見渡す限り、透き通った水晶の湖が広がっていた。
表層は何か透明の鉱物のようなものでできていて硬い。
少し深いところは水が充満しているようで、水流のゆらぎが水底にあるものを歪ませていた。
湖の底には巨大なビルが立ち並んだ大都市が沈んでいる。そこは魚の1匹さえも見当たらなかったが、
ときおり浮かび上がる気泡がなぜか生命の存在を予感させた。
私の背後には木製のドアだけがぽつんと水晶の湖の上に立って、夕焼けに照らされていた。
水晶の上にはドアだけでなく、私の背丈の十倍はありそうな巨大な水晶の柱が不規則に並んでいる。
私はこれらに圧倒されながらも、背後にあるドアの方角を入念に気にしながら歩き始めた。
地平線の彼方は夕焼け空と水晶の湖を分断しているが、太陽はどこにも見当たらなかった。
靴底が水晶に当たるたびに、コツンという音が辺り一面に響く。
それ以外、この世界に不要な音はほとんど鳴っていなかったが、
しかし時折吹く風はどこか異国の田舎で奏でられるような、優しくて不穏な音が鳴っているような気がした。
私は何かあったらすぐにドアへ引き返すつもりでしばらく歩くごとにドアの方角を確かめ、そしてまた淡々と直進した。
あのお姉さんの言うことは正しかったのかもしれない。
私はいま、誰かが作った世界の中を探検しているのだった。
30分くらい歩いていると、ふと右手の方角にぽつんとロッジのような建物があることに気づいた。
水晶の上に建てられ、ロッジによって作られた影は見えないくらい深くまで続いていた。
私はリュックを背負い直し、少し逡巡した。
何かあったらすぐに引き返そうと思っていたが、安全ならあの中で少し休んでいくのも悪くない。
そういえば、あのお姉さんはよほどのことがないかぎりこの世界なら危険な目に遭うことはまず無いと言っていた。
お姉さんの言を信じれば、あのロッジは単なる休憩所であり危険は無いはずだ。
「……よし」
私は意を決してロッジに向かうことにした。
ロッジはドアが空いていて中は明るく、ソファにテーブル、そしてゆったりと眠れそうなベッドがあった。
こういう施設をそこらじゅうに設置することによって、迷ってもどうにかなる仕組みになっているということなのだろう。
私はリュックを下ろし、ソファに座って一息ついた。
電波は通じないと知っていたが、不安になるのでいちおうスマホは持ってきていた。
電源はつくが、確かに圏外になっていて外との通信はできそうにない。
私はしばらく待ち受け画面を見ながらぼーっとしていた。
ふと、ロッジの入り口のそばに3段の引き出しがあることに気がついた。
私は気になって、スマホをポケットにしまって引き出しの前に立った。
1段目、何も無い。2段目にも何も無い。
しかし3段目を引くと、そこにはさまざまな大きさや形の水晶がたくさん入っていた。
外にある湖の表面を誰かが砕いてここに入れたのだろうか?
