社会と承認の話
インターネットにおけるこれまでの活動成果への他者のフィードバックに対する率直な認識として、
僕は活動量に対して得られている他者承認が不当に少なかったと思っている。
そして「このクオリティでは不十分だから認められなかったのだろう」という安直な反省により、
承認を得るためのハードルが青天井に上がり続けるという悪循環によって行き詰まりを感じてきた。
この流れは思い返せばネット活動初期から連綿と続いており、
ゆえに(匿名・半匿名の)ネット活動そのものに対する不毛さはいまだ否定できていない。
これまではネット活動の不毛さを他責論から出発して考えようとすると議論さえも行き詰まると考え、
基本的には自分の側に原因があり、それを克服することで多少なり改善するはずだという希望を捨てずにやってきた。
利他活動に注力すべし(#07800 / 2025年04月25日)といった考えや
仕事として捉えるべき(#07900 / 2025年08月02日)といった考えはその一環とも言える。
いまはいわば実践過渡期であり、これらが正しかったのかどうかについてはまだ結論を下せないけれども、
しかし短期的には何も解決していないという実情もある。
少なくとも匿名の人が跋扈するプラットフォームで活動を続けるかぎりは何も変わらないのだろうと。
安定した承認基盤が確立していないコミュニティにおけるコミュニケーションの基本的な動機は、
他者の中にいる自分の「存在確認」である。
コミュニティに所属しているかぎり他者は自分を少なくとも認識はしているのだろうと思うが、絶対的な確信は無い。
そこで挨拶が返ってくるか、質問に答えてくれるか、向こうから話を振ってくれるかなどというように、
少しずつ探りを入れてどの段階まで自分が人として認識・尊重されているのかを逐一確かめることになる。
そのような心理状態において、自分は尊重されているという根拠になる他者の発言は大きな救いになる一方、
反応を得られないという事実に直面すると大きな心理的負担にもなる。
そこには主観的な自分ではなく「他人の中にいる自分」こそを尊重されたいという欲求が確かにある。
そしてその「他人の中にいる自分」が確立して初めてその人との間で安全なコミュニケーションができるようになり、
ようやく自分はこういう人なんだという根拠になるようなスキルや実績を遠慮なく発露できるようになる。
まず実績を作ってそれによって自分を認識してもらおうというネットでありがちな営みは、そもそもこの順序が逆なのだ。
「他人の中の自分」は、できればその他人の自由意志のもとに尊重してほしいと思う。
しかしそれは存在確認がお互いに行われ、自分もその人を尊重し、承認基盤が安定して初めて望めるものであって、
尊重される以前の「いかにして認識してもらうか」という段階においては、
「他人の中の自分」の容れ物にすぎない他人そのものを尊重する余裕が無いこともあり得る。
そこで、そういう人は話を遮って自分語りをしたり、掲示板を荒らしたり、わざと他人が不快に思う言動をしたりする。
すると他人は否が応でも「他人の中のその人」を認識し、したがってその人の目的は達せられることになる。
認識させたいだけなら他人を尊重しない言動の方がスキルも不要で手っ取り早いのは間違いない。
少なくともTwitterのようなサービスではそのような倫理との不整合があると思う(#08044 / 2025年12月24日)。
モラルを逸脱して「他人の中の自分」を無理やり他人に認識させれば、当然の成り行きとして尊重はされないだろう。
しかしネット活動では「他人の中の自分」が認識されないということは死人と同義である。
誰かに認識してもらうかどうかというのは多くの有象無象にとってネット活動を支える重要な関心ごとであり、
一方で尊重されることはそのハードルの高さからもはや諦めている人も少なくないと思う。
少なくとも実感として東日本大震災以降のネット社会では承認リソースは数値的優位な上位層に集中し、
それ以下へは十分に行き渡っていないと感じている。
つまり、ここには「すべての人が可能なかぎり尊重されるべきだ」というような思想は流れていない。
承認欲求は他人の中の自分が尊重されているという実感を得ることで初めて満たされる欲求であり、
他人に認識されるためだけの行動では基本的に満たされない。
その点、利他活動はモラルを逸脱せずに他人に自分を尊重してもらう余地を残した「認識されるための行動」と言えるが、
それが成立するためには見返りを求めないという厳しい条件が付随する。
誰かに認識されたいという見返りを期待するならそれは道徳的な是非は別として、本質的に自分語りや荒らしと変わらない。
やはり、現代のネット社会は承認を得たいという目的から出発して考えると
もともと潤沢な人間関係があるか卓越したスキルを持つ人のための実力主義社会であり、
ここで他者に認識されていない人がゼロから承認を求めるのは極めて困難だという考えはますます否定できない。
もちろん、だからといって現実が正しく平等社会なのかというとまったくそんなことはないのだが、
市井に横たわるマナーの存在感を考えるとネット社会よりは幾分かマシのようには思える。
……ネット活動を「損切り」すべきなのではないかというのは、ずっと前から考えていた。
僕は根本的に承認に飢えていて、条件付き承認しか与えられないネット活動でそれが満たされることは無い。
かといって本当の自分を隠したまま「無条件の承認=愛」をネットの向こうの誰かに求めるのもまた不合理だと考えている。
今後も死ぬまで承認欲求との戦いになるなら、どこかで絶対にリアルと向き合わなければならない。
とはいえネットのキャリアを捨てなければリアル活動ができないかというとそういうわけでもないので、
もしも実践するとしたらネット活動とのリアル活動の両輪作戦(#07500 / 2024年06月29日)になると思っているし、
なんなら仕事もリアル活動の一環である以上はすでに両立しているとも言える。
ネット活動は自分をすでに認識している人のためだけに行為するという方向性は今後ますます強くなっていくと思う。
顔の見えない誰かに承認を求める不毛な活動はさすがにもう終わりにしたい。