Chrononglyph

承認欲求の問題

#7778

ネット活動の意義を探る

4年前当時、ネットコミュニティにおける「疎外感」をどう凌ぐかについて考察しました(#06284 / 2021年03月02日)。
これは、4年前時点のさらに4年前に考えていた「孤独感」に関する考察の続きであり(#04900 / 2017年06月04日)、
一連の言説はなにげにここ9年くらいの自分の考え方を端的にまとめ上げたものになっています。


2017年当時の記事は大きく分けて2つの主張があり、
まず「9連休という大きな時間的自由が与えられていながら『新しい挑戦』を何一つ着手できなかった不甲斐ない自分」
に対する反省というのが念頭にあります。
当時はいまよりもよっぽど社畜でしたが、珍しくGWは9日も休めることになったのでいろいろなことを計画しました。
既存の活動に行き詰まりを感じていたので、新しいことに挑戦したいという機運が強くあったんですね。
しかし、結局なんだかんだでどれもこれも着手することができなかったと。
この「なんだかんだ」の部分についてはいまだに克服できたという実感があるわけではありません。
ちょうど2025年正月休みに溜まっていたやりたいことに片っ端から着手できた経験がありますが、
ここ9年で明確に殻を破れた経験はそれくらいで、そういう意味ではタイムリーな課題です。
ただ、これは今回の主題からやや逸れるのでこれくらいにしておきましょう。


2017年の言説の後半では、当時の迷走の根源は「孤独感」ではないかと予想し、その正体を暴こうとしました。
つまり、自分が新しいスキルを身につけようとする目的は結局新たに他人を魅了する何かを作ることであり、
要するに承認欲求を満たすことにある。
なぜ既存のものを捨てて新しい何かでそれを満たそうとするのかといえば、
既存のコミュニティは自分を認めてくれない、あるいは成果に対して十分な承認を与えてくれないからだ。
一方でそこでは精力的に活動している他人同士では十分に認め合っているように感じられ、疎外感を感じる。
このギャップこそが孤独感(えも言えぬ寂しさ)の正体であり、
孤独感を払拭したいならコミュニティから距離を取るのが差し当たり実践できる最善策なのではないか、と考えました。
実際に2017年以降は主にTwitterからは不定期で距離を取る期間を設けるようになり、いまもまさに距離を取っています。
ただし、それ自体は対処療法的な行動に過ぎず他者承認不満という根本的問題は解決しませんでした。


2021年の自分は、そもそもそれは「自分から他人の作った輪に入っていけない」せいであり、
言い換えれば自分は「自分の作った輪に他人の方から入ってきてほしい」という信念があるのでは、と考えました。
だから他人が輪を作ると嫉妬する。自分の輪に入ってきてくれないと疎外感を感じる。
ネットコミュニティとうまくやっていけないのはこうした(非合理な)信念があるからなのではなかろうかと。
webサイトという「島」を作ってそこからコミュニティを広げようとする基本的な立ち回りや、
いつぞやの黒歴史であるオフ会論争などもこの信念が大きく関わっていると思っています。
これはブログでたまに「独占欲」と表現している、幼少期の家庭環境から強く影響を受けているかなり深い信念であり、
それを明瞭に言語化している2021年の記事は実は自分にとって値千金の情報だったりします
(これこそがブログを続けるメリットなのかもしれない……)。


2017年と2021年の各記事は昔の自分といまの自分を繋ぐ結節点のようなものとして大いに存在意義があります。
これらを読むと、昔の自分の苦しみが昨日のことのように思い出せる。
一方、それらは完全に解決したわけではなくまだまだ付き合わなくてはならない課題でもあります。
つまり2025年現在もまだ「途中」であり、未来の自分にバトンを回す義務があると言えるでしょう。


