椎骨動脈解離で入院生活 #7
入院7日目。
本来ならカテーテル検査終了後に退院できるはずでしたが、
動脈瘤の状況がまだ分からないので延長することになってしまいました。
今日はMRI検査のみで、残る行程は4日後のCTスキャンのみです。なぜ4日も待たないといけないのかと思うわけですが、
カテーテル検査後から時間を経てどのように変化しているかを見るのが主旨なので、
期間を空けないと意味が無いということですね。このCTスキャンで自分の直近の運命が決まります……。
ちなみにこの日、ふとももの止血テープを剥がしたときが今回の入院で一番痛い経験でした。
カテーテル検査をするときはふとももの毛はツルツルになるまで剃っておきましょう。
さて、一昨日はこの入院で自由に関する価値観が変わったと書きましたが、
もうひとつ考え方が大きく変わったテーマがあります。それは結婚観。
入院以前に最後に考えたときは、結婚は少なくとも世間体ありきでするものではないが、
それ以上は個々の都合というより「二人の都合」があって初めて議論になるものであると書きました(#08183 / 2026年05月12日)。
それ以前はよりドライな考え方を書いていて、究極的にはお金だけの問題だというようなことも書きました。
まずそもそも論として自分が恋愛や結婚を必要としてこなかったのは、
まあモテないから、人間性に問題があるからなどといったマーケットバリュー的な問題も多分にあると思いますが、
その前に自分一人で生活、メンタルケア、経済的な問題をいちおう自助努力で解決してきたからというのもあると思います。
むしろそれが当たり前だという人生観が自分の中には確固としてありました。
逆に言えば、パートナーを求める人というのは「自分一人では生きていけない」という実感が多少なりあるのでしょう。
本来は後者が当たり前なのだと思います。
しかし令和のいまは経済の発展と技術革新によっておひとり様サービスがあまりにも拡充した結果、
独身でもまあまあ豊かに生活できると実感できるようになってしまった。
特に何もなければ、日常生活においてパートナーがいないと困るというようなことは基本的にはありません。
だから結婚観を「子どもが欲しいかどうか」「理想的な異性像」「損得勘定」といったレベルの低い次元でしか考えられない。
しかし「何かあった」場合は一気に見方が変わってきます。
特に医療や介護の現場では、当事者に付き添い人がいることがほとんど前提で施設のルールが作られている。
今回の自分も、「誰もいないと何かが起きたときに対処できない」という理由で入院しているわけで、
同居人がいたら自宅療養の許可が下りていたかもしれない(切迫度から言ってその可能性はやや低そうですが)。
何よりも今後、脳血管に何かあったときに一人だと野垂れ死する可能性が大いにありますが、
同居人さえいればおそらく一命を取り留めるでしょう。
こういう技術やサービスではどうにもならない人生のハードルが、今後老いていくにあたって増えていくのは明らかです。
人生の後半戦を考えたとき、結婚というシステムに一切頼らないのは実は結構難しいのではないかと予感しています。
そしてこれは自分の都合ですが、同じ理屈で自分が確実に独身異性のチカラになれる側面でもある。
自分は今回の入院でより社会弱者寄りに傾いてしまいました。
そこで初めて、自分一人で生きていけると考えていたのは虚栄でしかなかったのではないかと実感したわけです。
結婚という制度は、ある意味そこに対する救済でもあるのではないかと。
もちろん、結婚市場から見たら自分はもう年齢的には手遅れの部類だし盛大な結婚式ができるような経済力もありません。
市場で選ばれるようなアドバンテージをこの歳にして持っていないという情けなさは否めない。
婚活の現場が競争原理で決まるなら、現実的にいまさら求めたところで結婚できる可能性はかなり低いと思います。
かといって脳血管動脈瘤という爆弾を抱えた状態で残り40年以上あるであろう人生を独力で走り切れるかと言われると、
それも相当厳しいのではないかという予感がします。
当たり前ですが残り40年で異常を来す部位が血管1本で済むわけがない。
その異常が日常生活をどういう形で蝕むかなんて誰にも予想できませんが、
一番近くでアシストしてくれる(する)相手がいることは、結果的にQOLに大きな差を生むのではないかと思うわけです。
自分の青年期の恋愛観・結婚観は基本的に嫉妬を原動力としていた節があります。
それがあまりにも低俗な考え方であることは言うまでもなく、
そんなしょうもない考えで適齢期を通過してしまったのは愚かと言えばあまりにも愚かです。
タイムマシンがあったら胸ぐらを掴んでお説教しに行きたいところですが、その前にその若くて健康な身体をくれ。