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意欲の問題

#7413

やる気が出ない原因を探る

今日の出来事意欲の問題

とにかく押しても引いてもモチベが出てこない問題。
精神的に負荷を感じるようなことも特に無く、身体的に何か問題が生じているわけでもない。
……まあ少し前までやや疲労感があるような感じは否めませんでしたが、
ビタミン剤の服用を開始してからは日中に気怠い感じで寝たくなるようなことも無くなりました。
ネガティブな要素が何も無いのにやるべきことが着手できないというわけでもない……。
こんな体験はなかなか無いので戸惑っています。
というわけで今日は、いったん落ち着いてなぜ作業ができないのかを考察してみることにします。


まず、いまやるべきことは何か。
これは『ピクミン2』20周年に向けたピクチャレ大会というサイト内のイベント準備です。
具体的には期間限定ランキングの開催を目論んでいるのですが、これが一向に進まない。
作業の見通しは立っています。2021年から考え続けてきたルールも確定していて、
それを実現するのに必要な仕組みなどもどう作ればいいのかというイメージは概ねできている。
にもかかわらず、フロントエンドのモックからして全然進んでいない。


これ以外の作業に関しても集中力が続かないのかというと、おそらくそうではありません。
閑散期が終わっていまは上司から直々にお願いされている仕事をコツコツと進めているのですが、
それ自体は昨日かなり集中できて、没頭していたと言ってもいいくらい進みました。
年度末までは仕事が相当足を引っ張っていたのが、いまや逆のような状況になっているわけです。
少し前までゲームも全然集中できなくて30分も持ちませんでしたが、
ビタミン剤の服用を始めてからはまあまあ継続してプレイできるようになっています。
とにかく期間限定ランキングの制作のようなクリエイティブ系の作業が進まない。
他の趣味系作業は概ね問題ない認識です。


では、期間限定ランキングの制作が捗らない理由があるとしたら何か。これは主に2つ思い当たることがあります。
ひとつは、去年末にもやろうとして無理やり手を動かした結果、
想定していなかったバグによって直前で中止するという醜態を晒してしまったこと。
これにより次回は絶対失敗できなくなり、そのプレッシャーが重くのしかかっている感は否めません。
気力その他が正常化してきているとはいえ、
このプレッシャーを乗り越えられるほどのモチベはなかなか出てこないのではないかと。
要は、ハードルの高さを前に「醜態を晒す前に諦めたい」という気持ちを否定できないわけです。


もうひとつは、参加者が来ないかもしれない、開催を望まれていないかもしれないという不安感です。
期間限定ランキングはいわばピクミン界隈の同窓会のような立ち位置で開催されていて、
その性質上、参加する人とは事前にコンタクトを取ることがほとんどありません。
大会自体は第16回をピークに右肩下がりで参加者数が減っていて、
10人を切るようでは開催する意味は無いと思っています。
少なくとも、こんなに苦しんで開発を進める理由は無い。しかしそうならない保証も無い。
この辺の見通しの悪さは期間限定ランキングの開発を毎回滞らせている原因になっています。
だったらアンケート等で事前に調査すればいいんじゃないかと思うわけですが、
それをすると後に退けなくなるところがあり、1つ目の理由であるところのハードルがさらに上がってしまう。


まあ、心理学的にはインセンティブの不足によってやる気が出ないということなのでしょう。
この場合、それは他者承認とどうしても切り離せない問題でもあるため、
いずれにしろアンケート以外のなんらかの方法で過去大会参加者の何人かとコンタクトを取ってみて、
今度の20周年で開催して欲しいかどうかの意向くらいは聞くべきなのかもしれません。
万が一開催しなくても怒らないような相手を見極める必要がありますが。
この辺は界隈のコミュニティに参加してもう10年以上経つのに探り探りなのが情けないところです。
とにかくいまの立ち位置を毀損したくない、という保守的な思いが強すぎるのかも。