自分のネット活動の基本形としては、
①何かに挑戦し、②他人を迎え入れる輪を作り、③他者承認を満たすというのが一連の流れになります。
このうち①はこれまで暗黙的に既存の何かや他人がすでにやっていることは全否定していました。
それは、それらに向き合っても③は満たせなかったという経験則に依るものです。
しかし、完全にゼロからやって他人にチヤホヤされるレベルまで熟達する見通しがそう簡単に立つはずがありません。
2017年GWに「なんだかんだで」新しいことに着手できなかったのもその辺が主因なのではないかと思います。
これはもっと大胆にプライドを捨ててハードルも下げる必要があるでしょう。
②は推し活によって部分的に否定しつつありますが、完全否定する必要も無いのではないかと思っているところ。
ただ、一般的には輪を作るよりも誰かが作った輪に入っていくのが圧倒的に簡単なはずであり、
積極的に後者を選ぼうとしている自分が茨の道を選んでしまったのは確かです。
その結果報われないことも多々あるだろうし、
少なくともweb制作だけを起点にするのはもう無理なのでそうではない何かを探すことになりそうではある。


しかも、そこまでやって得られるのが他者承認というのがなんとも割に合わないんですよね。
だからこそ、ここ9年も結局は既存のコミュニティで満足する(せざるを得ない)という結論に至っているのでしょう。
既存のコミュニティもそれはそれで大事なんですが、
定期的に距離を取らざるを得ないくらい「割に合わない」活動であるということは否定しがたい事実です。
活動を割に合わないと感じているのはいわばLose-Loseの関係であり、望ましいとは言えません。
こう感じれば感じるほど活動自体も萎縮する一方なのでさっさとどうにかしないといけない。
せめてサブ活動的な新しいコミュニティを作るか入るかはしたいところではある。
2020〜2024年はゲーム会がそれに相当していたわけですが、
それも途切れてしまった2025年はある意味岐路に立たされています。


これがたとえばリアルの人間関係でも充足できるのか、推し活で代替できるのかはなんとも言えません。
既存コミュニティでは他者承認を得るための「コスパ」が悪いと思っていますが、
ここだけが特別にそうなのではなく、どこもそうなのかもしれないという予感もしています。
少なくとも言えるのは、webサイトを作ってそこを拠点にするというのが基本方針だった自分のネット活動は
22年目にして大きな転換点を迎えつつあるということです。
それくらい、昔ながらのやり方に限界を感じつつある。
本心を取り戻すというのがやはり鍵になってきそうだと思っていますが、果たして……。


#7734

承認欲求のエサ

以前、内発的動機づけと外発的動機づけの話を書いたときに、
自分の趣味はもともとは内発的動機づけ(好奇心、有能感、自律性)によって触れるようになった文化が、
いつの間にか外発的動機づけ(報酬)ありきに変貌したものが多い、という話に触れました(#07631 / 2024年11月07日)。
今日はそれについてもう少し掘り下げてみたいと思います。


ここで外発的動機づけが期待する「報酬」とは、ほぼほぼ承認欲求が満たされることです。
これまでの趣味、とりわけネット以後においては、
当初は自己満足でそれ自体を楽しむためにやっていたような活動なのに、
いつの間にか承認欲求を得るためにやっている活動にすり替わってしまった例は枚挙にいとまがありません。
そしてそれは、基本的にはインターネットという媒体の「手軽さ」があってこそなのだろうなと。
あらゆる活動はSNSや動画サイト、あるいはwebサイトという形で承認欲求を満たせる可能性があります。
ただしそれは、同時に熾烈かつ残酷なまでの競争社会でもあります。


これまでの経験則から言って、自分の興味関心をなんらかのコンテンツに換えたとしても、
それによって十分に承認欲求を満たせる可能性はきわめて低いと言わざるを得ません。
そしてこれの厄介なところは、承認欲求を満たすことに失敗すると、
元々それとは関係ない文脈で芽生えたはずの内発的動機づけも萎えてしまうということです。
「他人に認めてもらえないことに夢中になっても仕方がない」ということですね。
これは言うなれば内発的動機づけを片っ端から承認欲求ガチャの課金石に変換しているようなもので、
その当たり確率の低さから明らかに不毛だと言わざるを得ません。


