良心の話
ネット活動の目的を承認欲求を満たすためだったと言い切ってしまうのはあまりにも乱暴だが、
しかし思い返してみれば確かに、ネットの向こうの誰かがそれを満たしてくれるのだという淡い期待は昔からあった。
そして近年改めてそれについて思い悩んだ結果、ネットの向こうに漠然と「それ」を求めるのは不毛だと観念した。
少なくとも、不特定多数を相手に「それ」を求めるのはあまりにも割に合わない。
それは決してネット社会が理不尽だからではなく、
単に僕が自分という人間を正しく認識できていないからそう感じるのだと思った。
かといって、自分は無能だと割り切ることがこの問題を解決しないのも明白だった。
昔から、こうした社会的欲求に関する問題解決を妨げているのは自尊心、つまりプライドだとなんとなく思っていた。
プライドを捨てさえすれば、長年抱えている承認欲求の問題は解決するかのように思えた。
基本的に承認欲求は他者から注目されることによって満たされ、それ自体に善悪の区別は無い。
たとえばSNSでインモラルな発言をすれば正義棒を持った人たちが一斉に叩きに来るが、
承認欲求を満たすということが主目的なら、これほど手っ取り早い方法は他になかなか思い当たらない。
なにも炎上当事者にならなくても、正義棒を持つ方でもずいぶんとこの欲求は解消されそうなものだ。
そして僕がそうした手っ取り早い手段を知っていてもその選択肢を選ばないのは、
つまるところプライドがそうさせているのだと思っていた。
しかし、一方で僕は確かにこの20年余りで承認欲求が満たされないことによる不自由を感じてきた。
それによって若年期のすべてと青年期のほとんどを消費してしまっていると思えば、とてつもない損失とも考えられる。
果たしてプライドは、それほど多大な犠牲を払ってまで固持する価値があるのだろうか。
そうしてふと社会の側に思いを巡らせてみると、それは必ずしも自分だけの問題ではないように感じられた。
家族、知人・友人、会社の人たち、街を歩く人たち、メディアに出る人たち……
要するに自分の人格を隠さずに表社会で活動している人たちもまた、
善悪どちらの行動でも満たされる承認欲求の問題を、軽率に悪の行動で満たさないように自律している。
そしてそこには正しく他者を賞賛するための枠組みがいくつもあり、
人は表向きにはそのルールに沿って正攻法で他者から認められようと躍起になっているように見える。
僕もその一人として、やはりできれば正攻法で他者に認められたいという気持ちは当然ある。
果たしてこの気持ちはどこから来ているのだろうか。
儒教を教えた孟子は、たとえば井戸に落ちそうな赤子を見れば誰もが憐れみの心を抱くとし、
それは人が生得的に備えている能力であると唱えた(性善説)。
フランスの思想家ルソーも、
自然人は本来善良であるが、「人間(社会)の手に渡ることで悪になる」と教育や平等の重要性を説いた。
ここでいう生得的な能力が「良心」であるとするならば、
それは僕が長年「承認欲求の敵」と考えてきたプライドに重なるところがあるように思える。
ということはつまり、僕が承認欲求を得られないという長年の問題の根本原因は社会制度であるとも言えてしまう。
つまりごく個人的なプライドが原因と思われていたこの件は、
個人の価値観、趣味嗜好、合理性、あるいは人間関係といった問題にとどまらず、
突き詰めれば現代の社会システムで人は人らしく生きることができるのかという問題にぶち当たるのではないか。
そしてそれは一見すると個人ではどうにもならないようにも思える。
自分一人が社会の仕組みを否定したとしても周囲がいまのルールを支持するかぎりは意味が無いからだ。
もちろんこの考えは必ずしも正しいとは思えないし、表面的にはひどく他責的な考えのようにも思える。
そもそも「良心に従って生きていれば誰でも社会的欲求が満たされる」
などという純愛に満ちた世界は理想郷以外の何者でもなく(そもそもそんな世界で社会的欲求が満たされるのか?)、
現代社会はそれには遠く及ばずとも、歴史的にみればかなりマシな部類のようには思う。
ただ、それでもきっと多くのほころびがあり、少なくない人が理不尽とダンスを踊り続けている現状もあるのだろう。
さしあたり、ネット社会という仕組みは比較的大きなほころびが潜んでいるように思う。
このブログは基本的に個人の問題解決を目指す場であり、社会問題の解決を目指すことは趣旨に反する。
けれども、ここから先は自分のためにこそ、社会の課題を正しく認識することも求められていくのかもしれない。
僕は理不尽とダンスを踊るために生まれてきたのではないと言い切れる日は来るのだろうか。