私が手を伸ばしてそのうちひとつに触れると、それは中心部から少し緑がかった藍色の光がにじんできた。
私は大小2つの水晶を手にして上着のポケットに入れ、リュックを背負って外に出た。
大きな水晶を取り出すと、また藍色の光がにじんでくる。
そして、湖に刺さっている巨大な水晶がそれに共鳴するように光り出した。
よく見るとすべてが光っているわけではなく、ある直線上の柱だけが藍色にぼんやりと光っているようだった。
ロッジから見て左の方へ伸びている光は、おそらく最初のドアに行き着く方角だ。
私は右を向き、光の誘う方向へと歩き出した。
ポケットの中で、大小どちらかの水晶を触っていれば柱も共鳴するらしい。
私はたまにあえて水晶から手を離して光を消したり、小さい方の水晶を握って光を点けたりしながら歩いた。
水晶の柱にも触れてみたが、これは触っても共鳴しないらしかった。
やがて水晶の柱の光の先に、何か小さな建物のようなものが見えてきた。
それは湖を遥か深くまで貫通して、闇の中に突き刺さっているようにも見えた。
エレベーターだった。
下矢印が刻印されたボタンと扉があり、透明な水晶の足元へと続いている。
私はボタンを押して中に入ると、エレベーターはよく知っている速度で下に向かって動き出した。
何かあったらすぐに帰ろうと思っていた私はとうとうここまで来てしまったのだった。
この先にいったい何があるのか……私は胸の内で少しずつ心が動き始めているのを感じていた。
* * *
5分くらい降っていたと思う。
ようやく止まったエレベーターが開くと、そこにあるのは灰色の街だった。
立ち並ぶビルはどれも見上げるほど高く、それらは碁盤の目のように整然と並んでいる。
私はエレベーターから降りて周囲を見渡した。
当然人らしき影は存在しないが、向こうから何かこちらに向かってくる物体がある。
それは80cmくらいの灰色でできた矢印だった。
ローポリの世界で生み出されたようにカクカクとしていて、進行方向を指しながら直進している。
磁力なのか超能力なのか、それは浮かびながら移動していて足らしきものは見当たらない。
私は目を丸くしてそれをしばらく見ていたが、ふと見渡すと同じような図形がいくつもあることに気づいた。
車道を行く者は律儀に車のような形になって直進していたが、窓は不透明で中は確認できない。
私はいよいよ引き返そうと思ってエレベーターに向き直った。
「お客さんかい?」
声をかけられて、思わず口から声が漏れかけた。気づくと先ほどの矢印が足元にいた。
「あ、あの……?」と私が戸惑っていると、矢印はすぐ近くの交差点の対角にあるビルをそれで指した。
「迷ったらあのビルの1階に行くといいよ」
どこから声が出ているのか実に不思議だったが、私はとりあえずお礼を言ってそちらの方を向いた。
確かに、指された方角にはほど近いところに一際巨大なビルが建っていた。
車道を渡りたくても信号が無いので、私は再三左右を確認して6車線分ある広い交差点を走り切った。
そうして対角にあったビルに着くと、入り口の自動ドアが私を誘うように開いた。
ビルの中は広く、数十の図形がうごめいていた。
おそらく歩いているつもりの図形は常に進行方向に向かった矢印の形をしていて、
その周囲に小さなブースを作って石のようなものを並べている四角い図形が矢印たちを取り囲んでいた。
これは、もしかしてフリーマーケットのつもりなんだろうか……?
「やあ、人間さん」
近くで出店していたらしい四角に話しかけられた。彼(?)は、主に楕円形の石を並べていた。
「はひ……」
私は無意識に間抜けな声で返事をしていた。
「君が、このリフィルの新しい持ち主か?」
私は静かに頷いた。
気がつくと、私の周囲を矢印が取り囲んでいた。怖い。四角は続けて言う。
「そうか、そうか。新しい主人さんに直接来てもらえるのは光栄だ。ついでに、何か買っていく?」
「え、この石を、ですか……?」
どう見てもただの石だが、もしかしたらこれも触ったら光りだしたりするのだろうか。
「もしくは、何かを売ってくれると嬉しいんだが」
私は顎を指して次の対応に困っていたが、このポケットの中の水晶はどちらかは手放しても支障ないことに気づいた。