にも関わらず、いまだになんらかの興味関心が芽生えればそれを承認欲求のエサにしようとする自分がいます。
なぜ、あまりにも割に合わないと知りながらもそういう思考プロセスを否定できないのか。
それは、自分にとって外発的動機づけが内発的動機づけと比べてあまりにも強力だからなのだと考えています。
自分はおそらく自己愛的な歪みによって人一倍承認欲求が強く、もはやそれに抗うことは難しいのではないかと。
しかしこれまでの人生経験から、明らかにそうでない人も見てきました。
内発的動機づけが明らかに強く、むしろ承認欲求などの賞罰など興味すら示さないような人も知っています。
なのでこの辺はかなり個人差があり、この問題は自分のような人間に特有の問題なのでしょう。


この点、ネット以前(2003年春以前)はどうだったのかというと、
この当時は家族という承認欲求の解消先がいました。
自分の「成果物」がどんなに稚拙でも否定しない弟や親という存在がいたわけです。
それをもって100%承認欲求が満たされていたと断言はできませんが、ネット以後よりは幸せだったような気がします。
この頃は本当に遠慮容赦なく自分の本能に従って表現活動をしていました。


ネット以後についても、2003〜2009年くらいまではネット文化自体のレベルが低かったこともあり、
まだ個人サイトや動画コンテンツを作って多少なり承認欲求を満たすことはできていたと感じます。
自尊心の肥大化とネット文化のレベル向上でそれもできなくなり、迷走が始まったのはやはりTwitter以後ですね。
とりわけ、キュレーションが発達してレベルの高い成果物を大量に目にするようになった近年が一番ひどいかもしれない。
2018〜2022年のメンヘラ期には、
「自分を認めてくれる人のためにこそ頑張ろう」という精神が芽生えたこともありました。
この考え方には、ネットユーザーの大多数は自分が何をやっても認めてくれないので
ネット活動は不毛だという他者不信的な考えが見え隠れしています。
ただ漠然と努力し成果物を発表したところで結局誰も認めてくれないだろうと。
もちろんこれはネット社会が悪いと言いたいのではなく、
自分の自尊心の大きさとスキルの低さのギャップに原因があるのでしょう。


そういうわけで、内発的動機づけによって取り組んでいる活動は
安易にネット活動とは結びつけない方がいいだろうという教訓があります。
自分の場合、これはゲームに関する活動が当てはまります。
ゲームに関する活動はそれこそネット以前から、ゲームの世界を超えた実績を求めて活動していました。
ゲームのデータベースをノートにまとめるみたいなことを幼少期からやっていました。
20年以上ブログを書いているのも、元を辿ればその伝統に行き着きます。
ゲームで頑張った結果を広く認めてほしいという欲求があるということですね。


ただここで気をつけなければならないのは、
そもそもはゲーム内で過剰なまでに頑張った結果があるからこそ それを他人に知って欲しいという欲求があり、
その欲求を発散することを目的としてやり込みの結果を成果物にするという活動をしていたはずです。
しかし近年、特に動画全盛期は承認欲求を発散するため(ネット活動で自分のネームバリューを高めるため)
にゲームをやり込むというような図式になっていた節がある。
これではゲームそのものを楽しめなくなって当然です。
このことは折に触れて戒めていく必要があるだろうなと思いますが、
それと同時に今更になってこの図式を再逆転させるのは難しいだろうなとも思っています。


趣味活動に他者承認が必ずしも必要でないことは自明のことで、
自分の場合もゲームの次に長い趣味である音楽がそれを証明しています。
音楽(電子音楽界隈)はすごく好きですが、これまでほとんどネット活動に結びつけたことはありません。
あまりにもマイナーで需要が薄く、また言語化が難しい世界だからです。
しかし、ネット活動をしていないから不満かというとそういうわけでもない。
むしろ、音楽という趣味はまだ誰にも否定されたことのない拠り所として、大切な文化として順調に育っています。
ゲームは承認欲求を求め、そして失敗する過程で何度かゲームを好きだという気持ちも否定されてきていて、
心の底からゲームを好きだと言えるかどうかやや疑問なところがあるというのが正直なところです。
しかし音楽に関してはそういう変な自信の無さはない。
その違いはゲームと違って「腕前」が必要ないなどの文化特有の事情もあるでしょうが、
やはり自尊心を否定されうる表舞台で活動していないことが大きいのではないかと思うわけです。