このことから分かるのは、自分はやはり他者承認が無いと開発をやろうとは思えない人間だということです。
自発的に手を動かせるほどweb開発が好きというわけではないのかも。
いや、去年夏くらいまではそうだったはずなんですけどね……。
そうでなかったらゼロベースからのフルリプレイスなんてできるはずないわけで。
あのプロジェクトよりもはるかに小さいはずの目下のタスクに何も着手できないというのはつくづく不思議。


まあ、改めて自分は他者の承認ありきで動く人間なのだということですね。
そのことをゆめゆめ忘れずに他者と関わっていきたいと思います。


#7388

やる気皆無時の気分転換手段

今日の出来事意欲の問題

どうやら寝逃げでリセットリミックス(#07357 / 2024年02月07日)の辺りから復調していたやる気が
低調方向にトレンド転換したようで、一切合切のやる気がなくなってしまいました。
なんなんですかねこれ。4〜5週間周期でやる気が消えたり復活したりする現象。
女子で言う生理みたいなものが自分にもあるように思えてならない。
今回は特に抵抗せず、やる気が無いなら何もやらないという作戦で過ごすことにしています。


これは近年最大の悩みでもありますね。仕事・趣味どちらもとにかくパフォーマンスが低い。
やる気のトレンドが復調しているときですら、20代の自分には遠く及ばないと思っています。
「熱中している」と言えるような体験から遠ざかって久しい。
既存の活動も時間を置けば熱中できるのが当たり前だったのに、
いつの間にかそれも当たり前でなくなってしまいました。
いまとなってはその現実を受け入れてなお意欲を絞り出すことに慣れてしまったので、
最低限やるべきことはやっているしブログも凍結状態というわけではありません。
下手にからぶっていた昔よりも実績は積んでいると思います。
ただ、本心からこれをやりたいと思ってやっている活動というのは本当に皆無になってしまった。
仕事はもちろん、趣味も義務感の方が強い。これは由々しき問題です。このままではいつか破綻する。
いや、むしろこのままズルズルと破綻しなかった場合の方が問題です。
自分はこのままロボットのように義務をこなすだけの日々を過ごすのではないだろうか……と。


自分はこれは日常に対するつまらなさを憂いているものだと理解しています。
ただ、それを打開するのは容易ではないし、そもそもやる気皆無の現状では思いついても着手できない。
やる気皆無できるものはたいてい自尊心、倫理などといったものを捨てた先にあります。
すぐ思いつくものだとパチスロデビューしてみようかなとか。
それはそれで手っ取り早く新しい刺激をもたらすので、このマンネリを打破する可能性は秘めています。
もちろん、それによって金銭を失うかもしれないというリスクや、
いままで頑なに守ってきた公営ギャンブルはしないという自尊心が崩れることになりますが
(仮想通貨FXというパチスロよりもヤバいものにすでに着手しているという話はさておき……)。


2021年から習慣化しているスーパー銭湯はこれに対するひとつの答えです。
これはいまでも行きたくなったら行くし、やる気皆無でもできる気分転換の手段として機能している。
できれば、これに次ぐ二の矢が欲しいとは思っています。
以前キャンペーンをやっているのを見て一時検討したスポーツジムなんかも候補になり得ますが……。
これはどうしても長続きするビジョンが浮かばない。
飲酒はオーソドックスな回答だと思うのですが、
睡眠リズムが壊れる可能性を考えると自分は身体的な都合上その選択肢はなかなか取りづらい。


こういうものはリターンが大きい活動ほど最初のハードルがどうしても高く、
ハードルが高いと結局やる気減衰期には手が出ないというジレンマがあるんですよね。
スーパー銭湯くらい安価かつ脳死で楽しめるものって他に何があるんだろうか……?
今回に限らずやる気減衰期は必ず訪れるものと思っているので対策を考えたいところです。


#7365

浪費とメンタルの関係性

今日の出来事意欲の問題

01月は完全に気持ちが沈んでいたのに対して、
その下旬で底を打ち02月に入ってApple Musicで運命の楽曲に出会った辺りから
明らかに気分も上向いています。毎日それなりにやることがあり、明日を楽しみにできるという実感。
まあこれが充実しているということなのでしょう。
できるかぎりこれを維持したいところですが、それが難しいことは分かっています。
であれば気分が陽線を引いているうちにできることはやっておきたい。
逆に気分が下回ったときはそれはそれでできることがあるので、
そのときにやるようなことはいまはさほど注力しなくてもいいのかもしれません。
ブログの過去記事処理や各種整理といった作業ですね。