そして、大きな方の水晶を取り出して机の上に置いた。おお〜っ、と周囲から歓声が聞こえた。
「これは……すごい。ぜひ売ってほしいな」
四角は星形に変形し、プルプルと震えていた。
「光る石がそんなに珍しいの?」
ロッジの引き出しに山ほど入っているのに。
「光るかどうかはさして重要じゃないよ。この形だ。複雑だけれど頑張れば再現できそうな絶妙な形が素晴らしい」
そう言うと、星形は瞬時に変形してその水晶によく似た形になった。周囲からまたおお〜っ、と声が上がった。
「我々はこうして体を変形させて意思表示をする。たとえば歩くときは進行方向を指すのがマナーだったりする。
対話をするときは言葉に込められた意味よりもお互いの姿形を見て感情を読み解くんだ。
我々はそれをボディーランゲージと呼んでいる」
「へぇ〜」
私は聞き流しながら水晶を改めて手に取った。水晶はもう触っても光らなかった。
「その石は適度な複雑性があるが頑張れば再現できそうで、変形の練習になる。
変形には鍛錬が必要なんだが、こうしたサンプルが目の前にあることが大事なんだよ」
「そうなの。私は譲ってもいいけど、その代わり次の場所に行く方法を教えてくれますか?」
「ああ、もちろん。じゃあ、これはもらうよ」
そう言うと、水晶は私の手を勝手に離れて四角だった図形の懐に入っていった。
「これだけの物をもらってエレベーターの場所を教えるだけでは等価じゃないから、主人さんにはこれをあげるよ」
水晶の代わりに、私の手元に向かってふよふよと空中移動してきたものがあった。
「ヘッドホンと、これは……?」
「音楽プレイヤーと言うらしい。前の主人さんにもらったんだが、我々はもう散々聴いたからね」
「前の主人さんってどんな人でした?」
「君みたいな年頃の女の子だったよ。あの人がこの世界を作ったって聞いてる」
「やっぱり……」
「あの人にリフィルをもらったんだろう?」
「うん。この世界なら安全だからって……」
「まぁ、あの人は無数の世界を管理しているらしいからな。君が新たな主人としてここをメンテしてくれると嬉しいよ」
「どうしたらいいの?」
「こういう水晶があれば持ってくてくれると嬉しい。我々は上の階層には行けないんだ」
四角だった図形がそういうと、周囲からぜひ私にも! 水晶欲しい! と声が上がった。
「あはは……」私は周囲を見渡すと、30近い図形に取り囲まれていた。「じゃあ、私そろそろ行くね」
「さらに下に行くなら、このビルを出て右手にずっと歩くとエレベーターがあるよ」
「うん、ありがとう」
図形たちはさっと離れ、出入り口までの道が開いた。
私はヘッドホンと音楽プレイヤーをバッグに入れると背負い直し、そのビルを後にした。
振り返ると楕円形をしたいくつかの図形がぴょんぴょん飛び跳ねていた。私は思わずそれに手を振った。
* * *
そのエレベーターはビルから避けられたかのようにポツンと立っていた。
私がそのボタンを押すとボタンは光ったが、すぐにはドアは開かなかった。
空を見渡すと、遥か上空にさきほどのロッジが浮かんで影を作っているのがなんとか見えた。
ロッジは水面に揺れるようにゆらゆらと揺れていた。
ドアが開き、私はその中に入った。
エレベーターはまた降り始め、徐々に周囲が暗くなったかと思うと天井にある灯りがついて私を照らした。
5分くらい経って、ようやくドアが開いた。
洞窟のようだった。ちょうど地下道くらいの広さと高さがある。等間隔に松明が置かれていて、洞窟の中は意外と明るい。
ふと、何か足元を移動しているのを視界が捉えた。
真っ黒のリスのような動物がちょこんと座ってこちらを見ている。
リスは、白く光るドングリを大切そうに両手で持っていた。
私と目が合うとリスはドングリを頬張り、洞窟の向こうへと走り出した。
私はエレベーターの位置を見失わないように背後を気にしながらそれを追いかけてみることにした。
リスは少し走るとドングリを頬袋から出してこちらを確認し、そしてまた走り出す。
曲がり角に差し掛かると、リスはその向こうへと消えていった。
広い部屋に出た。松明が照らしているのはせいぜい地面から数メートルまでで、どれだけの高さがあるかわからない。
「だれ?」
「ひっ……!」