外発的動機づけは非常に強く、おそらく理性で制御できるようなレベルではないと思っています。
なのでこれはこれで今後も個別に対処していく必要があるでしょう。
ただ、内発的動機づけによって生まれた興味関心を承認欲求のエサにするかどうかについては、
心構えによってある程度制御できるような気がしています。
ネット黎明期からわりと近年までは興味関心は何も考えずに承認欲求のエサにしようとしていた節がありますが、
今後はなるべく軽率にエサにしないようにしていきたいというのが最近の所感です。


#7317

承認欲求の両極端

近年の自分は、実現可能性が限りなくゼロに近い理想を持つことは愚かであり、
現実にできることを数えるところから再スタートしなければならないという価値観を持っています。
それは、言うなれば「特別でありたいと願うこと」の否定です。
特別でありたいというのは、いわば誰かと比べて突出して秀でた何かを持っていたいという欲求。
もっと言えば、それを通じて自分を認めてほしいという欲求です。
結局承認欲求に行き着くというわけですね。


これは、前々から書いている通りコミュニティを変えること(転職など)で実現する可能性があります。
所属するコミュニティが変われば、そこで突出した何かを新しく発見するかもしれない。
それをみんなが認めてくれるかもしれない。
転職を決意するときは少なからず、朧げながらにそんな希望を抱きながら次を目指すものです。


これはそもそも自分が人と比べて突出した何かを持っていることを前提としています。
「実はすごい特技があるんだけどまだ発揮できていない」というような考え。
しかし、現実問題としてそんなものはそうそう持っていないわけですよ。
だからこの前提のもとで自分の地位を確立しようとすると
めちゃくちゃ努力するか、努力できずに挫折するかのどちらかになってしまう。
そんな両極端ではコミュニティに所属し続けるということ自体が長続きしないでしょう。
だから、活動を継続するためには平凡な一人にすぎない自分を受け入れる必要があるだろうと。
これが今年一年間で大きく変わった価値観だと思っています。
それは上京から去年までにあった虚勢でどうにかしようという姿勢を否定するためのものです。


でも、ちょっと待って。
これはそもそも「誰もが特別な人しか認めない」という前提が含まれている気がするんですよね。
それって現象として正しいのかと言われると、必ずしもそうとも言い難い。
確かに特別秀でている人が称賛されるのは確かだし、平凡な人々に同等の称賛が与えられないのは事実です。
しかし、それが平凡な人にも承認が与えられてないということにはならない。
特別な称賛よりも程度は低いかもしれないけれど、活動を続けていれば認められることもあるでしょう。
それは他者が無意識のうちに感謝しているというような、目に見えないものかもしれませんが……。
これまでの考え方は、そういった小さな承認を無視しています。
承認にもさまざまな程度があり、分相応な承認とは何なのかを自分が本当に把握しているとは言い難い。
あくまでも主観的な肌感覚として「満足できる」「満足できない」でジャッジしていた節があります。
この肌感覚は承認をもらい続けると麻痺してきてより強い承認を必要とし、
その承認をもらえるに足る実力と現実の実力がどんどん乖離してしまうため、
この肌感覚を基準として使うにはあまりにも危ういと言わざるを得ません。


つまり、いままでの自分の承認欲求に対する考え方はあまりにも感覚的かつ両極端だったということで、
これはもう根本的に考え直す必要があるのではないかと思っています。
それに対する最初の改善案が、冒頭に書いた通り特別であろうとすることの否定。
要するに自分の無能さをしっかり客観視して、そこからできることだけを考えるべきということです。
ただ、これだと努力の必要性を否定しかねないのが難しいところ。
結局、自分のスキル感を客観視した上で「少し上」を目指し、
「まあこれだけやればきっと満足してくれるだろう」と割り切るくらいの姿勢が妥当なのかも。
アドラーの「幸せとは貢献感である」(#06043 / 2020年07月06日)という言葉にも繋がってきますね。


この辺は軸がブレると黒歴史を量産したり、プロジェクトの失敗にも繋がってきたり、
つまりは自分の活動そのものに大きな影響を与えるので安定した考えを確立したいところです。
趣味の浮気性を直しひとつのことを継続的に活動できるというのがひとつのゴールになるでしょうか。