このえも言われぬ充実感の根源は何なのかと考えたとき、
それは「1日の隙間を埋め合わせるだけの金銭的余裕があること」なのではないかと思いました。
特に自分の場合、これがあることで都心に行くという選択肢が生まれ、
都心に行くことで言うなれば冒険感を実感することができるため、
それができる・できないの差は大きいです。これは特にここ2週間で実感しています。
もちろん行き過ぎた浪費はデメリットが大きく戒められるべきではありますが、
休日のお出かけに際して特に理由が無くとも使える数千円〜1万円程度のお小遣いは
むしろ無いとQOLが極端に落ちるような気がします。
実際そんなことは無いと思いますが、
こう考えてしまうのは商業規模が大きい東京に住んでいるからこそなのかもしれません。


いずれにしろ、お金とメンタルは想像以上に密接な関係にあるということは否定できません。
ただ、繰り返しますがこれは浪費を肯定しているわけではなく、ここが難しいところ。
ここまでは使って良い、ここからはダメという妥当な線引きができないといけない。
ちゃんとした人生設計ができていないと納得の行く設定は難しいのではないかと思います。
かといって設定しなかったらメンタルの求めるがままにお金を消費していってしまう。
物欲もおそらく承認欲求と同じで依存性があると思われ、
最初は数千円で満足できてもずっと繰り返していればそれでは満足できなくなるのではないでしょうか。
となると、無限にお金が足りないという負のスパイラルに突入してしまう……。
それを防ぐ意味でも、お金を使うことは大事だけどセーブすることも大事というのは説得力があります。


自分は2021年までかなり強い浪費癖があったと思います。
2万円のフィギュアを買いながら飾らなかったり4万円のガラスケージを買って失敗したのは良い例です。
仮想通貨取引の初期に浪費癖はピークを迎え、
取引の失敗で深傷を負ったことでようやくその愚かさに気づき、
2023年は年間を通して逆にかなりの節約志向が身につきました。
ただそれにより2023年は2021年と比較してメンタルが終始低調だったのも事実です。
お金を使わないことを徹底すると同じような毎日になりがちだからでしょうか。
2024年は、その両方の教訓を汲み取ってバランスの良いお金の使い方を心掛けたいところです。


#7349

大食いによるメンタル改善

今日の出来事意欲の問題

このところずっとメンタル不調だということを書いていましたが、
一昨日底を打った感覚を覚え、そこから昨夜〜今日にかけてさらに改善している実感があります。
その際、とあることを意図的にやってみたのですがこれの効果が出ているように思います。
それは、「ドカ食い」です。


昨夜時点ではまだメンタルは水面下にあり何もやる気が出なかったのですが、
ふと何かを食べたいという欲求に気付き、思い切ってコンビニドカ食いを決行しました。
夕食を済ませてからわずか4時間後の話です。
さらに明けて今日、昼食は丸亀製麺で特盛うどんを頼みました。
それからというもの、明らかにメンタルが改善しているような気がします。
ということは、メンタル不調は最近の食が細かったせいなのか……?
あるいは、単にドカ食いによって一時的にメンタルが改善しているだけなのか。
いずれにしろ食事がなかなか効果的な施策になりうるという気付きは収穫です。


まあ考えてみれば食欲を満たさずにメンタルが良くなるはずがないのですが、
食事というのはあまりにも満たされて当たり前だったのでその視点が完全に抜けていました。
あと、食事で解決するとはいえドカ食いすれば良いという話でもないので、
あくまでこれはメンタルが不安定な場合の一時的な施策として有効ということですね。
また内科で精密検査を受けに行くのはごめんです。


