影響を与え合う関係
最近過去記事をじっくり自分で読む習慣が消えかけているので内省系の記事を書きにくくなってしまっています。
ゆえに、いわゆる精神的な諸問題が半ば放置されたまま目の前に横たわっているような状況です。
というわけでこの記事では、なーんにも考えがまとまっていませんが目下の課題について書いてみたいと思います。
まず、ここでいう「目下の課題」は相変わらず社会的欲求、特に承認欲求や所属欲求が満たされない問題を言います。
この問題のもっとも安直な解決方法として、自分のすべてを理解し、
やることなすことすべて肯定してくれる神のような存在がいれば原理的には解決するだろうと思います(「神の愛」)。
しかし現実には「他者とは永遠に分かり合えない」のであり、神の愛を他者に求めるかぎりは実現不可能でしょう。
同様に、自分の個性や実績などとは関係なく存在そのものを肯定してくれる「母の愛」は、
自分の生を肯定するために重要ではあるものの、「こうありたい自分」に干渉することはありません。
かといって、何かを達成したときだけ肯定してくれる「父の愛」があればいいというわけでもありません。
認められるためだけに頑張って結果として報われないと、その努力が水の泡となって消えてしまいます。
しかも報われるかどうかは認める側の匙加減で決まり、絶対的な基準が存在しません。
何度立ち向かっても水泡と帰す経験があると、もはや努力できなくなってしまうという危険があります。
個人が社会的欲求を充足するためには、存在を全肯定する〈母の愛〉だけでも、
客体基準で一定水準を越えた成果に対してのみ賞賛する〈父の愛〉だけでも足りません。
特に自分のようなインターネット老人は長年の間後者を不特定のネットユーザーに求めていたようなところがありますが、
それはもうそろそろ不毛な活動であると認めなければなりません。
では、どのような関係性であれば社会的欲求を満たすことができるのか。
これは、理想だけ言えば母と父の要素を少しずつ兼ね備えた人と繋がることだと思っています。
まず、自分が他者に認識されていると実感していること。
声をかければ応答してくれる、同じ場にいれば話しかけてくれる、
前に話したことを覚えてくれるといった相互に尊重し合う関係がある。これはまあそんなに難しくないでしょう。
それから自分のやっていることに関心を持ち、努力したら主観的な相対基準で評価してくれること。
これは出会ってすぐに条件を満たすこともあれば、10年付き合っても条件を満たさないことがあるように思います。
対人関係におけるいわゆる「相性」がこれなのかどうかは分かりませんが、まあ相性的な要素ではあるような気がします。
「主観的な相対基準」というのは、努力した本人の努力する前と比較してどの程度頑張ったかということです。
ここで絶対的・社会的な基準を持ち出す人、
たとえば平凡な人に「世界1位じゃないから大したことない」と言うような人は承認を与える意志がありません。
ここでいう努力と承認の関係は主体が目標に対して「いまはできないが頑張ればきっとできる」という見通しを立てていて、
見ている側もそうした内情を理解していることが要請されます。
そういう関係が成立するなら、それが社会的欲求を満たす方法としては理想的なのではないかと思うわけです。
とはいえ、これはとても「誰にでもできる」とは言えないので理想でしかありません。
無数の文化がある現代においては、そもそも他者と興味関心が一致すること自体に高いハードルがあるように思います。
そこで一歩引いて、「影響を与えられる他者」との関係ならどうでしょうか。
自分が他者に明確な影響を与えられれば、原理的に社会的欲求はかなり充足するのではないかという考えです。
たとえば仲間内で「スマホのことならなんでも訊いてね」という立場が確立しているスマホに詳しい人が、
仲間の機種変について一緒に考え、自分の推薦した端末を買ってもらえるような場合ですね。
これは何もある種の専門性を有していないと成り立たないというわけではありません。
たとえばパートナーや友達との間で、
「このゲーム面白いよ」と言ったら「インストールしてみるね」と話が進展するなら
その関係性においてその人は他者に影響を与えられていると言えるでしょう。
逆に言えば、そういう提案をしても行動を一切変えようとしない他者との関係は、一見親密でも社会的欲求を満たさない。
自分はaという文化に興味があるが、Bさんはaには興味がない。
かといってBさんが興味のあるbいう文化には自分は興味を持てないなんていうことはよくあります。
そこでどちらかが譲歩してどちらかの文化を深掘りした結果、興味が芽生えて相互理解が深まればしめたものですが、
必ずしもそう上手くいくとは限らないし、何年話してもそうならない相手というのはいるものです。
こっちの方が世間が言うところの「相性」に近いような気はする。
そしてたぶん、自分は押しても引いても影響を与えられない人が周囲に多いからこそ、
こうして慢性的に社会的欲求不満を感じるに至っているのではないかという気持ちがあります。
それが自分だけの努力やコミュニケーション、他者へのお願いで改善するのかどうかはなんとも言えないし、
そもそもこれが改善すべきなのかどうかも分かりません。
もしかしたらみんなうっすらと同じような不満を抱えていて、その中でもがきつつもどうにかやっているのかもしれない。
不満があればこそ改善しようという意識がコミュニケーションを良くしているのかもしれない。
正直答えが出るかどうかは微妙なところですが、対人関係の問題はまだまだ続きそうです。