突然声をかけられて、さすがの私も声が漏れ出た。
ふと声がした方を見ると、5歳くらいの小さな女の子が大きなランタンを持って立っていた。
ランタンによって作られた女の子の影は、不自然にゆらゆらとゆらめいていた。
かと思うとその一端が千切れ、影はみるみると膨らんでなんらかの四肢動物になった。
一見したところキツネのように見えたが、もしかしたらタヌキかもしれない。
そんな曖昧な動物が、よく見ると女の子の周りを取り囲むように何匹もうごめいていた。
女の子は動物に囲まれながら、近づいてきた。
そして私のことをすみずみまで観察しているらしかった。
クラシカルな雰囲気のワンピースにジャケットを着込んでいて、洞窟に住んでいるとは思えない清潔感がある。
しばらく沈黙の時間が流れ、私はその空気に耐えられなくなって口を開いた。
「あ、あのっ! 私、このリフィルの新しい持ち主?なの。よろしくね」
「ふーん…」
女の子は私から視線を逸らし、足元にいる猫らしき動物を丁寧に撫でた。私は訊いた。
「ここには人間は住めないって聞いていたけど……」
「そうね。でもわたしは特別なのよ。ここは……みんなと遊べるからお気に入りの場所なの。でも定住するつもりはないわ」
そう言うと、女の子は5歳とは思えない風格でゆっくりとこちらに向き直った。
「よかったらこの世界はそのままにしてくれるとありがたいわ。新しい世界の持ち主さん?」
「う、うん……わかった……」
私がそう言うと、女の子はにこっと笑った。かわいい。
「私、簡単にリフィルをもらっちゃったけど、私で良かったのかな……?」
「それはきっと、あの子に何か考えがあるのよ」
「やっぱり、あのお姉さんを知っているんだ」
女の子は指先で何か合図したかと思うと、私のすぐそばに椅子が出現した。女の子はそれに座るように促した。
私がそれに座ると、女の子の足元からもうひとつ椅子が生えてきて、女の子はそれに足をぶら下げながら座った。
「わたしは100年くらいここにいたんだけど、あの子に現代のことをたくさん学んだの。
おかげでこの世界にいても退屈していないわ」
「100年……」
私はおもむろに背負っていたリュックを前に抱え、その中からヘッドホンと音楽プレイヤーを取り出した。
「これ、あげる」
女の子は怪訝そうな顔をして受け取った。
「なあに? これ」
私は音楽プレイヤーのスイッチを入れてヘッドホンから音楽が鳴っているのを片耳で確認してから、
女の子の前に立ってそれを装着させた。
見た目5歳の女の子に大型のドライバーを備えたオーバーイヤーヘッドホンはあまりにもアンバランスだったが、
音楽プレイヤーからは異国の田舎を感じさせるようなビートレスな電子音楽が鳴っているはずだった。
女の子はしばらく目を閉じてそれを味わった。
「素敵ね。音楽と言うんでしょう?」
ヘッドホンを外して首にかけると、女の子は満足気に手を合わせた。
「うん。これがあれば、少しは長い時間の退屈しのぎになるでしょ? 電池が切れたら、また代わりを持ってくるから」
「ありがとう。新しい主人さん」
それから私たちはしばらく他愛もない話をしていた。
「そろそろね」
そう言って女の子がおもむろに視線を外すと、その目線の先にドアが生えてきた。
「あのドアをくぐったらあなたの世界に帰れるわ」
「一緒においでよ。何か食べよ?」
女の子は首を振った。
「わたしはそっちには行けないの。ドアを潜ったら、たぶん、消滅してしまうんじゃないかしら」
「そっか……」
「わたしは大丈夫。あなたは……あなたの世界を楽しんで」
「うん」
私はリュックを背負い直し、ドアの前に立った。
「じゃあ、また来るね」
女の子はひらひらと手を振っていた。影でできた不思議な生き物たちが、女の子を囲みながら一斉に私を見守っていた。
* * *
そこは私の家の玄関だった。
私は靴を脱いでよろよろと自分の部屋に向かった。
机の上には開きっぱなしの手帳が置かれ、窓からは昼下がりの日差しが差し込んでいた。
私はふと思い出して、ポケットから小さな水晶を取り出して手帳のそばに置いた。
それはよく見ると、1面にだけ模様が描かれた20面のサイコロだった。
私はなにげなくそれを振り、そして模様の描かれた面は出なかった。