ともあれ、改めて心の安定には食事・運動・睡眠の3本柱が大前提になっているんだとつくづく。
目下に深刻な悩みごとが無いなど、
心が平常なのにメンタルがグラついていると感じたらこれら前提を疑った方がいいのかもしれない。
このうち運動と睡眠はタダでできますが、食事だけは必ずコストがかかるのが特殊と言えます。
特に自分のような外食オンリーの場合、マンネリを避けるなら幅広い価格帯の店に行く必要があり、
それはそれで金銭的な負荷がかかってきます。
いまのところ4年間は1食1,000円前後で電車に乗らずに済ませるスタイルで定着していますが、
そろそろ隣町にも行ってみるくらいの開拓精神は持ってみてもいいのかもしれない。
価格帯を上げるのもアリですが、状況的にはそれはまだ時期尚早かなーと。


#7347

底を打つという感覚

今日の出来事意欲の問題

近年の自分は、いわゆるやる気の低下現象がしばらく続いていると、
あるとき「底を打った」という実感が湧き出てくるのを感じられるようになりました。
底を打つというのは投資用語で、
下がり続けていた値がこれ以上はもう下がらないだろうと思わせる反転を見せることを言います。
やる気が低迷したばかりの段階では、
日々の非充実さややるべきことをやっていない不甲斐なさなどでメンタルがやられます
(メンタルが下がってからやる気が下がるというわけではない、ということでもあります)。
しかしやる気を奮い起こすには一定のメンタルが必要……といまの自分は理解しているので、
両方無い現状ではどうにもならないというような状況がしばらく続きます。


しかし、その状況がしばらく続いていると、
ふと自発的に作業を再開してみようか、という気になることがあります。
実際にそれで即座に作業を再開するわけではないのですが、ともかく目の前の状況を直視できるようになり、
そこから問題解決したいと思えるようになる。ここが大底なのではないかと思っています。
もちろん大底から脱出したからといってすぐに元通りのライフサイクルに戻れるわけではありません。
特に他者承認に依存している活動の場合、大底を抜けても活動再開には心理的ハードルがあります。
他人からしてみれば活動をサボっていた人間に他ならないからです。


こういう状況が頻発していること自体、大いに問題はあるのでしょう。
以前はこれをよく諸活動の側に原因があると考えていました。
「他者が自分を認めてくれないコミュニティに居る必要性はどこにもない」的な考えです。
やはり他者承認は否定しがたいので、仕事にしろ趣味にしろ、
何かを頑張る原動力としての他人は重要な存在です。
ただ、だからと言って他人に不満が生じるたびに転職みたいなことを繰り返していたら、
人間関係の成熟は永遠に望めない。
それって結局承認欲求不満の根本にある「寂しさ」の最大要因なのではないかと。
とはいえ、メンタル不調が頻発するということは少なからず現状に不満があるということ、
現状の環境では自分の能力を期待通りに発揮できないということです。これはなんとかしたい。
ただ一方で自分は生来浮気性でたったひとつの文化にだけ触れ続けるということは基本的にできないので、
そもそも人間性の面からひとつのことをコンスタントに続けるのは無理なのかも。
じゃあ、自分に合った立ち回り方って一体なんなんだろう……?


まあいずれにしろ今年の01月はひどい1ヶ月でしたが、来月はそうでもないことを祈るばかりです。


#7343

やる気以前の何か

今日の出来事意欲の問題

昔の自分は主に期待通りの行動ができないときに、その原因を「やる気」に求めてきました。
そして近年は「そもそも期待している行動は妥当なのか?」という視点が新たに加わり、
これまでの自分が迷走していた原因は、
(承認欲求不満などによって)ステータスを盛りたいという虚勢の気持ちが先行することで
やる必要の無いこと、そもそもやりたくないことを「やるべきこと」に勘定したり、
やるべきことが何かは刻一刻と変わっていくのに最初に設定したタスクにこだわることで
実際にやるときの事情や意欲を無視してしまっているから、というような結論に至りました。