#7300

続・やり甲斐の話

今年もっとも印象的だった言葉に東大入学式の祝辞がある(#07061 / 2023年04月17日)。
かいつまんで内容を紹介すると、人は本当に好きなことをしていないと、
幸せの尺度が「他人にどう評価されているか」になってしまい、
それでは評価されなかったときに続けることが困難になってしまう、という教訓である。
これは他者承認という欲求と取っ組み合いを続けてきた僕にとって胸に刺さる言葉だった。
確かに他者承認に依存した活動は危うい。
評価の主体が常に他人である以上、自分がどれだけ頑張っても他人は評価してくれないことがあり、
そういう環境に居合わせると活動そのものの存在意義が揺らぐからだ。
これは、過去の自分が精神的に参っていたときに心当たりのある原因によく当てはまっているし、
だからこそ他者承認依存は脱却したいと常々思っていた。
そのためには「本当に好きなこと」が必要になるが、それを見つけるのに必要な労力は並大抵ではない。
祝辞を読んだ馬渕さんはたまたまそれを東大在学中に見つけられて人生を切り拓いたので、
新入生にもぜひ同じように「本当に好きなこと」を見つけてほしいと鼓舞する。
しかし、学生時代にそれを見つけられなかったいい大人には厳しい現実が待ち受けている。
社会人生活をしている以上のびのびとそれを見つける環境が整っているとは言い難く、
無事にそれを見つけて転職を決めたとしても、社会が受け入れてくれるとも限らない。
多くの面で若者よりも不利であることは疑う余地もないだろう。
承認欲求を否定することは勝ち組にとっては正論なのかもしれない。
しかし、どちらかというとこの世の中は
それを否定できず一生涯背負って生きている人が多数を占めているように思う。
しかもその否定できない欲求さえも満たせずに生きている人が多いように見える。
少なくとも僕はそうだ。


僕は、web制作こそが自分にとって「本当に好きなこと」だと思っていた。
だからこそ それを生業にするために転職を決意した。
なぜなら、それは2003年から長きにわたって継続しているという事実があったからだ。
20年も飽きずに続けているのであれば、今後はそうそう辞めたくなるとは思わないだろうと。
少なくとも偶然与えられた仕事に人生を費やすよりはweb制作に関わる方が本意だと思っていた。


しかしそれは果たして「本当に」好きなことなのだろうか。自信を持ってはいと答えられるだろうか。
誰にも認められなくても、自ずから続けるだけの原動力を持っているだろうか。


当初、webサイトを作る本当の動機は承認欲求を満たすことだったと思う。
自分が作ったシマに多くの人が訪れて、自分が作ったコンテンツを認めてもらうのが夢だった。
しかし実際にはかなり初期の段階で承認欲求を満たすという目的は諦め、
「自己満足」をweb制作の名目として掲げるようになった。
単純な話、他人を満足させられるようなコンテンツを作れなかったからだ。
巨大なプラットフォームをベースに活動するのが当たり前になったweb2.0の世界で、
個人がwebサイトという土俵で承認欲求を満たすのはきわめて難しかった。


では、仮にそれはやむを得なかったとして、せめて自己満足することはできたのだろうか。
自己満足を名目として年末企画や周年企画として特定日を締め切りとし、
残り時間と意欲の無さの狭間で苦しみながら生み出したサイトはいくつもある。
それを生み出すのに相当苦しんでいたという記憶は深く刻まれている。
しかし、残念なことにそれを生み出した結果満足したかというとまったくそんなことはないし、
当時の技術力からしても真っ当なクオリティのものを生み出せたとは思えない。
何もかもが中途半端で、なんのために苦しんでいたんだろうとつくづく思う。
少なくとも向上心があることは「本当に好き」と言えるための条件であると思う。
その意味では昔の僕はweb制作が本当に好きだったとは言い難い。


だからと言ってそれがこれまでのキャリアをかなぐり捨てる理由にはならない。
承認欲求は満たせないし自己満足すらできないポンコツでも、
少なくともざっと見渡して生業になりうる他の活動より有望であることは確かだからだ。
誰にも見られていなくても継続的に活動できる、ということが
客観的な意味においての「本当に好きなこと」の条件だとして、それを持っている人はごくわずかだ。
就職活動ではすべての人に自分のやりたいことが何かを言語化することを求められるが、
それはその人の中で相対的な意味で「一番好きなこと」になるのではないか。


