現在を生きる
今日でこのブログは22周年を迎え、これから23年目を歩むことになる。
この23年目は、未来永劫訪れなくてもおかしくなかった。
いまここにある日常は決して当たり前に与えられる自由ではないのだと、08月20日からの入院生活で思い知った。
あの日、動脈瘤が破裂していたら僕はもうこの世に居ない可能性もあっただろうし、
そうでなくてもそこで血栓ができて脳血管に到達していたら
既存の活動のすべてを断念せざるを得なくなって別の人生が始まっていたかもしれない。
読み返すと、動脈瘤が形成された当日のブログには「スーパー銭湯でしっかり休養すればよかった」と書いている。
当時、まさか動脈解離だとは微塵も思っていないので、あのままサウナに入っていたら一体どうなっていたのだろうか。
23年目を何事もなく迎えた平々凡々たる現在の僕は、そうしたさまざまな断絶の可能性を振り切って存在している。
そして当然の成り行きとして、
「仮に明日、自由を行使できる日常が断絶したとして自分はそれを受け入れられるか」という問題に思い至った。
このまますべてが中途半端なままある日突然断絶した場合、
多くの未練、仕掛かりの活動、道半ばの成果は不本意なまま記憶の彼方にのみ漂うことになり、
つまりは自由の断絶と同時に自分が「生きた証」そのものも断絶するのではないかという不安が生じるようになった。
2026年08月19日以前の自分の人生の基本方針には、非常にざっくりとした言い方をすれば、
まず理想があり、必ずその「下」に現在があり、その不足を埋め合わせるためにこそ人生を消費するという考えがあった。
つまり現在は常になんらかの不足を感じていて、その不足を解消するためにする課題解決活動こそが人生なのだと。
ところがこの場合の理想は常に現在の「上」を行くので、不足が完全に解消されることは永遠にない。
この価値観に固執するかぎり、僕は心から満足することもありえないしゴールテープを切ることもない。
課題解決自体は計画ありきの行動でも、大局的に見ればきわめて無計画で場当たり的な生き方だと言わざるを得ない。
ヒトが生物である以上は生物的な〈死〉というゴールからは免れないのだが、
これまでの方針は、現在といつか必ず来るゴールとの接続はいっさい考慮されていなかったように思う。
活動の終わりとしての〈死〉を真面目に考えたのはこれが初めてだったかもしれない。
そもそも、生と死は必ずしもスイッチのように0と1で切り替えられるような概念ではないのだと改めて思う。
脳卒中で寝たきりの病院生活は、
生物として死んではいないものの自由をほぼ完全に奪われているという点で、人としてはほぼ死んでいる。
カテーテル検査で顕在意識を含むほとんどの自由を奪われていたときの僕は、その意味では99%死んでいた。
つまり生きている実感というのは(日頃との相対的な)自由に対する実感であり、
それは健康を損なうことであっさり奪われてしまうのだ。
そして人は生きているかぎり脳卒中ほどではないにしろ大なり小なりさまざまな体調不良に悩まされ、
そのたびに人はその意味において死んだり生き返ったり、
あるいは資本主義のルールによって〈生〉を部分的に差し出すことでカネに換金したりしている。
不健康にしろ社会的責務にしろ、それは相当の個人差はあるものの基本的には加齢によって緩やかに増え続けていき、
つまり人は加齢に従って徐々に死んでいくものと考えることができる。
もし、以前の人生観のまま走り続けていけば少なくとも今後健康の問題が越え難い壁になることは間違いない。
自己実現を主軸にした生き方では健康を損なうことは「不測の事態」でしかなく、
不健康になればなるほど努力で埋め合わせるのも困難になっていく。
そうしてもがいた末に寝たきりの生活になったとき、「自分の人生はこれで良かった」と果たして言えるだろうか。
僕は不自由な入院生活を経て、現在をあくまで不足の場と捉えてひたすら課題を潰し続けるような従来の生き方は、
もしかしたら中年以降は通用しなくなるのではないか、という発想に至った。
しかし一方で、少なくとも22年ブログを書いてきたことは良かったとも思った。
脳神経外科の病棟では、身体の自由をほとんど奪われ認知症と戦っている老人が多くいた。
彼らは数十分前の記憶を保つことさえ難しく、
これまでに生きてきた「自分の物語」をすでに失い、過去の自分との連続性は断絶している。
彼らはそれでも彼らをよく知る他者との関係が途絶えていないことによって、かろうじて人間らしさが残っている。
もし、身寄りも無く孤独のまま認知症になればその人の過去は完全に失われてしまうのだろう。
その点、ブログは「自分の物語」を記憶能力だけに頼らないように外部出力する営みであり、
自由を失い、記憶を失ってもなお客観的連続性を失わずに済むというのは今後ますます価値が高まっていくと思う。
日記系ブログの執筆は、その日の終値を確定し受け入れ、評価・総括・反省し、ひとまず完結させる活動である。
記憶を外部出力するにあたり何らかのパッケージ化は避けられないので、必然的にそのような機能を持つことになる。
こうした営みを鑑みると、〈死〉というゴールに対して具体的な道筋を描くことは困難かもしれなくても、
1日や1週間、あるいは1つのイベントなど、人生をより小さな単位で完結させていくことはできるかもしれない。
さまざまなレンジで過去を完結させていくことを積み重ねれば、
いつか不意に自由の断絶が起きたとき、「自分の人生はここまでか」と納得することを微力ながら援護してくれると思う。
逆に言えば、現在を「途中」と捉えるかぎりにおいて、そのような覚悟は永遠に育たない。
2026年08月19日以前の人生観が問題解決を積み重ねる未来志向なのだとすれば、
過去を部分的に完結させていくブログのような営みは、それを対称的に補完する過去志向と考えることができる。
言うなれば、僕は〈自分〉が主人公の作品を描く売れない漫画家である。
ストーリーは無秩序に枝分かれし、そのすべてが中途半端なまま次を描かれるのを待っている。
これからはそれを片っ端から完結させ、あるいは剪定し、物語としての体裁を整えることになりそうだ。
一巻の終わりにはせめて、あとがきを書けるくらいの余裕を持ちたいものである。