ただ、タスクの妥当性をチェックした上でこれは「やるべきこと かつ やりたいこと」で間違いないだろう、
と判断できそうなものも、実際にはなかなか着手できないことがあります。
これでも先延ばし癖は相当改善しているのですが、やはりこの辺は気分によって大きく左右されます。
これはもうコントロールできないものと観念し、
最近は気分によってできることを分類してそれぞれのフェーズで進める、
というやり方が徐々に浸透してきています。
ある作業をやる気にならないときはいったん忘れて別の作業をする、というような感じですね。
気分に対して従順になるというか。抵抗するともっとモチベが下がるので。


しかし、これは行き先を決められない自動運転の乗り物に乗るようなものです。
気分に従うということは結局短期的願望に基づいているところがあり、
部分的にめっちゃ重いタスクをどこかで乗り換えなければ達成できないような大きなプロジェクトは、
この乗り物に乗っているかぎりはどうにもなりません。これがどうにも悩ましい。


こんな悩みを長年続けていて最近ふと思ったのは、
そもそも何かを着手できないときに不足していると感じる何かは本当に「やる気」なのか?
という疑問です。
やる気というのはエンジンのようなものだと言われています。
それは着手してから徐々にかかってくるものだと。物事を完遂したいという欲求というわけですね。
着手できるかどうかというのは、厳密にはエンジンのパフォーマンスとは関係ない。
いや、まったく無いわけでもないかもしれませんが……。


ある物事に着手できるかどうかというのは、それに対する動機(きっかけ)があるかどうかだと思います。
自分のことで言えば、それは主にある物事を想起したときがきっかけになっていると思います。
そして同時にそれを「やりたいこと」に位置付ける。
このときはおそらく着手できると思うんですね。ただ、必ずしも着手できる環境とは限らない。
仕事中に想起したところで、私物のパソコンを取り出して作業を開始するわけにもいかない。
だからこの「着手できる状態」を一時保管する手段としてタスクリストがあるわけです。
しかし、タスクリストに入れた瞬間からそれに対する意欲はすごい勢いで鮮度を失っていく。
お昼に想起したものを帰宅してからやろうとしても「なんか違う」と思ってしまうことも往々にあります。


ここ最近はタスクの妥当性を疑ってきた自分ですが、
そもそもタスクはあくまで「一時保管」であり可能なかぎり早く消費すべきナマモノである、
という本質的なことを見失っていたように思います。
その意味では、1ヶ月以上放置していたタスクを今更のように消化しようとするということは、
消費期限切れの腐った食べ物を無理やり飲み込もうとしているようなものです。
そういうものを量産してしまっている時点でタスクというものの本質を見誤っていると言わざるを得ない。
近年、ものすごくやる気が低下していると感じているのはこの辺にあるんじゃないか、と。
タスクを保留し続けてしまうとどうしてもそれを「やる気が低下している」と認識しがちだし、
実際自分も長らくそう思っていました。
しかしその実、そもそも溜まっているタスクそのものから根本的な洗い直しが必要なのかも。
年齢が重なることでできることが減っているという事実を受け入れ、
自己実現のために用意するハードルもグッと下方修正する段階に来ているのではないかと感じます。
少なくとも、現状維持のまま気力でどうこうするのが良い手だとは思えない……。


#7195

自己満足のエネルギーは有限

今日の出来事意欲の問題

ブログの下書き執筆に着手した08月25日から08月28日までの4日間、
なんと4日連続で4本以上の記事を執筆しています。
これができるなら誰がどう見てもストック記事の産出は実現可能であり、
なんでブログを一時閉鎖することになってしまったのか謎です。
それに対して何か言い訳を考えるとするなら、やはり意欲には波があるということなのかなと。
そしてその意欲の波とブログの「1日1本」というシステムが噛み合っていない。
だからまあ、復帰するなら書けるときに思いっきり書いておこうという方針なわけです。
いまはそれを実践できるかどうか実験している段階とも言えるかもしれない。


この「意欲には波がある」という問題はかなり昔から趣味を脅かしてきた厄介な問題でもあります。
自己満足という動機でのみやっていることに関して、
その「自己満足」というエネルギーが切れてしまうとしばらく休止せざるを得なくなる、
というのが意欲の波の正体だといまは解釈しています。
ひとつの物事に対する興味や好奇心などはどうしても長続きしないんです。
ある趣味が休止している間は別の趣味に関するエネルギーを消費するというサイクルになるため、
短い期間で次々に手を出しがちです。2021年なんかがわりとそんな傾向にありました。
これは自己満足によって動いている状態です。