#7264

活動意欲停滞と自己欺瞞

自分のネガティブな気持ちの動きを客観視していてふと気付いたのですが、
「BをやるためにAが停滞しているとAのコミュニティから責められているような自己欺瞞に陥る」
というような心理があるような気がします。
これは、Bを自己満足でやっているなどの事情でBをやっても認めてくれる人がおらず、
一方でAは活動をある程度他人にも認知されているような状況で起こりうるのではないでしょうか。
つまり、自分がやりたいことと他人が認めることが一致しない状況です。
しかし、そもそもこれは本当にネガティブに考えるようなことなのかどうか。


Aをやらないことで責められるような責任を抱えているのであれば、
それはBをやることがその責任から逃げていることにもなるため、望ましくない状況と言えます。
ただ、往々にしてこれらはいずれも趣味の範囲でやっている活動に過ぎません。
よって、どちらをやっていないからといって責められるような筋合いは無いと言えます。
本音としてはBで成果を上げるよりもAで認められたいけれども、
Aの方が意欲的に停滞していてそれが難しいようなときに、
その情けなさへの苛立ちが責められているような感覚として実感するのかもしれません。


浅く広く首を突っ込むのでどれも中途半端に陥るというのは長年の悩みですが、
それ自体は悪ではないし、誰しも少なからず複数の分野に手を出しているものではないでしょうか。
たったひとつのことを年単位で継続できるのは本当にまれな才能だと思います。
なので、ある活動を一時的に休止したところで恥じる必要は無い。
Bの方が興味をそそられるなら、いっそのことAは忘れてそちらにのめり込むべきです。
しかし、どうも自分はそういう割り切りもできない悪癖があるようです。
結局認められさえすればどっちでも良い、と言うような助平心を否定することができないというか。
そしてやはり、そう思うくらい他者承認というのは大事なのだと改めて思います。


でも他者承認ありきでは一生他人に振り回されるのではないか……という懸念もあり、
一概に他者承認が無ければ活動はできないと考えてしまうのも問題があると思っていて、
これは非常に難しいところです。
やる気は本当にコントロールできないものなのか、というのも気になるところ。
結局、いまの自分はやりたくなったことをやっているだけで、
何をやりたくなるかは自分で決められません。
だからやるべきと思っていることもやる気の枯渇によって停滞してしまう。
それがそもそも良くないのだと思います。
しかし、これは果たして心構えを変えただけでどうにかなる問題なのかどうか。
この辺は改めて書籍を漁るなどして深めるべきテーマなのかもしれません。


#7188

承認欲求についての再考

長年自分を悩ませ続ける「承認欲求」という欲求。
それは自分が未熟であればあるほど、黒歴史の根本原因であり続けてきました。
だからこそ、長らく承認欲求は悪い欲求であると思っていたものです。
しかし最終的には、承認欲求を否定して生きることはできずどこかで向き合う必要がある、
という結論に至っています。
いまは、承認欲求に対して客観的に制御することにもずいぶん慣れてきたので
これ自体が黒歴史の原因になることは無くなっているように思います。


その上で改めて承認欲求について考えてみると、
昔の自分が承認欲求と言っていた欲求には細かく分けるといくつかに分類できそうです。
例えば「誰かに認められたい」という欲求があったとして、
どんな自分を誰かに認められたいのか、あるいはどういう人に認められたいのか。
特にその前者は「理想的な自分」なのか「ありのままの自分」なのかでずいぶん違います。


また、単に「誰かに認められたい」と言っても、
それはいわゆる世間や特定のコミュニティで特別な地位を築きたいということなのか、
単に世間やコミュニティの仲間入りをすれば満足なのかで全然事情が変わってきます。
このうち前者寄りの欲求があり、才能や努力がそれに及ばない人は奇異な行動をしがちだと思います。
また、ここでの対象が「世間」ならば、それは単なる承認欲求というよりは、
実社会で自分ならではの役割を持ちたいという社会的欲求と言うこともできると思います。
そうなるとそれは仕事をする理由にもなり得ると言う意味では健全な欲求です。むしろ無いと困る。


