Chrononglyph

#8260

言語化以前のバイアス

今日の出来事好みの問題

ふと、自分は「好き」を素直に言語化できなくなっているのではないかと思いました。
例によってホロドリをプレイしているときの話になってしまうのですが、
ゲーム内にも登場するホロメン本人たちが和気藹々とガチャ並走やら全キャラ耐久やらを配信していて、
流れてくるコメントの中にも「この曲難しいけどすごく好き!」と熱量のありそうな人が少なくない一方、
かなり淡々とプレイしている自分がいるわけです。


まあ、配信者にコメントする人というのはホロドリ以前からメンシに入っているような熱量のある人が多いわけで、
ましてホロメン本人なんてずっとこのゲームを待ち焦がれていたに違いなく、比べること自体が失礼なのかもしれない。
しかし自分もこの界隈が好きで、
特定のホロメンを推したいという気持ちが多少なりあるはずだからこそこんなに連日のめり込んでいるわけで、
その気持ち自体は疑いようがないはず。


ところがゲームを遊んでいてすぐに浮かんでくる感想は、
「マッチング部屋を抜けられないのはテンポ悪いなあ」とか「館内アナウンスをするホロメンは選びたいなぁ」とか、
「音ゲーやりたいのにミニゲームさせられるのはしんどいなあ」といった、
ゲーム体験のちょっと気になるところへの揚げ足取りばかり。
もしも推しに「ホロドリ楽しんでる? 感想教えてね!」と感想フォームを案内されたら、
自分はたぶん頼まれてもいない改善要望を書いてしまうタイプなのでしょう。
そしてそれが本意でない以上、これはなんらかのバイアスがかかっているのではないかと ふと思いました。


このことから、ポジティブに評価したい期待のコンテンツが眼前にあるとき、
素直にポジティブな評価をすることよりも、それの粗探しをしてネガティブな評価をする方がはるかに低コストであり、
後者が明確に低コストであるがゆえに半ば反射的に前者が切り捨てられてしまっているのではないか、
という仮説を立てることができると思います。
実際、人は良いモノの良い部分よりも、それの些細な欠点の方が圧倒的に目につきやすい習性があります。
そして「粗探し」自体はロジックやコンプラを素地としていくらでも自己主張を展開できるので、圧倒的にコストが低い。
一方で何かを「好き」になるに際し理屈は必須ではないので、その言語化にはまあまあなコストがかかる。
そもそも理屈ではないなら言語化自体が無粋である可能性さえあるでしょう。
こうして考えると、言語化という土俵では「好き」という感情はそもそも不利のようにも思います。


しかも現代SNSでは、何かを「これは間違っている」と言ったときの方が連帯しやすく、反応も得やすい傾向にあります。
一方、「好き」を発信して否定されたら嫌なのは当たり前なので、プライドを毀損するリスクが大きい。
こういう都合もあり、粗探しの方が圧倒的にローリスクかつコスパの良い活動になっている感じは否めません。
まさにホロライブのような巨大市場にアンチが多いこともこれで説明できるかもしれません。
推しを「なぜ好きなのか」は言語化できないので、推し続けることには根拠が無く不安定感は否めない。
自分のメッセージを読まれたなどという「推せる根拠」はまれに供給されるかもしれませんが、
そうした要素は必ずしもすべてのファンに常に行き届かないわけです。
一方、不祥事や炎上は各自が大切にしている論理や倫理に反しているというわかりやすい根拠があるので、
少なくともアンチであるという自分の立場は守りやすい。
自分の社会的欲求さえ満たされればそれでいい「にわか」ならなおさら、アンチ活動の方がコスパは良いでしょう。
そもそも数多のおっさんにとってオタク文化の最前線であるVTuberを理解すること自体にもコストがかかると思われ、
さらに巨大市場であるがゆえにアンチ同士が連帯しやすいという事情もあり、
そういった諸々の事情を考慮すると闇が深くなるのも必然なのかなと。


そのように当事者の影響力が強いほどアンチは連帯しやすいので、
SNSにおいては根拠なき推し活動よりもアンチ同士で繋がっていた方が居心地が良いこともあるかもしれません。
この手のアンチは別にヤバい人の集団というわけではなく、
むしろそういう有名人に対する批判的な立場というのは正しくロジカルな視点があってこそのものなのでしょう。
そしてそれは、誰もが持っている知的な武器に他なりません。
本人たちが「自分はまっとうな論理力や倫理観が備わっている」と信じて疑わないかぎり、
アンチ活動はそれを正当化し続け、そのためには叩く対象が悪人である方が都合が良く、
ますます粗探しに精を出すことになるわけです。この永久機関に対し、「好き」の言語化はあまりに無力。
そういう意味では、最近流行り(?)の対立煽りは麻薬みたいなものだと思います。


このようにSNSの欠陥構造によって「嫌い」を表明することに対して報酬を得続け、
一方で「好き」を表明することを抑制され続けることがあり、自分もそれにどっぷり浸かっていたことは否めません。
そしてその影響でSNSに投稿するまでもなく言語化以前の段階で「好き」の感情が摘まれてしまい、
結果として新規コンテンツに「好き」を見出しても粗探しの意識に負けてしまっているのだとしたら……。
果たしてこれは単に意識改革でどうにかなる問題なのでしょうか。
現状のマインドでは、今更誰かを好きになったとして、それに基づいて推し活動を積み上げていったとしても、
たった一度自分の信条に反することをされたら簡単に瓦解するような気がしてなりません。
それが果たして「推している」と言えるのか、あるいは「好き」と言えるのか、推し活動に言語化は必須なのか、
そもそも好きというのは人の総体に対して言えるのか、そもそも自分にとっての推しとはなんなのか……。


何もかも分かりませんが、確かなのは自分はこれまでの人生で「嫌い」を表明することを強化され続けてきたことです。
それゆえに、論理や倫理に基づいた言語化スキルがかなり発達している。
それは実生活、周囲の大人、SNSにおける経験則、そしてこのブログも加担し続けてきたことでしょう。
一方で「好き」を表明することを行使して報われた経験というのは相対的にかなり少なく、
情緒的な言語化はそれこそブログ黎明期のポエム以降、1000日に1度の短編小説以外はご無沙汰というのが現状です。


そもそも自分は典型的な理屈型人間であることもあり、ロジカルやコンプラが拠り所になっている自覚も十分にある。
だからこそブログもポエムが衰退してエッセイが生き延びてきたという側面もあるでしょう。
まあ、単にブログを書き続けてきたからこうなったとは思いませんが、
現状言語化そのものにバイアスがかかってしまっている感じは否めません。
これを明確に矯正できるのかどうかは分かりませんが、ひとまずこれ自体は大きな気づきなのかなと思っています。



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