一方、自己満足以外の動機、
特に他者承認が安定して供給される趣味に関してはエネルギー切れになりにくく、
かなり長期間にわたって続けることができる傾向にあります。
これは、自分の場合はコンシューマーゲームのやり込みが多く当てはまります。
メテオスランキングサイトに入り浸っていた頃の『メテオス』チャレンジモードや、
ピクミン界隈の(個人的な)全盛期における『ピクミン3』の各種やり込みなど。
昨今では、自分一人ならとっくの昔に辞めているであろう『Apex Legends』が当てはまります。
これはある意味元同僚との交流ハブとして機能している側面があり、
そのおかげで普通なら1ヶ月持てば良い方なのに3年以上も継続しています。
そのわりにはなかなか上達しませんが……。


長年の経験から言えることとして、自己満足を動力とする活動は基本的に1つしかできません。
これを否定すべくいろいろ抵抗してみましたが、いまは両立はできないものと観念しています。
ピクチャレ大会の開発も自己満足の範疇なので、
水面下のブログ執筆を再開してからは開発作業の方は事実上ストップしてしまっています。
本当ならこの活動も他者承認を求めていいような気がするのですが、それはさておき。
「自己満足の活動はひとつまで」「増やしたいなら他者との交流に動機を求める」
というのは、多方面で成果を上げるために重要な条件であるように思います。
もちろん、多方面に顔を出せば出すほどエネルギーが増えるわけでは無いのですが。
ブログの一時閉鎖はピクチャレ大会リメイクというプロジェクトを成功させるために、
いわばやむをえない犠牲だったわけですね。
たぶん、ブログが他者承認ありきの活動に発展していたらこうはならなかったでしょう。
その場合はおそらくリメイクプロジェクト自体が初期段階で頓挫していると思います。
そう考えると、結果的には需要の大きい方を生き残らせることには成功しているとも言えます。


「自己満足しか動機が無いから続かない」というのは、
解釈次第では「自分が活動できないのは認めてくれない他者のせい」
と取ることもでき、実際に2018年以前の自分はしばしばそういう思考に行き着いていました。
だから他人をディスったり、チヤホヤされている成功者に嫉妬したりしていたわけです。
しかしいうまでもなく需要の無い活動に他者承認を求めるのは不毛であり、
それは需要の無いコンテンツしか作れない自分に原因があると言わざるを得ません。
他人は自分を認めるだけために存在するカボチャではないのですから。


ブログにしろなんにしろ、自己満足で活動することそのものは否定しがたいし、
サイクルを作って活動を断続的に続けていくことにも意味はあるのでしょう。
ただ、これからはそれに加えて「どうやったら他者に喜んでもらえるか」
という視点からクオリティアップを目指すような努力もより一層重要になってくる気がします。
若い頃はこだわりが強かったのでゴリ押しで自己満足コンテンツを完成させられていましたが、
いまとなっては自己満足ありきの周年企画みたいなものはやろうとさえ思いませんからね。
代わりに、他人に資するようなコンテンツを作れる余地があるなら積極的に探したいと思うし、
これからは自己満足の代わりにそういうものを作っていくべきなのだと改めて思います。


とりあえず、ブログは今後しばらく自己満足の活動という限定的資源の中でもがくことになりそう。


#7093

相対的な努力

趣味でも仕事でも、やはりというか評価されることの重要性を改めて噛み締めている今日この頃です。
そしてそれは、所属するコミュニティを選択する軸になるものなのかもしれないなと。


まず基本的に、人は頑張っているのに評価されないと非常に強いストレスを感じます。
そして、それが当たり前の環境では自分がやっていることに自信を失っていき、
どんどん主体的に行動することができなくなっていきます。
いまの自分が行っている現場がまさにそう。
自分は問題解決のために自分なりに手を尽くして、それでも分からないことを上司に訊くわけです。
ここまではやったのですが、それ以上は自分の手には負えないですと。
すると上司は、自分が知るはずもないようなローカルルールを持ち出してダメ出しを始めます。
自分が「ここまではやりました」というところには触れることさえありません。


