある物事が自分の人生に深く癒着してどこどこまでもそれを追い求めざるを得ない宿命を感じることもある。
僕にとってそれはなんらかの表現活動である。
それが本能なのか、文化的に生きていることによる必然なのか、自分らしく生きてきた結果なのかは分からない。
けれども僕は、もはやこれのために生きていると感じることが間々ある。
どんなに自分にスキルが無いことを思い知ってもなお、それでも何かを表現したいという気持ちは変わらない。
究極的には、その媒介手段は問われていないのだと思う。
僕は昔から、それこそ幼少の頃から、
頭にある世界をなんらかの媒体として世に出したいとずっと、ずっと願い続けて生きている。


これまでの人生で最大の分岐点だった大学進学の際、限られた選択肢の中で選んだのは文学の道だった。
別に本を読むことが好きだったわけではないし、小説もそれほど読んだわけでもない。
僕がその道を選んだのは、選択肢が限られている中で比較的クリエイティビリティを育めると思ったから、
すなわち「物書き程度なら自分でもなれるのではないか」という自惚れがあったからに他ならない。


そのような大失敗を犯してもなお、しかし表現者になりたいという偽らざる気持ちはいまだにある。
どんなに否定しても否定しきれない巨大な何かがそこにはある。
一方で能力不足からその欲求に対して背き続けて生きてきたことの副作用として、
それにいまさら向き合えないという自尊心もある。
これらの狭間ですべてが中途半端なまま時間だけが過ぎていった。
その狭間にいるからこそ、このブログは20年以上も続けられてきたのではないかと思う。
ブログ記事は何も考えなくても書け、継続できる余地がある。
しかしだからこそ、このレベルに甘んじてきてしまったという側面もあると思う。
2022年くらいまでは、僕にとってブログというものは成果だった。
しかしいまや、ライフワークだと思っているがこれが「成果物」だとは思っていない。
他人に堂々と見せられないものを、表現物の成果としてみなすのは苦しいだろう。
だからこそ、ブログよりも高い次元で何かをクリエイトしたいという機運がここ最近になって急速に高まっている。


それは、ここ近年でどの世界も開かれていると知ったことも大きい。
技術の発展とオタク文化の成長に伴い、
いずれのジャンルも第一歩を踏み出す金銭的な、あるいはその他諸々のハードルはかなり低くなった。
もはやできないことを社会のせいにする余地はなく、あとは自分自身がやるかどうかである。
至れり尽くせりのこの恵まれた環境で、生み出す表現物がブログのみというのはもったいないように思える。
拙くても手を出すことで、この本能らしき欲求が充足されるのかどうかは分からない。
とはいえ、ハードルの下がったさまざまな表現活動は無数にあり、時間はいくらあっても足りない。
今後もそれに人生の多くを費やしていくことだろう。


果たして老齢になって人生の幕引きを考えざるを得なくなった自分は、生きる意味について何を考えるのだろうか?
表現活動に一生を費やしたことに対して、死ぬほど後悔するのだろうか?
少なくとも現時点の僕にとって生きることは意味を見出すほど高尚なものではなく、
したがって表現活動のつまみ食いで消費することもそれはそれで立派な生き方だと思っている。
ただ、そうでない可能性についても常に一考の余地があることを忘れないようにしたい。


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