要するに承認欲求ありきの行動と一口で言っても、それは極めて自分本位であることもあれば、
社会貢献と見なすこともできるのではないかと。
その後者は「認められたい」というよりは「誰かの為になりたい」と言う方が適切でしょうか。


他者の都合を無視して自分が認められることしか考えていなかったら、
そりゃあ煙たがれるわけですよ。奇異な言動であればなおさらです。
あるいは認められることを最優先してモラルや暗黙の了解を無視したり。
でもそれは承認欲求というよりもっと根源的な、その人の人格に問題があるような気がしますが。
いわゆる不良やいじめっ子になるのはこの辺が原因なんじゃないかなと。


なのでまあ、結論としては昔の自分は承認欲求不満が強かったと考えていたけれども、
むしろその欲求に他人を慮る気持ちが付随していなかったことが問題だったのではないかと。
長い年月を経てスキルが欲求に追いついてきた傾向にあったり、
コミュニケーションの経験値が溜まって人格的な問題が(おそらく)改善してきているからこそ
こうして俯瞰的に承認欲求のことを考えられるようになったんじゃないかなあ、と。
また黒歴史を生み出しそうになったとき、この考察を思い出せるようにしておきたいものです。


#7056

満たされない活動

2003年夏、『どうぶつの森e+』の公式コミュニティである
「あいことば交換広場」から実質的にスタートした自分のネット上の活動。
今年の夏でついに20周年を迎えるわけですが、いまだに足がついていない感じがします。
メインブログであるここは「ただ続けているだけ」でそれ以上でもそれ以下でもないし、
TwitterもYouTubeも発信者として成功しているとは言い難い。
自分のネット活動遍歴を省みると、「発信者」としての活動は2014年くらいで諦めた感があります。
2015年以降はピクチャレ大会を作ることに注力するようになりました。
まあそれはそれで正しい選択をしたと思っているので今後も続けない理由はありません。
でも、それだけで満たされるとはかぎらないし、
事実満たされていないからこそ他の界隈に少しずつ首を突っ込んでいるのでしょう。
では、自分はどうやったらネット活動を通じて「満たされる」のでしょうか。


それに対するもっとも無粋な答えは承認欲求を満たすことでしょう。
結局自分は承認欲求に不満を抱えているからネット活動をしているのであって、
要するに他人から認められる機会が与えられれば満たされるはず。
でも、それは過去もそうだったように「一時的な何か」ではダメで、
継続的にする活動に対してポジティブなレスポンスをもらう必要があります。
それは結構ハードルが高い。
ニコニコ動画全盛期に黒歴史をいくつも生み出してそれを得ようとしましたが、
結局それで満たされたとは言い難いし、何よりコスパの悪さが半端ないです。
そういう黒歴史の時代を振り返ると、そもそも自分は生産者に向いていないのかもしれない。
ネットで承認欲求を満たそうとすることの不毛さも、過去何度もブログに書いてきた通りです。


なので近年は一次発信者になるのではなく、
他の発信者の「推し」になる、という方向性でも模索するようになりました。
あっちもこっちも首を突っ込んでいるのはその過渡期だからなのかもしれません。
ただ、これが過渡期なのだとしたらちょっと長すぎるような気もします。
自分の気性的に「推し」を見つけるのは困難である可能性もある。
なぜなら幼少期からそういうことをしてこなかったからです。
好きなアイドルとかもいなかったし、そもそもテレビを見なかったし。
唯一ゲームの世界に夢中になることはあったので、
ゲームプレイヤーになるというアプローチはアリかもしれませんが、
プレイヤーになる以上は大抵他者との競争になることを考えるとこれも微妙のような。
そもそもそれがネット活動の代替として十分なのかも怪しいです。
思春期を含む20年間をネットに依存しておいて、今更2002年以前の世界に戻れるはずもなく。


まあいずれにしろピクチャレ大会を主軸とする方針を変える予定はなく、
これはこれで頑張るつもりです。
ただ、これはあくまでも裏方の活動ということもあってこれだけで満足できないのも事実。
有体に言えばもっと注目されたいのでしょう、自分は。