もちろんこれはプロフェッショナルが求められる社会人としては失格で、
上司からしてみれば自分はただただ無能なのでしょう。
先日も書いた通り即戦力でなければお荷物なだけというのがこの業界なので、
現場と自分のスキルがマッチしなかったという、実態としてはただそれだけの話です。
別の現場に行けばこんな自分でもなろう小説の主人公になる可能性があるのがこの業界です。
なので、別にいまの現場で無能扱いされることはこの際受け入れているのですが、
単純にこういう扱いをされるとただただ頑張りたくなくなります。


もう六年前の話になりますが、新潟のブラック会社で働いていた時代、
自分の部下として3つ下の女の子が入社しました。
自分ですらほぼ最年少の職場だったので、その子はダントツで若く、いろんな社員に可愛がられた……
ということはなく、実際にはおばさん連中にいじめられていました。
自分は当時、プロジェクトリーダーとして歴代で6人くらいの直属の部下を持ちましたが、
なんだかんだでその子が一番有能だったので頼りにしていたし、
また後輩も歳の近い自分を慕ってくれていたのでそれなりに信頼関係はあったと思います。
ただ、会社の風潮的におばさん連中に逆らうことは死を意味するので、
表立って後輩の味方をすることもできませんでした。


あるとき、その子が休憩時間を潰して開催される昼の謎会議で仕事のできなさについて追及され、
「私だって、私なりに頑張っているつもりなんです!」
と珍しく大きな声で反論したことがとても心に残っています。
あの子がおばさん連中に真っ向から対抗しようとしたのはそれが唯一だったと思います。


年配者から見てその子の要領が悪いのは事実だったのかもしれません。
だから仕事ができない人という烙印を押して、あたかもいじめる名目みたいなものを手にした。
でもニュートラルな立場から見てその子は特段能率が悪かったわけではありません。
確かに歴何十年というベテランには勝てないけれど、そんなのは当たり前なわけです。


世の中は、絶対的な評価に基づいて優れていると認められる人こそを称賛します。
それはそれで正しいと思います。それが無かったら成り立たない世界は多いでしょう。
でも、実は個人の「やる気」「居心地の良さ」「向上心」といったものは、
その人の主観的な頑張りを誰かに認めてもらえるかどうかの方が大事だったりするわけで、
それは絶対的な評価を是とする価値観に埋もれてしまいがちなのではないかと思います。
その人がポテンシャルを超えて頑張っているのなら、
結果がどんなに見窄らしいものでも褒めるのが人を応援する立場として正しいのではないかと。
もしかしたら絶対的な評価に隠れて、
才気に恵まれている人は3割しか努力していないのにめちゃくちゃ褒められる一方で、
凡才で能力の低い人が死ぬ気で頑張っているのに誰にも見向きもされていない、
そんな現実も当たり前のようにあるのかもしません。


とはいえ、努力していないのに褒められるのが良いというわけでもなく。
誰かが言っていましたが、努力していないのに報酬を得続けると脳の報酬系がぶっ壊れるそうです。
やはり、対価はそれ相応であることが望ましいのでしょう。
ただコミュニティによって自分が埋もれやすかったり、
努力を気にかけてくれやすかったりする違いはあるんじゃないかなと思います。
趣味も仕事もできるだけ頑張りを期待してくれる人がいるところに所属したいし、
そうでないコミュニティにはできるだけ早く見切りをつけた方が精神衛生上良いのかなと。


そういう意味では、
背伸びしてハイレベルなコミュニティに所属することほど愚かな行為もないですね。
自分がIT企業に進出したことがそれに当てはまらないことを祈るばかりですが、
少なくとも現場によっては明らかにミスマッチなところがあるというのは事実で、
この辺は現場選びに活かしていきたい考え方だなと改めて思いました。


#7037

万年ビギナー

人生設計の根底に関わる話。
いま、自分はどちらかというと「広く浅く」いろいろなことに手を出しています。
具体的にはLLM(人工知能チャット)、Stable Diffusion、仮想通貨界隈、
web制作(仕事とプライベート両方)、ピクミン、テトリス、Apex Legends、多肉植物など。
当然、それらすべてを十分にカバーできているとは言い難く、
いずれも中途半端な段階で伸び悩んでいるということは薄々自覚しています。
しかし、どうもそれに対する改善の兆しが見えてこない。改善しようというやる気が出てこない。
このまま全部中途半端に進めようとすれば、共倒れになることが分かっているにも関わらずです。


人がある活動をしていることを自称しているとき、
それに対して本人が満足していないことを自覚しているならば、
その活動を継続する目的(辞めない目的)はどこにあるのだろう。
自分は、それはおそらく「その活動自体」ではなく、
「活動をしていることを自称することで付随する何か」にあるのではないかと思っています。
端的に言えば、それをしていることを自称することでステータスを盛ることができる。
あるいは、承認欲求を満たすことができるからこそ、
中途半端な「自称」から先に行けないのではないかと。
そこから先の活動を遂行するには、
単なるにわか興味だけでなく本当にそれを好きでないと継続することが難しいからです。


その仮説に則れば、自分みたいに「広く浅く」プロフィールを盛る人間は、
自分のステータスにある種の劣等感があることを自覚していることになります。
可愛くない女子がそれを隠すためにさまざまなコスメグッズを組み合わせて厚化粧をするように、
劣等感を隠蔽するためにあっちもこっちも中途半端覚悟で手を出して、
あたかも多方面に顔が利くような人を演じている。
しかし実際にはどれもこれも「天然でそれが好きな人」には勝てないという現実があります。
1つの分野では勝負できないからこそ多方面に手を出すわけです。


別にそれが悪いと言いたいわけではありませんが、
これはある意味活動の行き詰まりを意味しており、長期的にはあまり良くないのは確かです。
なぜなら、自分はこの多方面に手を出している現状に心から満足しているとは言い難いから。
ここが趣味を遂行するにあたって非常に重要な要素になってくるのではないかと思います。
その界隈に居ることを自称するだけでは「満足」することは永遠にありません。
満足したいならどこかで本気を出してその界隈に向き合っていかなければならない。
そうして初めて上っ面だけでなく深いレベルでその界隈を理解することができるのだと思います。


自分は個人ブログ全盛期には比較的運に恵まれて満足した活動をすることができていました。
具体的には各種同盟サイトや黎明期のこのブログ、
ピクミン2やメテオス、どうぶつの森のような当時のゲームのやり込みなど。
しかしTwitter登場後は完全に後塵を拝する形になってしまっており、
YouTube登録者数やTwitterのフォロワー数という指標で見れば悲惨な結果になっています。
(どちらも全盛期の末期に盛った分があるので数値上はそれなりの数ですが……)


でも考えてみれば、芽が出なくなった以降の自分を鑑みると、
『メテオス』をやり込んでいたときのように本気で取り組んでいたとはとても言い難い。
まあせいぜい2015年の『ピクミン3』で世界記録を獲ったのが最後でしょう。
それ以降は仕事やら加齢やらを言い訳にして、本気で取り組むステージから退いてしまった。
それが結果的に、いまの自分を不満足たらしめているのではないかと改めて思うわけです。


本気で活動することは辞めたのに、
ステータスは盛りたいので「自称」することは辞めない。
そうすると過去の栄光に縋ることになるわけですが、
こんなのはもう老害化の一歩手前と言わざるを得ません。界隈に迷惑をかける可能性すらある。
いずれも冒頭に挙げた分野には自分なりに定めた「ゴール」があり、
それを達成するためにはどこかで本気で立ち向かわなくてはなりません。
ただ、そのためには一時的にでも他の分野を忘れる必要がある。
ステータスを下げる必要があるということです。


一極集中で取り組む覚悟が芽生えれば、
もしかすると昔の自分みたいにがむしゃらに頑張れる可能性もまだあるのかもしれません。